形而上学の素描 肯定主義、言語の規則、真のクオリア

1 導入

(1)入不二の肯定主義

先日、僕は入不二基義の『現実性の問題』についての文章を書いた。(http://dialogue.135.jp/2020/11/29/actu-re-ality0/

そこでは色々なことを書いているけれど、ここで改めて取り上げたいのは「肯定主義」だ。肯定主義とは、入不二によれば、「肯定を否定に対して非対称的に優位に置く」( p.331 )考え方である。僕は、この肯定主義が入不二の議論全体を駆動していると考えている。

肯定主義は強力だ。肯定主義に基づくからこそ、入不二は多分、史上初めて「潜在性」という概念を見出すことができたのだ。

潜在性というアイディアの新しさを伝えるためには、すべてが潜在している状況を思い浮かべるのがいいのかもしれない。すべてが潜在しているということは、そこには目に留まるものが何もないということだ。例えば、部屋の中の物がすべて潜在している状況として、入居前のアパートの一室を思い浮かべるといいかもしれない。まだ机もベッドも顕在しておらず、部屋の中の机やベッドが置かれるべき空間だけが開けている。なにもない空間というのが潜在性の近似値としての比喩になるのだろう。当然、その空間は空気で満たされているし、空気を取り除いたとしても空間的広がりが残ってしまう。その点ではあくまでも比喩でしかない。それでも、なにもない引っ越し前の部屋に、やがて置かれる机やベッドの潜在性を認めるという議論の新奇さ伝わるのではないだろうか。

ではなぜ、潜在性を見出すために肯定主義が必要となるのかというと、肯定主義とは、肯定でも否定でもないニュートラルなデフォルト状況を肯定と捉えるものだからだ。プラスでもマイナスでもないゼロをプラスと捉えるものだと言ってもいい。肯定主義において、肯定は否定に優位する。あるものごとについて、肯定か否定かの判断を求められたならば、そこには中立という答えはありえず、否定でないならば肯定なのだ。これはつまり、肯定主義においては、肯定も否定も顕在化していない中立的な状況を潜在的な肯定と捉えるということである。

先程の例に戻り、引越し前のなにもない部屋を指差し、誰かに「ここに机はあるのか。」と問われたとしよう。僕は戸惑いながら「え、ないよ。」と答える。だが、その誰かは更に「では、ここには完全に机はないのか。将来的な可能性も含めて、ここには全く机性はないのか。」と問いかけてくる。肯定主義者である僕は(面倒くさいことになったと思いつつ)「まだ机を買うかどうかも決めていないけれど、潜在的には机はあると言えなくはない。」と答えることになる。なぜなら、完全な否定でないならば、そこに潜在的な肯定を見出すというのが肯定主義だからだ。

ここまでは肯定主義と潜在性の話だったが、もうひとつ、肯定主義が大きな力を持つ場面がある。それは、話の土俵を成立させる場面だ。例えば、「この世界は何故ないのではなく、あるのか。」という問いがある。この問いに正面から答えるのは難しい。なぜなら、世界の中でいくら考えても、それは世界自体が存在する理由にはつながらないし、世界の外から理由を導入しようとしても、導入した途端に、その外も世界の中に含まれてしまうからだ。だが肯定主義を用いるならば話は簡単だ。肯定が優先されるなら、明確に肯定も否定もできないものである世界は、ただ肯定的に存在することになる。僕はこれ以上の説明は思いつかないから、肯定主義に基づくからこそ、世界はないのではなく、あるのだと言ってもいいと思う。(これを、先程の潜在性の話と接続し、世界は潜在的なものとしてただ存在する、と表現するならば、入不二のマテリアルな潜在性の場という描写とも重なるように思う。)

