哲学や対話についての文章(長編)」カテゴリーアーカイブ

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 5 おまけ

5 おまけ

最後に、この文章のどこにも入らなかった考察をメモ書き程度に残しておく。

5-1 愛着・暴力

この本には猫が登場する。しっぽの先が少し曲がったハチワレだ。(p.284)

だが、この猫は、ただのしっぽの先が少し曲がったハチワレではない。名付けられ、長年ともに暮らす「この猫」として、波及と還流の構図に巻き込まれ、この猫は世界に溶け込んでいく。

これは、円環モデルを用いるならば、顕在性の意味論の領域から離れ、解像度を落としていくプロセスだと言っていいだろう。このようなプロセスを駆動するものは猫への愛着だ。愛の力が世界を動かしている。

猫の議論の箇所は、以上のようにも読むことができるものであり、入不二には珍しく、非常に倫理的な描写だと思う。

だが、一方で入不二は同じものを暴力とも表現している。

他の猫との比較としての相対的な猫から、この猫という絶対的な猫となるのは暴力でもある。これは「相対主義が開く他の選択肢や異なる相貌を無きものにするような、問答無用の破壊的な力」(p.312)である。

この破壊的な力を入不二は「黙らせる力」(p.318)とも呼ぶ。

このような力のあり方を踏まえるなら、一見、倫理的と思える場面での力さえも、「語ることを強いる力」や「愛着を持つことを強いる力」とも表現することができるだろう。(僕も猫を飼っているけれど、ネコの魅力には、そういう暴力的な側面があるように思う。)

5-2 身体・生命

入不二は森岡との「このもの主義」の議論において、森岡との距離を縮めるために「身体」のとりあえずの源泉性を認める(p.238)。そこまで歩み寄ったうえで残る(または歩み寄ったからこそ強調される)森岡との違いを、入不二は「もの」と「こと」の違いとして示している(p.242)。

入不二が身体の「とりあえず」の源泉性を認めるとは、つまり、入不二が白眉と認めるプギャーの一コマ(p.240)のようなかたちで、身体が、力の受信側としての二人称と、力の発信側としての一人称の両方を持つことを認めることだと解釈できる。身体がこのような二面性を持っているからこそ、身体は波及と還流の構図に巻き込まれることができることとある。こうして身体は波及と還流の構図のなかの一点として位置づけられることになる。以上が入不二と森岡との歩み寄りの場面だ。

しかし、入不二によれば、入不二の波及と還流の構図はあくまで「こと」的な力の流れであり、一方で、森岡のものは人や局所という事物「もの」が主人公であるという点に違いがある。

しかし、僕はここに疑問がある。入不二が述べるほど、「こと」的な入不二と「もの」的な森岡との違いは明確ではないように思う。

入不二が歩み寄りのために認めた身体とは、いわば、「もの」化した「こと」であり、多分、森岡ならば、「生命」と表現するのではないだろうか。森岡的に表現するならば、波及と還流の構図とは、生命の力が波及・還流し、この世界を巡っていることを示すものであり、生命は身体というかたちで分有されている、ということになるのではないか。(森岡の議論はあまり承知していないので、なんとなくそう思うだけだけど。)

「生命の力」という「もの」と「こと」の中間的な用語を用いるならば、表現の好みの違いはあっても、二人の考えはかなり接近するような気がする。

だから入不二と森岡の違いを強調するためには、より直接的に身体の受け入れの場面に立ち戻ったほうがいいように思う。

入不二の議論の魅力は妥協を許さないところにある。それならば、森岡が描く「生命の力」という道筋につながる「身体」など、とりあえずであっても認めないほうがいいのではないか。

入不二は既に別のかたちで「生命の力」や「身体」を表現している。それは、動物が持つ黙らせる力であり、問答無用の破壊的な力だ。

そちらの方向での入不二と森岡の議論の絡み合いを見てみたい気がする。

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 4 距離2 離脱・独自

4 距離2 離脱・独自

以上で、最も僕が取り上げたかった議論は語り終えた。この第4章では、入不二の議論というより、僕自身の哲学の考察につながることを論じていきたい。だから、この章はあまり読んでいただく必要はないように思う。

4-1 日常・神

円環モデルとは、僕が先ほど描いた二通りの螺旋、つまり現実性が失われて下降していく下向きの螺旋と、現実性が満ち足りて上昇していく上向きの螺旋の中間にあるものとして捉えることもできるのではないか。

「あるなる」の用語では中間だが、この本に即すなら緊張関係としたほうがいいかもしれない。

もし、そのように捉えられるとするなら、円環モデルという中間・緊張関係とは何を意味するのだろうか。

このことを考えるために、現実性の神を持ち出したい。

現実性の神とは超人的な神ではない。だが、神であるからには、現実性の神は現実性を与え、奪うことができるはずだ。更に、その与奪は無際限のものであるに違いない。与えるならば与えたという痕跡も埋め尽くすほどにとことん与え、奪うならば奪ったという痕跡さえも消し去る。だから与えられた者は与えられたことにすら気づかないし、奪われた者は奪われたことに気づくことさえできない。これは存在論的忘却(p.320)の議論につながるだろう。

だけど実際には、僕たちは、生まれたり、死んだり、変化したり、といったことに満ちた世界に生きている。これは現実性の神からすると全く余計なものだろう。僕たちは神に抗って生きているのだ。

僕たちが神に歯向かうために使っているのは、現実性の神が持つ、与奪という二面性だろう。僕たちは神が与奪という二項関係を有しているからこそ、そこに中間・緊張関係を見出し、円環モデルという自らの居場所を確保できている。

もし神の力というものが、このような緊張関係から解放されたなら、それは、円環はおろか螺旋を描く必要すらなく、ただ上向きか下向きかに突き進むだけだろう。それをねじ曲げて平面上を経巡らせているのは、神の二面性を用いた人間のわざである。

このように考えるならば、平面的に描かれた円環モデルとは、極めて人間的なものであるはずだ。僕はそれを日常と呼びたい。入不二は円環モデルが反復され回り続けることについて、次のように言っている。

初発の現実のインパクトは、反復する現在の内で均されてしまう。「なにかが起こった(起こっている)」ことは、奇跡的に偶然である始発点というあり方から、日常的に必然である任意の点というあり方へと転落する。(p.178)

僕もそう思う。円環モデルとは、神の奇跡を日常に転落させる人間の描写なのだ。いわば、去勢された現実と言ってもいいと思う。

(円環モデルとは下向きの螺旋と上向きの螺旋の中間であるが、下向きの螺旋とは、あったはずの現実性が失われるという事態を意味する。このような想定は、現実性という神とは相容れないものであり、人間の勝手な想定に過ぎない。神はひたすら与え、奪うことなどない。)

入不二が円環モデルを描ききることができたのは、肯定主義を適用したからこそだが、そこに限界があったとも言える。肯定主義とはあくまで肯定「主義」なのだ。それは言語にとらわれた人間の行為である。

平面の円環ではなく、上向きの螺旋を描くためには、肯定「主義」ではなく肯定そのものの力を用いる必要がある。いわば、現実が円環を経巡るうちに生じる上向きの揚力を生むような議論だ。

(僕は肯定の力と現実の力とは重なるような気がしている。)

実はそれも、入不二の議論のなかには既に準備されているように思う。例えば、「あるなる」でのケセラセラの運命論やビッグウェーブに乗るサーファーの描写(サーフボードは揚力を生んでいる)はその道筋を示しているのではないか。

(※現実の力を揚力と捉えるならば、円環モデルにおいては左回りがないだけでなく、立ち止まることもないだろう。入不二は「潜在的な現実は、必ずしも顕在的な現実という局面(相)を伴う必要はない(ただ潜在しているだけの現実がありうる)。」(p.194)とするが、現実とはどこまでも動的でなければならないように思う。)

このようにして、上向きの螺旋モデルを採用することができたならば、入不二が問題とするような、1回限りで円環が途切れるか、ギャップが埋められて円環が継続するか、という問題は生じない。円環は開いたまま回り続け、神のほうへと上昇し続ける。

4-2 時間・矢印

この本における時間の扱いは難しい。そもそも「現実性という神自体は非時間的な力である」(p.386)とするとおり、現実と時間は無関係である。(無関係が関係するという点に「今」の特異性はあるにせよ。)

つまり、時間については、現実を論じたこの本とは別の道筋で論じられる必要がある。(入不二は既に他の本で論じている。)

あえて、ここに取り上げた限りで、時間を見出すならば、少なくとも次の三つが時間の候補として見いだすことができるだろう。

①平面の円環モデルを経巡る矢印としての時間

②垂直の矢印としての時間

③時制としての時間

このうち特に重要なのは③であり、時制と時間との違いだ。この本でも強調されているが、時制を混入させずに時間を理解するということが、入不二の時間論を理解するための絶対条件だと思う。(※)

実は、この時制と時間を分けるというのが難しい。(僕もできているかはわからない。)だが、明らかに言えるのは、時制を削ぎ落とした時間とは、ベクトルそのものに近いということだ。

それならば、①と②の平面と垂直の二つの矢印こそが時間の候補であるのは明らかだろう。

入不二は時間に、ベタの時間とスカ(無関係)の時間という二つの側面を見出す。二つの側面があるということと、時間の候補として①と②という二つの矢印があることは関係している。

ベタの時間とスカの時間とは、入不二が見出した12時のギャップを時間的に表現したものだろう。12時のギャップについての謎めいた視線の図(p.50、p.176)によれば、視線の向きによってギャップの有無という二通りの捉え方がありうる。一方の円環モデルがギャップなく平面上を回り続けるという捉え方は、「②垂直の矢印」を必要としないという点で「①平面上を経巡る矢印」としての時間とつながる。また、もう一方の円環モデルには越えられないギャップがあるという捉え方は、それを乗り越えるための「②垂直の矢印」としての時間とつながる。

興味深いのは、過去と未来には非対称性があるということだ。過去については、それを大過去にまで深めたとしても、「②垂直の矢印」を必要としない。そのことは謎めいた視線の図では過去方向にはギャップが見えないことと重なる。一方で未来については、「②垂直の矢印」を必要としない「ベタの未来」と、「②垂直の矢印」を必要とする「無でさえない未来」の二つがある。つまり、円環モデルについては、「①平面上を経巡る矢印」としての時間を考慮する限りでは、右回りでも左回りでも違いはないが、「②垂直の矢印」を考慮した途端に、円環モデルは右回りしか成立しなくなる。

この過去と未来の非対称性は、円環モデルには右回りしかなく、また、円環モデルとは実は上向きの螺旋モデルとしてどこまでも開いているということを意味しているのではないだろうか。

また、ここにも、ケセラセラの未来とも呼ばれる「無でさえない未来」が持つ特別な意味がある。ケセラセラの「軽快な解放感」(p.175)こそが、日常から飛躍する力なのではないだろうか。

(※時制としての時間について付言すると、入不二の円環モデルにおいては、顕在性の領域=意味論=未来、潜在性の領域=認識論=過去という対応関係があるように思う。例えば、第1章の時制の議論(p.48~)における「未来の未来性」の第1・2の要因とは潜在性の領域から見た顕在性の領域のことである。また、過去性の第3の要因は潜在性の領域に見いだされる。また、入不二の円環モデルとは意味論と認識論の円環だとするならば、未来の可能性は顕在性の領域にあるという点で意味論的であり、過去の記憶は潜在性の領域にあるという点で認識論的である。)

4-3 内包・もの

円環モデルの始発点について、入不二のように脱内包と見るか、僕のようにそうではないと見るかはともかくとして、いずれにせよ、始発点に内包はない。円環モデルの昼の領域を進むにつれ、内包は獲得されていくことになる。では、内包のひとつひとつを円環モデルのどこに位置づけるべきなのだろうか。

この問題については、円環モデルを拡張した波及と還流の構図における「もの」が、どのように成立するのか、というこの本の第6章の議論に対する疑問として考えたほうがいいかもしれない。

入不二の波及と還流の構図においては、中心にある●としての「私」とその周辺にある「もの」と、最外周にある○としての「世界」との違いには着目されず、いずれにせよ現実の力が及んでいるという点が強調される。例えば次のような記述がある。

「X」は、「私」であろうと「もの」であろうと「世界」であろうと、何でもかまわない。(p.236)

つまり、ここには、実際はたまたま中心にある●は「私」だったけれど、それは「もの」でもかまわなかったはず、という視点が前提とされている。このような方向の議論は、この本で入不二が強調するものではない。(どちらかというと、読んだことがないけれど九鬼が主張する方向だろうか。)しかし、「「初発の現実」自体が、さらに深い水準では偶然性に晒される。」(p.161)とされるとおり、入不二が、12時のギャップについて議論する際には、この根源的偶然を前提に組み込んでいることは明らかだろう。

つまり、根源的偶然を表現するためには「私」が中心にある構図のほかに、「もの」が中心にある波及と還流の構図を無数に描く必要がある。そのうえで、そのうちのひとつとしての「私」が中心にある構図だけが根源的偶然により選択されるのでなければならない。これが可能世界論だろう。

だがそのような議論を、あくまで意味論の枠内での議論であり不徹底だとするのが、入不二に限らず、可能世界論を却下する側の立場となるはずだ。

このような立場に対して疑問を提示したい。

たしかに僕は入不二が読み替えた「このもの主義」(=これ主義)を受け入れる。では、入不二の「これ主義」において、波及と還流の中心にあったはずの「もの」はどのように描かれるのだろうか。波及と還流の構図において、「もの」を単に「私」の周辺に配置するだけでは描写が足りないのではないだろうか。

(これは、限定的なものであっても可能世界論には一定の正しさがあるとするならば、可能世界論を全否定せずに肯定的に捉え、可能世界論を波及と還流の構図に組み込む必要があるのではないか、という肯定主義の徹底の見地からの疑問でもある。)

この疑問に対する僕なりの答えはまだきちんとまとまっていないので、イメージによる描写となってしまうことをご容赦いただきたい。

僕は、現実性の力を解放することにより、円環モデルを上向きの螺旋モデルに発展させることができると考えている。発展可能性があるだけでなく、現にそのようなあり方をしていると考えている。

この螺旋モデルを比喩的に用いるならば、螺旋を縦に見ると、円環が重ねられているように見えるはずだ。円環の向こうには一周前の円環が垣間見えるというかたちで。

「もの」とは、このようにして垣間見える一周前の「私」なのではないだろうか。

円環モデルにおいては、「この私」を始発点として円環が循環し続けていた。12時の奇跡が成し遂げられる限り、「この私」は「この私」であるという日常が永遠に続いていた。

しかし、上昇する螺旋モデルにおいては、始発点の「この私」は同じところには戻らない。一周回った始発点の「この私」は、以前の「この私」を見下ろしているはずだ。

ここでの「以前の「この私」」こそが「もの」なのではないだろうか。

私は、以前の私である「もの」を見下ろしている。

以上が円環・螺旋モデルを用いた説明だが、波及と還流の構図に戻るならば、更に付け加えるべきことがある。

波及と還流の構図では、「私」の周囲に無数の「もの」が並列的に位置づけられている。現実の力は無数の「もの」を巻き込むようにして波及し、還流している。

つまりこれは、上向きの螺旋での最上位の「この私」の円環が見下ろしている「もの」の円環はひとつではなく、並列的に無数にあるとも表現できる。これは既に螺旋で示すことができない構造である。波及と還流の構図自体が更に波及し還流しているというべきだろう。

以上の描写は勇み足すぎ、この本の議論から離れすぎていると思われるかもしれない。しかし僕は、この本についての考察として、この僕のアイディアを述べる理由があると考えている。

僕は12時の飛躍においてなされていることは、マイナス内包の一部からの何かの産出ではなく、マイナス内包全体が一挙に始発点に立ち現れるのだとした。

もしその主張が認められるならば、始発点にあるものは一周前の円環が描いてきたものの一部ではなく、その全てでなければならない。

だが円環モデルを反復と捉えるならば、そのような捉え方はできないだろう。特に着目したいのは円環モデルの特に右半分の顕在性の領域の議論だ。ここでは、始発点にあったはずの「全て」は顕在性の領域を通じて全一性を失い、6時の転回の直前には、無限のなかの一点となってしまう。そこで行われていることは、全体を部分に貶める作業である。

当然、入不二の円環はそこでは終わらない。顕在性の領域でなされた全体の部分化の作業は、その後の潜在性の領域における部分の全体化の作業により回復される。顕在性の領域でなされることと潜在性の領域でなされることは、鏡のような関係にあると言ってもいいだろう。

このような議論の流れについては、数と質という言葉を用いて比喩的に表現することもできるだろう。顕在性の領域の議論とは、質から数への議論だ。分割して数で埋め尽くすことにより世界を把握しようとする。一方で潜在性の領域の議論は、数から質への議論だ。分割を埋め直すことにより世界全体のあり方を把握しようとする。つまり、円環モデルとは、数と質との間の大きな往復運動なのだ。

このような捉え方は、円環モデルを螺旋として読み替えず、円環の反復であるとする考えと親和性が高いだろう。

僕はこのような考え方に正面から反論したい。この議論は、顕在性の領域で成し遂げられたことを否定しており、肯定主義を徹底できていないのではないか。顕在性の成果を「質から数へ」と圧縮して表現するならば、円環モデルを往復運動と捉えるということは、「数」を否定し、なかったことにするということであり、そこに否定が入り込んでいるのではないか。

「数」を否定から救い出し、円環モデルに位置づけるためには、ともかく新しい何かが書き加えられるべきであるのは確かではないだろうか。その有力候補としては、僕が描いたような道筋はありうると思う。

とりあえずのイメージとしての描写に過ぎないものであるが、僕は、個々の内包や「もの」と呼ばれるものを位置づけるかたちで、無数の円環を巻き込みつつ上昇する螺旋モデル、または波及と還流の構図自体が更に波及し還流する構図を提示したい。ここにある解放性こそが肯定主義を貫徹していることの証左であると思われるから。

(なお、僕がこのようなアイディアを考える中で心に浮かんだのは、ホワイトヘッドの「抱握」という言葉だ。僕は確か入不二先生のツィートをきっかけに飯盛先生の「連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学」を読み、この言葉を学んだ。僕が入不二先生の円環モデルに読み込もうとしたのは、僕なりの解釈としての「抱握」なのかもしれない。)

