バーナード・ウィリアムズの利己主義にまつわる議論と純粋で無私の悪意」について

1 はじめに

今、バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』を読み、色々と考えている。第1章を読んで思いついたことについて、文章を書く練習(リハビリ)がてら、書き残しておくことにする。

2 ウィリアムズの利己主義についての議論

ウィリアムズはこの本における議論を「人はいかに生きるべきか」というソクラテスの問いから始める。

そして、この問いには少なくとも二つの前提があるとする。まず、「人」はいかに生きるべきか、という表現からも明らかなように、各人の「私はいかに生きるべきか」を包摂し、「各人」という視点から始めることを前提としているとする。また、現在・今のような人生の一部分ではなく、一生涯としての人生ということも前提としている。つまり、「各人にとっての一生涯」という、いわば①人称的な広がりと②時制的な広がりとを前提としているということになる。

僕はこのあたりを読んでいて、すっかりウィリアムズが好きになっていた。僕は倫理学をあまり知らないのではっきりとはわからないけれど、このような語り方をする倫理学者はそう多くないのではないだろうか。ここで行われている議論は、明らかに永井均の(独我論的で独今論的な)独在論に接近している。永井の「今ここの私」という問題意識と似たものをウィリアムズは確かに持っている。

永井的な問題があることを確認したうえで、そこからウィリアムズは、永井とは異なる道を進み、「各人にとっての一生涯」をいかに生きるべきか、というソクラテスの問いへと進んでいく。その分岐点となるのが第1章第3節(p.36~)における利己主義についての議論だろう。

ここでウィリアムズは3段階の利己主義を提示する。

第一が我利我利亡者主義という意味での利己主義である。これは、ただ自分の利益のみを追い求め、他者の利益は全く無視するというものである。きっとたいていの倫理学においては一顧だにされない立場だろうが、ウィリアムズはこのような立場にも居場所を与える。なぜなら、他者の人生というものが、たとえ、単に尊重されず、無視される対象としてであっても登場するという点で、「各人にとっての一生涯」についてのソクラテスの問いに答えるものではあるからだ。この立場は、いわば「人はいかに生きるべきか」という問いに対して、「私だけが自分の利益が充足されるように生きるべきであり、他の人は自分の利益は犠牲にしてそれに貢献すべきである」というような答えをしているということになる。これは酷いものではあっても理解可能な応答ではあることから、そのような立場を議論から外すことはできないとウィリアムズは考える。ウィリアムズは名付けていないが、あえて独我論的利己主義とでも呼べばよいだろうか。

ウィリアムズによれば第二の利己主義は倫理的利己主義である。これは、各人が自らの利益を追求すべきであるという立場だ。第一の独我論的利己主義と異なるのは、私だけでなく、各人が自らの利益を追求すべきであるとしているという点にある。反省的な視点に立ち、ものごと一般化して捉えているという点で、倫理的な方向に一歩前進していると言ってよいだろう。だが、この立場は、ソクラテスの問いに対して、各人が「私だけが自分の利益が充足されるように生きるべきであり、他の人は自分の利益は犠牲にしてそれに貢献すべきである」と回答することにつながる。これでは現実世界において整合がとれるはずがないという大きな欠点がある。だがウィリアムズは、このような欠点はあっても、この立場がソクラテスの問いに対する理解できる応答であるという点を踏まえ、倫理的利己主義にも彼の議論の中に居場所を与える。

最後に登場するのは自由放任の資本主義的な利己主義である。リバタリアニズム的利己主義と言ってもいいだろう。これは、各人が自己利益を追求するという事態が発生すべきである、という主張を掲げるものだ。この立場が倫理的利己主義と異なるのは、自分以外の他者の利益が充足されることに協力的な立場をとる、少なくとも邪魔をしないようにする、という点にある。リバタリアニズムがひとつの倫理的立場として認められていることからも明らかなように、これは明らかに利己主義者が通常の倫理的考慮を持っている状況である。こうして、ウィリアムズは、利己主義者を段階的に倫理的考慮のなかに取り込んでいく。

