「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~」カテゴリーアーカイブ

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 7 まとめ

7 まとめ
7-1 ベタの神の勝利
ここまで私は、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という私の問題について、私なりの答えを模索してきた。
まず第4章において、様々な<中間>の根本に、「(充満した時間推移としての)現実」と「言語」の<中間>があることを確認した。
そして、第5章において、過去と未来の<中間>について考えるなかで、「現実」と「言語」それぞれの時間軸を発見し、その間での視点移動という言語の働きを見出した。
第6章においては、特に現在に着目し、その複雑さの原因は、二つの時間軸の絡み合いがまさに現在において発生しているからであることを確認した。
このように考察を進めることにより、現実と時間の絡み合いについて、「現実と言語という二つの時間軸における現実と言語の拮抗」というところにまで明らかにすることができた。

7-2 この文章の成果
この文章で主として行なったのは、いわば、時間を言語的な操作として捉え、現実についての「ある」の議論なかに時間についての「なる」の議論を埋め込むという作業だ。
そのような意味で、この文章は、「ある、なる」においては、数行で書かれていることについての考察だったのかもしれない。
「交錯配列の後半「なるようにある」も、時間(なる)と現実存在(ある)の絡み合いである。しかしこんどは、「なる」が「ある」の内へと入り込んで来る。つまり、「なる」という仕方で「ある」ということ、時間推移が生じるという仕方で現実が成立していることを、「なるようにある」は告げている。」(p.199)という部分だ。
「ある、なる」では、非常に雑駁に言うならば「時間原理Ⅰにより、現実が無時間的に存在する。時間原理Ⅱにより、現実が今という特異点で瞬間的に存在する。その中間に現実と時間はある。」というようなかたちで、主に時間に現実を埋め込む作業と行っていたと言ってもいいだろう。
私が目指したのは、「ある、なる」の議論を自分の問題に引き寄せ、より、ある、なるの交錯配列を明確に示すことだった。そして、その作業をある程度行うことができたと思う。

7-3 この文章の問題
しかし振り返ってみると、「ある、なる」では私がしたような議論がなされていないということこそが重要だという思いが湧き上がってくる。
私の議論は、本来、議論の末に垣間見ることができる、言語と現実の拮抗を、所与のものとして扱うことで成り立っている、いわば、逆立ちした議論だ。
いわば、私の議論は、スカの神が優勢な物語だとも言える。現実と時間について、このように言語化し、分節化した描写ができたのは、この文章においては、言語、つまり、スカの神が優勢だったからだ。しかし、最後には、ベタの神が優勢になって、物語は終わらなければならないはずだ。そうでなければ、この文章が、ベタの現実にあるということから離れていってしまう。
特に、この文章が、時間推移の問題について何ら解決できていないことは大きな問題だろう。そのことも多分、この逆立ちした議論の進め方に問題がある。
先ほど紹介した「なるようにある」の交錯配列の文は「それは、時間的な推移生成が、なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」(p.199)と続く。
私の「なるようにある」という一面的な考察では、時間推移という問題に対しては驚くしかないのだ。

7-4 「ある、なる」の魅力
だからこそ、「ある、なる」は、私がしたような議論をしなかった、ということにこそ真髄があり、魅力がある。
「言語」「現実」といった概念を所与のものとし、大上段から運命を切り分けるのではなく、現実Aというあたり前の描写から、排中律、様相、時間原理Ⅰ、時間原理Ⅱ、マスターアーギュメント、オズモの生涯といった色々な道具を使い、精緻かつ着実に運命の奥深くに分け入っていく。「ある、なる」で強調しているように、「言語」「現実」といった概念を使いつつも、ずらしていく。(この文章で、私は「ある、なる」の操作を「純化」としたが、純化などできないということこそが重要とも言える。)そのような過程を経るからこそ、そこに見出された、現実と言語の拮抗を、重層的な<中間>として捉えることができる。
そして、「ある、なる」は、第25章、エピローグへと進み、私がここで行った議論を振りきっていく。そこでは、現実と言語との拮抗が、神と人間との拮抗といった新たな次元に踏み入れ、別の色合いを帯びていく。その次元に達するためには、私が行なったような逆立ちした議論では足りず、丁寧な議論の積み上げが必要だ。
私は、この文章を通してやろうとしてできなかったからわかるが、これが、「ある、なる」の魅力だ。

更に「ある、なる」には、もう一つの魅力がある。先ほど引用した文章でも「なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」としているところに、その魅力が現れている。入不二は、一歩ずつ知的探検を進め、そこから広がってくる景色に驚きを感じ、喜びを感じているようにさえ思える。私ならば、行く手を遮る障害物としか思えないような哲学的な問題を「驚き」と捉える、この屈託の無さも「ある、なる」の魅力だと思う。そして、この屈託の無さは、第25章、エピローグに向けて全開になっていく。
「ある、なる」の二つの魅力、つまり屈託の無さと精緻な議論の積み上げとは、無関係ではないと思う。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 6 複雑な現在

6 複雑な現在
6-1 二つの現在
それでは、いよいよ最後まで後回しにしていた問題、つまり現在について考えてみたい。

「ある、なる」において、現在は様々な描写がされている。
まず、「瞬間としての現在」が提示され、そこからオズモの物語を使って「無時間的な現在」「推移する現在」「特異点としての現在」(p.248)が展開される。そして、「「現に」という現実性は非時間的であって、時間の一部分ではない。」(p.253)ということから、現実と時間の<中間>の一場面として、「永遠の現在(全一的な現実)」(p.254)が追加される。
さて、この5つの現在を、どのように扱ったらいいだろう。これらの現在を、現実と言語の<中間>という道具立てで整理することは可能なのだろうか。

まずは、「ある、なる」の議論ではなく、この私の文章に沿って考えてみよう。
先ほどは、過去と未来という時制について述べてきたが、その二つの時制の接点として現在があるとすることには異論はないだろう。
また、先ほど、時間軸は、現実の時間軸と、言語の時間軸の二つがあるとしたのだから、接点としての現在が二つ現れるということも異論はないはずだ。現実の現在と言語の現在というように。

それでは、現実の時間軸における現実の現在とは何を指すのだろうか。
これまでの議論に即するなら、現実の現在とは、純粋にスカな無としての未来から、純粋にベタな現実としての過去が生まれる瞬間だと言っていいだろう。出来事が生じる瞬間と言ってもよい。
(なお、「生まれる」「生じる」という表現は不正確であり、何か生まれる元となるものがあるようなイメージから逃れられていない。しかし、他にマシな表現がないのでご容赦いただきたい。)
一方で、言語の時間軸における言語の現在が何を指すのかと言えば、言語の現在とは、既に発話された過去と、未だ発話されていない未来の間にある瞬間のことだと言えるだろう。つまりは、発話する瞬間と言ってもよい。

6-2 二つの現在のずれ
そして、重要なのは、現実の現在と言語の現在、つまり、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間という二つの瞬間は重ならないということだ。
「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間は重ならない。
流れ星が流れてから「流れ星が流れた」と発話するから、必ず、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続する。
なお、これは、「流れ星が流れる」という瞬間的な出来事でなく、「ネコがいる」というような持続的な出来事でも同じである。「ネコがいる」という出来事があってから、「ネコがいる」という発話がある。
ただし、その原因は、ネコを目で認識してから脳で処理するのに神経伝達の時間がかかるというようなことにあるのではない。
そうではなく、「現実について言語で語る」という基本的な構造があるからだ。
それは、ネコがいるという出来事を「ネコがいる」と表すなら、ネコがいると発話することを「「ネコがいる」と言う」と、より冗長なかたちで表現せざるを得ないということに現れている。「と言う」という表現の分だけ、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続せざるを得ない。