4-4 他者・対話

このように描写した「もの」とは他者でもある。種としての人間ではなくても、たとえコップであっても、「もの」には他者性がある。なぜなら、他者性がわずかでも含まれているからこそ、波及と還流に巻き込まれることができるからだ。僕はそのように考えている。

しかし、このような話は明らかに脱線なので、そちらの方向の議論には踏み込まず、とりあえず他者としての人間が波及と還流に巻き込まれるのだと想定してみよう。

そのうえで先ほどの考察を踏まえるなら、次のように言うことができる。他者とは、過去の(円環の一周前の)私である。

これに対しては当然異論があるだろう。他者と自分とは違う。他者であったという記憶はありえないが、過去の自分とは記憶でつながっているのだから。

だが、この本の入不二の議論では記憶はほとんど登場しない。というか、記憶が重大な役割を担う余地がないと言ったほうが正確だろう。入不二が描く抽象画においては、記憶というような具体例は不要なのだ。

確かに他者と過去の私との間には違いがあるかもしれない。だが、そのような違いよりも、もっと根源的なことを入不二は論じている。彼の議論は、記憶や自他の違いを否定しているのではなく、ただ超えている。

僕もその超越性を引き受け、自他の違いを棚上げにしたままに考察を進めるならば、過去の私でもある他者が波及と還流に巻き込まれるという事態に僕は興味がある。これこそが「対話」ではないか。

僕は哲学対話というイベントを主催したり、哲学対話を紹介するサイトを管理したりしている。要は「対話」というものに興味がある。

そのような興味深いものとしての「対話」を入不二の議論に見出すことができることはとても意義深い。(だからこうして書き残している。)

では、入不二の議論の枠組みに沿うなら、私はどのように他者と出会い、対話するのか。

まず、他者との出会いの場面は、明らかに円環モデルの顕在性の領域に見出すことができるだろう。顕在性の領域とはいわば数の領域であり、他者と出会うとは、1が2となり多となることである。そのように考えるなら、他者との出会いと顕在性の領域での議論は重なる。顕在性の領域で重要な役割を果たす可能性とは他者のことであると言ってもいいだろう。

その後、転回を経て、外在的な存在であった他者は、潜在性の領域において私に取り込まれていく。私と他者の間にあった区別が埋められ、溶け合い、不分明になっていく。

以上の円環モデルのプロセスは、異質のものであった他者が理解されていく経過を描写していると言ってもいいだろう。

だがそれで終わりではない。更に他者は理解から逃れていく。これが12時の飛躍だ。飛躍した後は理解して溶け合ったはずの他者が、外部の存在として立ち現れる。円環モデルによれば、あとはこのようなプロセスの反復となる。

つまり、他者はどこまでも理解されつつも、どこまでも異質でありつづける。他者はそのような二面性を持っており、そのような他者と行う二面的な営みこそが対話である。このような他者との対話の二面性を、円環モデルはうまく描写しているように思う。

(6時の転回とは意味論が尽きるところであり、他者を信頼して語り終え、言語を手放すことではないか。これはいわば語り手の側からの対話の描写である。12時の飛躍とは、他者の「ソクラテスは哲学者である」という言明に「現に」を付与し、単なる命題ではなくて現実の描写として受け止めることではないか。これはいわば聞き手の側からの対話の描写である。)

更に付け加えるなら、僕は円環モデルを、反復的な円環から開放的な螺旋に発展させた。このことは、他者との出会いは反復的で予定調和的なものには留まらず、どこまでも想定外で新しいということと対応している。

実は「対話」もそのようなものである。他者との対話は想定外だから面白い。対話とは理解と驚きの間を行き来するようなものとも言えるが、そのように反復的に捉えてしまうと対話の醍醐味を捉えきれない。ほんとうにうまくいったときの対話とは、一度限りでしかありえないほどの想定外の驚きが、なぜか理解されるという奇跡が、なぜか何度も訪れるというあり方をしている。対話とは、一度限りの奇跡が反復するという奇跡だ。この描写は入不二が行った未来についての描写と極めて似ている。また、対話は理解されたとたんに固定化して主張となる。これも未来が過去となるのと同じ構造のように思う。

4-5 倫理・破壊

ここまでの第4章において行ってきた僕の議論はとても生産的で、いわば倫理的なものだと思う。

なぜなら、僕が描いた上向きの螺旋とは、どこまでも肯定的であり、他者をも巻き込み、豊穣なものとして発展していくものだからだ。

ここから人生訓のようなものを引き出し、上向きの螺旋的な生き方を推奨することすらできるだろう。例えば、対話的な生き方が好ましい、というように。

この点に僕の議論の弱点があると思う。

僕がこの第4章で行っている議論は、色々なものを取り込もうとする議論だ。自然科学の成果や、日常生活や、ある種の道徳(他者を尊重すべきというような道徳)の正しさというような夾雑物をあえて取り込もうとしている。このような議論は、贅肉だらけの肉体のようで、どこか凡庸でつまらない。わくわくしない。

一方で、入不二は自然科学や日常生活や道徳などといったものには目もくれない。そんなことは無関係だ。勝手にやらせてくれ。それが彼の答えなのだ。だから入不二の議論は、決して人生訓的な読まれ方などはしない。

入不二の議論はどこまでも無内包を志向する。そこには潔さと言ってもいい独特の魅力がある。だから、なんて潔いことを、なんてねちっこく過剰に描いているのだろうと僕は感銘を受ける。

(僕と入不二の議論との間に横たわっている違いに注目しているのが飯盛だろう。ツイッターを眺めている限りで承知する限りではあるが、彼は「破壊」に着目しているようだ。彼のアイディアの具体的な内容は承知していないが、破壊とは、非生産的で、非倫理的で、肯定主義を否定し、円環「モデル」というような構造を無意味とし、日常を喪失させるものだろう。究極の破壊とは、決して、僕が考えている方向とは相容れるものではないものだろう。相容れないからこそ興味がある。

なお、入不二の議論のなかでは、未来の無関係性や、未生の無といった時間の議論のなかに、破壊性を見出すことができるように思う。)

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 3 距離1 反論・発展

3 距離1 反論・発展

第3章は、入不二の議論に正面から反論している部分となる。

なお、反論と言っても、入不二の議論を否定しているのではなく、あえて言えば、肯定主義的に、入不二の議論を、入不二が述べたよりも肯定することを目指しているつもりだ。

3-1 右回り・遡行と埋没と転回

入不二は、遡行という言葉を用いているとおり、円環モデルを右回りにも左回りにも自由に行き来できるものとして捉えている。(12時にはギャップはあるにしても。)一方で、僕は、円環モデルには右回りしかなく、左回りはないと主張したい。これは入不二を正面から否定する主張だろう。

その理由は、まず、左回りは不要だからだ。円環モデルの利点は、いつか戻ってくるというところにある。3時の地点から2時の地点を指し示したい場合、時計の針を戻さなくても、ぐるりと右回りをすれば、2時を指し示すことはできる。円環モデル上の議論に遡行は必要ない。

二つ目の理由は肯定主義的な見地からのものである。左回りの議論とは、既に行った議論のキャンセルという意味を含む。入不二自身が、大円環ではなく小円環についてではあるが「遡るためには、どうしても「否定」を経由せざるを得ない。」(p.20)としている。肯定主義の徹底の見地からは、このような否定を入り込ませない必要があるはずだ。肯定主義においては、遡行は避けるべきものである。

第三の理由として、左回りの議論の不可能性がある。右回りに行った円環モデルの議論を逆回転するということは、いわば、それまでの議論をなかったことにすることだ。左回りの議論とは議論を忘却することでしかない。忘却してしまったら議論を進めることはできない。(存在論的忘却の議論のある一面は、この忘却の不可能性を言っているのだと思う。)忘却でしかない遡行は不可能である。

では、入不二は遡行という表現を用いているが、そのような議論は不可能なのだろうか。

いや、そのような議論を可能にするためにこそ、入不二は円環モデルを導入したはずなのだ。円環モデルを使うことで、実際には左回りに遡行せずとも、右回りにぐるりと巡ることで、無理なく3時の地点から2時の地点に到達することができる。そのような遡行的な議論を可能としているという点に円環モデルのメリットがある。いわば、円環モデルとは、肯定主義と遡行的な議論を両立させるために必要な道具立てであるとも言える。

入不二が行っている遡行的な議論は、すべて、円環モデルを用いて遡行的に見える議論を行っているに過ぎないと考えればよい。そのように考えても、入不二の議論から失われるものは何もないはずだ。

入不二が遡行的に見いだしたもののなかでも特に重要であろう「大過去」について、入不二は「先行-遅れ」と表現している。(p.53)この表現こそが、円環モデルを用いた遡行の擬似性をより正確に表したものだと考えられる。

始発点※から始まる円環モデルの議論の順序では、潜在性の夜の領域に属する大過去は、昼の領域よりも後になって登場する。しかし、円環モデルを描ききったあとでは、大過去は始発点よりも「先行」し、始発点は大過去よりも「遅れ」ているものと見做される。入不二が「先行-遅れ」という表現に込めているのは、そのような意味であるように思われる。

(※入不二は円環モデルの始発点をとりあえずのものとするが、12時のギャップを踏まえるならば、始発点をここに置くのは必然であるとも言える。)

では具体的に、遡行的な議論はどのようにして成し遂げられるのか。

この本においては(充実した索引を活用すると)遡行という表現が何箇所かで登場する。「「現に」ソクラテスは哲学者である。」から「「∅」ソクラテスは哲学者である。」、さらに「ソクラテスは哲学者である。」への遡行(p.65)、第0次内包的なクオリアからマイナス内包的なクオリアへの遡行(p.274)というように。

これらは、遡行とは言っても、見かけ上の遡行であり、実際は否定を伴う遡行ではない。

ソクラテスの例を否定と解釈するならば、「現に」を否定することで「ソクラテスは哲学者である。」に至ることとなる。だが入不二の議論はそのようなものではない。いわば、「現に」という言葉などなくても地の文である「ソクラテスは哲学者である。」のなかに現実性が満ちているから「現に」という言葉が不要となるのだ。これは、「現に」ではない地の文が現実性をもって立ち上がり、現にという言葉が地の文に埋没してしまったと言ったほうがいいだろう。遡行においては否定ではなく埋没が生じているのだ。

第0次内包的なクオリアからマイナス内包的なクオリアへの遡行についても同様である。第0次内包的なクオリアは、因果的結合や文脈からは「自立」しているが、例えば「痛み」という「概念」からは自立していない。(p.257)この次元でのクオリアがソラリスの海に喩えられるような、何らかの感じはあったはずという仕方でのみ想定される(p.261)マイナス内包的なクオリアに移行することを、入不二は遡行とする。この移行は「痛み」という「概念」を否定し、除去することで達成されるものではなく、概念がソラリスの海に埋没する過程として捉えるべきであろう。

比喩的な述べ方になってしまうが、僕が虫歯になり、痛みとして表現するしかないような第0次内包を抱えているとする。だが当然、僕の心は、その痛みという第0次内包だけに覆われ尽くしている訳ではない。歯医者のホームページを見たり、お腹がすいたりしている。実際にそのような状況にはなくても、潜在的にはそのような可能性に満ちている。(安易に心や可能性という言葉を用いているという点で)非常に誤解を生みやすい比喩だとは思うけれど、このような話の方向の先にマイナス内包は想定されるように思う。マイナス内包を想定するときに行っていることは、第0次内包としての痛みの感覚を除去するのではなく、ホームページを見たり、お腹が空いたり、という潜在的な他のものごとで埋没させることなのではないだろうか。

もし、以上のように遡行を埋没と表現することが許されるなら、遡行と(円環モデルの)6時の転回とは重ね合わせることができるように思う。

さきほど「抜け道」について論じる際に、入不二の転回とは、諸可能性が無数に立ち上がり、完結「しない」という否定性を転回するものであり、無数の肯定項や肯定枠のひとつひとつを可能とする分割のなかに潜む「他では『ない』」という否定性を転回するものであるとした。

ここでの無数の諸可能性、肯定項や肯定枠の立ち上げとは、埋没に相当するものなのではないだろうか。無数のものごとが立ち上がり、飽和することにより、もともとあったものが埋没していくという構図である。

(これは、時制の塗りつぶし(p.138の図)とも重なる。)

つまり、遡行と表現されたものは、実は埋没であり、転回であり、円環モデルの昼の領域にあった時計の針を右に進め、議論が6時の地点に至ったことを示すものなのではないだろうか。

そのように捉えるならば、もうひとつ付け加えることがある。6時の転回において、僕はある種の視点移動が生じていると考えた。分割自体から分割を生じさせる土俵への視点移動であり、さきほどの危うい比喩を踏まえるならば、歯の痛みから心全体への視点移動でもある。

視点移動というと、どうしても能動的で作為的なものを感じる。視点移動しないこともできるけれど、あえて視点移動することを選択するというような。だが、ここでの視点移動はそうするしかないものだろう。なぜなら、すでにもともと視点が置かれていた場所は、議論が飽和していくにつれ、無数の分割やマイナス内包や「ソクラテスは哲学者である」という地の文で埋め尽くされてしまい、そこに視点を置く余地がなくなっているからだ。転回における視点移動とは、視点をあえて移動するものではなく、充満し、埋没させる何かにより追い出されてしまうだけなのではないか。ピンポン玉が入ったコップに水を注ぐ場面を想像するといいかもしれない。ピンポン玉という視点は、コップの中から外へと移動する。

このようにして、6時の転回は作為などなくとも円滑に成し遂げられる。

このようなものとして描写できる6時の転回こそが、埋没であり、充満であり、(みせかけの)遡行であると、僕は考える。

3-2 意味論・認識論/6時・12時 

次に僕が問題としたいのは、入不二の第2章の円環モデルの6時の転回において、入不二は何を成し遂げたのか、である。既に僕は、円環モデルはいくつも描くことができるという指摘をした。そうだとするならば、いくつもの転回があるということになる。この本においても、複数の円環モデルと複数の転回を見出すことができる。入不二が第1章で示した円環モデルはそのなかでも特に重要なものであることは疑いないけれど、では、これは何であり、何ではないのかということを、転換点に着目することで捉え直してみたい。

結論から述べると、入不二の円環モデルとは、意味論と認識論の円環であり、6時の転回とは、意味論優位から認識論優位への転回である、と僕は考えている。

一方で入不二は、この転回を、意味論・認識論から存在論への転回として捉えているように思える。そのことは、第0次内包からマイナス内包への移行(逆転)のことを「意味論(認識論)と存在論(時間論)のあいだでの、両水準どうしの優位性の転換である。」(p.260)と描写していることにも現れている。(先ほど論じたとおり、僕は第0次内包からマイナス内包への移行と6時の転回とは同じものだと考えている。)

だが、入不二がp.260で行っている議論において、認識論を意味論と同列に扱う論拠は弱いように思える。そこに至る議論は、あくまで痛みや色の「概念」を巡るものであり、言語的で意味論的な側面が強い。唯一認識が表面化するのは、言語習得の場面(p.256)だが、言語習得時の子どもの認識と、言語習得後の大人の認識とを直接比較することはできない。「「逆転」は、「概念」の固定という蝶番があってこそ成り立つ」(p.259)とするとおり、ここで描いているような認識は「概念」つまり意味論に回収されてしまう。(※)

一方で、入不二が6時の転回で消去しようとしたのは意味論だという証拠はいくつもある。そもそも第1章での転回の説明自体が極めて意味論的だ。他にも、僕が気に入っている例としては、転回後の潜在性の領域において行われていることを「解像度(特定性の度合い)を下げる」(p.282)と表現している箇所がある。入不二は多分、この言葉にマーク・ロスコの絵を重ね合わせるだろう。僕ならば、ハイファイ・ローファイという音楽用語を当てはめたい。絵にせよ音楽にせよ、解像度が低いほうが認識として劣るなどということはない。むしろ込められた意味が削ぎ落とされた分、認識そのものが迫ってくる感じさえある。入不二の転回とは、このような状況を示しているのではないだろうか。

(ほかにも、痺れる表現として、次のようなものもある。「相関概念(対概念)の「外」こそが、むしろ現実の端的さの「内」であって、相関概念(対概念)の「内」こそが、むしろ現実の端的さの「外」なのである。そのように反転することによって、「言えない」ことはアポリアではなくて、むしろ「好ましい」ことへと反転する。」(p.212)これは意味論的な6時の転回についての詩的な描写だと思う。)

以上を踏まえると、入不二が6時の転回点で振り切ったのは意味論であり、認識論は潜在性の領域でも生きていると僕は考える。

また、このように考えることは、マイナス内包についての入不二の「不明瞭な「何らかの感じ」」(p.261)という描写にも合致するように思う。マイナス内包とは、意味論に頼らず、認識論のみにより捉えられた内包のことであり、また、意味論に対する認識論優位の描写こそが潜在性の正体なのではないだろうか。

以上はマイナス内包や潜在性の力を弱めすぎた描写のように思われるかもしれない。だが、僕は、6時の転回により意味論を振り切ったという入不二の偉業を強調したいのだ。入不二がここで行ったことは従来の言語の圏域からの離脱だ。転回以降を語る入不二の言葉は全く新しいものである。それを僕は非言語的言語と名付けた。(述べたとおり、この非言語的言語は肯定主義が駆動するものだ。)

非言語的言語も言語ではあるから、言語として扱い、議論を深めていくことが可能だ。議論を深めるうちに、潜在性の領域は深まり、ついには存在論的忘却(p.320)にまで至る。存在論的忘却について「自らの概念枠の縮退・縮小そして消失がありうることを示す。」(p.321)とするとおり、この議論は、言語つまり意味論の限界ぎりぎりのところにあるものだ。存在論的忘却の議論は、ついに入不二の非言語的言語さえも尽きるところまで進んだ地点に到達したことを示している。

そこは、「忘却」という言葉が象徴するとおり、認識論さえも尽きる地点である。忘却の忘却としての存在論的忘却の地点では、何かを認識していたということは語ることができないだけでなく、そのような認識さえもない。つまり、6時の転回では生き残っていた認識も、潜在性の領域のどこかでは、議論の深まりの果てにとどめを刺される時がくる。