このような議論を駆動するのは、哲学が持つ「反省」の力である。ウィリアムズは、「ある探求を哲学的探究にするものは、反省を通じて到達する一般性の確保、そして理性に訴えるとされる議論のスタイルである。」(pp.17-18)とする。哲学的探究のそもそものあり方からして、自ずから、我利我利亡者主義的な独我論的利己主義者は、リバタリアニズム的な利己主義者にまで歩を進めていくこととなるのだ。

3 永井均の独在論/独我論的・独今論的利己主義

本当にそうなのか。そこにはまだ語るべきことがあるのではないか。いや、そこにこそ真に語るべきことがあるのではないか。そのように考えて歩を止めるのが永井均である。

永井の議論の詳細は説明しないが、永井ならば、ウィリアムズが歩んだ道は転落の道だと言うだろう。それどころか、我利我利亡者主義的な独我論的利己主義でさえすでに転落が始まっていると言うだろう。本当のスタート地点はもっと手前にあるのだ。

独我論的利己主義は、「各人にとっての一生涯」ではないにしても、「私にとっての一生涯」をスタート地点としているという点で徹底していない。「一生涯」という時間的幅を想定するのではなく、「今ここ」の「私」のみをただ考慮するという主張があってよいはずではないか。例えば、年を取ったときの自分のことなど気にせずに宵越しの金など持たずに散財すべきだというような考え方はありうる。これはつまり、独我論的・独今論的利己主義という立場である。

永井ならば、少なくとも、①独我論的・独今論的利己主義、②独我論的利己主義、③倫理的利己主義、④リバタリアニズム的利己主義、という4段階の利己主義があるということになる。(②´としての独今論的利己主義や③´としての独今論的倫理的利己主義といったものを除けば。)

4 「純粋で無私の悪意」

永井的な議論から独我論的・独今論的利己主義を追加することには、ウィリアムズの議論のなかでも意味があると思う。

そのウィリアムズの議論とは「反倫理的」なるものをめぐるものである。ウィリアムズは、歪んだ享楽的な悪意とは異なるものとしての「純粋で無私の悪意」を想定する。

通常の享楽的な悪意とは、意地悪をして苦しむ姿を見ることで喜びを感じるような学校のいじめの場面が典型的だろう。いじめをする人は、いじめをすることが本人のなんらかの利益になるからこそいじめる。「純粋で無私の悪意」はそのようなものとは異なる。

また、「純粋で無私の悪意」は「反正義」とも異なる。反正義を標ぼうする人は、社会のルールを破り、社会から非難されること自体に価値を見出す。正義とは何かについて注意を払っているからこそ、反正義を行うことができる。だが「純粋で無私の悪意」は、正義に注意を払うような不純なことはしない。

「純粋で無私の悪意」は、自らの利益や世の中の正義などに全く気を留めず、ただひたすらに悪を目指す。それが他者の不利益につながるかどうかや、自らの(歪んだ)利益につながるかどうかなどに関係なく、ただ悪を目指す。以上が僕が読み取ったウィリアムズの議論だ。とても面白い。

だが、この「純粋で無私の悪意」への着目は、極めて重要だとは思うけれど、どうも、ウィリアムズがこの本で行っている議論からは浮いているように感じてしまう。何か間を繋げるものが欠けている。この「純粋で無私の悪意」の議論とウィリアムズの利己主義の議論とを繋ぎ合わせるものこそが、永井的な独我論的・独今論的利己主義なのではないだろうか。

5 独我論的・独今論的利己主義の困難

独我論的・独今論的利己主義とは、なんとなくわかるような気になるけれど、よく考えると、実は捉えどころがない、生きたうなぎのようなアイディアだ。きちんと捉えようとすると、手元からすり抜けてしまう。