(2)存在論、認識論、意味論

肯定主義に加え、もうひとつ、入不二の議論から流用したいものがある。それは、存在論、認識論、意味論という三者関係としての議論の枠組みだ。入不二はここに「可変的なジャンケン関係」(p.376)を見出す。その議論の詳細には立ち入らないが、ここで重要なのは、議論には、存在論、認識論、意味論の三つしかないという点である。入不二によれば、この三種類の議論に加え、より根源的なものとしての現実論があり、もうひとつ時間論があるということになるが、確かに、それ以外に、いわゆる形而上学の領域において、つけ加えるべき議論は思いつかない。(ここに含めない形而下領域にある議論としては、道徳、美といった価値論を想定している。)

以上のように道具立てを行ったうえで、これらを踏まえ、ここからは僕独自の議論を組み立てていくことにする。

2 肯定主義:存在論

ひとつめのアイディアは、肯定主義と「存在論」を結びつけることができるのではないか、というものだ。だが、これは入不二の考えに正面から反対するものである。

入不二に従うならば、肯定主義と「現実論」を結びつけることに異論はないだろう。なぜなら肯定主義は『現実性の問題』における入不二の現実論全体を貫いているからだ。だが入不二は現実論と存在論を峻別する。顕在的に存在しないもの、つまり潜在性までも射程に捉えた議論は存在論ではなく現実論と呼ぶのがふさわしい。そのような議論は従来の存在論では捉えられない。

僕もこの点は同意するが、あえて、入不二が行った議論は存在論「寄り」の議論だとは言えるように思う。入不二の議論は、言語や意味という切り口のものではなく、また思考や認識という方向からのアプローチによるものでもない。それならば、消去法的には、意味論ではなく、認識論でもないのだから、存在論的だということになるのではないだろうか。

なぜ、僕が存在論と位置づけることにこだわるのかというと、実は僕は、これまで存在論というものをきちんと理解できていなかったからだ。存在論特有の議論の組み立て方がわからなかったと言ってもいい。意味論ならば、言語の意味に焦点を合わせて論じるものだし、認識論ならば、人間が何かを認識し、思考して捉えるということ、いうなれば心の働きと切り離すことができない。一方で存在論とはどのような道筋で進めるべきものなのかがわからなかったのだ。

または、意味論や認識論は、対象と道筋が重なっているが、存在論はそうなっていない、と言ってもいい。意味論は意味という道筋で意味に接近するものであり、認識論は認識という道筋で認識に接近するものである。一方で、存在論は存在を対象とすることは明らかだが、その道筋が定かではない。普通に考えれば、存在に対しては、存在しているものを認識したり、存在の意味を検討することで接近したりするのが一般的だろう。だが、それでは認識論や意味論となってしまう。認識論や意味論によらず、存在論的に存在にアプローチするやり方があるべきだ。僕にはそれがわからなかったのだ。

しかし、『現実性の問題』を読んで肯定主義を知り、腑に落ちた。存在論とは、言語や思考といった道筋によらず、肯定という道筋を通じて考察の対象に接近するものではないか。

そのように考えるならば、この本での入不二の議論は存在論の範疇に含めることもできるだろう。なぜなら、潜在性の領域について議論するということは、潜在性というにわかに存在を認めがたいものについて、それを肯定することによって顕在化し、その存在を捉えるということだからだ。

だが更に入不二の側に立つならば、入不二は、潜在性を顕在化して捉えるという操作を加えることを認めないかもしれない。なぜなら、入不二の潜在性とは、少なくともその最深部においては、決して顕在化することがないものだからだ。

それでも僕は、その最深潜在性すらも、『現実性の問題』という文章を通じて、指し示すことができてしまっているではないか、と言いたい。従来の存在論とは異なる、超・存在論とでも言うべき入不二の議論においては、最深潜在性は顕にされ、その存在が指し示されてしまっているのだ。

たしかに、最深潜在性が存在するというとき、存在という語は、従来の顕在性をひきずった存在という用語とは全く異なる状況を指し示している。だが、そもそも、存在が顕在しているという条件は、存在を認識し、存在を言語化する際に必要となるに過ぎず、存在を肯定主義的に捉える際には必要ないはずだ。つまり、存在を認識論的に捉え、または存在を意味論的に捉える際には、顕在性が必要となるが、存在を存在論的に捉える際には、顕在性の有無は問題とならない。それならば、存在という用語は、顕在性から解き放たれることにより、ようやく、用語本来の意味に立ち返ることができたとさえ言えるのではないか。