それが12時の地点だと考えている。

潜在性の領域における議論の最終盤において、認識論は、入不二が発明した非言語的言語とともに終焉を迎える。

僕は、入不二が潜在性の議論を通じて意味論と認識論に対する現実性の優位を描いたということには反対しない。ただし、その業績を円環モデルのどの地点に位置づけるかに異論があるのだ。入不二の潜在性の議論とは、まずは意味論を葬り、そして認識論を葬るというプロセスを指しているのだと僕は考えている。

なお、僕は、入不二の議論のなかで重要な役割を果たしている、マイナス内包や潜在性という道具立てについて、その役割を縮小すべきと主張していることになるが、それは、入不二の議論を否定するものではない。あえて言うならば、入不二の議論のうち、特に円環モデルの12時のあたりをより円滑に動かすための改善であると考えている。このことは後述したい。

(潜在性の領域を認識論優位の領域と捉えることで、入不二の「動物」という用語も別の意味をもってくるように思う。なぜなら、動物を、言葉を持たない認識だけの存在と捉えることもできるからだ。また人間の側からしても、動物(特に猛獣)とは、もし出会ったなら、本能的に、つまり言語以前の認識として恐怖を感じる存在であるからだ。動物という言葉は、そのような認識優位の状況をうまく捉えていると思う。それならば、潜在性の領域の議論とは、第二次動物から第一次動物に至り、ついには動物という認識の枠組みも失い、破壊的な黙らせる力そのものへと至るものだと解釈することもできるだろう。動物とは不徹底な神である。)

(※言語習得については、言語習得以前のクオリア逆転の「時間論的な(あるいは存在論的な)」(p.258)可能性についても言及しているが、この議論でも認識論を無力化するには不十分のように思える。なぜなら、言語習得前後の断絶とは、入不二の議論によるなら、未生の無・無でさえない未来・大過去とも表現できるような強度を高めた断絶でなければならないはずだからだ。この断絶は、時間論的には乗り越えられても、(現実論から切り離されたものとしての)存在論的に乗り越えることはできない。つまり、意味論・認識論・存在論はともに言語習得の断絶には無力である。または、存在論的な乗り越えが可能な程度に断絶を弱めてしまえば、意味論はともかく、認識論が乗り越えられないとする論拠は失われてしまう。)

3-3 潰れ・転回

入不二は「始発点が必然でも偶然でもあるという事態(様相の乱れ)」(p.164)とし、様相の潰れは始発点で起きるとする。次のような表現もある。

円環モデルの「始発点」は、・・・そこから様相が開けていくような原点であった。様相の開けの原点だからこそ、その後に分化する様相(可能・不可能・必然・偶然)の全てが、一点集約的に潰れている。(p.384)

つまり入不二によれば、様相の潰れとは、様相の開けと等しく12時の出来事なのである。(正確には様相の潰れは12時の出来事で、様相の開けとは0時の出来事であり、その間にあるギャップこそが重要ということになるのだろう。)

だが、正確には様相の潰れとは、円環モデルの左半分を占める潜在性の領域全体を通じて進行するプロセスだと考えるべきだろう。これを示しているのがp.44の図だ。

僕が指摘したいのは、入不二は様相の潰れのプロセスのうちの特に前半を強調しているにも関わらず、様相の潰れを円環モデルのなかの最終盤に位置づけているというずれが招く問題だ。このずれは誤解を招くのではないか。

入不二が自然数・実数や、通常の色・(潜在無限色としての)黒という例を用いて説明する様相の潰れとは、入不二自身がアナロジーと呼ぶように、様相の潰れの議論の入り口に過ぎない。様相の潰れが潜在性の領域を通じて進行するものと考えるなら、この本を通じて入不二が行っている潜在性やマイナス内包といった議論も含めて様相の潰れについての議論であると捉えるべきだろう。だがそれらは、通常の意味での、可能・不可能・必然・偶然といった様相とは程遠い議論だ。様相の潰れと呼ぶよりは、超・様相の潰れとでもしたほうがいいかもしれない。

超・様相の潰れも含めた広義の様相の潰れについてならば、様相の潰れを12時の出来事(でもある)とすることは誤りではない。だが、もともとの様相の潰れという用語の妙味は、様相が潰れ始める、その瞬間を捉えたことにあったはずだ。様相の潰れで強調すべきは、潜在性の領域の始まり、つまり、転回点にこそある。

これは、様相の潰れを説明するうえで導入した実数や黒の分割やドメインの無さの話が、入不二が第1章で行った転回の説明にきれいに重なることからも明らかだろう。

円環モデルの昼の領域では、通常の言語による様相システムの構築が進行していく。しかし可能性が豊穣化し、様相システムをどんなに精緻にしても、そこに欠落があること(つまり現実性を位置づけることができないこと)が明らかになる。この飽和し、立ち行かなくなる地点が転回点であり、様相の潰れの始まりだ。これは肯定項(肯定枠)をいくら列挙し、または分割しても欠落がある(つまり現実性を捉えきれない)という第1章の転回の描写と重なる。そこから、いわば作戦を変えて肯定主義を貫徹しようとするのが潜在性の議論であるとも言える。

なぜ、このように様相の潰れの位置づけについてこだわるのかと言えば、様相の潰れ(の始まり)と転回が重なることを強調することを通じて語るべきことがあると思うからだ。

以上のような議論を通じて重なるものとして位置づけられた転回と様相の潰れ(の始まり)は、波及と還流の構図(p.234)において重要な位置づけを占めている。転回・様相の潰れは、波及と還流の構図における「○」「この世界」を表している。

波及と還流の構図においては、原点(始発点)としての「●」がひとつしかないように、「○」もひとつしかない。転回・様相の潰れとは、(始発点とは異なる)もうひとつの特異点なのだ。

この特異点の重要さを表すために、これまでの議論を思い出していただきたい。僕は、さきほど、円環モデルは複数描くことができ、それらを重ね合わせるかたちで波及と還流の図を描くことができるとした。

もし、この主張が認められるなら、あらゆる円環モデルの転回点は潰れというかたちで「○」この世界として重ね合わせることができる。

入不二の議論においては、様相の潰れ以外にも、人称の潰れ、時制の潰れとでも言うべき事態が生じているが、それらは全て、円環モデルの転回点として描くことができるのではないか。そしてそれらは全て、波及と還流の図式の、「○」「この世界」として重ね合わせることができるのではないか。きちんと考えきれていないが、僕はそのような予想をしている。

(個人的なアイディアのメモに過ぎないが、入不二が緊張関係、中間とするものはすべて、「○」「この世界」として重ね合わせることができるのではないだろうか。)

3-4 脱内包・マイナス内包

ここまでは潜在性の領域を弱める方向の議論をしてきたが、逆に潜在性の領域を強める議論をしていきたい。

入不二によれば、次のとおり、脱内包は始発点に位置づけられている。

円環モデルの左半円上部から始発点への-ジャンプ(飛躍)の内には、・・・マイナス内包(潜在性の場)から脱内包の「このもの」「このこと」への移行が含まれている。(p.297)

僕はこれに反して、脱内包はマイナス内包と並ぶものとして潜在性の領域に位置づけるべきという主張をしたい。潜在性の領域とは、マイナス内包と脱内包が絡み合うような豊穣な場なのではないだろうか。

これまで僕は、円環モデルは複数描くことができ、それを重ね合わせることで波及と還流の構図につながるとしてきた。

そのうちの入不二が第1章で提示した円環モデルについては、主に意味論と認識論の絡み合いを描いたものだと考えることができるとした。顕在性の領域において増殖していった言語(意味論)がついに飽和し、転回点においてそれを乗り越えることにより、潜在性の領域において「不明瞭な「何らかの感じ」」という認識論的なマイナス内包に至る、というかたちで。

注意すべきは、この円環には存在論がほとんど登場しないということだ。入不二によれば存在論は現実論的な色彩を持っているが、そのように解釈したとしても、現実論(存在論)は円環モデルに垂直に差し込む光(矢印)や円環を駆動する力として、いわば裏方的に登場するのみである。あえて言えば、始発点においては、意味論や認識論から離れた無内包の現実が存在論的に登場している、とも言えるが。

僕の解釈によれば、存在論は、現実論からきれいに切り分けて、自然科学に代表されるような二項関係として扱うべきと考えている。このように解釈された存在論についても、入不二の円環モデルには、やはり裏方的にしか登場しない。意味論の前提となる複数性を供給し、主体・客体という認識論を成立する枠組みを提供するものとして。

そのような意味で、入不二の円環は、意味論と認識論の円環モデルなのだ。そこではほとんど存在論が前面に出てこない。

では、存在論が前面化した円環モデルとはどのようなものだろうか。

それは、始発点から、概念の方向ではなく人称の方向に進むのではないだろうか。とにかくこれは〈私〉である、というように。その後は、永井の議論のとおり、《私》が登場し、いわゆる「私」に進んでいく。ついには、いくら「私」を増殖させても、欠落を埋められないことに気づく。これが人称の潰れだ。ここから転回が始まり、潜在性の領域における、すべてが私である、という独我論につながっていく。

この存在論優位の円環モデルの潜在性の領域に立ち現れるものとはどのようなものだろうか。それは「私の世界」と名付けられるようなものだろう。独我論的には、その世界がどのようなものであっても、それは私の世界であることに変わりはない。その限りで、その世界がどのような内包を有するかは関係がない。具体的な内包はなくてもよい。ただし、それを世界と呼ぶことができる程度には何らかの内包が潜在的にでもあるべきではあろう。このように描写されるものは、「私の世界」というラベルはついていても、ほとんど入不二のマイナス内包と変わりがない。

なお、入不二のマイナス内包も全くラベルから無縁ではいられない。なぜなら、それは「感じ」ではあるからだ。入不二のマイナス内包には「感じ」というラベルがついている。

潜在性の領域は、そこに至る転回をどのように成し遂げたかという痕跡からは無縁でいられないのだろう。僕の円環モデルであれば、それは「私・世界」という存在論(人称)の痕跡であり、入不二の円環モデルであれば、それは「感じ」という認識論の痕跡である。その痕跡をも消し去り、12時に至ろうとするのが、潜在性の領域でなされることである。

つまり、ここには少なくとも二つの円環モデルがあり、一方の円環では潜在性の領域に「私・世界」のマイナス内包が潜み、もう一方の円環では潜在性の領域に「感じ」のマイナス内包が蠢いている。このうちの前者を脱内包と呼び、後者をマイナス内包と呼ぶことができることは明らかだろう。(入不二が、脱内包とは「無内包の現実性が、私・もの・世界・今などの、最小限の(形式的な)内包と共に働いている水準」(p.284)としているのはこのことなのではないか。)

いや、円環モデルは模式図に過ぎないから、波及・還流の構図として重ね書きすべきだろう。そこでは二つの円環が相互に作用している。波及の際には顕在性の領域で人称と意味が絡み合い、還流の際には潜在性の領域で、「私・世界」のマイナス内包(脱内包)と「感じ」のマイナス内包が絡み合っている。そこでは新たな円環(小円環)を生み出してさえいるだろう。

潜在性の領域に着目するならば、その新たな(小)円環とは、例えば次のように描くことができるだろう。一方では、マイナス内包であるからには誰のものであっても何らかの感覚を伴わざるを得ない、と「感じ」マイナス内包(マイナス内包)の優位性を強調し、もう一方では、どのような感じであれ、それは私の世界の内包である、として「私・世界」のマイナス内包(脱内包)の優位性を強調する、というような相互関係的な図式として。

このようにして、脱内包はマイナス内包の一種として、円環モデルの潜在性の領域で他のマイナス内包と絡み合う。

3-5 マイナス内包・無内包

マイナス内包について、脱内包を取り込むことで、いわば強化したが、再び、マイナス内包を弱める必要がある。なお、僕はこの節こそが、この文章のいわばクライマックスだと考えている。

入不二は、マイナス内包について、「ソラリスの海的な実体」(p.37)としての産出力を見出している。

マイナス内包の産出力から、生まれるはずのない何かが生まれることが12時のギャップの不可能さであり、現に生まれた後の0時の始発点から(みせかけの)遡行をすると、それは、あたかもマイナス内包から無内包の現実が生まれたものとされる。そこには不可能を可能とする謎がある。

僕もこの主張の半分、つまり不可能性については同意する。マイナス内包から無内包は生まれない。それがあたかも可能であったように見えるのは、マイナス内包と始発点との間にあるべき重大な局面についての描写が抜けている(抜けざるを得ない)ために、そのように見えるだけなのではないか。

さきほど僕は、潜在性の領域の議論は、マイナス内包と脱内包が絡み合うように進行していくとした。潜在性の領域は通常の言語が通用しない領域だから、議論を深めるためには別の手がかりが必要だ。

入不二の円環モデルによるならば「何らかの感じ」とされたマイナス内包は、「何らかの感じ」ですらないマイナス内包へと深まっていかなければならないはずだ。その際に用いるのは、いずれにせよ「私の世界」のものではある、という手がかりだろう。その手がかりによりマイナス内包をマイナス内包として把握し続けることにより、「何らかの感じ」ですらないマイナス内包へと深めることができる。

一方で、僕が先ほど挙げた人称の円環モデルにおいても、「私の世界」のものとされたマイナス内包は、誰のものでもないマイナス内包へと深まっていかなければならない。その際に用いるのは、いずれにせよ「何らかの感じ」ではある、という手がかりだろう。その手がかりによりマイナス内包をマイナス内包として把握し続けることにより、誰のものでもないマイナス内包へと深めることができる。

この二つの道筋を合わせた先には、誰のものでもなく「何らかの感じ」ですらないマイナス内包というものが出現するはずだ。これこそが真のマイナス内包であり、潜在性の議論の終着地点だ。

しかし、これは、既にマイナス内包ではないだろう。もし、これがマイナス内包だと思う方がいるならば、それは「感じ」や「私の世界」とは別の何らかの手がかりを使っているだけに過ぎないはずだ。(他の手がかりとしては、例えば、「いずれにせよこの概念体系に属している」という意味論的マイナス内包が考えられる。)もし、そのような手がかりを全て捨て去ってしまったら、それは、少なくとも、ソラリスの海に喩えられるようなマイナス内包とは異なるものになっているに違いない。12時に至る頃にはマイナス内包はマイナス内包とは呼べないものになっているのだ。

もしかしたら、以上のような迂遠な説明より、イメージに訴えた説明のほうがよいのかもしれない。(また、これなら脱内包についての僕の議論を否定されても通用するかもしれない。)

マイナス内包とはソラリスの海のようなものだとしよう。その場合、産出力とは、海の波のようなものだろう。なぜなら、何かが生まれるためにはきっかけが必要だからだ。ソラリスの海のうち、ある特別の部分だけが産出を行うことができるとするならば、その部分は他の部分とは異なっていなければならない。そのような不均一さがソラリスの海には必要だ。

しかし、潜在性の領域の議論とは、分割をベタに塗りつぶしていくようなものであり、いわば、ソラリスの海をひたすら均一に均していくような作業である。それならば、ソラリスの海が最も不均一で産出力があるのは転回直後の7時の時点であり、そこから進むにつれ、産出の機会は失われていくはずだ。

このような理解と、潜在性が進行した果てにこそ、12時の飛躍(産出)があるという図式とは整合しないのではないか。

ソラリスの海から何かが産出するという描写は、何かを見落としている。

(この本の第3章の議論によるならば、産出力を見出すという点でマイナス内包の祈りは徹底していない。真に現実性という神にアクセスするためには、生まれうるという期待も手放した無力さが必要であるはずだ。なぜなら12時のギャップは決して潜在性の側から乗り越えることはできないのだから。それは純粋な祈りであり、受容である。)

僕の考えを述べよう。マイナス内包はたしかに産出力を有している。しかし、マイナス内包のある一部が何かを産出するのではない。マイナス内包は、「感じ」や「私の世界」と名付けられないほどに均一化した果てに、マイナス内包全体として何かを産出するのだ。だがこれは、産出ではなく変化と言うべき事態だ。円環モデルに沿うならば、それまでマイナス内包であったもの全体が、一挙に、始発点の「何かが起こった」となるのだと表現すべきだろう。

この、完全に均一化し、いわば内包を失い、産出力そのものとなったときのマイナス内包とは、マイナス内包と呼ぶことは不適切だ。これは、無内包の産出力とでも呼ぶべきだろう。当然これは、現実の力そのものの別名である。

つまり12時までのマイナス内包の潜在性の領域と、0時の始発点との間には、無内包の現実が、力そのものとして発露する瞬間がある。円環モデルに垂直に差し込む光(矢印)として描かれる現実の力が、力そのものとして発露するということこそが、円環モデルにおける日の出の奇跡なのではないか。僕はこの構図こそが真に入不二が描こうとしたものだと考えている。

(僕は、このことを描きたくて、これまで、様相の潰れの位置を転回点にずらしたり、潜在性の領域に認識論を残存させたり、といった微修正を入不二の議論に加えてきたのだ。)

3-6 円環・螺旋

ここまでの議論を通じて、僕は、入不二が見出した12時のギャップは、縦向きの現実性の力により埋められる、と主張するに至った。

では、平面で描かれる円環モデルのどこに、縦向きの力により埋められる余地があるのだろう。僕は、ここに円環モデルの限界があると考えている。

現実性の力を円環モデルの下から上に向かう力だとするならば、円環モデルは正確には平面的な円環ではなくて、始発点から、徐々に下に下っていくような下向きの円を描いているのではないか。

(円環モデルにおいて、入不二は上から下への矢印を描いている(p.40など)。しかし僕は、現実の力を円環モデルの下から上へ向かう力として描きたい。このほうが現実性を表出する力、という感じが表現できるように思うからだ。)

(ここからはイメージに依拠した説明しかできないことをご容赦いただきたい。)

なぜ下向きなのかというと、現実の力が足りないからだ。現実性の力は円環モデルに遍在しており、円環モデルは現実性の力に支えられてはいるが、直接的な現実性の力の発露ではない。縦向きであったはずの力は横向きの円環を経巡る力に変換されてしまう。そこにロスがあり、円環を経巡るにつれ、現実性の力は弱まってしまうのではないか。