6-3 過去・未来との接続
更には、この二つの現在は、現実としての過去と、言語としての未来と、それぞれ結びつく。
「流れ星が流れた」現在は、現に「流れ星が流れた」という現実性が付与されている。
その意味で、出来事が生じる瞬間としての現在は、現実である過去と見分けがつかない。
あくまで、現在は、「今」であり、一方、過去は「昨日」であったりするが、その違いは、「昨日」と「一昨日」のような、過去同士の違いと見分けがつかない。
「現在は、現に、この目で、今、見えているんだよ。」などと主張したくなるかもしれないが、それは、あくまで言語による主張であり、出来事が生じる瞬間としての現在には届かず、発話する瞬間としての現在にしか届かない。
(主張以前の「現在は、現に、この目で、今、見えている」という認識自体は、出来事が生じる瞬間としての現在に届くと言いたいかもしれないが、後ほど、そのような認識も発話と同様に扱うべきと整理する予定なので、できないものとして読んでいただきたい。)
これは、純化された想起阻却過去は、過去であるという描写さえ失っているのだから、純化され、現在であるという描写を失った現在と見分けがつかないということでもある。

一方、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在である時点では、「流れ星が流れた」と発話する瞬間は、未だ現在ではない。つまり未来である。
発話する瞬間が未来であるとはどういうことかというと、未だ発話されず、現実性が付与されていないから、「流れ星が流れた」と発話することも、「流れ星が流れなかった」と発話をすることもできるということだ。これが、未来の空白であり、排中律の空白であり、現在の空白でもある。(ここで、やっと現在の空白が登場し、この文章の冒頭のスカの神の三つの側面が揃ったことになる。)
「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在の空白とは、つまりは、出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指している。現在の空白とは、未来の空白のことだったのだ。

このように、出来事が生じた現在と現実としての過去を結びつけ、発話する現在と言語としての未来を結びつけるようにして、二つの現在と、過去と未来を整合的に捉えることができる。

6-4 二つの現在を見渡す
ただ、違和感があるだろう。この二つの時間軸にある二つの現在を見渡しているのは、どの視点からなのだろうか。まるで、現実の時間軸にある「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間と、言語の時間軸にある「流れ星が流れた」と発話した瞬間を一つの時間軸に置き直し、順序よく並べたかのようだ。これらは一つの時間軸上にないということこそがポイントだったはずなのに。
しかし、このことは、やむを得ないとも言える。
どういうことか、引き続き流れ星の例を用いて考えてみよう。
常識的に考えれば、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在であった時点は過ぎ去り、いずれ、「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在である時点が訪れるはずだ。
当然そうなのだが、そうではないという言い方もできるということが、二つの時間軸のズレの話であり、そこから生じる、出来事が生じる現在と発話する現在のズレの話だったはずだ。
そのような捉え方をするならば次のような言い方もできるだろう。
「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在となる瞬間など来ない。あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間自体はどこまでも現在にならない。発話したということが、流れ星が流れたこととは別の出来事として捉えられてこそ、現在になる。それならば、発話したということは、流れ星が流れたことと独立した別の出来事とさえ言える。というように。
しかし、ここで話が終わらないというところに、それでも「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間とを唯一の視点から見渡し、一つの時間軸上に並べられているかのように捉えてしまうというやむを得なさがある。
それは、「発話したということが流れ星が流れたこととは別の出来事」としたことに現れている。別の出来事だと違いをいくら強調しても、出来事であるという共通点からは逃れられない。同種の出来事として並べて俯瞰的に捉える視点からは逃れられない。これは、現実と言語の<中間>の一例であり、このやむを得なさからは逃れることはできない。
なぜなら、「流れ星が流れた」と発話することも、現実の出来事であることからは逃れられず、「流れ星が流れた」という出来事も言語で言い表さなければ文章で表現することができない、ということにまで、現実と言語の<中間>は及んでいるのだから。

6-5 二つの時間軸の図示的な比喩
二つの時間軸の<中間>的なあり方は、どこまでも<中間>的であらざるをえないから、「ある、なる」における様相についての考察が様々な<中間>的な局面を示したように、時間軸のあり方も、様々な<中間>的な局面を見せる。
よって、この二つの時間軸については、様々な<中間>的な説明ができる。例えば、次のように図示することもできる。
まず、現実の時間軸についてだが、現実性は過去と現在に付与されるが、純粋な未来には付与できないのだから、「現実の時間軸には、過去と現在しかなく、未来はない。」と言うことができる。そこで、現実の時間軸は、現在から始まり過去に向かう半直線として描くことができる。この半直線は、因果の充満についての話のなかで出てきた、大きな流れのイメージと重なる。現在を源流とする大河だ。
一方、言語の時間軸は、「未来しかなく、現在と過去はない。」と言うことができる。そこで、現在に最も接近した未来を始点とし、未来に向けた半直線を描くことで、言語の時間軸を表現したくなる。しかし、そうはならない。
なぜなら、純粋な過去には、昨日や一昨日といった時点が含まれているが、純粋な未来には、明日や明後日といった時点は含まれていないからだ。
純粋な過去とは、想起阻却過去であり、絶対現実である。「ある、なる」では、その無内包が強調されていたが、私は、因果の充満についての議論が示したように、そこに充満を見るべきだと考えている。それならば、充満した過去のなかには、昨日や一昨日が含まれているはずだ。ただ、充満しているから、明示することができないに過ぎない。そのような意味で、現在と過去を含む現実の時間軸は、昨日、一昨日といった無限の点で充満した線として表すことが適当だろう。
一方、言語の時間軸にある未来は、充満しておらず、無である。無なのだから、そこに、明日や明後日といった時点を含めることはできない。
だから、言語の時間軸を、点で充満した直線という比喩で表現することは適当でない。あえて書くなら、何も含まれていないということを意味する白丸だろう。書き入れる場所としては、現在の空白であり未来の空白であるということを意味するために、現実の時間軸として書き入れた半直線の現在の側の端に接するように、白丸を書き添えるようなかたちだろうか。
「過去--------現在
○未来」 というように。
しかし、この図は、間違いだらけでもある。まず、未来は無なのだから、未来について何かを書くということがすでに誤りだ。また、この捉え方は「ある、なる」の言い方をするなら、時間原理Ⅰに基づく「現実の未来」(p.194)を捉えることができていない。現実の未来を書き入れるならば、未来に向けて直線が続いていなければならないはずだ。などなど、色々な問題があるだろう。
ここで例示した二つの指摘は、それぞれ矛盾しているが、それでも、それぞれの指摘は一面的には成立しなければならない。つまり、これらは<中間>的な指摘だ。どうしても<中間>的な問題を抱えた<中間>的な比喩にならざるをえない。ここに、図示による<中間>的な比喩の限界がある。

6-6 「ある、なる」の現在との関係
6-6-1 5つの現在
このようにして、私の議論の流れに乗って、現在についての考察を深めてきた。
それでは、「ある、なる」の5つの現在について、この考察とどのようにつなげることができるか考えてみよう。
5つの現在とは、「瞬間としての現在」「推移する現在」「無時間的な現在」「特異点としての現在」
「永遠の現在(全一的な現実)」であった。

まず、「瞬間としての現在」だが、これは、「流れ星が流れた」という出来事が生じた現在と「流れ星が流れた」と発話した現在との両方を含んだ、未分化な現在のことを指すとしてよいだろう。
「瞬間としての現在」とは、「海戦」の議論で明らかとなった「排中律と共に残る「現在(今)」」であり、「肯定・否定を留保するための仮想的な緩衝地帯(空白)」(p.237)のことである。
これは、先ほど「出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指しており」としたのと同じことである。
「流れ星が流れた」という出来事が生じたが、まだ、そのように発話していない時点を「瞬間としての現在」と捉えるからこそ、そこに、「流れ星が流れた」と発話するか、「流れ星が流れていない」と発話をするかの宙吊りの空白を見ることができ、排中律を立ち上げることができるということである。
また、いずれ、「流れ星が流れた」または「流れ星が流れていない」と発話してしまうことになる、ということも込みで現在として捉えられているので、「瞬間としての現在」は、あくまで「仮想的な」空白なのである。流れ星が流れる。その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる。細分化するなら、そのような一連の流れを含んだものが瞬間としての現在だ。