先程僕は、『現実性の問題』において入不二は最深潜在性を顕在化して指し示していると言った。だが、この顕在化という言葉も、一般的な顕在化とは異なる特殊な用法なのである。

以上の考察を踏まえたうえで、僕は、入不二の現実論こそが真の存在論であると言いたい。肯定主義を用いることにより、従来の存在論に含まれていた認識論・意味論的な夾雑物を取り除き純化したものこそが、入不二の現実論であり、存在論なのだ。

3 言語の規則:意味論

ここまで僕は、現実論を存在論に読み替えることにこだわってきたが、なぜそのようなことをしたのかというと、肯定主義を通じて極北としての存在論を見出したように、入不二が、存在論と並んで三者関係として描写した意味論と認識論についても、極北としての意味論と認識論を見出すことができると思うからだ。

まず、意味論の極北は、すでに過去の哲学者が見出している。存在論においては肯定主義が重要となるのと同様に、意味論で重要な役割を果たすのは規則であることは疑いがないだろう。

ここには何も付け加えることもないので簡単に説明を終えるが、僕が規則の問題を最も単純なかたちで示していると思うのは同一律の適用の場面だ。僕は昔から「『Aである。』ということから、どうして『Aである。』と言えるのか。」という疑問にとらわれてきた。これはつまり、1つめの『Aである。』に登場するAが、2つめの『Aである。』に登場するAと同じであることを意味する。どうして、そのようなことを「前提」とできるのだろうか。いや、そもそも、1つめとされるAでさえ、それが有意義に成立しているとするならば、過去に別のAがあったはずであり、それと同一のAであることが「前提」とされなければならないのではないか。そのように考えるならば、何かを言明するとき、そもそも何がはじまっているのだろうか。そのような疑問だった。多分、この疑問には直接的な答えはない。少なくとも、意味論的には答えは出ないに違いない。なぜなら、僕が「前提」として求めたものは、つまり、ウィトゲンシュタインが「規則」とするもののことだからだ。規則があるからこそ、言語が成立し、「Aである。」というような言明が有意味となりうる。

非常に雑駁な説明だが、以上のような意味で、僕は規則が意味論を駆動していると考えている。

4 真のクオリア:認識論

最後に、認識論の極北、つまり認識論の最深部を支えるものだが、これこそ、僕がこの文章で新たに示したいものだ。僕は、真のクオリアとでも呼ぶべきものこそが、認識論を駆動していると考えている。

認識論を論じるにあたって使い勝手のよいのは視覚の例だろう。目の前にコップが見えるからコップが確かに認識されているというように。認識論的に存在を捉えるならば、目の前にコップが見えるから、確かにコップが存在するということになる。そこから更に、実は目に見えるコップではないコップ自体が存在するのではないか、などと考えるのは、認識論的な切り口からの存在についての議論の深化だと言えるだろう。

そのように議論を深めるうえで用いられるのが、錯覚や見間違いの例であり、蛇が見えると思ったけれど実はロープだったというような場面だ。このような場合も考えるならば、コップや蛇が見えるから、コップや蛇が存在すると即断できるかどうかは怪しいことになる。そこからは認識論的懐疑主義に進む道が開けてしまう。だからこそ、その道を塞ぐため、知識の整合性というようなものを持ち出し、真なる認識と偽なる認識とを切り分けていくことになる。僕は哲学史に詳しくないけれど、きっと、ここには無数の知的格闘があり、これまで、真なる認識と偽なる認識の切り分け方にはさまざまなアイディアが示されている。

だが、僕は、従来のどの学説にも納得することができなかった。僕からすると、いずれも、多くのものを導入しすぎているのだ。そのなかでも特に問題となるのが時間の扱いだ。僕が知る限り、認識論的な全ての議論において共通に入り込んでいるのが、通時的な時間というアイディアだ。