その証拠は随所に見出すことができる。例えば、「P=P」の同一律について、「Pの反復の内に、「P」それ自体からのズレ・・・最小の否定性・・・を読み取ることができる。」(p.40)とする。このズレこそが、現実性の喪失を示しているものではないだろうか。

このようにして、円環モデル上での議論は、現実性の力をいわば燃料として消費することにより駆動されていくのだ。

こうして下降を続けつつ12時の地点に戻ってきたときには、もともとの0時の地点と縦のギャップが生じていることになる。

これが、円環モデルのギャップであり、このギャップを埋めて、元の高さを回復し、円環として回転を継続することを可能にするのが、12時の地点でようやく直接的に発露される現実性の力なのではないか。

円環モデルとは平面的に描かれるものではなく、下向きの円であり、ギャップとは平面上の切れ目ではなく、垂直方向のずれのことなのではないか。それを埋め、なにもなかったように円環とするのが縦向きの現実の力そのものであるということになる。

(もし、現実の力を取り入れないならば、円環は下向きに広がる螺旋として描かれることになるだろう。)

しかし、ここで僕は疑問に思う。現実性の力が、ちょうどギャップを埋めるように働く必要があるのだろうか、と。ちょうどを狙うというのは現実性の力が手加減をしているだけなのではないか。さらに現実性の力を解放するならば、現実性の力は上向きに突き抜けてもいいのではないか。

このようにして描くことができる図形は、先ほど描いた下向きの円環(螺旋)とは逆に、上向きの螺旋形に近いものとなるはずだ。

(ここでは、12時のギャップという一点で現実性の力を強める方向で考えたので歪な螺旋となってしまったが、後述するように、p.22の螺旋モデルを上下反転したような、スムーズに上に向かう螺旋を描くような議論も可能だと思う。)

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 2 距離0.5 追加・提案

2 距離0.5 追加・提案

ここからの考察は入不二の主張から徐々に離れていくことになるが、この章は、入不二の議論から半歩だけずれたものとなる。

つまり、入不二が読んだなら理解が得られるかもしれないし、そうではないかもしれないし、本を既に読んだ方なら違和感が生じるかもしれないし、納得するかもしれない。独自の考察ではあるけど感想とも言えなくもない。そんな主張が集められている。

2-1 祈り・受容

僕がまず取り上げたいのは第3章の議論だ。

ここでの進め方はとても美しいと思う。選択・賭け・神頼みを対比し緻密に議論する地点から、一気に祈りにまでせり上がるところでは、ある種のカタルシスのようなものを感じた。

言うまでもなく、ここでの祈りとは、現実性というものと強く関連している。「そもそも始めからそういう現実であるように」(p.115)という祈りの描写は、入不二が見出した現実を実感的な道筋から最もわかりやすく示してしているものだと思う。

ここで終わるのが話としては美しいのだけど、正確を期するならば、蛇足であっても付け加えるべき話があるように思う。これが僕の進めたい半歩だ。

第2章の議論によれば「現にソクラテスは哲学者である」は「∅ソクラテスは哲学者である」となり、ついには「ソクラテスは哲学者である」に徹底される。(p.65)この図式は現実性というものの無色透明さをうまく表現している。

この図式に対比するならば、「祈り」には「現に」や「∅」に相当する不徹底さが残っている。祈りを徹底するならば、祈りすらも捨て去らなければならないのではないか。

では、「現に」という表記を捨て去り「ソクラテスは哲学者である」に徹底されるのと同様に、祈りが祈りを捨て去るとどこに至るのだろうか。

入不二は、祈りの無色透明さを無態とも表現しているが、そのようにして至る完全な無態とはどのように表現すべきだろうか。

僕はそこで「受容」という言葉を思い浮かべた。何が起こったとしても、それは現に起こったことであり受け入れるしかない。いや受け入れると表現すると、そこに受け入れるかどうかという選択肢があるように感じられるので適切ではない。ただ、そのようにして過ごすと言ったほうがいいかもしれない。そのようなものとしての「受容」とは「あるようにあり、なるようになる」であり、「現に」や「∅」を除去した「ソクラテスは哲学者である」が通常の表現と全く違いがないのと同じように、誰もが送っている日常のことなのではないだろうか。

(その道筋で考えるならば、入不二は祈りを「無態」とするが、祈りは「能動と受動の高次の折り畳み」(p.117)としての中動態としたほうが、無態と中動態の違いが際立つように思う。そのほうが、受容と祈り、無態と中動態、無内包とマイナス内包という串刺しの対比ができるように思える。)

同じことを別の道筋で表現するならば、祈りは「全くの無力」(p.121)であることが求められるが、無力であることを自覚するだけでは無力さが足りないとも言える。

なぜなら、自覚するという力を手元に残しているからだ。無力さを徹底するためには、無力の自覚さえ手放し、すべてを忘却しなければならない。正確には、三重否定の「未生の無」(p.359)にまで至らなければならない。ここにも、自己や神といったシステムを完全に消去し、完全なる受容に至る道筋が示されているように思う。

ここまで、この半歩を自分の手柄のように述べたが、入不二は同じことを既に述べていると解釈することもできる。この本での入不二の言葉を都合よく切り取るならば、次のようにも読める。

「祈り」が「思い」として出現するかしないかは、「祈り」にとってあまり重要なことではない。・・・「純粋な祈り」は、・・・消え去るからこそ・・・現実世界にぴったりと重なっているからである。

いわば、「現に~である」こと自体が、神と祈りの一致なのである。

(pp.123-124)

純粋な祈りとして拡張された祈りは、ただ受容することと等しい。僕たちは、祈っているという自覚などなくても、日々、祈りながら、現実を受容し、現実という神とともに日常を送っているとも言えるだろう。

なお、ここでの「祈り」をはじめとして、この本では、語ることができないことをぎりぎりのところで語ろうとする言葉がいくつも登場する。そもそもタイトルにもなっている「現実性」や「現に」という言葉こそが、そのような言葉の代表例と言ってもいい。語ることのできない純粋な祈りや現実性と、語ることができるいわゆる祈りや現実性という二つの意味をひとつに込めることで、ぎりぎりを語ろうとする。

そのようにして描く図式のことを、前著「あるようにあり、なるようになる」では中間や(二つの焦点があるという意味で)楕円的と呼び、この本では(二者間での)緊張関係という用語を用いている。

(緊張関係という語が登場するお気に入りの例としては、「現実性という神は、どの局面で特異的に出会われるとしても、必ず二重性(矛盾的な緊張関係)を帯びて現れる。」(p.386)がある。)

入不二の本を読むうえでは、このような特別な言葉に込められている二重の意味に注意するといいと思う。

緊張関係という言葉はこの本の雰囲気をよく表しているように思う。どちらかというと、入不二はこれまでの著作(例えば、「あるようにあり、なるようになる」)では議論がせり上がる過程に重点を置くことが多かったように思える。だが、この本には、これでもか、というほどに議論のせり上がった先を捉えきろうとする執拗さが充満している。そのぎりぎりの執拗さと緊張関係という言葉はうまく合致しているように思うのだ。

(この点で、「あるなる」とこの本を比較すると面白い。前者は、自己抑制的に、いわば緊張的な筆致で運命論に絞って描写することを通じて、最終章のサーフィンにつながるような自由を描いていた。後者は、いわば好き勝手に自由に主題を行き来しながら、円環モデルやn位一体と表現されるような緊張的な構造を描いている。ここには自由と緊張の交差関係を見いだせるように思う。)

2-2 顕在・潜在

入不二は第2章において現実性と潜在性を対比して論じている。その主張をうまくあらわしている比喩がメビウスの輪だ。このメビウスの輪は片面に現実性、もう片面に潜在性が割り振られている。(p.79)

先ほども取り上げたソクラテスの比喩のとおり、現実性は、現前・顕在と言い換えてもいい認識論的な水準から、「現に」という副詞的な現実性、更には「∅」の先にある無色透明な現実性へと深まっていく。

一方で、潜在性も、自動車免許を持っている人が(車を運転していないときでも)有する車を運転する能力のようなものから、その能力を可能とするような(視力や筋力や判断力を持つことを可能とするような)遺伝子配列、更には、それらを下支えするような潜在的な力そのものへと深まっていく。

この描写自体は完全に正しいと考えるが、用語の使い方が誤解を招くおそれがあるように思う。

入不二は、慎重に、顕在という語を肯定的に用いることを避ける。なぜなら、この本を誤解なく理解するために重要なポイントのひとつは「現実と顕在は違う」ということだからだ。入不二は、図式的に「現実=顕在+潜在」と考えることはミスリーディングだとも言っている。(p.193)

だが、顕在という語を避けることで、現実性という言葉を、顕在的に現れている現実としての現実性1と、顕在性とは関係ないものとしての現実性2という2通りの語で用いざるを得ない状況となっている。このふたつは全く違うものであるにも関わらず、同じ語が割り振られている。

なお、一方で潜在性という用語についても、潜在性1、潜在性2という表現は使われているが、それらは深度の違いはあっても、連続的であり、対立するものではない。

現実性と潜在性という用語には、このような非対称性が生じている。

現実性と潜在性を理解するうえでは、両者の対称性と非対称性の両方に着目することが重要だ。

第2章が「現実性と潜在性」と対比的に名付けられているとおり、両者には対称性がある。第2章の議論は、対等な二者が撚り合わされるようにして、力の中立的一元論に進んでいく過程と読むこともできるだろう。そのような議論のうえでは現実と潜在という対比はわかりやすい。

一方で、そうして進んでいく先に見いだされる「力の中立的一元論」とは「現実」の力の一元論だ。ここでの「潜在」は「潜在的な現実」というかたちで現実を修飾する言葉でしかなくなる。ここには現実と潜在の非対称性を読み込むべきだろう。

つまり、両者の対称性と非対称性のどちらを強調するかは、議論の場面によって使い分けるべきである。その意味ではこの本での「現実」という語の用い方に大きな誤りはない。だが、現実という用語を幅広く使うことによって誤解を招く記述が生じているように思える。

例えば、p.80の「純粋現実性-可能性-最深潜在性」という図式で示される純粋現実性とは、入不二のこの本全体の議論に沿うならば、純粋の名には値しないはずだ。最深潜在性に並ぶ限りでの現実性とは、円環モデルのなかを巡る力に過ぎない。あえて言えば、ここでの純粋現実性とは、顕在性を残した限りでの純粋現実性とも言える。真の純粋現実性の名に値するのは、円環モデルに差し込む光(矢印)として描かれる力そのものであるはずだ。真の純粋現実性とは最深潜在性をも現実のものとする力であると言ってもいい。

これは、現実性を描写するうえで顕在という語を避けるあまり、重要な局面において、逆に現実性に顕在性が混入してしまった具体例ではないだろうか。

第2章を読んでいて僕が感じた入不二への疑問を比喩的に述べるなら以下のようになる。

片面に現実性と書かれ、もう片面に潜在性と書かれたメビウスの輪は何でできているのだろうか。

または、メビウスの輪とは円環モデルの変形バージョンだとするならば、メビウスの輪のどこに、円環モデルに向かう縦の矢印が描かれるのだろうか。

その後の議論を踏まえるならば、メビウスの輪は現実性という素材でできていて、メビウスの輪を成立させるものこそが力としての(純粋)現実性であるいうことになるのだろう。つまり、メビウスの輪の図においては、少なくとも、片面を示すものとしての現実性、メビウスの輪の素材としての現実性、メビウスの輪を成立させる力としての現実性、という三種類の現実性が見いだされることになる。

これはこれで現実性の遍在性を示す比喩として使えそうだが、潜在性と対比する限りでの、メビウスの輪の片面としての現実性を描写しにくくなってしまうように思う。

誤解を招かないように、顕在という語をもう少し肯定的に用いて、潜在性と対等なものとしての現実性について顕在性という名前を与えてもいいのではないだろうか。

もしそのような使い分けが許され、顕在性という語を導入するならば、現在性のメビウスの輪は、片面に顕在性と書かれ、もう片面に潜在性と書かれているとも喩えることができるだろう。または、円環モデルなら、昼は顕在性の領域で夜は潜在性の領域である、と表現できる。顕在と潜在の対立を深める先に現実が見えてくることとなる。

ただし、このような用語の使い方をすると、入不二の美しい言葉が台無しになってしまうという欠点はあるだろう。

「現実性はどこまでも潜在的であり、潜在性はどこまでも現実的である。」(p.83)という詩的な言葉は次のように書き換えられることになってしまう。

「顕在性を潜在的に成立させるものこそが(純粋)現実性であり、潜在性を顕在的に成立させるものこそが(純粋)現実性である。」

これは、わかりやすくはあるが、美しくないし、現実性というものが持つ、円環モデルとして表現されるような滑らかさを正確に表現できていないようにも感じられる。その点では、僕の主張は、あくまで入不二哲学を理解するうえでの補助線としての提案にとどめたほうがいいのかもしれない。(僕自身は、この文章では、円環モデルの昼の領域を顕在性の領域と言い換えることにする。)

なお、このような主張をする理由のひとつは、入不二の議論(特に第2章)の行間に垣間見える、力とマテリアルの二元論的な描写に反論したいからでもある。

僕は、最深潜在性についてマテリアル的な描写をすることは否定しないが、潜在性の描写をそこで終えるのは不徹底だと思う。最深潜在性は純粋現実性に回収され、マテリアルは力として捉え直さなければならない。そのようにして、徹底した力の一元論を描くべきだと僕は思う。

このことについては、入不二の(少なくとも第2章での)主張から半歩以上離れることになるので、後ほど論じたい。

(僕自身は、そのような主張を入不二自身が第9章あたりで行っていると解釈している。だが、もしかしたら、この文章の後半で論じる予定である、マイナス内包(潜在性)の位置づけの僕と入不二の違いが原因なのかもしれない。その場合、ここで論じたことは半歩ではなくて、一歩ずれてしまっていることになる。)

2-3 存在論・現実論

入不二は、存在論、認識論、意味論を可変的じゃんけん関係とし、同等のものとして捉えるが、その根底には存在論優位の構造が前提とされているように思える。例えば、この本には、「現実性の力の「侵入口」としての始発点」(p.163)、「「現実性という力」が入り込む「優先的な窓口」は、(存在と思考と概念という)三者の中では存在である」(p.375)というような記述がある。

ここには問題が潜んでいるように思う。現実論が存在論・認識論・意味論のいずれとも全く違うということを表現するためには、存在論・認識論・意味論に優劣があってはならないのではないだろうか。そのためには存在論を認識論や意味論と同程度に弱める必要があるのではないか。

思うに、存在論が優位に立っているのは、存在論のなかに現実論を混入させてしまっているからではないだろうか。(例えば入不二は、「「無内包の現実」においては、存在論的に「ある」ことと、認識論的に「ない」ことが一つになっている。」(p.342)という表現をしているが、このときの存在論とは、存在論というより現実論というべきもののように思える。)

当然、認識論や意味論においても現実論は混入せざるを得ない。「現に」認識するというかたちで現実は認識論を下支えし、「現に」意味するというかたちで現実は意味論を下支えしている。同様に、存在論においても最低限の現実性の力は必要である。しかし、「現に」存在するというかたちで現実が存在を下支えするということ以上に、必要最低限以上に、存在という言葉には現実性が入り込んでしまっているように思えるのだ。

意味論や認識論においては、公的言語や他者の感覚のようなものを思い描くことで、一応は現実性を最低限度に抑えたものをイメージできる。

だが、存在について、同様に現実性を最低限度に抑えるとはどのようなことなのだろうか。この点については、入不二だけではなく、その他の哲学者からも示されていないように思える。

いや、明示的に示されていないだけで、その答えは既に入不二の議論に登場しているだろう。入不二は、論理的運命論に対するものとして、因果的運命論、神学的運命論、物語的運命論といったものを挙げる。(pp.154-155)これこそが現実性を最低限に抑えたものとしての存在論ではないだろうか。

それは、入不二が述べるとおり、「何か(X)」が「他の何か(Y)」を決定するという二項関係性(p.154)と言ってもいいし、その関係性の前提となる複数性と言ってもいいだろう。ここで着目した二項関係性や複数性といったものには、認識論や意味論と異なる、そして現実論とも異なる独自の価値があり、それを存在論と名付けることは妥当ではないだろうか。

そのようなものとして解釈された存在論には、この本でも第二次内包として取り上げられている自然科学的な視点も含まれるだろう。なぜなら、第二次内包的なものごとが第一次内包を決定しているという二項関係性がそこに見いだされるからだ。

意味論や認識論においては、現実性を離れるために公的言語や他者の感覚のようなものを思い描いたように、現代人であれば、現実性を離れた存在論として自然科学的な物質的世界を思い描くことが、意味論・認識論・存在論の対等な関係を理解することに役立つように思える。

このようにして存在論を現実論から注意深く分離し、舞台を整えたならば、入不二の言うとおり、存在論、意味論、認識論という三つの立場が対等に循環しつつ対立し合うような図式を描くことができるだろう。

(現実性の力を失うかたちで解釈し直された存在論が意味論や認識論に優位となる場面としては、存在論的未知のように複数性そのものが優位性につながるような状況が考えられる。)

また、円環モデルにおいても、その始発点を、私や世界といった脱内包にとらわれた存在論優位のものとして描写するのではなく、存在論(二項関係)と意味論(言語)と認識論(認識)に捕捉される直前の現実性の力そのものの発露として捉える道筋が見えてくるのではないだろうか。

2-4 複数の円環・波及と還流

僕は、円環モデルは非常に重要であり、この本が目指すものをコンパクトにうまく表していると考えている。だが、あくまで模式図としてのものであり、補助線に過ぎないという点についても強調しておく必要がある。

まず、入不二自身が始発点と第一歩の間に「0と1」の小さな円環を書き加えているとおり、この円環は多重的である。

入不二自身はあえて描いていないが、例えば、p.27で描写されている「反実仮想」と「可能性」の領域の立ち上げの間にも円環を見出すことができるだろう。なぜなら、反実仮想を成立させるためには別の現実であったという余地としての可能性がなければならないが、その可能性が成立するためには反実仮想がなければならない、というかたちで両者は依存し合うからだ。ここには明らかに循環があり、それを円環として描くことは可能だろう。なお、これは対等な循環ではない。入不二が「可能性→反実仮想ではない」とするとおり可能性は反実仮想に遅れる。ここには0は1よりも遅れるのと同様の前後関係を見出すことができる。この点でも、可能性と反実仮想の小円環は、0と1の小円環と同型である。