次に、「推移する現在」だが、これは、「流れ星が流れ、その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる」という一連の流れに意識的になることだと言える。
出来事が生じる時点と発話する時点という二つの時点の間の推移に意識的になったうえで、「瞬間としての現在」を捉えるということだ。
なお、推移を現在という観点から捉えることは、推移は現在においてしか生じない、という私の実感と一致する。現在において次々と出来事が生じ、過去として堆積していくというかたちで推移はあり、一旦、完全に過去となった出来事は、より過去に推移するということはないという実感である。
1年前の出来事が、やがては2年前の出来事になるのは、1年前の出来事がより過去に推移し、古くなるからではなく、現在が推移し、相対的に、より遠い過去になるからだ。そのようなイメージと、現在においてのみ推移があるという捉え方は整合する。

一方、「無時間的な現在」とは、出来事が生じる時点と発話する時点をそれぞれ独立のものとして捉え、「流れ星が流れた」と「流れ星が流れたと発話した」という独立の二つの対等な出来事として捉えるということである。「推移する現在」においては、出来事が生じる時点と発話する時点との間の推移という関係を強調していたが、「無時間的な現在」においてはその独立性を強調する。そのような意味で、「推移する現在」と「無時間的な現在」は対になっていると言える。

そして、「推移する現在」という捉え方と、「無時間的な現在」という捉え方に意識的になったうえで、その二つの捉え方が、「今」という特権的な時においては重なるということが、「特異点としての現在」である。これは、先ほどの、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間とを見渡す視点に立つということである。

このように、「ある、なる」の「現在」についての考察は、出来事が生じた時点と、そう発話する時点という二つの時点を、未分化に「瞬間としての現在」として捉えていたところから出発し、そこから、二つの時点の推移という関係性(「推移する現在」)と捉える道と、二つの時点の独立(「無時間的な現在」)と捉える道に分岐し、再び「特異点としての現在」として合流する、という経路をたどったものだと整理することができる。

ここで、出来事が生じた瞬間は現実としての過去と結びつき、発話した瞬間は言語としての未来に結びついているということを思い出してほしい。
そうだとするなら、これら二つの瞬間を意識的に含んだものとして表現されている「特異点としての現在」は、意識的に過去と未来と結びついていなければならない。
現在が過去と未来に結びつくということは、要は、全てであり、永遠である。
これが、「全一的な現実」ということであり、「永遠の現在」ということである。

雑駁ではあるが、このようなかたちで、私の議論における「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの現在は、「ある、なる」の5つの現在と結びつく。

6-6-2 文章で表現することの限界
ただし、現在をこの文章で表現するのには限界があるということに、留意しなければならない。
限界とは、オズモの物語において「座って、図書館の向かいの喫茶店で本を読んでいて、(・・・)すっかり忘れている。」(p.260)というあの箇所として「特異点としての現在」を表現することの、「物語という限界」(p.261)のことである。
この限界は、この文章自体が発話であり、先ほどの「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在と、「流れ星が流れた」と発話する現在のずれが、この文章自体にも及んでいるということを示している。
「あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間はどこまでも現在にならず、その発話が別の出来事として捉えられてこそ、現在になるのだ。」と述べたとおり、発話はどこまでも出来事とは別の出来事であり、どこまでも発話は出来事に追いつけない。そういう側面がある。この文章での「「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在」という記述さえ、その出来事自体にはたどりつけてはいない。これが「物語という限界」である。
この「物語という限界」は、「推移する現在」という捉え方に根源があるとも言える。「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで関係づけるという飛躍があるからこそ、出来事を物語ることが可能となり、また、その物語の限界が明らかとなる。
「流れ星が流れた」ので「流れ星が流れたと発話した」というかたちでの推移を認めることが、この文章という物語を立ち上げ、また、物語という限界も立ち上げる。
多分、この推移という問題は、この文章で述べようとしたことのなかでは、最も難しい問題だ。
だから、推移についてより正確に指し示すためには、私は、因果の充満についての議論において言及した、大河の流れというイメージに頼ることしか思いつかない。

6-7 認識・想起・発話
この文章では、特にその理由を説明することなく、過去の想起、現在の認識を全て発話に含めて扱ってきた。
そのように扱ってきたからこそ、全てを現実と言語の拮抗として捉え、そして、現在を「出来事が生じる現在」と「発話する現在」に捉えることができた。
だから、最後に、本当に、過去の想起、現在の認識を発話として位置づけることができるのかという問題に答えなければならない。
過去の想起とは、例えば「流れ星が流れた」と思い出すことだ。また、現在の認識とは、例えば「流れ星が流れた」と目で見て認識するということだ。
これらは、これまでの私の議論に沿えば、「「流れ星が流れた」と思い出す」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と思い出す」と発話したということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」と発話するということである。そして、そうでしかない。だから、想起も認識も出来事であるか、発話であるかのいずれかだということになる。
しかし、想起する、(目で見て)認識する、ということには、それだけには留まらないものがある。想起、認識には、現に想起し、現に認識しているという現実性がある。「現に」という副詞の付加としては回収できない、現実との接続がそこにはある。
「流れ星が流れた」という事実としての描写と、「流れ星が流れたところを見たのを思い出した」という認識や想起を込めた描写は同じではない。後者の描写は一段階、現実に迫っている。
しかし、この「一段階」のずれについて、この文章で、これ以上迫ることはできない。
なぜなら、このずれについて述べようとする試みは、先ほどの「推移する現在」から生じる「物語という限界」に突き当たるからだ。
「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで繋げるという飛躍こそが、現実性の付与であり、想起であり、認識なのではないだろうか、ということだ。
そのような意味で、過去の想起や現在の認識は、発話とは全く異なるはずだが、発話に含めざるを得ない「物語という限界」がある。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 5 言語による時間操作

5 言語による時間操作
5-1 三つの時制の問題
ここまでの検討により、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という問いについては、「現実と時間推移を結びつけ、また、言語と時制区分を結びつけることができ、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>があるという図式がある。」と、とりあえずの結論が出た。
しかし、先送りした問題が二つある。
ひとつが、予告したとおり、「現在」における<中間>の複雑さという問題である。
もうひとつは、明記しなかったが、「未来」「過去」「現在」という三つの時制相互の関係における<中間>についての問題だ。
これまでの検討では、突き詰めると、全てを現実と言語の<中間>として捉えることができた。それならば、「ある、なる」では明示していないが、未来、過去、現在という三つの時制相互の関係性についても同様に<中間>として捉えられるのではないか。そのような問題意識である。(「ある、なる」においては、未来、過去、現在というそれぞれの時制内部での<中間>や、過去、未来、現在を時制区分としてまとめて捉えたうえでの、時制区分そのものについての<中間>については述べているが、時制区分相互の関係性については述べていない。)
整理すると、「未来、過去、現在という時制区分相互というレベルにおいて現実と言語の<中間>という捉え方は可能か。可能ならば、それは、どのようなものか。」これが、この章で検討したい問題である。そして、予告するならば、この検討を通じて、「現在」における<中間>の複雑さというもうひとつの問題もあわせて解決できると考えている。

しかし、この検討については、ひと目で一筋縄ではいかないように思える。
現実と言語という二つの観点から、三つもある時制の関係性について、整理することができるのだろうか。
まずは、二つの組み合わせで考えたほうがいいだろう。
そこで、まずは、先ほど、現実と言語の様々な<中間>をたどる議論のなかで、未来においては、現実より言語が優勢であり、過去においては、言語より現実が優勢であると整理したことを手がかりに、言語と未来を、現実と過去を、それぞれ結びつけ、そこに対立構造を見出すところから検討をはじめたい。

