上手なセックスと上手な対話

※3800字くらいです。あとタイトルのとおりセックスの話なので注意を。

こういう書き出しをすることにはちょっと躊躇したのだけど、僕はあまりセックスが上手ではない。

手先が不器用なせいだと考えていたけれど、どうもそればかりではないということに最近気づいた。いや、薄々気づいていたことが、より明瞭になったと言ったほうが正確だろう。

こういう話題なので、あまり具体的にならないようするけれど、僕はどのように相手に触れればいいのかがよくわかっていないのだ。わかっていないから、ただ相手が気持ちよさそうな反応をすればいい、なるべく強い反応があればなおよい、そんなざっくりした指針に基づいて行動してしまっていた。

では、具体的にはどのように行動すればいいのか、ということになるが、世にはセックス教則本とでも言うべきものがたくさんあって、その答えをていねいに教えてくれている。(僕は、セックス教則本の作者であるアダム徳永についての文章を書いたこともある。http://dialogue.135.jp/2020/06/21/adam/)

だが、残念ながら、彼らの答えは彼の経験から導かれた、過去の彼らにとっての答えであり、僕の答えではないし、更には、これからの未来の僕にとっての答えではない。他者の過去の経験に基づく知見は参考にはなるが、それを自分自身のこれからの未来に直接導入するべきではない。

では、どうすればいいのかといえば、セックス伝道師のような他者ではなく、当事者、つまり相手と僕自身に聞くしかないのだろう。僕は、相手が望むこと、そして僕自身が望むことを丁寧に把握し、両者を調和させ、そこから導かれた道筋を実現すべく行動するしかない。これは結構難しいことだけど、幸いにもセックスでは五感をフル稼働させることができる。通常のコミュニケーションの場であれば、「気持ちいい?」などと言葉で相手の気持ちを確認し、「こうしたい」などと言葉で自分の気持ちを伝えることしかできないけれど、セックスの場では、触覚や息遣いといった様々な感覚を用いることができる。持てる感覚を最大限に活性化させることで、相手と深い交流をすることができる。これはセックスならではの醍醐味だろう。

そのような交流を、セックスにおける対話と呼ぶこともできるだろう。

上手なセックスとは、五感をフル稼働させた対話的なセックスのことであり、僕は独りよがりで対話的でないからセックスが下手だということなのだ。

そして、対話的なセックスとは、それが終わった後の視点から振り返ってみれば、美しい物語のように見えるだろう。物語とは対話の軌跡であり、丁寧に調和した対話により紡がれた物語は美しいに違いないのだから。僕が目指すべきは、対話し物語を紡ぐようなセックスなのである。

だから、物語を書く際に美しい古典文学に触れたことが役に立つ程度には、セックス教則本に載っている先人の美しいセックスを勉強しておくことはセックスにおいて役立つだろう。だけど古典文学の盗作が決して美しい物語にはならないように、セックス教則本どおりのセックスは決してよいセックスにはならない。

セックスとは、二人で対話しつつ、一つの物語を紡ぐようなものだという比喩は、僕に二つのことの重要性に気づかせてくれる。

ひとつは、時間経過の重要性である。セックスには、一直線に頂点を目指すような短編小説のような良さがあるし、丁寧に細部を掘り下げていくような長編小説の良さもある。臨機応変に二人ならではの物語をつくっていけばいい。簡単に言えば、飽きない程度に急がず対話していけばいい、ということになる。

もうひとつ重要なのは、波のような緊張と弛緩である。二人にとってのちょうどいい接触の具合を探っていくためには、接触の度合いを高めたり、弱めたりして、ちょうどいいところを探っていくしかない。そのちょうどいい地点こそが、二人の結節点であり、その結節点の軌跡こそが二者間での対話から生まれる一つの物語である。だから、僕とパートナーがショートショートの名手でもない限り、セックスにおいては、波のような緊張と弛緩を入れ込み、ちょうどいいところを探りやすいように中長編の物語を書いたほうがいい、ということになるだろう。

・・・

長い導入部となってしまったが、実は、僕が書きたかったのは、この緊張と弛緩の話であり、そのなかで見いだされる結節点の話である。

そろそろセックスの話から離れ、もう少し広く行われているコミュニケーション、つまり言葉による対話の話に戻ることにしたい。

セックスであれば、緊張と弛緩は愛撫の強さなどで生み出されるが、言葉による対話の場であれば、それは言葉の量によって生まれると考えていいだろう。たくさんの言葉を一方的にまくしたてるような場面は緊張した場面であり、わずかな数の言葉しか発せられないような場面は弛緩した場面である。