(入不二は反対するだろうが、後述するように、僕は、潜在性の領域においても、マイナス内包と脱内包の小円環があると考えている。)

ともかく、大円環のなかに小円環がたまたま見出される、というような捉え方をすべきではないだろう。現実の力を顕在性(入不二の用語では現実性)と潜在性という二項関係として描いたものが入不二の大円環だとするならば、同じ現実の力を局所的に捉えると、0と1、可能性と反実仮想といった二項関係の小円環として表現されることは必然なのではないだろうか。

以上の、大円環のなかにはいくつもの小円環が描かれるという話については、多分、入不二も同意してくれると思うが、この先は僕なりの半歩を進めることになる。

入不二が第1章で描いた大円環モデルさえも、数ある大円環モデルのうちのひとつだという捉え方ができるのではないだろうか。

入不二がこの本において行った議論のなかにも、いくつかの大円環を見出すことができる。

そのひとつは、いうなれば科学的な道筋、つまり先ほど現実論から切り離した限りでの存在論の道筋だ。

始発点から入不二は、反実仮想、可能性という道筋に進んだが、そうではなく、科学的探求という道筋に進むこともできるだろう。そこでは二項関係と科学的探求の正当性が円環を進めていくことになる。

入不二が第1章で示した円環モデルの道筋ではその先に、日没時(6時の転回)における可能性の飽和とでも言うべき事態が待っていたが、科学的探求の先には同様に探求の限界が待っている。

そこでは、無限の可能性を列挙しきれないという事態を、それ自体が肯定性の発露として捉えることで乗り切ったように、科学的探求で捉えきれないという事態を、そのまま一気に「物自体」の存在の発露として肯定的に捉えるという転回により乗り切ることとなるだろう。

あとは、「クオリアは逆向きの物自体である」(p.278)とあるとおり、マイナス内包のクオリアを潜在性とする入不二の円環と同じ道筋となる。

以上は、入不二が第7章で行った、第1次内包から第0次内包に進む議論とパラレルのもので、第1次内包から第2次内包に進む議論であるとも言える。(p.255で入不二が「真に二元論的」とした主観的な世界と客観的な世界という二つの道筋のうち、入不二が進まなかった客観的な世界側の道筋であるとも言える。)

(この本から色々な示唆を得たが、この本の主題ではないものの、コンパクトに意義深かった言葉の代表が、この「クオリアは逆向きの物自体である」だ。つくづくそのとおりだと思う。僕は物自体という概念を評価しつつも、ひとつの疑問があった。「机の上にリンゴがある状況で、物自体としての机と物自体をとしてのリンゴどのように区別すればいいのだろうか。」という疑問だ。この疑問については、入不二のクオリアについての議論をそのまま物自体に適用することで解消する。まず、「見られるリンゴではなく、リンゴそのもの」というときのリンゴとしての物自体(第一次物自体)は、「リンゴの背後にある決して認識されることのないもの」としての物自体(第0次物自体)へと深まる。更には、クオリアの解像度が下げられマイナス内包となったように、解像度を下げることにより、無尽蔵な物自体(マイナス物自体)へと至る。この無尽蔵なマイナス物自体とは机でもあり、リンゴでもある。以上は物自体の側からの潜在性の描写であるとも言えるだろう。こうしてリンゴ・物自体と机・物自体を区別するという僕の問題は解消する。クオリア問題に対する入不二の答えが決定的なものであるのと同様に、これは物自体の問題の最終決着に近いように思える。)

ほかにも入不二の議論のなかに別の大円環を見出すこともできる。第3章では、合理的な選択の方向で突き進んでいった結果、ビュリダンのロバ的な状況が示され、そこで賭けへと進み、神頼み、祈りへと深まっていく。この図式は、合理的な選択が昼の領域であり、賭けを日没(6時)、神頼み、祈りを夜の領域と捉え、完全な祈り(受容)を日の出(12時)と捉えるならば、入不二の大円環モデルときれいに重ねることができるだろう。

(また、相対主義は昼、絶対主義は夜と捉えた相対主義・絶対主義の円環なども考えられるだろう。)

僕がここで行った解釈には異論があるかもしれないが、それはともかく、僕が強調したいのは、大円環であれ、小円環であれ、円環モデルはいくつも描くことができ、それらを重ね合わせることで、波及と還流の構図につながる、ということだ。

円環モデルとは、あくまで補助線であり、いわば模式図だ。では何の模式図かというと、それは波及と還流の一部を切り取った断面図のようなものなのだ。(p.234の図を縦に切ると、二つの円環が現れるはずだ。)

つまり、p.234の図で「●→」として表される波及は、円環モデルの昼の領域に対応し、「→●」で表される還流は、円環モデルの夜の領域に対応する。「●」が日の出(0時)の始発点であり、「●」の周囲を囲むように描かれている「○」が日没(6時)の転回を表している。

入不二も、円環モデルとは波及と還流を示す模式図であるということは認めるように思える。だが僕が半歩進んで強調したいのは、入不二は波及と還流の構図における円環の複数性を、このもの主義の文脈から個体の数の複数性によるものと捉えているのに対し、僕は、円環モデル自体の複数性によるものとしても考えたい、という点である。

では、どうして、多くの円環モデルを見出し、円環モデルを重ね合わせるようなことができるのだろう。それは円環モデルが描く内容ではなく、円環という形式自体に正しさがあるからではないか。

円環には角(かど)がない。小円環モデルを例とするなら、1であることをそのまま受け止めることと、1ではなくて0ではないかと突き詰めて考えることは、何の無理もなくきれいに重なる。(そこにギャップは残るにしても。)反実仮想という考えをそのまま受け止めることと、それを成立させるために可能性の必要性について突き詰めて考えることは、何の無理もなくきれいに重なる。(そこにギャップは残るにしても。)

この「無理のなさ」を円環という図形はうまく表現しているように思うのだ。「無理のなさ」こそが円環モデルの正しさの源泉なのではないだろうか。

入不二の議論の魅力は、無理のない議論を積み重ねるうちに、読者をとんでもないところに連れて行ってくれるというところにある。円環モデルとは、入不二の議論の構造そのものを示したものなのかもしれない。

円環モデルや、その先にある波及と還流の構図の正しさは、このような議論の進め方の正しさと、切っても切れない関係があるように思える。

なお、議論の内容ではなく議論の形式の正しさを優先する考え方から、可能世界論がなぜ魅力的かを説明することができると思う。(僕は可能世界論が好きだし、入不二も、あえてここで取り上げているということは、取り上げるに値する意義があると考えているはずだ。)

入不二は、D・ルイスの可能世界論について、現実を指標詞的に捉えているとし、「現実性は諸可能世界に相対化されていて、諸可能世界の内に再帰的な仕方で埋め込まれている。」とする。(p.58)

この描写に沿うならば可能世界論を、p.234の波及と還流の構図に似たかかたちで表現することが可能となるだろう。「●」の周囲を囲むように描かれている「○」が「この世界」ではなく諸可能世界となるという点で違いはあるが、「→●」を指標詞的な指し示しと解釈し、「●→」から「○」に至り、「→●」へと進むプロセスを再帰として読むことで、入不二の波及と還流の図式に重ね合わせることができる。

つまり、可能世界論においても、再帰というかたちではあるが、現実は経巡っている。可能世界論は矮小化されてはいるが、波及と還流を描いているという点で形式的に正しい。ここに可能世界論の魅力があるのではないだろうか。

2-5 二重否定の抜け道・非A的A

入不二は、「無でさえない未来」の「究極の言えなさ」というアポリアには抜け道があるとする。(p.205)

彼は「無でさえない」という二回の否定を「相関(対)以前の端的な肯定へと戻ろうとすること」「絶対的な(=非-相関的な)肯定」「肯定以前の肯定(否定と対にならない肯定)へと差し戻す」という方向で考えることを「抜け道」と呼んでいる。

僕は、この抜け道が、入不二の議論を進めるうえでは極めて重要であると考えている。これを「二重否定の抜け道」と呼びたい。

通常の二重否定には、そのような抜け道はない。入不二自身、第1章で、二重否定と肯定の間の一致とズレについて論じている。入不二はここでは、「二重否定による肯定」は「否定が存在しない肯定」へと行き着かない(pp.23-24)としているが、その言葉に反して、二重否定には原初肯定に到達する抜け道がある、とするのが第6章での議論だと言えるだろう。その点では、これは「超・二重否定の抜け道」と呼ぶべきかもしれない。

ここまでであれば、入不二の議論の圏内から大きくは外れていないだろう。ここで付け加えたいのは、「非A的A」という用語だ。この「非A的A」という言葉は、この本にも登場する森岡のツイートで見かけたものだ。次のような内容だった。

「非A的A」(Aは任意の名詞)っていう概念は、Aに何を代入しても成立しそうに見える。これはどういう構造なのだろう。

「非非的非」はさすがに成立しそうにないが。非が自己言及してるから。でも「非想非非想」がある以上、成立するのかね。

(僕はその言葉に興味を持って、文章も書いたこともある。http://dialogue.135.jp/2018/03/17/shitekigengo/

ここでなぜ、「非A的A」という言葉を持ち出すのかというと、この用語が、「超・二重否定の抜け道」のある部分をうまく表しているように思えるからだ。

「無でさえない」における抜け道としての超・二重否定とは、肯定(有)に対比されるものとしての否定(無)を更に否定することにより、否定が持つドメインを乗り越える力を用いて、否定と対比される限りでの肯定(有)よりも以前の原肯定に立ち返ろうとするものだった。つまりこれは、二重否定という作業を経て、(否定と対比される限りでの)肯定よりも以前の原肯定を指し示そうとすることだと言ってもいい。

このようにして見いだされる肯定と原肯定との間には差があるはずだ。(その差とは、原肯定という土俵の上で肯定と否定は対立しているに過ぎないという意味で、(肯定と対比される限りでの)否定と(土俵としての)原肯定との差とも等しいはずだ。)

この差をコンパクトに表現するものが「非A的A」という言葉なのではないか。この場合なら、非肯定的肯定、と呼ぶことで、原肯定と(否定と対比される限りでの)肯定の間に横たわる差を表現することができる。つまり、「非A的A」という表現は「超・二重否定の抜け道」が成し遂げたことをコンパクトに表現するものなのだ。

なぜ、ここまで「超・二重否定の抜け道」にこだわるのかというと、これこそが、円環モデルでの6時の転回を可能とするものだと思うからだ。

第1章における円環モデルの概観のなかで、僕にとって最も理解が難しかったのが転回の議論だった。

入不二によれば、転回とは、諸可能性が無数に立ち上がり、完結「しない」という否定性を転回するものだ。または、無数の肯定項や肯定枠のひとつひとつを可能とする分割のなかに潜む「他では『ない』」という否定性を転回するものだ。(pp.32-33の議論の僕なりの要約)

僕はこのような議論について、議論としては理解しつつも、なんだか狐につままれたような、どこか納得できないものがあった。

だが、第6章の「抜け道」の議論を読み、納得できた気がした。この転回は、諸可能性が生まれる以前に立ち返り、分割自体ではなく、分割を生じさせる土俵に着目することにより可能となるのだ。

ここには、時間的なものか、空間的なものかはともかくとして、ある種の視点移動を伴っているが、この視点移動こそが「超・二重否定の抜け道」が「抜け道」である所以であるに違いない。

この視点移動を根拠がないものとして拒否するか、自然なものとみなすことができるかが、円環モデルに喩えられるような入不二の議論を受け入れられるかどうかの境目になるのではないだろうか。入不二自身は、その転回(視点移動)は、肯定主義の力により円滑に完遂できると考えており、僕も、(第1章を読んだ際には疑問があったが、すべてを読み終えてみると)力の一元論とは、そのように進めるべきものだと思う。

僕は「超・二重否定の抜け道」により成し遂げられる「転回」は、円環モデルの肝であると考えている。だから「超・二重否定の抜け道」の抜粋版とも言える「非A的A」という表現は、円環モデルにとっても、その要約版になると思っている。そうだとするならば、「非A的A」という表現を見出すことができるということは、そこに円環モデルがあるということを表しているということになる。

森岡は「「非A的A」(Aは任意の名詞)っていう概念は、Aに何を代入しても成立しそうに見える。」とする。そのとおりなのだろう。

円環モデルとは波及と還流の模式図であるとするならば、入不二の第6章の議論に基づき、少なくとも「指差しの運動」により示される「もの」は、円環モデルに取り込まれ、その要約版としての「非A的A」という表現も成立することになる。

更には、僕の主張が認められるなら、「非A的A」に代入できるAは「もの」に限らない。僕の考えでは円環モデルはこの本の議論全体を貫いているから、彼の議論に登場するキーワードを「非A的A」と表現できるはずだ。

例えば、賭けにおける意志は非意志的意志(p.107)、「「無でさえない未来」という概念は、・・・非-概念なのである。」というときの概念は非概念的概念(p.209)、「語りえぬものを語る」での野矢の主張は非相対主義的相対主義で、入不二が示すのは非絶対主義的絶対主義 (p.308)、「転覆した(破れた)時間」は非時間的時間(p.363)、夢と対比されるなかで見いだされる現実は非現実的現実(p.378)などなど。

このように言い換えて列挙すること自体には哲学的意義はないけれど、入不二の文章を読むうえでの工夫にはなるし、円環モデルが彼の議論を貫いていることの証左にはなるように思える。

2-6 新しい語り方・非言語的言語

この章において、僕は、入不二がこの本で成し遂げたことについて、僕なりに重要だと感じたことを表現しようと努めてきた。そのために、必要と思われる用語の置き換えを提案し、新しい用語も導入した。

このように舞台を整えたうえで、僕が強調したい入不二の成果とは、彼が潜在性や力という新たな議論領域を発見しただけでなく、その議論に必要な新たな語り方を発明したということだ。

入不二が日没(6時)の転回以降に行っている議論は、あまりにも新しくて目眩がするようなものだ。

その議論を駆動しているのは、明らかに肯定主義だろう。

入不二は肯定主義について、「肯定主義の元基(もと)には、否定という操作を本質的に含む言語よりも、言語以前的な実在やその直感の方を優位に置く考え方があるだろう。」(p.332)とする。

入不二は肯定主義により、言語以前を捉えることに成功したのではないか。これは、非A的Aという用語をしつこく用いるなら、非言語的言語の発明と言ってもいいと思う。

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 1.5 ここからの展開

1.5 ここからの展開

以上で感想は終わり、ここからは批判を含めた考察となる。冒頭で宣言したとおり、徐々に入不二から距離をとり、僕独自の考察に入っていく。

当然、僕自身の哲学よりも入不二哲学に興味がある読者のほうが多いだろうから、好きなところで読み終えていただきたい。当然、ここで読み終えても結構だ。僕自身、入不二の議論に即している前半は端切れがよくても、終盤に向かい、入不二から離れて独自考察になっていくにつれて自信がなくなっていくと予想している。最終盤は多分、僕自身にしか価値がないメモ書きのようなものになってしまうだろう。そのようなものに、どこまで読む価値があるかは保証できない。

1.5-1 この考察の方向性

読む価値があるかどうかを皆さんに判断いただくため、ここから行う考察の方向性を簡単に示しておこう。

ここまでも述べてきたとおり、僕は円環モデルを大いに評価している。多分、円環モデルには真理が含まれている。だからこそ円環モデルにこだわって論じていきたいと考えている。

だが一方で、円環モデルは不足しているものがある。それは三次元の高さだ。三次元の高さも考慮するなら、円環モデルは螺旋モデルに発展すべきではないか。

入不二自身もp.22で螺旋モデルを提示している。しかし、その後、螺旋に含まれる三次元のベクトルは垂直の矢印として書き込まれる現実性の力として捉えられ、円環と矢印の複合として表されることになる。

補助線としての円環モデルがそのようなものであるだけでなく、入不二の議論全体がそのような図式を踏まえて進んでいるように思う。

僕は、入不二の議論をほぼ全面的に受け入れるけれど、ここには発展の余地があるように思う。螺旋モデルは円環モデル+矢印には置き換えられないのではないか。

そのことを示すために、まずは入不二が円環モデルの日没(6時)に見出す転回を別のかたちに読み替えたい。入不二は6時の転回を意味論・認識論から存在論への転回として位置づけているように思うが、それに反して僕は、この転回を意味論から認識論への転回として位置づけたい。つまり、日没以降の夜の領域、つまり潜在性の領域とは、認識論優位の領域なのだと主張したい。

そこで僕が行うのは、入不二がマイナス内包として表現するような潜在性の力を弱める作業だ。認識論をひきずっているマイナス内包の潜在性には何かを生み出す力はない。入不二が産出力と表現するものは、産出しそうなものとして認識されるに過ぎない「みせかけの力」に過ぎない。真の産出力とは、認識論をも振り切った無内包の現実性にしかないと僕は考える。円環モデルの12時から0時への飛躍の奇跡とは、平面上でのマイナス内包から無内包(脱内包)への移行ではなく、垂直の矢印として表現されるような現実性の力がむき出しで現れることの奇跡なのではないか。

この文章において、僕は寄り道をしながらではあるが、以上のようなことを主張しようと企てている。

なお、仮にこの主張が成功したとしても、それは入不二の議論を否定することにはならないと考えている。

なぜなら、この議論は、入不二が見出した現実性の力をより大きなものとして捉えることを目指すものだからだ。入不二が捉えたものを入不二が表現するはずだったように表現したい。僕にはそんな野望がある。

1.5-2 みそっかす哲学者

僕は入不二ファンだ。僕は、入不二がこの本でも、森岡や永井や野矢を相手にして見せている、相手の主張の最もよいところを見出し、それを更に先に伸ばしていくような議論の進め方が好きだ。

大それたことだと知りつつも、僕は同じことを入不二自身に対してやってみたい。そんな思いでこの文章を書いている。

この思いは、この本の冒頭で登場する小学生の入不二少年を使って表現することもできるだろう。

入不二少年は大人の誰からも理解されず孤独だ。なお孤独と言っても寂しさはない。正確には孤高と言ったほうがいいだろう。僕はそんな入不二少年のクラスメイトになりたいのかもしれない。