5-2 過去を未来に渡す
過去・現実と未来・言語の関係については、冒頭のベタの神とスカの神の拮抗という捉え方と結びつけることもできる。過去・現実は、いずれもベタの神の領域にあり、未来・排中律は、いずれもスカの神の領域にあるとした話だ。
(その際、現在もスカの神の領域にあるとしたが、ここでも、現在については先送りする。現在は、かなりやっかいな問題なのだ。)
このような観点から、過去、未来について、捉え直してみよう。

5-2-1 過去を語る
過去について、「ある、なる」の純化の作業を逆にたどるかたちで整理してみる。
純化した過去とは、「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去であり、絶対現実のことだった。
純粋だからこそ名前をつけることもできない想起阻却過去に数値・名前を与えることで、想起阻却過去は想起過去と想起逸脱過去へと変質し、そこに、「内破と内閉」という拮抗が生まれる。
しかし、想起過去と想起逸脱過去は全くの対等ではない。
想起過去は、現に具体的な内容をもって想起されているが、想起逸脱過去は、現にそのようには想起されていないという違いがある。もし想起逸脱過去を具体的な内容をもって想起してしまったら、それは想起過去か反実仮想になってしまう。
だから、想起過去と想起逸脱過去の関係では、どこまでも想起過去が優位である。
これが、純粋な過去が内容のある過去Aに転落していく過程だ。

過去に含まれている「想起」という側面を捨象するなら、これは、「ある」の議論において行った、現実Aに、排中律というろ過装置を設置し、言語と現実とに純化していく作業とちょうど逆の作業と言ってよい。(「想起」については後ほど考える。)
確認のため、この話を、「ある」の排中律の議論に引き寄せて繰り返してみよう。
するとこうなる。
「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去は、排中律により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)、または「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった過去」という想起逸脱過去(非過去A:過去Aの否定)のいずれかである。こういう捉え方ができる。
これは、絶対現実としての想起阻却過去に、排中律により空白が呼び込まれ、過去は想起過去または想起逸脱過去、つまり、過去Aまたは非過去Aのいずれかという二つ性を有するものとして捉えられるということだ。
そして、更に、現に想起されているという現実性の付与により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)が想起逸脱過去(非過去A)に優位することになる。
これは、現に想起しているという副詞的な現実性の付与により、過去は現にある過去Aという一つ性を有するものとして捉えられるということでもある。
このようにして、想起阻却過去は排中律と絡み合い、過去Aという具体的内容を持つ過去に転落する。これが、「過去を語る」という作業に相当する。

もう少し、どういうことか、例を用いながら説明しよう。
今日、11月15日にとっての過去、例えば11月14日は、まだ何も言及されていない過去、想起阻却過去だ。(厳密には、11月14日だったということは既に言及され、11月14日だったという内容を持っているが、喩え話なので目をつぶってもらいたい。)
ここで、私が今日、11月15日に「11月14日は雨だった。」と想起し、語る。そうすると、その過去は想起過去となる。そして、そう語るということは、同時に、そうでなかった可能性も立ち上げることになる。「11月14日は雨ではなかったということもありうる。」というように。なぜなら、それが排中律の働きであり、排中律の空白を利用するということだからだ。このようにして生じるのが想起逸脱過去だ。
しかし、私は、現に、「11月14日は雨だった。」と想起しているのだから、想起逸脱過去より想起過去が優位し、それが、「11月14日は雨だった。」という内容のある過去、過去Aとなる。
これが、「過去を語る」ということである。
このようにして、「ある、なる」の語り方を逆転し、「なる」の過去についての議論と、「ある」の排中律の議論を接続することで、過去について、「過去を語る」という側面から述べることもできる。

5-2-2 「雨だった」と「痛かった」の違い
なお、この11月14日の雨の例は、「ある、なる」の例とは違う。
「ある、なる」では、想起過去の例は、「痛かったと想起される」であり、想起逸脱過去の例は、「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった」であった。
しかし、この例と、私の例とでは、全く違うように思えるが、実は同じことを指している。
「痛かったと想起される」とは、何か特定の痛みがあったということを意味する。例えば、「足の小指がちぎれるように痛かった(と想起される)」というような。多分、角に足の小指をぶつけたのだろう。
とすると、想起逸脱過去は、その特定の痛みではない別の痛みがあったことを意味する。「足の小指がちぎれるように痛かった、とは異なる仕方で痛かった」である。
そして、「ある、なる」の議論によれば、この想起過去と想起逸脱過去の逸脱と回収の反復は、ついに、「痛かった」といった「特定の記述を失い」(p.213)、想起阻却過去に至る。
とするなら、想起阻却過去に至る直前には、「足の小指がちぎれるように痛かった」に対応する想起逸脱過去は、「全く痛くなかった」も含むものとなる。これは、排中律の力をどこまでも開放し、議論領域を越え、「偶数は黒色ではない」を認めるのと同じことである。
そのように考えるならば、「11月14日は雨だった。」に対応する想起逸脱過去は、その否定、つまり「11月14日は雨ではなかった。」だとすることに何ら問題はないだろう。

5-2-3 過去を未来に渡す
このようにして、過去について、「過去を語る」という面から捉え、そこに、想起逸脱過去、絶対現実から過去A、現実Aへの転落との同義性を認めることができた。
更に話を進めると、「過去を語る」ということは、「過去を未来に渡す」ことであると言うこともできる。
どういうことか説明しよう。
「過去を語る」ということは、その過去の特定の内容に注目するということでもある。「過去を語る」ことにより、注目されたその過去、例えば、「11月14日は雨だった。」という過去は、特定の内容を持つものとして確定する。そして、その過去について既に行われた言及は、今後、いつでも使えるものとなる。
先ほどの例で、私は、11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。このように「過去を語る」ことで、私は、将来のある時点、例えば11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことができる。
当然だが、もし、11月15日の発言がなければ、11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことはできない。
これが、「11月14日は雨だった」というように過去を語ることで、この過去についての言及を、未来において使えるようになるということであり、そのような意味で、「過去を語る」ことは「過去を未来に渡す」ことであるという言い方もできる、ということだ。

5-2-4 認識誤りの問題
それでは、この「過去を未来に渡す」に着目することに、どのような意味があるのだろうか。
私は、認識誤りという問題について考察を深めるためには「過去を未来に渡す」という捉え方が必要だ、と言いたい。
ここでの認識誤りの問題とは、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」とか「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」とか「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」とか、そういう哲学的問題だ。私にとってはこれらの問題は重要な問題だ。

認識誤りが発生するメカニズムのかなり深いところに、「過去を未来に渡す」という作業は関わっていると思う。
11月15日の「11月14日は雨だった。」という発言、つまり「過去を未来に渡す」作業がなければ、「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言ったけど、実は、それは勘違いで、本当は晴れだった」ということはありえない。「蛇だと思った」という言明をしたからこそ、その言明を未来において使い、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」と言うことができる。「崖から落ちた」という言明があったからこそ、「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」と言うことができ、「1+1=2と思っていた」という言明があったからこそ、「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」と言うことができる。
これらに共通するのは、ある時点で、それ以前の出来事について発言し、その発言が未来において見直されるということだ。
そのような意味で「過去を未来に渡す」という作業は、認識誤りを発生させるためには必須なのではないだろうか。
(なお、ここでは、現在と過去を分けずに取り扱い、想起、認識、発話といったものをあえて混同しているが、後ほど、それでいい、という議論を行うので、ここでは、そういうものだ、ということでお付き合いいただきたい。)

