ウクライナのこと

いつもは哲学が最優先で、他に大きなニュースがあってもいずれ哲学に戻っていくのだけど、今回はそうもいかないのでここに吐き出しておく。全く哲学な話ではないし、政治素人の特に目新しいこともない話なので、読む価値は全くない。ご承知おきを。

僕が気になって仕方ないのは、当然ウクライナ侵略のことだ。

ウクライナで起こっていることは、多分、死者の数や被害の大きさでは飛び抜けて酷いことではないだろう。これまであった、そして今現在も起きているだろう中東やアフリカでのよく知らない出来事のほうが、よほど悲惨なものである可能性が高い。世界がウクライナに注目するのは、そこで苦しんでいるのが白人だからであり、そして悪のプーチンと善のウクライナ市民の対決というエンターテイメント性があるからではないか、と勘ぐってさえしてしまう。

だけど、やはり僕もウクライナのことが気になる。それはなぜかといえば、ロシアという国連常任理事国が、政情不安でもない国に対して、直接、首都にまで攻撃するというのが衝撃だったからだ。そして、そのような蛮行に対して、国際社会は、経済制裁以上のことができないということが露呈したからだ。これは第二次世界大戦以降、初の事件だと思う。

今回のことから、NATOや日本や韓国などのアメリカと直接軍事同盟を締結している国でなければ、アメリカは軍隊を動かさないということが明らかになった。加えて、軍事同盟を締結していたとしても、そう簡単には助けてくれないだろう、ということも明らかになった。

独立国家ウクライナ相手でいけるなら、中国の一部である台湾はもっと危ない。明確にアメリカと軍事同盟を結んでいないベトナムもやばい。日本だって、日本人が何人も戦い、死んでいかなければ、アメリカはきっと助けてくれない。

僕の中に、ベルリンの壁崩壊以来、すっかり忘れていたあの感覚が蘇ってきている。僕たちは常に(内戦状態にあるなどのきっかけがなくても)突然、日常を奪われる可能性に直面しているのだ。

そして今回僕が学んだのは、このようなときに大事になるのは「物語」だということである。プーチンやトランプには本当にやばいことをやるかもしれないという物語があるし、ウクライナ軍には祖国を愛し、勇敢に戦うという物語がある。僕は当然反トランプだけど、残念ながらバイデンには鈍重で扱いやすいという物語しかなかったのだろう。人が紡ぐ物語が複雑に絡まり合い、政治は思わぬ方向に進んでいく。

専門家は、軍事力を比較したり、経済制裁時の世界経済への影響を考慮したり、地政学的な影響を分析したりするけれど、なかなかそのとおりにものごとは進まない。なぜそうならないかといえば、そこには理性ではすくい取れない感情があり、人間の生き様があるからなのだろう。

重要となるのは「物語」つまり、他者、この場合は世界からどのように見られているか、という視点である。僕たちはプーチンの心の中は読めないし、ウクライナ軍人ひとりひとりの人生も知らない。だけど、僕たちはプーチンに狂った独裁者、または強いロシアを回復しようとするしたたかな政治家という物語を読み込むし、ウクライナ軍人には絶望的な状況でも勇敢に戦う愛国者という物語を読み込む。物語が悪い方向に働けば、(ナチスドイツのチェコ併合のように)プーチンの暴走を止められないという事態を生み出すし、良い方向に転がれば、SWIFTからのロシア排除のような動きにもつながる。(僕は、損得勘定だけではなく、ウクライナ国民の努力が世界を動かしていると信じたい。)

だから、今回のことで僕が気づいたのは、(僕自身も含めて)人は、他者にどのように見られているかを、もっと気にするべきだということだ。人は、他者にとっては、物語の演者である。他者に働きかけるうえでは、わかりやすく、心に訴えるような物語を紡ぎ出すことが有効だ。政治家のような人ならなおさらだ。トランプのようなポピュリストが成功するのはそのためだし、ジョブズのようなプレゼンがうけるのもそのためだ。そして、それは生半可にできることではない。ときにはウクライナ軍人のように命をかけなければ、他者を動かすような物語を紡ぐことはできない。その点で僕は、日本の政治家にも、日本人にも、僕自身にも不満がある。例えば、僕たちは、安全安心で健康で幸福になれるような制度や年収というような静的な状態ではなく、活き活きとした予測不可能な物語をもっと大事にしなければならないのではないか。

もうひとつ、僕が感じているのは、こんなときでも僕は僕自身ができることをするしかない、ということだ。僕が構想しているのは、このサイトにあるとおり「対話の哲学」だ。対話の哲学というからには、プーチンのような独裁者とは反対の立場を表明するものとなるだろう。対話の重要性についての説得力を高めることは、権力者の独断に制限を加えることにつながりうるはずだ。

つまり、僕が哲学をすることは、ひいては、僕が望むような世界をつくりだすための営みともなりうる、ということである。だから、僕が哲学をするにあたっては、ウクライナの人たちを思うことはモチベーションになりうる。今回のことはそのように僕自身と結びつけることもできる。

だが、それはそれでいいことではあるのだけど、実は余計な夾雑物であり、僕の哲学を変質させてしまうのではないか、という危惧もある。実は、僕は僕の哲学に、あまり倫理的な含意を込めたくなかったのだ。だけど、今回のことで、ちょっと気持ちが変わりつつもある。

そんな迷いはあるけれど、ここで吐き出したので、とりあえず哲学のほうに頭を切り替えよう。

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