当然、入不二少年はクラスメイトの僕に対して、お前だって俺が言っていることを理解していない、と言うだろう。だけどこっちも入不二少年に対して、お前だって僕のことをわかってない、と言い返すことはできる。子ども同士であれば、大人との間では築くことができない対等性がある。入不二と他の哲学者との間には、そんな孤高の者同士の対等の関係性がある。(多分、これは入不二先生に限らず、哲学者というものはそういうものなのだろう。)

僕は、この文章を書くことによって、そんな関係に加わりたいのかもしれない。「みそっかす」としてであっても。

(一般的な用語ではないかもしれないので説明しておくと、僕が子どもの頃、近所の友達とボール遊びなどをしているとき、誰かが小さな弟を連れてくることがありました。そんなとき、小さい子と対等に遊ぶことはできないので、「みそっかす」と呼んで、手加減して対等に遊んでいるように思わせていました。)

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 1 距離ゼロ 感想・補助線

1 距離ゼロ 感想・補助線

まずはこの本の感想から。多分、この章については、入不二の議論からの大きな逸脱はないと思うので多くの方に読んでほしい。

この本に書かれていることは全く新しくて、わくわくするものだった。きっと僕にとって、そして哲学界にとって、この本はとても重要なものになると思う。というかそうなってほしいと思う。もっとこの続きを話したいし、誰かに話してほしい。

そうなるように願って、僕なりの言葉で、この本の魅力を少しでも多くの方に伝えたい。

1-1 目眩・戸惑い

この本は魅力的だけど難しい。図も多用されているし、あえて表現を難しくしているようなところもないけれど、独特の難しさがあった。だから、決して、流れるように読み進められるものではなかった。

僕がこの本を読み進めるうえでの最初の関門は、この本がなにをしようとしているのか把握することだった。この本が目指すものは、冒頭から、いろいろなやり方で事前に丁寧に示されている。だけど、僕自身がこれまで考えてきたことや、僕が触れてきたこれまでの哲学に対する「現実性の問題」の位置づけが捉えられなかった。

実は、このような戸惑いには覚えがある。前著「あるようにあり、なるようになる」で運命論について論じた際にも、僕は、運命論という問題設定に対して同様の戸惑いを感じた。たいていの入不二の本には、このような感覚はつきもののように思う。

これらの感覚は「おわりに」で登場する入不二自身の目眩のようなアンセルムス体験と似ている。アンセルムスの神を入不二の文脈に位置づけるならば、アンセルムスは神について論じながら、(無意識にかもしれないけれど)従来の神とは全く異なる神について論じていたとも解釈できる。入不二も現実という言葉を使いながら、全く異なるものについて論じているとも言えるだろう。僕の戸惑いとは、そのことにより生じる目眩のようなものなのではないか。

1-2 重層性・単純

この本に書かれている個々の内容については後ほど考察するとして、まずはこの本全体としての魅力を紹介しておきたい。この本には重層性と表現できるような魅力がある。

その重層性は、まず、この本の装丁に表れている。白から黒に移行し、それが更になんと銀色に輝くというかたちで。この装丁は、この本で重要な位置を占める否定の力を表しているように思う。白が非白としての黒を立ち上げ、更に、非(白vs黒)としての輝く灰色(つまり銀色)を立ち上げている。

重層性はこの本全体を貫いている。「はじめに」では、小学生の入不二少年が登場し、離別と死別の違いの話として「現実」について考察している。

入不二は、「はじめに」からそのまま第1章に入らず、「おわりに」、「追記とあとがき」と読み進めることを推奨しているが、ここでは入不二青年が登場し、また、realitiyとactualitiyについての比較的独立した考察が行われる。

そのようにして議論がせり上がっていき、第1章では円環モデルが提示され、第2章からが、いわば本編となる。

これまでの入不二の本でも、冒頭の導入部で補助線としてのエッセイを提示するというやり方をとることは多かった。しかし、このように多重的に補助線を引いたうえで本編に入るという書き方はしていなかったように思う。

このような長い助走、つまり重層性がこの本の魅力であり、また、それを必要とするほど独自で新しいことを提示しているという点が、この本の価値だと思う。(入不二は新しさによる戸惑いを読者が感じることを想定し、それを緩和するために重層的な補助線を準備してくれたとも言える。)

更には、重層性は、この本の内容だけではなく、この本の細部にも註記と索引として表れている。

この本の註記は本文の単なる補助ではない。註記が独自に議論を展開し、時には本文に再合流する。これほど註記を本文に登場させつつ議論を進めるという書き方は珍しいのではないだろうか。

索引も充実している。数えるとなんと32ページもある。僕はまだ索引をきちんと活用しきれてはいないが、少し使っただけで、その威力が垣間見えた。充実した索引は、それがひとつの補助線となりうる。例えば、相対主義について論じる中でp.313に登場する「無力」を索引で引いてみた。カギカッコ付きで登場するにも関わらず、唐突で、その後も二度と使われない言葉だから気になったのだ。索引によれば、無力という言葉はp.121で祈りについて考察するなかで登場していたことがわかる。本文での明言はないけれど、相対主義と祈りはどこかで通じている。索引を通じてそんなことがわかる。

このようにして、註記と索引は、この本の重層性を更に深めている。

加えて、この本は過去の入不二の著作の集大成としての重層性も有している。入不二は、この本を通じて、過去の著作で取り扱ってきた主題を再び取り上げ、現在の入不二の視点から、それらをひとつのキャンバスに描こうとしている。

それぞれの本で独立的に行われていた主張が、パズルのように一つの絵に組み込まれていくのは、とても心地よいものではあるが、一方で、何かが「台無し」になってしまうような感覚がどこか生じていた。これまで、入不二の本を読み進めてきた僕の読者体験が、上から重ね書きされ、別のものに変容してしまう感覚というのだろうか。なお、台無しになることは快感でもある。

「台無し」と言っても、当然、入不二は既にあった絵を消して、その上から全く別な絵を書くようなことはしない。入不二の議論は、もともとあった絵(つまり過去の著作の議論)の輪郭を何度もなぞるうちに、その絵自体を塗りつぶしてしまうのだ。入不二にはそのような過剰さがある。その過剰さが入不二の魅力だ。

入不二はマーク・ロスコの絵画に何度か言及している。僕は、抽象画はわからないけれど、きっと彼が目指しているのは、何度も塗り重ねる果てに現れるマーク・ロスコの単純な絵なのだろう。重層性の果てに現れる単純さと言ってもいい。

単純を目指すからこそ、彼は重層的な本を書いたのだ。

1-3 時計・太陽

彼がこの本を読むうえでの補助線として提示したもののなかでも特に重要なのは円環モデルだろう。もしかしたら、円環モデルとは、単なる補助線ではなく、彼が目指す到達点なのかもしれない。つまり、第2章以降は、この円環モデルを何度もなぞるようにして、重層的に大きな円を描く作業だったということになる。

彼の真意はわからないけれど、僕はそう読んだし、そのように読むことで理解も進んだ。第2章以降を読むうえでも、この話は円環モデルのどこにあたるのだろうと常に注意を払うことで、頭が整理されるように思えた。

円環モデルに何度も立ち戻るために僕が編み出した工夫は、円環モデルを時計の文字盤に例えることだ。

(と書いたけれど、読み返すと、入不二自身が始発点をアナログ時計の12時と表現している箇所があった。(p.177))

p.42の図でいくと、第1歩が1時、更なるもう一歩が2時、排中律が3時、無限の可能性が4時、転換が6時、6時から12時が潜在性の領域というようになる。(ギャップは12時から0時に飛躍することだと表現できる。)

これから僕は、円環モデルにとらわれつつ論じていくことになるので、何度も、この時計の比喩が登場すると思う。

円環モデルについては、もうひとつ、別の比喩も思いついた。時計は時計でも、アナログ時計の文字盤ではなく、太陽の運行自体を比喩に用いるというやり方だ。p.42の図でいくと、第1歩が日の出となり、更なるもう一歩、排中律あたりが午前中で、無限の可能性が午後に生じて、転換が日の入りとなり、日が暮れてからが潜在性の領域となる。

こちらの比喩は議論の細かい部分を指し示すのには向いていないけれど、潜在性の領域を夜に割り振ることで、特に潜在性というものの特徴を示すことに成功しているように思う。さらには、この比喩においては、太陽とは言語つまり意味論となり、星が潜在性の領域においても降り注ぐ現実性の光と捉えることができるかもしれない。(月だと太陽の光の反射となってしまうので、同等の恒星である星を潜在性の領域の光としたほうがいいだろう。)

特にこの比喩で気に入っているのは、朝日と夕日の美しさを表現できるという点だ。考察の際に詳述するが、この本のピークは、時計の文字盤を用いるならば、6時と12時にある。そこでの美しさを日の出前の朝日と、日没直後の夕日として表現できるように思うのだ。

だから、今後は、円環モデルについて、何時という示し方だけでなく、日の出、昼、日没、夜という述べ方もすることになる。この4区分こそが円環モデルにおいては重要である、ということも述べることになるだろう。

1-4 肯定主義・補助線

「現実性の問題」について理解するために入不二は重層的な仕掛けを準備してくれているが、もうひとつ追加してよいだろう補助線が、肯定主義という用語だ。このような考え方は前半から顔をのぞかせるが(索引によれば)肯定主義という用語は第9章になってから登場し、そこで集中的に論じられる。そこで、この本は肯定主義についての本でもあるのか、と腑に落ちた。ここでの肯定主義とは「ある」という肯定性優位の原理を徹底していくというものだと言ってもよいだろうが、○○主義という名前がつくと理解がしやすい。

この本のなかで、入不二の議論が大胆な一歩を踏み出し、それがどうして正当化されるのかわからなくなったとき、これは肯定性優位の原理、肯定主義を適用した結果かもしれない、と考えれば、入不二の議論に(同意はできなくても)ついていくことはできるかもしれない。同意できるかどうかは、少なくとも第9章まで読み進み、肯定主義も含めた入不二の議論の全体像を捉えてから判断しても遅くはない。

ただし気をつけなければならないのは、○○主義と名前をつけた時点で、それは本当に指し示そうとしたものから外れ、補助線のひとつになってしまうという点だ。この転落はこの本のいたるところで生じているし、入不二もそれを転落として言及している。

その意味では、この本の記述全体が転落を見越した補助線であるとも言えるかもしれない。

1-5 圧倒・猛獣

この本は、過剰なほどに重層的に補助線を重ね書きすることによって、そのようにしてしか到達できない何か単純なもの(この本では円環に例えられるような何か)を表現しようとしているように感じられる。

この議論の厚みは、レスラーの厚い胸板のように、または、猛獣の筋肉のように読者を圧倒し、僕を「現実性の問題」のもとに組み伏せているのだ。

この本の議論においては、排中律、矛盾律といったものさえも単なる議論の駒のひとつとして扱われる。そのようなレベルでの議論を駆動するのは一般的な意味での論理(議論の妥当性を真偽という見地からジャッジするというような意味での論理)の力ではないことは明らかだろう。つまり、入不二は、いわゆる論理ではない何らかの力を用いて議論を進めていると考えざるを得ない。その力とは、ただひたすらに圧倒的なものであり、その力とは何かという分析すらも拒絶する孤高の力としか考えられない。あえて言えばそれは野生の猛獣の力であり、または、詩の力とも言い換えることができるように思う。

入不二に実際にそのような意図があるかどうかは別として、この本を読むうえでは、そのように捉えることが理解の一助となる場面があった。

1-6 明示・潜在

入不二の議論には一般的な意味での論理的な分析を拒絶する(超えている)側面があるが、入不二が述べることは決して不明瞭ではない。むしろ入不二がこの本で到達した地点は明らかであるとも言える。

このような矛盾的なことが言えるのは、従来の道筋では描けなかったはずのものを描き切ったということがこの本の成果(のひとつ)だからだ。

なお、入不二はこの本で初めて、新たな地点に到達したのではない。正確には、これまでも彼が既に到達していた地点から、さらに一歩、議論を進めたことがこの本の成果だと言ったほうがいいだろう。僕が強調したいのは、その前進が成果であると同時に、もうひとつの成果があるということだ。

入不二はこの本により、以前の著作も含めて彼が成し遂げたことをわかりやすく明示した。それがもうひとつのこの本の成果だ。

はっきり言って、入不二が成し遂げたことはこれまでわかりにくかった。例えば、永井の独在論は、その独自性がわかりやすい。一方で、入不二の語り方の新しさは世に認められつつも、その語り方を通じて何を新たに成し遂げたのかがわかりにくかったように思う。過去の著作において、相対主義、時間論、運命論といった分野で入不二がとても新しくてとても重要なことを言っているのは確かだけど、それはどのような新しさで重要性なのだろうか、という疑問がどこかつきまとっていたように思う。しかし、この本によって、そのような疑問を払拭し、彼が何を成し遂げたかを明確に示したのだ。

入不二が成し遂げたことを、円環モデルを用いて簡潔に表現するならば、円環モデルの左半分、つまり夜の領域を描き、円環モデルを円環として完成させたということだ。これこそが入不二哲学の成果だ。更には、夕日と朝日の美しさを描き、円環モデルに垂直に差し込む光(力)までも捉えている。このことは、従来の哲学から、少なくとも二歩先をいっているように思う。

(潜在性という、語りえぬものそのものを論じていたから、入不二の成果は捉えにくかったのではないだろうか。)

入不二が到達した地点をこのように端的に捉えることは、入不二の業績を矮小化している。だが一方で、このように読んでもいいとも思えてしまう。

この本は、そのような読み方さえも受け入れるような不思議な魅力を持っている。入不二の用語を流用するならば、この本とは主張する顕在的な存在ではなく、ただ読まれることを待っている、潜在的なマテリアルなのかもしれない。

これから僕はそれに甘えて、勝手な考察を展開していきたい。

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 0はじめに

入不二基義の「現実性の問題」の感想&考察です。長め(45000字くらいあります)なので5回に分けて掲載しました。PDFは一括です。

0 はじめに

入不二先生の新刊「現実性の問題」を読んだ。

実は、僕はこの本をなかなか読み始めることができなかった。なぜなら、今、僕は自分の哲学的な文章を書くことに集中したいのだけど、この本は読むのに時間がかかると予想がついたし、また、この本が僕に影響を与えるだろうことも予想できたからだ。

今僕が書き進めている文章は入不二先生の哲学に大きく影響を受けているものだ。そのアイディアの根幹が揺るぎ、せっかく書き進めているものを書けなくなるのは避けたい。

とは言え、入不二ファンとしてはいつまでも先送りする訳にもいかないので読み始めてみると、最初は独自の舞台設定に戸惑ったけれど、徐々に入不二ワールドに没入し、テンポよく読み進めることができた。(後半の第7章以降は特に密度が濃かったので、少々ペースが落ちたけれど・・・)

これから、この本を読んで感じたことを書きとめておこうと思う。僕だけでなく誰かの役に立つように。

ただし、これは単なる感想ではなく、独自の考察となってしまうだろう。僕は僕自身の哲学について考えているから、どうしても、僕自身の哲学に引きつけて読んでしまうから。

その考察には入不二哲学を離れた独自の価値があると信じているけれど、入不二先生の哲学自体を味わいたい人にとっては余計な夾雑物となるだろう。だから、この文章は、この本との距離を意識しながら、最初はこの本自体の紹介から、徐々に独自の考察に移るようなかたちで書き進めていきたい。読者の皆さんが読みたいところまで読んでいただければいいように。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 7 まとめ

7 まとめ
7-1 ベタの神の勝利
ここまで私は、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という私の問題について、私なりの答えを模索してきた。
まず第4章において、様々な<中間>の根本に、「(充満した時間推移としての)現実」と「言語」の<中間>があることを確認した。
そして、第5章において、過去と未来の<中間>について考えるなかで、「現実」と「言語」それぞれの時間軸を発見し、その間での視点移動という言語の働きを見出した。
第6章においては、特に現在に着目し、その複雑さの原因は、二つの時間軸の絡み合いがまさに現在において発生しているからであることを確認した。
このように考察を進めることにより、現実と時間の絡み合いについて、「現実と言語という二つの時間軸における現実と言語の拮抗」というところにまで明らかにすることができた。

7-2 この文章の成果
この文章で主として行なったのは、いわば、時間を言語的な操作として捉え、現実についての「ある」の議論なかに時間についての「なる」の議論を埋め込むという作業だ。
そのような意味で、この文章は、「ある、なる」においては、数行で書かれていることについての考察だったのかもしれない。
「交錯配列の後半「なるようにある」も、時間(なる)と現実存在(ある)の絡み合いである。しかしこんどは、「なる」が「ある」の内へと入り込んで来る。つまり、「なる」という仕方で「ある」ということ、時間推移が生じるという仕方で現実が成立していることを、「なるようにある」は告げている。」(p.199)という部分だ。
「ある、なる」では、非常に雑駁に言うならば「時間原理Ⅰにより、現実が無時間的に存在する。時間原理Ⅱにより、現実が今という特異点で瞬間的に存在する。その中間に現実と時間はある。」というようなかたちで、主に時間に現実を埋め込む作業と行っていたと言ってもいいだろう。
私が目指したのは、「ある、なる」の議論を自分の問題に引き寄せ、より、ある、なるの交錯配列を明確に示すことだった。そして、その作業をある程度行うことができたと思う。

7-3 この文章の問題
しかし振り返ってみると、「ある、なる」では私がしたような議論がなされていないということこそが重要だという思いが湧き上がってくる。
私の議論は、本来、議論の末に垣間見ることができる、言語と現実の拮抗を、所与のものとして扱うことで成り立っている、いわば、逆立ちした議論だ。
いわば、私の議論は、スカの神が優勢な物語だとも言える。現実と時間について、このように言語化し、分節化した描写ができたのは、この文章においては、言語、つまり、スカの神が優勢だったからだ。しかし、最後には、ベタの神が優勢になって、物語は終わらなければならないはずだ。そうでなければ、この文章が、ベタの現実にあるということから離れていってしまう。
特に、この文章が、時間推移の問題について何ら解決できていないことは大きな問題だろう。そのことも多分、この逆立ちした議論の進め方に問題がある。
先ほど紹介した「なるようにある」の交錯配列の文は「それは、時間的な推移生成が、なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」(p.199)と続く。
私の「なるようにある」という一面的な考察では、時間推移という問題に対しては驚くしかないのだ。