5-2-5 認識誤りの問題の重要性
私にとって認識誤りは重要な問題なのだが、「ある、なる」の議論との関係でも、その重要性を強調することができる。
まず、「認識誤り」は想起逸脱過去を立ち上げるためには必須だという言い方ができる。
想起逸脱過去とは、「痛かったと想起される」想起過去がまずあり、そこから「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった。」というかたちで立ち上がるものだった。
これを、この認識誤りの例で言えば、11月15日の「11月14日は雨だった。(と想起される)」という想起過去があるからこそ、実は、それは認識誤りであり、11月16日の「一旦は、「11月14日は雨だった」と想起されたが、実は、11月14日という過去は、その想起とは異なる「晴だった」という内容で想起されるものだった。」という想起逸脱過去の可能性が立ち上がるということになる。
このように考えると、つまりは、想起逸脱過去とは、将来、認識誤りが生じる可能性があるということ自体を指すとさえ言える。

また、認識誤りは、「ある」の議論においての中心的な概念である、否定、欠如を立ち上げるためにも必須である。
実は違ったという、別の過去の可能性がなければ、過去の否定、過去の欠如について語ることはできない。認識誤りの余地が全くなければ、ただ「11月14日は雨だった。」であり、実は「晴れだった」ということはありえない。
これは、排中律が働かないということであり、排中律を立ち上げるのに必要な空白がないということである。これは結構大きな問題だと思う。
「過去を未来に渡す」とは、「過去を語る」ということの言い換えであり、「過去を語る」とは、過去を言語的に捉えるということなのだから、排中律の話にまで結びつくということは当然と言えば当然なのだが、認識誤りの問題とのつながりという意義を強調するためにも、ここでは「過去を未来に渡す」ことが認識誤りを発生させ、排中律を立ち上げるということを強調しておきたい。

なお、認識誤りの問題は、「世界像の拮抗」(p.284)の問題にも通ずる。
現代人である私たちがが、ライオン狩りの成功のために最後の二日間も踊る酋長に説得する際に期待するのは、逆向き因果を信じていたが、それは認識誤りで、実は順向き因果が正しかった、という心変わりだ。踊りがライオン狩りの成功に因果を及ぼしていると主張する酋長に対して、それは実は認識誤りで、少なくとも最後の二日間の踊りはライオン狩りの成功には無意味だと、気付かせようとして説得する。
これは、蛇がいると騒いでいる人に、それは、実は認識誤りで、ロープだ、と気付かせることと同型だ。
もし、何も言葉を出さず、ただ踊り、ただ騒いでいる人がいたら、その人は何をしているかわからないから、説得することはできない。
説得ができうるのは、その過去に、「この踊りはライオン狩りの成功のためのものだ。」、「蛇がいる。」という発言があるからだ。
その意味で、「世界像の拮抗」の問題にとって、「過去を語る」ということは大きな意味を持つ。
そして、逆向き因果の可能性が否定できないということは、一瞬蛇に見えたそのロープが、やはり実は蛇だった、という可能性は、実はどこまでも否定できないことと類似性がある。(ただし、逆向き因果の話は、少なくとも祈りという別の問題を含むので、イコールではない。)
この、一見確定していると思われる過去について、どこまでも、「認識誤り」であり実は違ったという可能性を立ち上げるということが、「過去を未来に渡す」ということの意味でもある。

(「過去を未来に渡す」には、現に、1+1=2と計算したという過去を、未来に「以下同様」に計算するよう渡すという意味も込めており、「認識誤り」の問題は規則の成立という点でも重要な意味があると思うが、話が長くなりそうなので、この文章では触れない。)

そして、私は、「過去を語る」「過去を未来に渡す」ことについての考察を通じて、スカの神には言語という名と、未来という名があると言いたい。
そして、過去においてあるのは、スカの神による未来化とも言うべき言語的操作を通じて、根本にあるベタの神を透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、過去においては、ベタの神がスカの神に優位する。

5-3 未来を過去に渡す
その逆に、「未来を過去に渡す」という作業もある。
まず、それと同義となる「未来を語る」ということを考えてみよう。
純粋な未来は無であり、純粋な未来に言及することはできず、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの拮抗から透かし見るしかない。
だから「明日、海戦が起こるだろう。」と語ったり、11月16日に、「11月17日は雨だろう。」と語ったりすることは、未来を語っているということであり、本来、言及できないものについて言及しているということだ。
言及できないものをあえて語るということは、純粋な未来から、語られる内容を持った未来Aへ転落するということである。「未来を語る」ことについても、転落はついてまわる。

また、未来には言語という側面もあることから、「未来を語る」とは、「言語を語る」ということでもある。
現実と言語の<中間>、拮抗の一場面に、純粋な現実と、純粋な未来との純粋な対立があるならば、現実と全く切り離された純粋な言語は、「現に」語られていないのだから、そのような言語自体に言及することはできない。
現に言及することができないはずの言語に言及するということは、純粋な言語から言語Aへの転落であるとも言える。

こういった、純粋な未来または純粋な言語を、「現に」既に語られたものとして取り扱うということこそが、「未来を過去に渡す」という作業だ。
「明日、海戦があるだろう。」「11月17日は雨だろう。」というのは、既に語られた、過去の言明だからこそ、「現に」ある、現実の未来についての言明として明示することができる。
この行為は、いわば、空白を受肉するということだと言ってもよいだろう。

ここにあるのは、ベタの神による、過去化とも言うべき受肉的操作を通じて、根本にあるスカの神を、透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、未来においては、スカの神がベタの神に優位する。

5-4 二つの時間軸
このようにして、過去を語り、過去を未来に渡す、また、逆に、未来を語り、未来を過去に渡すというかたちで、過去と未来はつながっている。
この接続を可能にしているのは、「ある、なる」の述べ方によれば、時制的な視点移動である。
この時制的な視点移動とは、過去を語り、未来を語るというやりかたで行われており、「語る」とあるように、つまりは、言語的な機能である。
しかし、時制的な視点移動という言語的な機能も、現実と言語の<中間>からは逃れられない。
どういうことかというと、完全な視点移動は不可能であり、どうしてもズレが生じてしまうのだ。
「11月15日は雨だった。」と過去を語っても、その過去自体を未来に渡すことはできない。未来に渡されるのは、「「11月15日は雨だった。」と語った。」ことである。
過去を語ることで行われているのは、現実の過去を言語的に捉え、未来でも言語的に使えるようにするということだ。その意味で、過去を語ることで行われているのは、現実としての過去を言語としての未来に渡すということにならざるを得ない。ここにズレが生じている。

一方、未来を語ることについてもズレが生じている。なぜなら、未来を語るとは、(無としての)現実の未来を、そのことについての既に行われた過去の言及とするということだからだ。これは、現実の未来を言語としての過去に渡すことと言ってもよい。
だから、時制的な視点移動を、一本の数直線上の移動のように捉えてはならない。
いわば、現実の時間軸と、言語時間軸という二つの時間軸があり、二つの時間軸を飛び移るかのように時制的な視点移動は行われるのだ。

5-5 時制的な視点移動の重要性
この、時制的な視点移動という言語的機能は、言語の根本的な機能だと言ってもよいだろう。
なぜなら、時制的な視点移動とは、つまりは、「過去を語る」ということであり、「未来を語る」ということであり、要は、全てについて語るということだからだ。
(「過去を語る」にも「未来を語る」にも含まれないもの、例えば「現在を語る」については、後ほど、「過去を語る」ことと「未来を語る」こととの複合というように位置付けるつもりだ。また、いずれの時制にも含まれない「反実仮想を語る」もあるが、反実仮想については、(実際は「11月15日は雨だった。」が)「11月15日は晴れだったなら。」というように言外に、「過去を語る」ことが含まれているので、「過去を語る」ことの派生として捉えることができると考えている。また、あいさつのように、「何についてでもなく語る」ということについては、語る対象ではなく「語る」ということ自体についての別な考察が必要と思われる。)