蛇とロープとを見間違えたという例を用いるならば、この話は、まず、蛇と思われるものを見るという時点から始まる。その後、数秒か数分かわからないが一定の時間が経過した後に、そこにロープを見るという時点が訪れる。つまり、ここには「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」という二つの時点があり、そのうえで、その二つを通時的に接続できるという構造を見出すことができる。

確かに、各時点における認識の正当性については、過去の哲学者は十分すぎるほどに認識論的な議論が深めてきたように思える。しかし、二つの時点を通時的に接続できるということを納得できるかたちで正当化する議論には出会ったことがない。もしそうならば、これまでの認識論的な見地からの真なる認識と偽なる認識の切り分けの試みはすべて失敗だったということになるだろう。

残念ながら失敗は必然であるように思う。なぜならば、時間経過自体をそのままのかたちで論じることにはかなりの困難があるからだ。入不二の議論にもあるとおり、時間経過は滑らかになされるものではなく、そこにはある種の断絶がある。その断絶を乗り越え、認識論的な議論を正当化するためには、時間経過は真であると所与のものとしてただ認めるしかないのではないか。

このような解決方法はそれほど悪くないように思う。なぜなら、時間が経過するというアイディア自体が不自然なものだからだ。時間経過がない世界と時間経過がある状況の世界とを想定し、両者を比べるならば、時間経過がない世界のほうが、時間経過がないという点で単純でありうる世界のように思える。時間経過がある世界は、あえて時間経過が付け加わっているという点で、より複雑で不自然なものである。それなのに、あえて時間が経過すると考えるのは、ただそう思えてしまうからでしかない。不自然であっても、理由がなくても、ただ時間は経過するとしか考えられない。それが時間経過というものの、少なくともある一面なのではないだろうか。不自然なものであるはずの時間経過を正当化するために自然な理屈を探すということ自体が無理筋のように思える。なぜ不自然なかたちで思えてしまうのかといえば、ただそうとしか思えないからなのだ。

このような時間経過に対する認識を、僕は、真のクオリアと呼びたい。時間経過には真のクオリアがある。だから時間経過は真なのだ。このことを、時間経過の認識論的把握は、真のクオリアが駆動していると言ってもいいだろう。

なお、真のクオリアは、時間経過だけではなく、認識論全般に及ぶことになる。なぜなら、通常の認識論が前提としている複数性は時間経過が前提となっているからだ。再度、蛇とロープの見間違いの場面に戻るならば、「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」の二つの時点を結ぶのが時間経過であるだけでなく、蛇を見る、ロープを見る、という個々の状況のみに着目してもそこでは時間経過が下支えをしているとも言うことができるだろう。

「蛇を見る」ということのなかには、ロープではなく、カエルでもなく蛇を見ているということが含意されている。そのためには別の時点でロープを見ることやカエルを見ることが成立していたのでなければならない。または、図鑑かなにかで蛇をすでに見ていて、ロープを見るのともカエルを見るのとも違う、蛇を見るということを知っていなければならない。いずれにせよ、別の時点での別の出来事との比較・対比でしか「蛇を見る」ことはできない。

それは、時間という装置を使わず、別の場所や可能世界で起こったこととしても、心の中での反実仮想といったような、空間的な装置を使ったとしても同じことである。なぜなら、ここでの議論においては、空間とは空間化した時間とも言えるし、または、時間化した空間と言っても同じことだからだ。時間にせよ空間にせよ、なんらかの複数性、並立性が「蛇を見る」ことの前提になければならない。僕は時間経過という装置を使うことで、ロープでもカエルでもなく蛇を見るという並立性を可能にしたが、他のやり方を使っていただいても一向に構わない。(ただし、その場合は見間違いについての説明が困難になると思われるが。)僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したように、直接的なかたちで並立性を可能とする装置を正当化していただけるなら、それでよい。そのためには真のクオリアとしか言いようのない、ただそう思えてしまう、という感覚が必要となることを思い起こしてもらえればよい。