先ほど僕は、独我論的・独今論的利己主義について、「今ここ」の「私」のみをただ考慮し、例えば、年を取ったときの自分のことなど気にせずに散財すべきだというような考え方だと説明した。きわめてイメージしやすいし、どこか享楽的で刹那的な生き方だというような具体的な感想さえ抱くかもしれない。

だが、実はそこには無理がある。このような捉え方をするためには、その人の生き様を観察する第三者の視点に立たなければならないが、残念ながら、独我論を徹底するならば、そのような第三者の視点などありえないのだ。独我論的には私のこの人生が唯一の人生なのだから、その人生を眺めるような視点に立つことを可能とするような別の人の別の人生など存在しない。また、それならば、自分自身の人生の別の時点、例えば、死ぬ間際のような視点に立とうとしても、それは独今論的には認められない。なぜなら、今ここしかないのが独今論だからだ。今ここで、今ここのことをジャッジしなければならない。独我論かつ独今論である限りそこには別の視点という逃げ場はない。いわば袋小路なのだ。

言い換えるならば、評価される対象である「今ここの私」と、評価する視点としての「今ここの私」は完全に重なり、癒着している。さらには、それは唯一の実例である。それでもなんとなく評価が可能のように思えてしまうのは、こっそりと他者の視点か他時点の視点を密輸入してしまっているからなのだ。こうして視点の複数性を確保し、比較を行うことにより、そこで行うことを語り、描写することを可能としているに過ぎない。その誤魔化しを拒否するのが、独我論的・独今論的利己主義なのである。

ここで困難に陥るのは、利益という用語である。利益というからには、利益が達成できている状況と利益が達成できていない状況の両方が想定でき、比較できるのでなければならない。それは欲求や選好などと言い換えても同じことだ。利益や欲求や選好が成立するためには、美味しい酒を飲んでいる状況と飲んでいない状況の両方が想定でき、溺れる子供を助ける状況と助けない状況の両方が想定できるのでなければならない。だが独我論的・独今論的利己主義においては、そこにはただ唯一の実例しかありえない。(だから、利益・欲求・選好だけでなく、義務や自由という用語も、義務を満たす状況と満たさない状況、自由な状況と不自由な状況の両方を想定できないという点で、同様の困難に陥る。)

純粋に独我論的・独今論的な立場に立つならば、「今ここの私」の利益(またはそれに類するような何か)を考慮するような独我論的・独今論的利己主義は成立しない。そこには何も倫理学めいたものを見出すことはできず、ただ独我論的・独今論的な形而上学があるだけの景色が広がっているだけ、ということになるだろう。

6 「純粋で無私の悪意」の議論との接続

以上の(永井自身が展開したかどうかは別として)永井的な議論と、ウィリアムズの「純粋で無私の悪意」の議論とを接続することができるだろう。

純粋に独我論的・独今論的な立場においては、それだけが唯一の実例であるという意味で、カント的な義務論に基づく高尚な選択であっても、滅私奉公的な功利主義的な選択であっても、利己主義的な利益・欲求・選好によるものでであっても、「純粋で無私の悪意」に基づくものであっても、それらは全く等しい。複数のものが存在することを前提とした評価から超越している(または評価の手前にある)という点で、悪意の「悪」という言葉さえ意味をなさない。

そのような究極的に倫理から遠く、倫理の光が届かない地点を想定することで、ようやくウィリアムズの「純粋で無私の悪意」は、倫理の議論のなかに回収されることとなる。しかし、そのときには倫理も消え去ってしまっているが。ここにこそ、ウィリアムズが論じた「純粋で無私の悪意」の含意はあると思う。