「ある、なる」のうち「ある」の議論において中心的な役割を演じていた排中律は、「ある」の議論の階層においては言語の根本的な機能を体現していると思われたが、「なる」の深まった議論を経るならば、「時制的な視点移動」こそが、言語の根本的な機能を体現していると考えた方がいいだろう。あくまで、重層的な「ある、なる」の議論における、「ある」という一側面を捉え、そこで輪切りにするならば、「時制的な視点移動」の断面図として、排中律が現れるに過ぎないように思われる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 4 派生的疑問

4 派生的疑問
4-1 因果の充満の特別さ
まず、本題に入る前に、ベタの神についての「時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」という述べ方の問題点について触れておきたい。
正直、この述べ方は、「ある、なる」のうち「ある」に偏りすぎていると思う。また、「ある」に偏っているがゆえに、「ある」、つまり、「存在」と同一視してしまう危険性も孕んでいる。この「ある、なる」の議論が、言語と存在という、どこか手垢が付いた切り口が繰り返されているだけと受け止められてしまう危惧があるのだ。
だから、私は、あくまでも「「なる」という時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」だということを強調しておきたい。「ある、なる」の議論は、この時間的な議論を経たところに魅力がある。本当は「絶対現実」より、もっと言い方があればいいのだが、「ある、なる」には残念ながら見当たらないし、私も思いつかない。

「ある」への偏りとして特に気になるのが、時間的な議論のなかでも、特に、第22章の因果の充満という議論が、この「絶対現実」という用語では捉えられないという点だ。
この問題意識は、この文章の冒頭で派生的な疑問として挙げた「この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の特別な意味があるのではないか。」という疑問につながる。

因果の充満とは、「全ての原因・結果が、全面的に肯定であり、そこに否定や欠如が入り込む隙間は全く無いことになる。」(p.275)という、いわば、因果関係において、「ある」を極大化した捉え方である。
そして、常識的な「ある」から遠く離れ、因果の充満をイメージするためには「一つの媒質内で波動が伝播するイメージ」がよく、「もう「二つの別個の物事のあいだの関係」とは言えなくなってしまう」というところまで至る。そのような描写からは、大河のような「一つの媒質」の大きな流れのようなイメージが浮かび上がってくる。
この「一つの媒質」には、当然、外はない。なぜなら、全てが充満し、その関係性が全てを一つの流れに取り込んでいるのだから。
そのように考えるなら、この大きな流れとは、「絶対現実」の流れそのものと言ってよいだろう。
因果の充満という議論には、このような方向性で、現実と時間を捉える力があるのではないだろうか。

充満した大河の流れのイメージを経るならば、私は、「絶対現実」とは、無内包と言うより、内包の完全な充満と言ったほうがいいと思う。完全に充満しているからこそ、そこに内包として指示すべき個別の何かなど無いのだ。そのような意味では完全な充満を無内包と言うことは間違いではないのだが。
「ある、なる」でも「現実それ自体は完全に充実している」(p.63)という捉え方がされているので、重点の置き方の違いなのだろうが、ここでは、「無内包」より、「充満」をイメージしたほうがよい場面があるということを指摘しておきたい。

そして、更に続けるならば、その充満は、静的な充満ではなく、動的な流れとしての充満だということに留意しなければならない。草木が成長したり、椅子に座っていた人が椅子から立ったり、毛布に潜り込んでいたネコが毛布から這い出して毛布の上に座ったりといった変化も含んだものとしての充満なのだ。
そこには、「ある、なる」で行った「時制的な視点移動という<関与・操作>」(p.301)から透かし見て、「時間推移」を捉えようとしたのとは違う、もう一つの「時間推移」を捉える道筋があるように思える。「ある、なる」においては、「時制的な視点移動という<関与・操作>」の働きを純化していくことにより、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱのシーソー関係を見出し、そこに時制区分と対になるものとしての純化された時間推移が提示されていた。
しかし、「時間推移」というものを捉えるには、そのような作業だけでは足りず、この純化の作業を駆動させるものとしての、「大河の流れのようだ」というイメージが必要なのではないだろうか。(ただし、後述するように、イメージによる把握という道筋は述べ方として不徹底である。)
このイメージによる把握の適否は別にして、ベタの神を「絶対現実」と呼ぶならば、「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」という捉え方を忘れないことが、最低限必要だろう。

4-2 様々な<中間>
次に、冒頭で列記した派生的疑問のひとつである「第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ言葉でまとめて表現してよいのか。」という疑問について、第24章を細かく読み解きつつ考えてみたい。
当然、これは、「様々な<中間>の根本に「絶対現実」と「言語」の<中間>がある。」と言えるなら、全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化することができるのではないか、という期待も込めての作業となる。

4-2-1 排中律の<中間>
まず、第24章の冒頭では、排中律の<中間>について語られる。
ここでは、二つ性と一つ性の<中間>などが挙げられるが、「排中律は言語と現実の<中間>で働く。」(p.296)とあるとおり、その<中間>の根源には、言語と現実の<中間>があると言ってよいだろう。
「ある、なる」において、排中律は、純化のためのろ過装置として働いている。
現実と言語が混在している沼に、排中律という装置を設置し、純化した現実を取り出そうとする。また、スイッチを切り替え、同じ沼から、純化した言語を取り出そうとする。
だから、排中律は、ときには現実と対立するフィルターのように振る舞い、ときには言語と対立するフィルターのように振る舞う。
そして、ろ過の働きはどこまでも<中間>的だから、排中律は、ろ過の過程において、一つ性、二つ性といった様々な形を見せることになる。
だから、「ある、なる」を読んでいると、文脈のなかで排中律という語が、「現実」寄りなのか、「言語」寄りなのか、その位置づけがよくわからなくなることがある。この文章でも、排中律を言語に寄ったものとして使っている場面が多いが本来、あくまで<中間>なのである。
しかしそれは、入不二の表現がまずいのではなく、私の理解がまずいわけでもない(と思う)。
現実から言語を取り除き、絶対現実として純化しようとする場面では、ろ過されるものである言語自体に言及することはできないから、フィルターである排中律について言及せざるを得ないという、やむを得なさがある。(ろ過の過程では「言語」という語も使われているが、それはあくまで、純化されていない「言語」だ。)
もし、言語というものを直接的に触れて操作することができるなら、ろ過作業にあたって、排中律というフィルターは必要ない。直接触れることができないからこそ、フィルターを使っているのだ。
そこには、「言語」という語を使わず、ろ過される対象である「現実」という語と、ろ過装置である「排中律」という語のみを使って、現実と言語の拮抗を描かなければならない、という表現の難しさがある。

4-2-2 <中間>の<中間>・現実A
引き続き、第24章では、「「中間」も「端」も<中間>」(p.296)であるということが述べられている。
これは、先ほどの、ろ過装置の例えと重なる。
ろ過される対象である、現実、言語には直接触れることはできない。フィルターを通じて、どこまでも<中間>的なろ過の作業のなかで、<中間>的にしか言及できないということが、ここで述べられていると言ってよいだろう。

次に、相対現実、様相との関係で、<中間>について触れられている。
まず、絶対現実と相対現実の<中間>とは、「一つ性と二つ性の中間」(p.298)という文脈のなかで登場していることからしても、先ほどの排中律と同様に、現実と言語の<中間>に含まれるものと捉えることで問題ないだろう。
ここで留意しておきたいのは、この<中間>が、「特定の内容を持つこの現実-現実A-は、絶対現実と相対現実の<中間>である」(p.298)というように登場していることだ。
排中律によりろ過し、純化していたのは、「この現実-現実A-」だったのだ。つまり、言語と現実の混合物である現実Aをろ過し、純粋な言語と、純粋な現実(絶対現実)を取り出そうという試みが、「ある、なる」のうち「ある」の議論だったということになる。
このように<中間>という言葉は、現実Aというろ過される対象、排中律というろ過装置そのもの、<中間>的なろ過装置の働き方、といったいくつかの意味を込めて用いられている。