7-4 「ある、なる」の魅力
だからこそ、「ある、なる」は、私がしたような議論をしなかった、ということにこそ真髄があり、魅力がある。
「言語」「現実」といった概念を所与のものとし、大上段から運命を切り分けるのではなく、現実Aというあたり前の描写から、排中律、様相、時間原理Ⅰ、時間原理Ⅱ、マスターアーギュメント、オズモの生涯といった色々な道具を使い、精緻かつ着実に運命の奥深くに分け入っていく。「ある、なる」で強調しているように、「言語」「現実」といった概念を使いつつも、ずらしていく。(この文章で、私は「ある、なる」の操作を「純化」としたが、純化などできないということこそが重要とも言える。)そのような過程を経るからこそ、そこに見出された、現実と言語の拮抗を、重層的な<中間>として捉えることができる。
そして、「ある、なる」は、第25章、エピローグへと進み、私がここで行った議論を振りきっていく。そこでは、現実と言語との拮抗が、神と人間との拮抗といった新たな次元に踏み入れ、別の色合いを帯びていく。その次元に達するためには、私が行なったような逆立ちした議論では足りず、丁寧な議論の積み上げが必要だ。
私は、この文章を通してやろうとしてできなかったからわかるが、これが、「ある、なる」の魅力だ。

更に「ある、なる」には、もう一つの魅力がある。先ほど引用した文章でも「なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」としているところに、その魅力が現れている。入不二は、一歩ずつ知的探検を進め、そこから広がってくる景色に驚きを感じ、喜びを感じているようにさえ思える。私ならば、行く手を遮る障害物としか思えないような哲学的な問題を「驚き」と捉える、この屈託の無さも「ある、なる」の魅力だと思う。そして、この屈託の無さは、第25章、エピローグに向けて全開になっていく。
「ある、なる」の二つの魅力、つまり屈託の無さと精緻な議論の積み上げとは、無関係ではないと思う。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 6 複雑な現在

6 複雑な現在
6-1 二つの現在
それでは、いよいよ最後まで後回しにしていた問題、つまり現在について考えてみたい。

「ある、なる」において、現在は様々な描写がされている。
まず、「瞬間としての現在」が提示され、そこからオズモの物語を使って「無時間的な現在」「推移する現在」「特異点としての現在」(p.248)が展開される。そして、「「現に」という現実性は非時間的であって、時間の一部分ではない。」(p.253)ということから、現実と時間の<中間>の一場面として、「永遠の現在(全一的な現実)」(p.254)が追加される。
さて、この5つの現在を、どのように扱ったらいいだろう。これらの現在を、現実と言語の<中間>という道具立てで整理することは可能なのだろうか。

まずは、「ある、なる」の議論ではなく、この私の文章に沿って考えてみよう。
先ほどは、過去と未来という時制について述べてきたが、その二つの時制の接点として現在があるとすることには異論はないだろう。
また、先ほど、時間軸は、現実の時間軸と、言語の時間軸の二つがあるとしたのだから、接点としての現在が二つ現れるということも異論はないはずだ。現実の現在と言語の現在というように。

それでは、現実の時間軸における現実の現在とは何を指すのだろうか。
これまでの議論に即するなら、現実の現在とは、純粋にスカな無としての未来から、純粋にベタな現実としての過去が生まれる瞬間だと言っていいだろう。出来事が生じる瞬間と言ってもよい。
(なお、「生まれる」「生じる」という表現は不正確であり、何か生まれる元となるものがあるようなイメージから逃れられていない。しかし、他にマシな表現がないのでご容赦いただきたい。)
一方で、言語の時間軸における言語の現在が何を指すのかと言えば、言語の現在とは、既に発話された過去と、未だ発話されていない未来の間にある瞬間のことだと言えるだろう。つまりは、発話する瞬間と言ってもよい。

6-2 二つの現在のずれ
そして、重要なのは、現実の現在と言語の現在、つまり、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間という二つの瞬間は重ならないということだ。
「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間は重ならない。
流れ星が流れてから「流れ星が流れた」と発話するから、必ず、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続する。
なお、これは、「流れ星が流れる」という瞬間的な出来事でなく、「ネコがいる」というような持続的な出来事でも同じである。「ネコがいる」という出来事があってから、「ネコがいる」という発話がある。
ただし、その原因は、ネコを目で認識してから脳で処理するのに神経伝達の時間がかかるというようなことにあるのではない。
そうではなく、「現実について言語で語る」という基本的な構造があるからだ。
それは、ネコがいるという出来事を「ネコがいる」と表すなら、ネコがいると発話することを「「ネコがいる」と言う」と、より冗長なかたちで表現せざるを得ないということに現れている。「と言う」という表現の分だけ、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続せざるを得ない。

6-3 過去・未来との接続
更には、この二つの現在は、現実としての過去と、言語としての未来と、それぞれ結びつく。
「流れ星が流れた」現在は、現に「流れ星が流れた」という現実性が付与されている。
その意味で、出来事が生じる瞬間としての現在は、現実である過去と見分けがつかない。
あくまで、現在は、「今」であり、一方、過去は「昨日」であったりするが、その違いは、「昨日」と「一昨日」のような、過去同士の違いと見分けがつかない。
「現在は、現に、この目で、今、見えているんだよ。」などと主張したくなるかもしれないが、それは、あくまで言語による主張であり、出来事が生じる瞬間としての現在には届かず、発話する瞬間としての現在にしか届かない。
(主張以前の「現在は、現に、この目で、今、見えている」という認識自体は、出来事が生じる瞬間としての現在に届くと言いたいかもしれないが、後ほど、そのような認識も発話と同様に扱うべきと整理する予定なので、できないものとして読んでいただきたい。)
これは、純化された想起阻却過去は、過去であるという描写さえ失っているのだから、純化され、現在であるという描写を失った現在と見分けがつかないということでもある。

一方、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在である時点では、「流れ星が流れた」と発話する瞬間は、未だ現在ではない。つまり未来である。
発話する瞬間が未来であるとはどういうことかというと、未だ発話されず、現実性が付与されていないから、「流れ星が流れた」と発話することも、「流れ星が流れなかった」と発話をすることもできるということだ。これが、未来の空白であり、排中律の空白であり、現在の空白でもある。(ここで、やっと現在の空白が登場し、この文章の冒頭のスカの神の三つの側面が揃ったことになる。)
「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在の空白とは、つまりは、出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指している。現在の空白とは、未来の空白のことだったのだ。

このように、出来事が生じた現在と現実としての過去を結びつけ、発話する現在と言語としての未来を結びつけるようにして、二つの現在と、過去と未来を整合的に捉えることができる。

6-4 二つの現在を見渡す
ただ、違和感があるだろう。この二つの時間軸にある二つの現在を見渡しているのは、どの視点からなのだろうか。まるで、現実の時間軸にある「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間と、言語の時間軸にある「流れ星が流れた」と発話した瞬間を一つの時間軸に置き直し、順序よく並べたかのようだ。これらは一つの時間軸上にないということこそがポイントだったはずなのに。
しかし、このことは、やむを得ないとも言える。
どういうことか、引き続き流れ星の例を用いて考えてみよう。
常識的に考えれば、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在であった時点は過ぎ去り、いずれ、「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在である時点が訪れるはずだ。
当然そうなのだが、そうではないという言い方もできるということが、二つの時間軸のズレの話であり、そこから生じる、出来事が生じる現在と発話する現在のズレの話だったはずだ。
そのような捉え方をするならば次のような言い方もできるだろう。
「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在となる瞬間など来ない。あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間自体はどこまでも現在にならない。発話したということが、流れ星が流れたこととは別の出来事として捉えられてこそ、現在になる。それならば、発話したということは、流れ星が流れたことと独立した別の出来事とさえ言える。というように。
しかし、ここで話が終わらないというところに、それでも「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間とを唯一の視点から見渡し、一つの時間軸上に並べられているかのように捉えてしまうというやむを得なさがある。
それは、「発話したということが流れ星が流れたこととは別の出来事」としたことに現れている。別の出来事だと違いをいくら強調しても、出来事であるという共通点からは逃れられない。同種の出来事として並べて俯瞰的に捉える視点からは逃れられない。これは、現実と言語の<中間>の一例であり、このやむを得なさからは逃れることはできない。
なぜなら、「流れ星が流れた」と発話することも、現実の出来事であることからは逃れられず、「流れ星が流れた」という出来事も言語で言い表さなければ文章で表現することができない、ということにまで、現実と言語の<中間>は及んでいるのだから。

6-5 二つの時間軸の図示的な比喩
二つの時間軸の<中間>的なあり方は、どこまでも<中間>的であらざるをえないから、「ある、なる」における様相についての考察が様々な<中間>的な局面を示したように、時間軸のあり方も、様々な<中間>的な局面を見せる。
よって、この二つの時間軸については、様々な<中間>的な説明ができる。例えば、次のように図示することもできる。
まず、現実の時間軸についてだが、現実性は過去と現在に付与されるが、純粋な未来には付与できないのだから、「現実の時間軸には、過去と現在しかなく、未来はない。」と言うことができる。そこで、現実の時間軸は、現在から始まり過去に向かう半直線として描くことができる。この半直線は、因果の充満についての話のなかで出てきた、大きな流れのイメージと重なる。現在を源流とする大河だ。
一方、言語の時間軸は、「未来しかなく、現在と過去はない。」と言うことができる。そこで、現在に最も接近した未来を始点とし、未来に向けた半直線を描くことで、言語の時間軸を表現したくなる。しかし、そうはならない。
なぜなら、純粋な過去には、昨日や一昨日といった時点が含まれているが、純粋な未来には、明日や明後日といった時点は含まれていないからだ。
純粋な過去とは、想起阻却過去であり、絶対現実である。「ある、なる」では、その無内包が強調されていたが、私は、因果の充満についての議論が示したように、そこに充満を見るべきだと考えている。それならば、充満した過去のなかには、昨日や一昨日が含まれているはずだ。ただ、充満しているから、明示することができないに過ぎない。そのような意味で、現在と過去を含む現実の時間軸は、昨日、一昨日といった無限の点で充満した線として表すことが適当だろう。
一方、言語の時間軸にある未来は、充満しておらず、無である。無なのだから、そこに、明日や明後日といった時点を含めることはできない。
だから、言語の時間軸を、点で充満した直線という比喩で表現することは適当でない。あえて書くなら、何も含まれていないということを意味する白丸だろう。書き入れる場所としては、現在の空白であり未来の空白であるということを意味するために、現実の時間軸として書き入れた半直線の現在の側の端に接するように、白丸を書き添えるようなかたちだろうか。
「過去--------現在
○未来」 というように。
しかし、この図は、間違いだらけでもある。まず、未来は無なのだから、未来について何かを書くということがすでに誤りだ。また、この捉え方は「ある、なる」の言い方をするなら、時間原理Ⅰに基づく「現実の未来」(p.194)を捉えることができていない。現実の未来を書き入れるならば、未来に向けて直線が続いていなければならないはずだ。などなど、色々な問題があるだろう。
ここで例示した二つの指摘は、それぞれ矛盾しているが、それでも、それぞれの指摘は一面的には成立しなければならない。つまり、これらは<中間>的な指摘だ。どうしても<中間>的な問題を抱えた<中間>的な比喩にならざるをえない。ここに、図示による<中間>的な比喩の限界がある。

6-6 「ある、なる」の現在との関係
6-6-1 5つの現在
このようにして、私の議論の流れに乗って、現在についての考察を深めてきた。
それでは、「ある、なる」の5つの現在について、この考察とどのようにつなげることができるか考えてみよう。
5つの現在とは、「瞬間としての現在」「推移する現在」「無時間的な現在」「特異点としての現在」
「永遠の現在(全一的な現実)」であった。

まず、「瞬間としての現在」だが、これは、「流れ星が流れた」という出来事が生じた現在と「流れ星が流れた」と発話した現在との両方を含んだ、未分化な現在のことを指すとしてよいだろう。
「瞬間としての現在」とは、「海戦」の議論で明らかとなった「排中律と共に残る「現在(今)」」であり、「肯定・否定を留保するための仮想的な緩衝地帯(空白)」(p.237)のことである。
これは、先ほど「出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指しており」としたのと同じことである。
「流れ星が流れた」という出来事が生じたが、まだ、そのように発話していない時点を「瞬間としての現在」と捉えるからこそ、そこに、「流れ星が流れた」と発話するか、「流れ星が流れていない」と発話をするかの宙吊りの空白を見ることができ、排中律を立ち上げることができるということである。
また、いずれ、「流れ星が流れた」または「流れ星が流れていない」と発話してしまうことになる、ということも込みで現在として捉えられているので、「瞬間としての現在」は、あくまで「仮想的な」空白なのである。流れ星が流れる。その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる。細分化するなら、そのような一連の流れを含んだものが瞬間としての現在だ。

次に、「推移する現在」だが、これは、「流れ星が流れ、その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる」という一連の流れに意識的になることだと言える。
出来事が生じる時点と発話する時点という二つの時点の間の推移に意識的になったうえで、「瞬間としての現在」を捉えるということだ。
なお、推移を現在という観点から捉えることは、推移は現在においてしか生じない、という私の実感と一致する。現在において次々と出来事が生じ、過去として堆積していくというかたちで推移はあり、一旦、完全に過去となった出来事は、より過去に推移するということはないという実感である。
1年前の出来事が、やがては2年前の出来事になるのは、1年前の出来事がより過去に推移し、古くなるからではなく、現在が推移し、相対的に、より遠い過去になるからだ。そのようなイメージと、現在においてのみ推移があるという捉え方は整合する。

一方、「無時間的な現在」とは、出来事が生じる時点と発話する時点をそれぞれ独立のものとして捉え、「流れ星が流れた」と「流れ星が流れたと発話した」という独立の二つの対等な出来事として捉えるということである。「推移する現在」においては、出来事が生じる時点と発話する時点との間の推移という関係を強調していたが、「無時間的な現在」においてはその独立性を強調する。そのような意味で、「推移する現在」と「無時間的な現在」は対になっていると言える。

そして、「推移する現在」という捉え方と、「無時間的な現在」という捉え方に意識的になったうえで、その二つの捉え方が、「今」という特権的な時においては重なるということが、「特異点としての現在」である。これは、先ほどの、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間とを見渡す視点に立つということである。

このように、「ある、なる」の「現在」についての考察は、出来事が生じた時点と、そう発話する時点という二つの時点を、未分化に「瞬間としての現在」として捉えていたところから出発し、そこから、二つの時点の推移という関係性(「推移する現在」)と捉える道と、二つの時点の独立(「無時間的な現在」)と捉える道に分岐し、再び「特異点としての現在」として合流する、という経路をたどったものだと整理することができる。

ここで、出来事が生じた瞬間は現実としての過去と結びつき、発話した瞬間は言語としての未来に結びついているということを思い出してほしい。
そうだとするなら、これら二つの瞬間を意識的に含んだものとして表現されている「特異点としての現在」は、意識的に過去と未来と結びついていなければならない。
現在が過去と未来に結びつくということは、要は、全てであり、永遠である。
これが、「全一的な現実」ということであり、「永遠の現在」ということである。

雑駁ではあるが、このようなかたちで、私の議論における「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの現在は、「ある、なる」の5つの現在と結びつく。

6-6-2 文章で表現することの限界
ただし、現在をこの文章で表現するのには限界があるということに、留意しなければならない。
限界とは、オズモの物語において「座って、図書館の向かいの喫茶店で本を読んでいて、(・・・)すっかり忘れている。」(p.260)というあの箇所として「特異点としての現在」を表現することの、「物語という限界」(p.261)のことである。
この限界は、この文章自体が発話であり、先ほどの「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在と、「流れ星が流れた」と発話する現在のずれが、この文章自体にも及んでいるということを示している。
「あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間はどこまでも現在にならず、その発話が別の出来事として捉えられてこそ、現在になるのだ。」と述べたとおり、発話はどこまでも出来事とは別の出来事であり、どこまでも発話は出来事に追いつけない。そういう側面がある。この文章での「「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在」という記述さえ、その出来事自体にはたどりつけてはいない。これが「物語という限界」である。
この「物語という限界」は、「推移する現在」という捉え方に根源があるとも言える。「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで関係づけるという飛躍があるからこそ、出来事を物語ることが可能となり、また、その物語の限界が明らかとなる。
「流れ星が流れた」ので「流れ星が流れたと発話した」というかたちでの推移を認めることが、この文章という物語を立ち上げ、また、物語という限界も立ち上げる。
多分、この推移という問題は、この文章で述べようとしたことのなかでは、最も難しい問題だ。
だから、推移についてより正確に指し示すためには、私は、因果の充満についての議論において言及した、大河の流れというイメージに頼ることしか思いつかない。

6-7 認識・想起・発話
この文章では、特にその理由を説明することなく、過去の想起、現在の認識を全て発話に含めて扱ってきた。
そのように扱ってきたからこそ、全てを現実と言語の拮抗として捉え、そして、現在を「出来事が生じる現在」と「発話する現在」に捉えることができた。
だから、最後に、本当に、過去の想起、現在の認識を発話として位置づけることができるのかという問題に答えなければならない。
過去の想起とは、例えば「流れ星が流れた」と思い出すことだ。また、現在の認識とは、例えば「流れ星が流れた」と目で見て認識するということだ。
これらは、これまでの私の議論に沿えば、「「流れ星が流れた」と思い出す」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と思い出す」と発話したということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」と発話するということである。そして、そうでしかない。だから、想起も認識も出来事であるか、発話であるかのいずれかだということになる。
しかし、想起する、(目で見て)認識する、ということには、それだけには留まらないものがある。想起、認識には、現に想起し、現に認識しているという現実性がある。「現に」という副詞の付加としては回収できない、現実との接続がそこにはある。
「流れ星が流れた」という事実としての描写と、「流れ星が流れたところを見たのを思い出した」という認識や想起を込めた描写は同じではない。後者の描写は一段階、現実に迫っている。
しかし、この「一段階」のずれについて、この文章で、これ以上迫ることはできない。
なぜなら、このずれについて述べようとする試みは、先ほどの「推移する現在」から生じる「物語という限界」に突き当たるからだ。
「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで繋げるという飛躍こそが、現実性の付与であり、想起であり、認識なのではないだろうか、ということだ。
そのような意味で、過去の想起や現在の認識は、発話とは全く異なるはずだが、発話に含めざるを得ない「物語という限界」がある。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 5 言語による時間操作