とにかく、僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したのと同様に、「蛇を見る」という、ひとつの時点での出来事も真のクオリアによってしか正当化できない。なぜなら、それ以外に正当化する理由を持ち出すとするなら、それは複数性を招き入れることになってしまうからだ。例えば、このあたりには蛇が多いから、というような理由を用いるためには、ガイドブックを読むなどしてその知識を得るという別の時点が必要となる。または、注意深く見たことはたいてい正しいからというような理由を用いるためには、なにかを注意深く見たという別の時点での体験が必要となるだろう。

ロープかもしれない何かを見て、それを蛇だと認識し、その認識が正しいと考えるのは、それをそのように認識したとしか思えないからなのだ。それを、その認識には真のクオリアがあったのだと表現したい。

つまり、認識論においては、認識論以外の夾雑物を注意深く腑分けし、極力、認識論以外の材料(特に時空的な道具立てや反実仮想というような心理的な働き)を用いないよう心がけるならば、その正当化は根本的には真のクオリアによってしかなされないのだ。

更には、真のクオリアの導入にあたっては、認識論の純化とでもいうべき作業を行ったが、いったん導入された後は、あらゆる場面において真のクオリアを見出すことが可能となる。例えば、蛇らしきものを見るだけではなく、近寄って、数分間観察してみる。くねくね動いているし、口からチロチロと舌も出ているし、図鑑と見比べても、アオダイショウの頁に載っている絵とそっくりだ。そばにいる登山のガイドもアオダイショウで間違いないと言っている。そんなとき僕は「蛇を見る」を真であると考えるだろう。だが、実は近寄って数分間観察することや、図鑑を開くことや、ガイドの見解を聞くことは、真であると考えるうえでの決定打とはならない。なぜなら、それらのすべてが揃ったとしても、あえて真ではないと考えることも可能だからだ。それでも、これはヘビ型ロボットかもしれないと考えることはできるし、実際にそうかもしれない。

僕は、条件が整っても、なにかを真だと考えることができるし、条件が整わなくても、なにかを真だと考えることができる。条件を整えることが全く無意味とは言わないが、少なくとも直接的には条件の整備状況に関係なく、ただ僕は、真のクオリアを持てば、それを真だと考えることになるし、真のクオリアがなければ、それを真だとは考えることはない。

認識論の極北においては、認識論を駆動するものは真のクオリアであると僕は考える。

5 収斂と展開 形而上と形而下 自然科学

以上で、存在論、意味論、認識論という三つの議論に重ねるかたちで、肯定主義、言語の規則、真のクオリアという三つの駆動装置を提示した。肯定主義、言語の規則、真のクオリアが重なるようにして働くことで、存在論、意味論、認識論という三つの議論が展開され、そこに時間論が加わることで、形而上学が成立すると言ってもいいと僕は考えている。

以上は、存在論、意味論、認識論の起源までさかのぼり、その深層にあるものを発掘するような作業であったが、その対極には、存在論、意味論、認識論を十分に展開し、その議論の果てにあるものを見出すという作業があるだろう。いわば、前者が収斂の作業だったとするならば、後者は展開の作業であるとも言える。

まず、存在論を展開するとは、複数のものごとの関係を明らかにしていくような作業となるだろう。そこでは因果関係のような関係性を見出すこととなるだろう。また意味論を展開するとは、言語によって描写される世界というようなものを見出すことになるだろう。また、認識論を展開することにより、美や善といった価値が生まれ、どのようなものに価値を付与するかという価値体系が生まれていくことになるだろう。

そのように展開するなかでも、ある方向の極にあるものこそが自然科学であるに違いない。自然科学とは存在論、意味論、認識論が協働し、十分に展開されたところに見いだされるべきものだ。存在論が担保する複数性・平等性を前提に、意味論が世界としてまとめ上げ、そこに精緻な描写を加えることを可能とする。更に、実験・検証の結果の認識論的な価値付けに基づくフィードバックにより、真なるものの体系がより深められていく。だが、そこから先は、形而下領域の話として語られるべきだろう。

以上が、僕の形而上学の素描である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です