様相の議論においても、<中間>は様々な場面で現れている。ここでは、「もっとも基礎的な<中間性>は、無様相と様相の<中間>性であり」(p.300)とされている。
ここで言われる無様相とは無様相の絶対現実のことであり、そもそも、様相の議論は、相対現実と絶対現実の<中間>性の話から出発していることからしても、様相の議論における<中間>は、相対現実と絶対現実の<中間>と同様に、現実と言語の<中間>に含まれると考えてよいだろう。
ここで、特に着目すべきは、この様相の議論においては、様々な<中間>が現れており、まさに<中間>はどこまでも<中間>であるということが見事に描かれているということだ。
また、排中律に加えて、「様相」と「様相の潰れ」もまた、ろ過装置となっていることにも留意しておくべきだろう。「様相の潰れ」が、まだ議論が<中間>に留まっていることを示す、リトマス試験紙のような働きをしつつ、様相という議論の構造を通じてろ過作業を前進させている。

4-2-3 時間推移と時制区分の<中間>
ここから、第24章の<中間>にまつわる議論は、「なる」の時間の土俵へと移っていく。
まず、「時間は、時間推移と時制区分の<中間>で働く。」(p.301)とされる。
ここでの議論は、先ほどの「ある」の議論と同様に、「この時間推移-時間推移A-」をろ過し、純粋な時間推移と、純粋な時制区分とを取り出そうとする方向にあると言ってよいだろう。
この場合のろ過装置は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱだ。
時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの<中間>をフィルターとして、時間推移Aを純粋な時間推移と時制区分とに純化しようとする。この<中間>は、「ある」の議論の場合と同様に、「中間」も「端」も<中間>というかたちで重層的に働く。だから、<中間>は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの間で働くだけでなく、時間原理Ⅰのなかでも働き、時間原理Ⅱの内側の、未来、過去、現在のそれぞれの時制区分のなかでも働く。

なお、純粋な時間推移と時制区分との<中間>とは、「なる」の時間的な議論を経たうえでの、現実と言語の<中間>のことだと言ってよい。
どうしてそう言えるのかといえば、まず、時制区分は「時制という言語的な装置」(p.196)とされていることからも、時制区分とは言語のことである、ということは言ってよいだろう。
ただ、ここで、言語「的」とされているとおり、通常の意味での時制区分は言語そのものではない。あくまで、「ある、なる」の議論を経て純化された時制区分と言語とが重なる。
一方、時間推移は因果の充満について述べた際に既に登場している。そのときの議論を振り返るなら、時間推移とは「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」のことだと言ってよいだろう。
以上を踏まえ、現実と時間推移を結合し、言語と時制区分とを結合して扱うことができるということになる。これが、「ある、なる」における、最も簡素な、「ある」の現実論と「なる」の時間論の接続の描写となるだろう。

4-2-4 未来、過去、現在の各時制における<中間>
そして、第24章は、未来、過去、現在という時制ごとの描写へと移る。
現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗は、未来においては、言語(時制区分)が優勢である。言語が優勢だからこそ、「言語(時制)によるベタな現実への反逆」(p.302)である「未来の「無」」が立ち上がる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、反逆は完遂されない。
一方、過去においては、現実(時間推移)と言語(時制区分)では、現実(時間推移)が優勢である。現実が優勢だからこそ、想起阻却過去という究極の無関係である何らかの現実を垣間見ることができる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、阻却も完遂されない。
そのような拮抗、つまり<中間>性が、未来、過去においても見いだされる。
最後に、現在における現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗についても描かれるが、現在における<中間>については、明らかに未来や過去に比べて複雑なものとして描かれている。これを紐解くには、章を改めたほうがいいので、ここでは分析しないことにする。
(その後も第24章は、因果における<中間>、思考の<中間>へと考察が進んでいくが、この部分は第25章以降と結びつけて扱ったほうがいいと思われるので、この文章では扱わない。)

このように第24章の流れを再確認した結果、当初の目論見どおり、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>がある、というように整理することができた。これは全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化する目処がついたということであり、私の理解のためには重要な成果だ。
しかし、第24章全てを使って「ある、なる」が述べているように、この<中間>は、重層的な中間である。例えば、様相の議論において様々な<中間>が見出されたことで鮮やかに示されているように、<中間>の<中間>と言ってもよい拮抗に満ちているということが同じくらい重要だ。

4-3 「現に」という副詞
この現実と言語の<中間>は、「ある、なる」やこの私の文章が伝えようとしている現実性にまつわる問題について、文章で伝えられないということと、なぜか現に伝えられているということとの<中間>でもある。
これは、「ある、なる」でも、現実の感覚の問題について、ケーキの例えを用いて、「現に生じている感覚ではなく、生じうる感覚を持ち出すことによって、概念(観念)との差をつけている。」(p.72)としている問題のことである。この問題について「ある、なる」では、「「現実」は、「現に腰の痛みを感じる」~のように、体験内容の外側から副詞的に付加されるしかない。」(p.73)と副詞的に付加するということで、解決しようとしているが、この「ある、なる」の文脈ではそれでよいとしても、本当はそれでは済まない。
なぜなら、いくら「現に」という言葉を足しても、文章に書かれた言葉は現実ではないのだから、現実に届かないからだ。
「現に腰が痛い」「現に椅子に座っている」「現に雨が降っている」と言っても、現に腰が痛くなく、椅子に座っておらず、雨が降っていなければ、現に腰が痛く、椅子に座っており、雨が降っているということはない。もしかしたら、たまたま、腰が痛かったり、椅子に座っていたり、雨が降ったりしているかもしれないが、それは、そのような文章を読んでも読まなくても、そうであるはずで、文章の表現とは全く関係ない。
そのような意味で、現実性を文章で伝えることは不可能である。
しかし、一方で、現実性を文章で伝えることは、とても容易にできているとも言える。「現に腰が痛い」と書かれていれば、現に腰が痛くなくても、そこで伝えようとしている現実性について理解できる。そうでなければ、「ある、なる」やこの文章を理解することなんてできないはずだ。
また、現実性をきちんと伝えようとする配慮や技術なんてなくても、現実性は伝えられるとさえ言える。小学生の作文で「夏休みにおばあちゃんちに泊まった。」とあれば、「現に」という副詞なんてなくても、現実と理解できる。更には、全ての記述は、現実性が付与されているとも言える。どんな荒唐無稽なSFでも、抽象的な表現にあふれた詩でも、それを理解できるならば、そこには現実性が付与されているはずだ。そう考えると、「現に」という副詞は、何も付与していないとさえ言える。
このように、現実と言語の<中間>は、「現実性は文章で全く伝えることができない」と「現実性は文章で完全に伝えられるし、また、全ての文章に現実性は必ず付与されている。」の<中間>であるというかたちでも現れる。その<中間>に「現に」という副詞の付加があるということになる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 3 ベタとスカ

3 ベタとスカ
3-1 三つのスカ
まず、この本には三つのスカが登場することに着目するところから始めたい。
三つのスカ、つまり空白とは、まず一つ目が、第4章で「表現(排中律)は「空白」を招き寄せる。」(p.60)とされる、排中律との関係から語られる空白である。
二つ目が、第16章で「「空白」は、未来時制という言語的な装置が創り出す言語的な仮想である。」(p.197)とされているように、未来との関係から語られる空白である。
もう一つが、第19章の小見出しともなっている「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在における空白である。
これらは、そのいずれもが、「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」として扱われているとおり、同じものを指すと言ってよいのではないか。
こんなところを手がかりにして議論を始めていきたい。

排中律、未来、現在に現れる三つのスカは、スカの神の三つの側面だと言ってもよい。
そう考えるなら、ある側面では、排中律・未来・現在をつなげて考えることもできるはずだ。
このようなやり方で、現実と時間の区分や未来と現在という時制区分を越えて、概念同士を結合して捉えてみるという着眼点が、現実と時間との関係を捉えるうえでは役に立つと思われる。この線で検討を続けてみよう。

