言葉と感情

※2400字くらいです

最近、僕のツイッター上は、老犬が亡くなったという書き込みばかり流れてくるようになった。なにかのきっかけで「いいね」をしたら、その履歴に応じて似たような書き込みばかりながれてくるようになったのだ。

僕はそんな書き込みになるべく「いいね」をしている。長年飼っていたペットを失うというのは大変なできごとだから、せめて「いいね」数が何かのプラスになればいいと思っている。

ただ、そうするのには、もうひとつ別の理由もある。僕はその書き込みが好きなのだろう。そこには、ペットを見守る飼い主と、健気に生きて死んでいくペットという、極めてわかりやすい一つの情景が切り取られているのだ。

ツイッターには色々と興味深い書き込みがなされる。不思議な話や面白い漫画や美しい絵もある。ツイッターは思いもよらなかった新しい表現にあふれている。だけど、老犬が亡くなるという書き込みには、別に新しい表現などないし、読者を惹き付けるような工夫もない。たいてい、その犬の写真が貼られていて、犬に対する感謝や、見守ってくれたフォロワーへの感謝や、寂しい気持ちなどが書かれている。ただそれだけだ。

そのような何の変哲もないような書き込みに僕は惹きつけられる。そして「いいね」をすることで、その関係者になれたような気がして、少しうれしくなる。

これは共感の話だろう。僕は、犬が死ぬという出来事に感情を揺り動かされ、死んでいく犬やそれを見守る飼い主に共感している。僕はこの共感の場に惹きつけられている。

この共感とは、僕にとって重要用語だ。僕は共感と言葉による伝達を対立的に捉えている。

言葉と共感は水と油だ。例えば「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という発言に対しては「大変だね。」なんていう、あたりまえで、実質的な意味がほとんどない返事がなされる。この「大変だね。」は、言葉としてはかなり貧弱であり、ただ共感しているという事実を表現しているに過ぎない。その証拠に、「大変だね。」という言葉を発さなくても、ただ理解し苦しんでいるような表情をすれば済むし、「大変だね。」という言葉を発しても、ニコニコと笑っていたら不適切な反応となる。また、「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という言葉に対して、残業せずに効率よく働く工夫を提案したり、残業を生み出す社会構造について説明することは、残業で大変な状況に共感するうえでは邪魔にしかならない。必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉であり、目をみつめて黙ってうなずくことである。

また別の例では、人が痛そうにしているのが伝わるのは、うずくまって苦しそうにしている姿に共感するからである。いかにひどい怪我かを言葉で流暢に説明すればするほど、その人は痛そうではなくなる。

以上のような意味で、共感と言葉は水と油のように対立している。

世間は共感のほうが優勢だ。皆、場の空気を読んで共感し、言うべきでないことを言わなかったり、言うべきでないことを言った人を批判したりする。「残業続きなんだ。」という言葉に対して、いきなり残業を生み出す社会構造について説明し始めてしまったら、きっと煙たがられるだろう。

一方で僕は共感よりも言葉による伝達のほうが重要だと思っている。当然、「残業続きなんだ。」という言葉に対して「大変だね。」という言葉は必要だし、その言葉に沿った適切な表情をすることも重要だろう。だけど、それで終わってしまったら、その残業続きの状況は解決されない。本当になすべきことは、では、その残業続きの状況を改善するにはどうすればいいのかをともに考えることなのではないだろうか。

それが言葉の力である。僕は言葉の力をもっと引き出したいと願っている。当然、言葉には限界があるけれど、「言葉には限界がある。」と言えるほど、人は言葉の力を引き出していないように思う。言葉が共感なんかに負けてたまるか、と僕は思っている。

だが、ふと、それはかなり難しいことなのかもしれない、と気付いた。考えてみれば、感情は言葉とかなり相性が悪い。感情を伝えるときに余計な言葉は不要だ。感情は共感でしか伝えることはできない。「悲しい」という感情を伝えるのは、「悲しい。」という言葉や「誰もいない教会でパトラッシュと一緒に凍え死にました。」という言葉ではなくて、その人の悲しそうな雰囲気であり、フランダースの犬の物語に没入したような共感と呼ばれる感覚である。

このことを「感情は言葉の減算によって伝達される。」と表現できるかもしれない。言葉は、大抵のものごとを伝達することができる。だけど、感情だけは、言葉はうまく伝えることができない。言葉で伝えようとすればするほど、感情は言葉から逃れていく。だから感情を伝達するためには、言葉を抑制的に用いることが重要だ。同情する感情を伝えるために必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉である。そして言葉を削ぎ落としたところでこそ働くものが共感である。

僕が世間の人とずれているのは、世間の人が言葉の力をみくびっているからではなく、僕が、感情というものを理解していないからなのかもしれない。僕以外の人は言葉に大きな力があることは重々承知しており、そのうえで、言葉には、感情をうまく捉えられないという限界があることも知っているのかもしれない。僕だけが、感情を理解していないが故に、その限界に気づかず、言葉の力を盲信していただけなのかもしれない。

そんなふうに少し落ち込んだけれど、ツイッターで老犬の書き込みを見て思い出した。僕には、言葉によらずとも、このような書き込みに共感する力がある。ちょっとずれているけれど、僕は僕なりに共感し、他者の感情を理解できている。僕は、僕なりに手持ちの駒でなんとかやっていくしかないのだろう。きっと、みんな、そうするしかないのだろう。

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