緊張した対話の代表例は演説の場面だろう。登壇者には聴衆に伝達したいことが明確にあり、そのことについて一方的に何分間も言葉を連ね続ける。その間、聴衆は言葉を発さず、それをただ聞くだけである。

一方の弛緩した対話においては、発話者に伝達したい言葉は明確にはない。例えば、お通夜の場面では、出席者は、滔々と悲しい気持ちや相手を思いやる気持ちを説明するなんてことはせず、ただ一言、「お悔やみ申し上げます。」というような言葉を発するだけである。それもできるだけ不器用なかたちで。なぜそうするのかといえば、そこにあるのは言葉にはできない感情であり、こんなときには言葉は無力だと気づいているからである。弛緩した対話とは、このような場面を思い浮かべてほしい。

考えてみれば、対話とは、演説のように言葉が重視される方向と、お通夜のように言葉が重視されない方向という、二つの方向の間で揺れ動くもののように思う。

喧嘩をしていて自分の正当性を相手にわからせようとするとき、僕は言葉に言葉を足して、まくしたてるようにしてこちらの事情や考え方を理解させようとする。だけど、そのような説明によっても理解が得られなければ、僕は無言となり、言葉を発しないことにより、僕の中にある怒りや悲しみといった感情を、その相手に伝えようとする。演説においても、あえて沈黙の時間をつくり、そこで言葉の裏にある感情を伝えるという技法もある。

そしてまた、言葉にならない感情を、あえて言葉にしていくことにより、その感情が癒やされていくというようなことも起こる。長年言葉にしてこなかった戦争の苦い思い出を、年老いてからあえて語るような場面である。これが、はたして言葉により感情を癒やすのか、時間経過により感情が癒やされたから言葉にできるのかは別として、言葉が前景に出てくるのに呼応するようにして、感情は背景に退く。

このように、対話には、感情から言葉に向かうベクトルと、言葉から感情に向かうベクトルという、二つのベクトルがある。僕はこれを緊張と弛緩と表現したが、それはあくまで言葉の側からの捉え方であり、感情の側からしたら、演説のような場は感情の弛緩であり、お通夜のような場こそが感情の緊張であるということになるのだろう。

だから、対話においては、そこで発せられる言葉の内容だけでなく、それ以上に、現在、言葉が加算される方向にあるのか、それとも言葉が減算される方向にあるのかに注意を払うことが重要だ。言葉が加算されている限りは、そこでは言葉が重要な役割を果たしていることになるので、その言葉の内容に注意を払っていればいい。だけど、言葉が減算されているときは、そこで発せられている言葉ではなく、そこで発せられなかった言葉にこそ注意を払う必要がある。そこには、言葉にしない、というかたちで逆説的に表現された感情があるはずだからだ。

そこのようにして、僕と相手とのコミュニケーションにおいて、ちょうどいい言葉と感情のバランスを調整することにより、僕たちにとっての適切な結節点を見出すことができる。二人の間に一つの結節点を見出すという意味で、文字通り僕たち二人は、二つが一つになる。そして、その結節点を丁寧に維持し、その結節点の軌跡を描くことで、僕たち二人は一つの物語を描くことができる。

いや、理想的な結節点を見出し、それを維持するなどというのは幻想だろう。どうしてもコミュニケーションにおいては想定外のズレが生じる。適切な結節点の維持などというのは、あくまで彼方の理想であり、その理想を目指して対話を継続していくことこそが対話のそもそものあり方だと考えたほうがいいだろう。なかなか完璧に成功するものではないからこそ、対話は面白い。

・・・

一応、最後にセックスの話に戻ると、明らかに、対話とセックスは並行関係にある。ただし、通常の対話に比べてセックスにおいて描かれる物語は、結局、二人の間の恋愛の物語であるという点で、その内容としての多様性には乏しいと言えるだろう。一方で、通常の対話においては、言葉や、せいぜい表情や身振りといったものしか用いられない一方で、セックスは、触覚や息遣いといった様々なものが用いられるという点で、手段が豊かである。つまり、通常の対話とセックスはかなりよく似ているが、対話に比べてセックスは、その目指す目的は狭いが、手段は幅広いという違いがあるという関係にある。つまり対話とセックスは相補的な関係にあるということである。だから僕は、セックスをするように対話をしていきたいし、対話をするようにセックスをしていきたいなあ、と思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。