7 ウィリアムズの射程

以上、僕なりにウィリアムズの第一章の議論を解釈したが、少なくとも僕にとっては、ウィリアムズが行った議論は明らかに通常の倫理学的な議論より深いところから始まっている特別なものだ。少なくとも独我論的利己主義というものをスタート地点としていることは明らかだし、「純粋で無私の悪意」の議論を踏まえるならば、独我論的・独今論的な地点、つまり利己主義や倫理が生まれる手前を射程に捉えているとさえ言える。

だが、永井的に述べるならば、ウィリアムズはそこで踏みとどまることができず、長い転落の道を進んでいくことになる。これは単なる失敗なのだろうか。

そうとも限らないように僕は思う。なぜなら、ここからのウィリアムズの議論を駆動するのは、哲学が持つ「反省」の力だからだ。ウィリアムズは第1章の最後で、哲学というものと反省との関係についての議論を行い、更には本書が存在するということとの関係についての議論を行っている。そして最後に以下のように述べている。

もし本書がこの問題(「人はいかに生きるべきか」というソクラテスの問題)を立てることにコミットしてしまっているならば、それはまたこのように(反省し、一般化し、倫理的な観点をとるかたちで)答えることにもコミットしていることになるのだろうか。倫理的なるもの、そしてよい生き方へのいかなる哲学的探究も、答の一部として哲学自体の価値、および反省的知的態度の価値[の承認]を要求するのだろうか。(p.55)(カッコ内は僕が補っています。)

これは極めて重要な問題提起だと思う。なぜなら、もしこれを認めるならば、反省を本分とする哲学は、必然的に倫理学につながるということを意味するからだ。つまりこれは、永井倫理学の敗北であり、ひいては形而上学の敗北でもある。

永井倫理学であれ、形而上学であれ、それが哲学である限り、それは反省を要求するはずだ。反省を有効に機能させるためには、そこに何らかの複数性を導入しなければならない。これは永井的に述べるならば、〈ものごとの理解の基本形式〉に乗せるということである。つまり、永井が行ったような独在論的な倫理学は語りえないということであり、哲学的に語られる限り、倫理学はウィリアムズが示したような道にしか進むことができない、ということである。そして、形而上学は、そのような倫理学に沿うようなかたちで、常識的で(つまらない)世界観を供給せざるを得ないということでもある。

以上のような僕の読み方は、決して偏ったものではないと思う。なぜなら、この本の原文でのタイトルは、「ethics and the limits of philosophy」だからだ。これは、哲学の限界と倫理学のスタート地点とはきれいに重なるということを意味しているのではないだろうか。ウィリアムズは、永井の独在論が転落し、利己主義としてはじまるところに、それを見出している、ということになるのではないか。

8 さいごに

だが、僕はそこまでは同意できない。

たしかに、永井の独我論的・独今論的利己主義とも読めるような独我論的倫理学は、それをあたかも哲学的に語ることができるかのように描写しているという点で不徹底だろう。永井の倫理学的な主張を何らかのかたちで伝達しようとするならば、それは、哲学書ではなく、永井自身が行っているように、ヴィパッサナー瞑想のような、実践によらざるを得ないに違いないからだ。

だが、永井のものも含めた形而上学であれば、倫理学から独立を保つことは可能だろう。なぜならば、複数性を前提とした語り方、永井的に述べるならば〈ものごとの理解の基本形式〉に沿った語り方は、倫理学においては必須ではあっても、形而上学においては必須とは限らないのだから。

そう考えるのは、形而上学と倫理学は全く異なることをしているという予感があるからだ。形而上学は生きるうえで必要ないが、倫理学は生きるために必要だ。少なくとも、形而上学をやる人は、それが生きるために必要だから、と説得されたらやる気を失うだろうが、倫理学をする人ならば、それが生きるうえで有用だとどこかで信じているに違いない。また、形而上学においては他者との対話や議論は本質的に必要なく、「人それぞれ」という調停の仕方がありえるが、倫理学においては他者との対話や議論を避けることはできず、「人それぞれ」はありえない。そんな違いがあるように思える。そして、それが両者の違いをつくりあげているように思える。

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