1 政治について

(1)チャーチルの言葉

民主主義を擁護する際に必ずといっていいほど用いられるチャーチルの名言がある。うろ覚えだったのでネットで検索してみると次のような言葉だそうだ。

「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

僕はこの言葉に対して直感的に嫌悪感があった。格好良すぎて胡散臭い感じがしたのだ。

僕が感じた胡散臭さは民主主義に向けられたものだろうと今日まで思っていた。僕は民主主義よりも例えば五賢帝の時代のローマ帝政のほうがいい面もある、なんてことを考えているからだ。(血の繋がりがない優秀な子どもを教育して政治を任せるのはなかなかよいと思う。)だけど、それが嫌悪感の本当の理由だろうかと、このチャーチルの言葉に出会うたびにモヤモヤしていた。

今日、ふと、この言葉が好きではない本当の理由を思いつき、すっきりしたので書き残しておくことにする。

(2)思考停止・現状維持

僕がこの言葉が気に入らないのは思考停止しているからなのだ。僕には、この言葉は次のようなことを言っているように感じられる。

「現代の民主主義は確かに問題があるよね。日本の議員だってアメリカの大統領だって問題あるよね。だけど、残虐な領主が気ままに領民を虐げることができるような世界よりはマシでしょ。もし嫌だったら国のリーダーを選挙で変えることができるんだから。だから現代の社会も及第点なんだよ。」

ここにあるのは、現状を維持し、民主主義というお題目さえ守っていれば最悪の事態は免れられるという考え方だ。今の日本の政治システムも民主主義なのだからそう悪いものではない。だとしたら、これ以上政治システムについて考えても仕方ない。これは現状維持の思考停止以外の何者でもないだろう。

現代日本の場合は更に、この現状維持に日本独自の立憲主義が結びつく。日本国憲法は出来がいいから手を加えずに残すべきという考え方だ。だから僕は護憲という考え方が嫌いだ。(ちなみに僕の政治的主張は、核配備、政教分離、天皇制廃止(までいかなくても弱体化)といった独特な方向のものだから現在の改憲論議とは全く関係ない。)

僕が民主主義や護憲に対して抱く反感は、一言で言えば、なんで過去の人が決めたことに従わなければならないのか、というものだ。自分のことは自分で決めたいではないか。

僕が望むのは、試行錯誤して少しでもよい社会を手に入れることを目指そうとするダイナミズムだ。もしかしたら失敗するかもしれない。日本も世界も滅ぶかもしれない。それでも、もしかしたらより良い社会が手に入るかもしれないと挑戦し続けることだ。その試行錯誤のなかで見つける答えは民主主義かもしれないし、そうではないかもしれない。平和主義かもしれないし、象徴天皇制かもしれないし、そうではないかもしれない。とにかく過去の誰かにお膳立てしてもらった世界などクソくらえだ。とにかく僕は今ここで選びとった世界に住みたいのだ。

つまり、僕がチャーチルの言葉に反感を持ったのは、そこに込められた現状維持の臭いを嗅ぎつけたからだということになる。

だが実はチャーチルはそんなことはしていない。この文章を書くにあたってチャーチルの言葉には前段があることを知った。次のとおりだ。

「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

チャーチルはこれからも試みは続けられていくとしている。未来には民主主義以上の政治形態が見つかるかもしれないのだ。実はチャーチルの言葉は現状維持とは程遠いものだったのだ。それを誰かが切り取って悪用したに過ぎない。

(3)進歩主義

ところで、実は僕もチャーチルも、すでに民主主義よりもよい政治体制を見出しているように思う。それは、進歩主義や革新主義とでも呼ぶべきものだ。僕もチャーチルも試行錯誤や革新を通じて、より進歩した未来を見出そうとしているのだから、そのように名付けることは正当だろう。

だが残念ながら、進歩主義や革新主義という言葉は既に手垢がついてしまっている。現在用いられている進歩主義や革新主義とは、いわば概念的保守主義と言ってもいいものだ。なぜなら、自由や平等や人権といったフランス革命以降の先人が見出してきた概念を墨守し、無批判にそれらを守ろうとする考え方なのだから。

名前はともかく、僕とチャーチルが見出した、よりマシな政治体制とは、不断の試行錯誤を可能とするようなものだ。いわゆる民主主義でも絶対君主制でもかまわない。自由や平等や人権があってもなくてもかまわない。そのような枠にとらわれない動的な政治を可能とする体制なのだ。

(4)超・民主主義

ただし考えてみると、より幅広く深く試行錯誤を可能とするためには民主主義的で自由主義的な政治体制が必須のように思える。なぜなら君主ひとりが試行錯誤するよりも幅広い人々が試行錯誤したほうが、より試行錯誤できそうだし、制限なく自由に試行錯誤したほうが、より深く試行錯誤できるだろうからだ。

だが重要なのは、僕が求める民主主義的で自由主義的なものとは、現在の民主主義国家や自由主義国家が有するものでは全然足りないし、あえて言うならば似ても似つかないものだということだ。控え目に言っても現代日本と帝政ローマは五十歩百歩だ。そのような注意書きを付したうえであえて名付けるならば、僕が見出し、求めているのは、超・民主主義、超・自由主義とでも言うべきものなのかもしれない。その点では確かに民主主義は評価すべき政治体制ではある。

2 教育について

以上の政治についての議論は教育についての議論につなげることができる。

現在の教育システムは、民主主義や立憲主義といった既存の価値観を子どもに押し付けることに適している。実際、学校において、民主主義や日本国憲法といったものを否定することはなかなかできない。

僕はそこから脱し、より試行錯誤に適した教育が必要だと考えている。子どもが自ら試行錯誤する力を身につけることができるような教育である。

そう言うと、教育関係者は既に日本でも取り組みが始められていると答えるだろう。学習指導要領でもアクティブラーニングや対話による学びといったものが示されるようになっている、というように。

僕も哲学カフェという活動をしていて、対話に興味があるからそれはわかる。対話を通じて子どもが自ら試行錯誤して考える力がつくという道筋は否定しない。

だがそれでは全然足りない。もし学校の対話の時間に子どもが試行錯誤を学べるとするならば、それは、教師という大人が本気で対話のなかで試行錯誤することを認めるからだ。更には対話のなかで教師という大人が本気で試行錯誤してみせるからだ。そのような奇跡が訪れるのは、極めてわずかな瞬間しかない。その他の大多数の時間は、試行錯誤とは真逆のことばかり学ぶこととなる。なぜなら、大人自身が試行錯誤とは程遠い生き方をしているからだ。

教育において本当に必要なのは対話を教えることではなく、大人自身が試行錯誤しているのを見せることだ。もし教育において対話が役立つのならば、それは、対話というフォーマット自体に教育的意味があるのではなく、対話というフォーマットに、大人をも試行錯誤に導いていく不思議な力があるからだ。限られた対話の時間を終えても、大人は試行錯誤の見本を子どもに示し続けなければならない。それだけが子どもに試行錯誤する力を身につけさせる道に違いない。

当然、学校だけでは足りない。親も含めた社会全体が試行錯誤し続けなければならない。真の教育とは、大人の社会全体が真摯に試行錯誤することでしかない。それ以外は小手先のまやかしであり、失敗が運命づけられている。

大人が試行錯誤せずに子どもだけを試行錯誤させようとするのは、いわば負債の先送りであり、押し付けである。僕は子どもに対する対話教育というものに、そのような偽善を感じる。