※2500字くらいです。考えていることの断片です。

色々と書いている断片のうち、切り離して完結させておいておいたほうがよさそうなことを保存しておく。

これは、僕という懐疑論者が、なぜ入不二基義の現実性の議論に魅力を感じるのかについての文章である。

1 入不二の現実論の頑健さ

懐疑論者である僕にとっての入不二の哲学の魅力の一つは、その頑健さである。入不二の議論は驚くような頑健さを持っているように思えるのだ。まずはその頑健さについて述べることにする。

入不二の現実論によれば、現実性は遍在している。その遍在性は「現に」という副詞はどのような文にも付加できるということに象徴的に示されている。「現に」僕はパソコンで文章を書いているし、「現に」ウクライナでは戦争が起こっている。日常は「現に」現実である。入不二が強調する現実の遍在性は、そのようにして日々の生活の中から掬い取ることができる。入不二の現実性の議論とは、誰もが共有できるような、極めて当たり前の日常の実感から理解できるものなのである。入不二の文章を読む限り、入不二自身も、そのような経路で遍在する現実性を理解することを読者に期待しているように思える。

だが一方で、現実の遍在性は、あえて日常の実感に基づく常識的な理解の経路にこだわる必要はないという点にも注意しておくべきである。現実の遍在性は、日常から離れ、特殊な状況を想定してみても同じことである。たとえ僕が水槽の中の脳みそであったとしても、また、この世界が5分前に創造されたとしても、入不二の現実論は全く影響を受けず、全く揺らぐところがない。なぜなら、「現に」僕は水槽の中の脳みそであり、「現に」5分前に世界は創造されたのだから。それがどんなに特殊な状況でも、それは「現に」現実なのである。入不二の現実性は、日常でも、日常から遠く離れた思考実験的な状況設定でも全く揺らぐことはない。現実性は状況設定に全く影響を受けない。

僕が考える入不二の現実論の頑健さとはこのことであり、入不二の議論の魅力のひとつはここにあると僕は思う。

2 懐疑論

なぜ懐疑論者である僕にとって入不二の現実論の頑健さが魅力的なのか、少し描写しておこう。

他の懐疑論者がどういう動機で懐疑論者になるのかは知らないけれど、僕の懐疑は単なる思考実験上の産物ではなく、本当にそんな懐疑に包み込まれたような、何らかの実感を伴ったものである。つまり、本当に水槽の中の脳みそかもしれない、本当に5分前の世界と今の世界は断絶しているのかもしれない、と思ってしまうときがあるということである。(実は、僕の懐疑はちょっと違うのだけど、わかりやすい例として、そういう懐疑だということにしておいてほしい。)

当然いつもではないけれど、時々、本当にそんな気持ちになるときがあるのだ。そんなとき、僕は、何もかもを失い、底なし沼にはまったような気分になる。どうしようもなく孤独で、どうしようもなく無力感に襲われる。こんな気持ちを論理でどうにかしたい、というのが僕の哲学を始めた動機のひとつである。

同じようなことを考えたことがある人ならば以上の説明だけで伝わるだろうけれど、これでわかってくれる人は少ないだろうから、別の伝え方を考えた方がいいかもしれない。それは、死んだらどうなるのだろう、と想像するときの不穏な感じを思い浮かべてもらえればいいかもしれない。多くの人は死後が全くわからないことに対する不安を感じるのではないだろうか。たいていのひとは地獄も天国も信じていないだろうから、なんとなく死後は無だと思っているだろうけれど、そもそも、その無というものがどういうものかはさっぱりわからない。わからないから不安になる。僕が懐疑により感じる不安とは、この死後に向けた不安が拡大し、死ぬ前の世界も覆い尽くすような不安だと想像してもらえればいいかもしれない。

入不二の現実論は、そんな僕にひとつの足がかりを与えてくれる。もし、全てが疑わしいとしても、それは「現に」疑わしいのだ。僕の手元には「現に」という手がかりだけはある。そのように考えることで、「本当は」水槽の中の脳みそかもしれない、僕は底なし沼にはまっている、という残酷な現実が180度反転し、「現に」水槽の中の脳みそかもしれない、「現に」僕は底なし沼にはまっている、という救いの言葉に転換する。そう思うことで、とにかく僕は現実とのつながりを確認し、安堵できる。懐疑論者にとっては、入不二の議論の頑健さは救いとなりうる。

わかりにくいかもしれないので、引き続き死後の世界の比喩を用いるならば、「現に」死後の世界はあるのだし、もし、死後の世界がないのだとしたら、「現に」死後の世界はないといとも言える。現実性の力は、死後の世界にすら及んでいる。よって、確かに死後の世界はわからないが、現実性によってアクセス可能な程度にしかわからなくはない、とも言うことができる。僕たちは入不二の現実論によって、わからなさを飼いならすことができる。

入不二は、現実性の力を光に喩えるけれど、その点で、懐疑論者にとっては、現実性の議論とは救いの光であると言えるかもしれない。

以上が入不二の現実論の頑健さであり、僕にとっての入不二の現実論の魅力である。言い換えるならば、入不二の現実論の魅力は、僕のような懐疑論的な人間であっても、その議論を懐疑に付することなく真正面から受け入れることができるところにある、とも言える。

3 驚き(補足)

ここまでの文章は、僕が先日書いた文章『驚きと疑い』(https://dialogue.135.jp/2022/04/09/utagai/)を書く前にすでに書いていたものだから、多少、話がつながっていない。

補足するならば、僕の底なし沼にはまったような無力感とは、〈世界〉に驚き、圧倒されたことによる無力感であるということになる。そして、僕が入不二の現実論に感じる安堵とは、取り付く島もない圧倒的な〈世界〉に対して、多少は効果的な対応ができるという希望である、ということになる。