5 言語による時間操作
5-1 三つの時制の問題
ここまでの検討により、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という問いについては、「現実と時間推移を結びつけ、また、言語と時制区分を結びつけることができ、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>があるという図式がある。」と、とりあえずの結論が出た。
しかし、先送りした問題が二つある。
ひとつが、予告したとおり、「現在」における<中間>の複雑さという問題である。
もうひとつは、明記しなかったが、「未来」「過去」「現在」という三つの時制相互の関係における<中間>についての問題だ。
これまでの検討では、突き詰めると、全てを現実と言語の<中間>として捉えることができた。それならば、「ある、なる」では明示していないが、未来、過去、現在という三つの時制相互の関係性についても同様に<中間>として捉えられるのではないか。そのような問題意識である。(「ある、なる」においては、未来、過去、現在というそれぞれの時制内部での<中間>や、過去、未来、現在を時制区分としてまとめて捉えたうえでの、時制区分そのものについての<中間>については述べているが、時制区分相互の関係性については述べていない。)
整理すると、「未来、過去、現在という時制区分相互というレベルにおいて現実と言語の<中間>という捉え方は可能か。可能ならば、それは、どのようなものか。」これが、この章で検討したい問題である。そして、予告するならば、この検討を通じて、「現在」における<中間>の複雑さというもうひとつの問題もあわせて解決できると考えている。

しかし、この検討については、ひと目で一筋縄ではいかないように思える。
現実と言語という二つの観点から、三つもある時制の関係性について、整理することができるのだろうか。
まずは、二つの組み合わせで考えたほうがいいだろう。
そこで、まずは、先ほど、現実と言語の様々な<中間>をたどる議論のなかで、未来においては、現実より言語が優勢であり、過去においては、言語より現実が優勢であると整理したことを手がかりに、言語と未来を、現実と過去を、それぞれ結びつけ、そこに対立構造を見出すところから検討をはじめたい。

5-2 過去を未来に渡す
過去・現実と未来・言語の関係については、冒頭のベタの神とスカの神の拮抗という捉え方と結びつけることもできる。過去・現実は、いずれもベタの神の領域にあり、未来・排中律は、いずれもスカの神の領域にあるとした話だ。
(その際、現在もスカの神の領域にあるとしたが、ここでも、現在については先送りする。現在は、かなりやっかいな問題なのだ。)
このような観点から、過去、未来について、捉え直してみよう。

5-2-1 過去を語る
過去について、「ある、なる」の純化の作業を逆にたどるかたちで整理してみる。
純化した過去とは、「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去であり、絶対現実のことだった。
純粋だからこそ名前をつけることもできない想起阻却過去に数値・名前を与えることで、想起阻却過去は想起過去と想起逸脱過去へと変質し、そこに、「内破と内閉」という拮抗が生まれる。
しかし、想起過去と想起逸脱過去は全くの対等ではない。
想起過去は、現に具体的な内容をもって想起されているが、想起逸脱過去は、現にそのようには想起されていないという違いがある。もし想起逸脱過去を具体的な内容をもって想起してしまったら、それは想起過去か反実仮想になってしまう。
だから、想起過去と想起逸脱過去の関係では、どこまでも想起過去が優位である。
これが、純粋な過去が内容のある過去Aに転落していく過程だ。

過去に含まれている「想起」という側面を捨象するなら、これは、「ある」の議論において行った、現実Aに、排中律というろ過装置を設置し、言語と現実とに純化していく作業とちょうど逆の作業と言ってよい。(「想起」については後ほど考える。)
確認のため、この話を、「ある」の排中律の議論に引き寄せて繰り返してみよう。
するとこうなる。
「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去は、排中律により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)、または「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった過去」という想起逸脱過去(非過去A:過去Aの否定)のいずれかである。こういう捉え方ができる。
これは、絶対現実としての想起阻却過去に、排中律により空白が呼び込まれ、過去は想起過去または想起逸脱過去、つまり、過去Aまたは非過去Aのいずれかという二つ性を有するものとして捉えられるということだ。
そして、更に、現に想起されているという現実性の付与により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)が想起逸脱過去(非過去A)に優位することになる。
これは、現に想起しているという副詞的な現実性の付与により、過去は現にある過去Aという一つ性を有するものとして捉えられるということでもある。
このようにして、想起阻却過去は排中律と絡み合い、過去Aという具体的内容を持つ過去に転落する。これが、「過去を語る」という作業に相当する。

もう少し、どういうことか、例を用いながら説明しよう。
今日、11月15日にとっての過去、例えば11月14日は、まだ何も言及されていない過去、想起阻却過去だ。(厳密には、11月14日だったということは既に言及され、11月14日だったという内容を持っているが、喩え話なので目をつぶってもらいたい。)
ここで、私が今日、11月15日に「11月14日は雨だった。」と想起し、語る。そうすると、その過去は想起過去となる。そして、そう語るということは、同時に、そうでなかった可能性も立ち上げることになる。「11月14日は雨ではなかったということもありうる。」というように。なぜなら、それが排中律の働きであり、排中律の空白を利用するということだからだ。このようにして生じるのが想起逸脱過去だ。
しかし、私は、現に、「11月14日は雨だった。」と想起しているのだから、想起逸脱過去より想起過去が優位し、それが、「11月14日は雨だった。」という内容のある過去、過去Aとなる。
これが、「過去を語る」ということである。
このようにして、「ある、なる」の語り方を逆転し、「なる」の過去についての議論と、「ある」の排中律の議論を接続することで、過去について、「過去を語る」という側面から述べることもできる。

5-2-2 「雨だった」と「痛かった」の違い
なお、この11月14日の雨の例は、「ある、なる」の例とは違う。
「ある、なる」では、想起過去の例は、「痛かったと想起される」であり、想起逸脱過去の例は、「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった」であった。
しかし、この例と、私の例とでは、全く違うように思えるが、実は同じことを指している。
「痛かったと想起される」とは、何か特定の痛みがあったということを意味する。例えば、「足の小指がちぎれるように痛かった(と想起される)」というような。多分、角に足の小指をぶつけたのだろう。
とすると、想起逸脱過去は、その特定の痛みではない別の痛みがあったことを意味する。「足の小指がちぎれるように痛かった、とは異なる仕方で痛かった」である。
そして、「ある、なる」の議論によれば、この想起過去と想起逸脱過去の逸脱と回収の反復は、ついに、「痛かった」といった「特定の記述を失い」(p.213)、想起阻却過去に至る。
とするなら、想起阻却過去に至る直前には、「足の小指がちぎれるように痛かった」に対応する想起逸脱過去は、「全く痛くなかった」も含むものとなる。これは、排中律の力をどこまでも開放し、議論領域を越え、「偶数は黒色ではない」を認めるのと同じことである。
そのように考えるならば、「11月14日は雨だった。」に対応する想起逸脱過去は、その否定、つまり「11月14日は雨ではなかった。」だとすることに何ら問題はないだろう。

5-2-3 過去を未来に渡す
このようにして、過去について、「過去を語る」という面から捉え、そこに、想起逸脱過去、絶対現実から過去A、現実Aへの転落との同義性を認めることができた。
更に話を進めると、「過去を語る」ということは、「過去を未来に渡す」ことであると言うこともできる。
どういうことか説明しよう。
「過去を語る」ということは、その過去の特定の内容に注目するということでもある。「過去を語る」ことにより、注目されたその過去、例えば、「11月14日は雨だった。」という過去は、特定の内容を持つものとして確定する。そして、その過去について既に行われた言及は、今後、いつでも使えるものとなる。
先ほどの例で、私は、11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。このように「過去を語る」ことで、私は、将来のある時点、例えば11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことができる。
当然だが、もし、11月15日の発言がなければ、11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことはできない。
これが、「11月14日は雨だった」というように過去を語ることで、この過去についての言及を、未来において使えるようになるということであり、そのような意味で、「過去を語る」ことは「過去を未来に渡す」ことであるという言い方もできる、ということだ。

5-2-4 認識誤りの問題
それでは、この「過去を未来に渡す」に着目することに、どのような意味があるのだろうか。
私は、認識誤りという問題について考察を深めるためには「過去を未来に渡す」という捉え方が必要だ、と言いたい。
ここでの認識誤りの問題とは、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」とか「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」とか「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」とか、そういう哲学的問題だ。私にとってはこれらの問題は重要な問題だ。

認識誤りが発生するメカニズムのかなり深いところに、「過去を未来に渡す」という作業は関わっていると思う。
11月15日の「11月14日は雨だった。」という発言、つまり「過去を未来に渡す」作業がなければ、「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言ったけど、実は、それは勘違いで、本当は晴れだった」ということはありえない。「蛇だと思った」という言明をしたからこそ、その言明を未来において使い、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」と言うことができる。「崖から落ちた」という言明があったからこそ、「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」と言うことができ、「1+1=2と思っていた」という言明があったからこそ、「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」と言うことができる。
これらに共通するのは、ある時点で、それ以前の出来事について発言し、その発言が未来において見直されるということだ。
そのような意味で「過去を未来に渡す」という作業は、認識誤りを発生させるためには必須なのではないだろうか。
(なお、ここでは、現在と過去を分けずに取り扱い、想起、認識、発話といったものをあえて混同しているが、後ほど、それでいい、という議論を行うので、ここでは、そういうものだ、ということでお付き合いいただきたい。)

5-2-5 認識誤りの問題の重要性
私にとって認識誤りは重要な問題なのだが、「ある、なる」の議論との関係でも、その重要性を強調することができる。
まず、「認識誤り」は想起逸脱過去を立ち上げるためには必須だという言い方ができる。
想起逸脱過去とは、「痛かったと想起される」想起過去がまずあり、そこから「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった。」というかたちで立ち上がるものだった。
これを、この認識誤りの例で言えば、11月15日の「11月14日は雨だった。(と想起される)」という想起過去があるからこそ、実は、それは認識誤りであり、11月16日の「一旦は、「11月14日は雨だった」と想起されたが、実は、11月14日という過去は、その想起とは異なる「晴だった」という内容で想起されるものだった。」という想起逸脱過去の可能性が立ち上がるということになる。
このように考えると、つまりは、想起逸脱過去とは、将来、認識誤りが生じる可能性があるということ自体を指すとさえ言える。

また、認識誤りは、「ある」の議論においての中心的な概念である、否定、欠如を立ち上げるためにも必須である。
実は違ったという、別の過去の可能性がなければ、過去の否定、過去の欠如について語ることはできない。認識誤りの余地が全くなければ、ただ「11月14日は雨だった。」であり、実は「晴れだった」ということはありえない。
これは、排中律が働かないということであり、排中律を立ち上げるのに必要な空白がないということである。これは結構大きな問題だと思う。
「過去を未来に渡す」とは、「過去を語る」ということの言い換えであり、「過去を語る」とは、過去を言語的に捉えるということなのだから、排中律の話にまで結びつくということは当然と言えば当然なのだが、認識誤りの問題とのつながりという意義を強調するためにも、ここでは「過去を未来に渡す」ことが認識誤りを発生させ、排中律を立ち上げるということを強調しておきたい。

なお、認識誤りの問題は、「世界像の拮抗」(p.284)の問題にも通ずる。
現代人である私たちがが、ライオン狩りの成功のために最後の二日間も踊る酋長に説得する際に期待するのは、逆向き因果を信じていたが、それは認識誤りで、実は順向き因果が正しかった、という心変わりだ。踊りがライオン狩りの成功に因果を及ぼしていると主張する酋長に対して、それは実は認識誤りで、少なくとも最後の二日間の踊りはライオン狩りの成功には無意味だと、気付かせようとして説得する。
これは、蛇がいると騒いでいる人に、それは、実は認識誤りで、ロープだ、と気付かせることと同型だ。
もし、何も言葉を出さず、ただ踊り、ただ騒いでいる人がいたら、その人は何をしているかわからないから、説得することはできない。
説得ができうるのは、その過去に、「この踊りはライオン狩りの成功のためのものだ。」、「蛇がいる。」という発言があるからだ。
その意味で、「世界像の拮抗」の問題にとって、「過去を語る」ということは大きな意味を持つ。
そして、逆向き因果の可能性が否定できないということは、一瞬蛇に見えたそのロープが、やはり実は蛇だった、という可能性は、実はどこまでも否定できないことと類似性がある。(ただし、逆向き因果の話は、少なくとも祈りという別の問題を含むので、イコールではない。)
この、一見確定していると思われる過去について、どこまでも、「認識誤り」であり実は違ったという可能性を立ち上げるということが、「過去を未来に渡す」ということの意味でもある。

(「過去を未来に渡す」には、現に、1+1=2と計算したという過去を、未来に「以下同様」に計算するよう渡すという意味も込めており、「認識誤り」の問題は規則の成立という点でも重要な意味があると思うが、話が長くなりそうなので、この文章では触れない。)

そして、私は、「過去を語る」「過去を未来に渡す」ことについての考察を通じて、スカの神には言語という名と、未来という名があると言いたい。
そして、過去においてあるのは、スカの神による未来化とも言うべき言語的操作を通じて、根本にあるベタの神を透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、過去においては、ベタの神がスカの神に優位する。

5-3 未来を過去に渡す
その逆に、「未来を過去に渡す」という作業もある。
まず、それと同義となる「未来を語る」ということを考えてみよう。
純粋な未来は無であり、純粋な未来に言及することはできず、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの拮抗から透かし見るしかない。
だから「明日、海戦が起こるだろう。」と語ったり、11月16日に、「11月17日は雨だろう。」と語ったりすることは、未来を語っているということであり、本来、言及できないものについて言及しているということだ。
言及できないものをあえて語るということは、純粋な未来から、語られる内容を持った未来Aへ転落するということである。「未来を語る」ことについても、転落はついてまわる。

また、未来には言語という側面もあることから、「未来を語る」とは、「言語を語る」ということでもある。
現実と言語の<中間>、拮抗の一場面に、純粋な現実と、純粋な未来との純粋な対立があるならば、現実と全く切り離された純粋な言語は、「現に」語られていないのだから、そのような言語自体に言及することはできない。
現に言及することができないはずの言語に言及するということは、純粋な言語から言語Aへの転落であるとも言える。

こういった、純粋な未来または純粋な言語を、「現に」既に語られたものとして取り扱うということこそが、「未来を過去に渡す」という作業だ。
「明日、海戦があるだろう。」「11月17日は雨だろう。」というのは、既に語られた、過去の言明だからこそ、「現に」ある、現実の未来についての言明として明示することができる。
この行為は、いわば、空白を受肉するということだと言ってもよいだろう。

ここにあるのは、ベタの神による、過去化とも言うべき受肉的操作を通じて、根本にあるスカの神を、透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、未来においては、スカの神がベタの神に優位する。

5-4 二つの時間軸
このようにして、過去を語り、過去を未来に渡す、また、逆に、未来を語り、未来を過去に渡すというかたちで、過去と未来はつながっている。
この接続を可能にしているのは、「ある、なる」の述べ方によれば、時制的な視点移動である。
この時制的な視点移動とは、過去を語り、未来を語るというやりかたで行われており、「語る」とあるように、つまりは、言語的な機能である。
しかし、時制的な視点移動という言語的な機能も、現実と言語の<中間>からは逃れられない。
どういうことかというと、完全な視点移動は不可能であり、どうしてもズレが生じてしまうのだ。
「11月15日は雨だった。」と過去を語っても、その過去自体を未来に渡すことはできない。未来に渡されるのは、「「11月15日は雨だった。」と語った。」ことである。
過去を語ることで行われているのは、現実の過去を言語的に捉え、未来でも言語的に使えるようにするということだ。その意味で、過去を語ることで行われているのは、現実としての過去を言語としての未来に渡すということにならざるを得ない。ここにズレが生じている。

一方、未来を語ることについてもズレが生じている。なぜなら、未来を語るとは、(無としての)現実の未来を、そのことについての既に行われた過去の言及とするということだからだ。これは、現実の未来を言語としての過去に渡すことと言ってもよい。
だから、時制的な視点移動を、一本の数直線上の移動のように捉えてはならない。
いわば、現実の時間軸と、言語時間軸という二つの時間軸があり、二つの時間軸を飛び移るかのように時制的な視点移動は行われるのだ。

5-5 時制的な視点移動の重要性
この、時制的な視点移動という言語的機能は、言語の根本的な機能だと言ってもよいだろう。
なぜなら、時制的な視点移動とは、つまりは、「過去を語る」ということであり、「未来を語る」ということであり、要は、全てについて語るということだからだ。
(「過去を語る」にも「未来を語る」にも含まれないもの、例えば「現在を語る」については、後ほど、「過去を語る」ことと「未来を語る」こととの複合というように位置付けるつもりだ。また、いずれの時制にも含まれない「反実仮想を語る」もあるが、反実仮想については、(実際は「11月15日は雨だった。」が)「11月15日は晴れだったなら。」というように言外に、「過去を語る」ことが含まれているので、「過去を語る」ことの派生として捉えることができると考えている。また、あいさつのように、「何についてでもなく語る」ということについては、語る対象ではなく「語る」ということ自体についての別な考察が必要と思われる。)

「ある、なる」のうち「ある」の議論において中心的な役割を演じていた排中律は、「ある」の議論の階層においては言語の根本的な機能を体現していると思われたが、「なる」の深まった議論を経るならば、「時制的な視点移動」こそが、言語の根本的な機能を体現していると考えた方がいいだろう。あくまで、重層的な「ある、なる」の議論における、「ある」という一側面を捉え、そこで輪切りにするならば、「時制的な視点移動」の断面図として、排中律が現れるに過ぎないように思われる。