3-2 二つのベタ
それでは、スカの神の領域にないもの、つまりベタの神の領域にあるものはなんだろうか。

この本の、少なくとも第24章までの議論を辿ってみると、おおまかには、運命は、現実と時間という側面から捉えられている。まず、現実は、排中律・様相と、それらではどこまでも捉えきれない現実性・絶対現実という関係で描かれる。その後、時間について、未来、過去、現在という三つの時制に分けて考察が進められていく。そして、ついには、「運命」は「ある、なる」に至る。
この一連の流れにおける中心概念である、「排中律・様相」、「絶対現実・現実性」、「未来」、「過去」、「現在」から、スカの神の領域にある「排中律・様相」、「未来」、「現在」を除くと、「絶対現実・現実性」と「過去」が残る。
そこから、この二つがベタの神の領域にあると言えるのではないかという推測ができる。絶対現実・現実性と過去、という結合が成立するということである。
もし、そのように考えることができるなら、この本における、ベタの神とスカの神の拮抗は、単純化すると、ベタの神の領域にある「絶対現実・現実性+過去」と、スカの神の領域にある「排中律・様相+未来+現在」との関係性のことを指すということになる。

では、本当にそのように考えることができるか、ということになるが、過去と現実性とを結びつけるという捉え方は、「ある、なる」から逸脱した独自の解釈ではないだろう。
まず、過去についての「<過去の確定性・変更不可能性>」(p.206)という描写は、現実についての「現実的な必然性」(p.145)という描写と、とても似ている。過去と現実は必然性・確定性を介して結びつく。これは、運命論が、確定した過去を必然的な現実として受け止めるところから始まっていることからしても、常識的な捉え方と言えるだろう。

また、常識的な捉え方から進み、「ある、なる」において行われている「純化」とでも言うべき独自の操作を経ても、過去と現実は結びつけることができる。(今後、「純化」という言葉を何度か使うが、「ある、なる」において「純化」という言葉は使っておらず、純化そのものは語りえないということにこそ重要性がある。)
「ある、なる」において、「現実」は、一旦は「現実的な必然性」とされるが、これは「様相の潰れ」へと繋がる中途状態であり、ついには、絶対現実に至る。
「過去」についても、第17章において、想起過去、想起逸脱過去、想起阻却過去と深められていく。そして、ついには、「特定の記述を失い、「∅だった」のような内容を持たない過去」(p.213)としての想起阻却過去に至る。
「ある、なる」における純化を経た、現実と過去、つまり、絶対現実と想起阻却過去は、とても似ている。絶対現実は現実であり、想起阻却過去は過去である、ということを除き、内包・内容に違いはない。なぜなら、いずれも無内包、無内容だからだ。
更に言うならば、絶対現実は無内包なのだから「現実である。」という内包はなく、想起阻却過去も、特定の記述を失っているのだから、「過去だった。」という内容を持たない。
よって、語りうる限りでは、「現実である。」という内包を持たない無内包の絶対現実と、「過去だった。」という内容を持たない想起阻却過去とは、見分けがつかないとさえ言えるはずだ。

ここでは、想起阻却過去と絶対現実が同じものを指すとまでは言わない。しかし、純化され、言語によっては違いを捉えられないほど一体化した過去と現実は、いずれも、ベタの神の二つの側面であるとまでは言えるだろう。

3-3 ベタの神とスカの神の正体
スカの神の三つの側面である排中律、未来、現在は、いずれも「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」なのだから、スカの神の正体は言語だとすることに異論はないだろう。
一方、ベタの神の正体は、「ある、なる」の「なる」の時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」だと位置付けることにも、大きな異論はないだろう。
しかし、私は、すぐには、ベタの神とスカの神の拮抗を、「絶対現実」と「言語」の拮抗と単純化したくはない。
第24章では様々な<中間>が挙げられている。もし、全ての<中間>の根本に、「絶対現実」と「言語」の<中間>があり、他の<中間>は、そこから派生しているということであれば、様々な<中間>を根本と派生というように構造化し、単純化して描き出すことができるかもしれない。しかし、少なくとも、「ある、なる」ではそのような語り方はしていない。
最終的には、そのように結論付けられるのかもしれないが、ここには、もう少し踏みとどまって考えるべきことがあるように思われる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 2 3つの疑問

2 3つの疑問
この本と「私の哲学にとっての哲学上の問題」との関係を捉えるためには、私が「ある、なる」を読んで感じた疑問から入っていくのがいいだろう。
私はこの本を読み返しても、最後まで3つの疑問が残った。これから述べるうえで整理するならば、一つの中心的な疑問と二つの付随的な疑問である。

中心的な疑問とは、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」というものだ。
この疑問が中心的になるのは、あたり前とも言える。「ある」の現実と「なる」の時間の関係は簡単に言うことができないからこそ、「ある、なる」というタイトルのこの本の全体で伝えようとしたのだろう。
そして、この本は、この点について丁寧に述べてもいる。現実と時間の関係性については、プロローグから「ある、なる」の交錯配列、または交錯配列の反復と短絡という明確な述べ方をしている。いうならば最重要事項として扱われているといってもいいだろう。しかし、それでも、この本を読むと、それで具体的には何がわかったんだっけ?という疑問が、どうしても残ってしまうのだ。
この文章では、主にこの疑問について考えていきたい。

あとの二つは、そこから派生する疑問となるが、一つが、第22章で出てくる因果の充満という考え方の取り扱いについての疑問だ。この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の意味があるのではないだろうか、という疑問だ。
もう一つが、第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ<中間>という言葉でまとめて表現してよいのだろうか、という疑問だ。
実は、他にもいくつか疑問はあるのだが、いずれも、第25章とエピローグに関する疑問であり、この本は、第24章までと、第25章からでは、分けて扱ったほうがいいように思われるので、この文章では第24章までを扱うこととし、それらの疑問には触れないことにする。
(厳密には、第23章の「祈り」の問題、第24章の「思考の運命」の問題も、第25章以降の問題とあわせて扱うべきように思われる。)

それでは、中心的な、現実と時間の関係という問題について、私なりの答え、理解に至るまでの過程をたどりつつ、派生する疑問についても触れていくことにする。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 1 はじめに

2015年12月6日作

※ 入不二基義「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」について書いた文章です。以下、「ある、なる」または「この本」と呼びます。

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1 はじめに
この本「ある、なる」には二つの神が登場している。ベタの神とスカの神だ。神話には詳しくないけれど、シヴァとヴィシュヌ、いざなぎといざなみ、アフラ・マズダとアーリマン、そんな神たちにどこか似た二つの神がこの本の上には登場しているように思う。

そして、この本によれば、二つの神の間にあるのは、決して、どこかに落ち着くことはない「拮抗」だ。ベタ(黒)とスカ(白)が混じって灰色になることはない。黒いこの本のカバーを外すと白い本が現れることが、それを示している。カバーを外すという転換は一瞬だ。黒から灰色を経由して白に変わるのではなく、全面的な黒から全面的な白への瞬間的な転換である。その瞬間に垣間見られるものとして、運命が描かれている。

「ある、なる」には、正しさが含まれているという感触がある。
そう思う理由の第一は、今述べたように二つの神の拮抗として描くことができるような美しさがあるということにあるが、もう一つの理由は、読み返すたびに、何か新しいことに気付かされるということにある。
「ある、なる」を読んでいると、本と対話しているような気がしてくる。対話形式で描かれてはいないし、読者の気持ちに寄り添って優しく語りかけるように書かれているという訳でもない。それでも、読むたびに、新しいメッセージを見いだすことができるというのは、まさに本と対話しているということだ。そのような読み方ができる本には、ある正しさが含まれていると思う。
しかし、それは、つまりは、一度読んだだけではわからないということでもある。
最初に読んだときの感想を率直に言うと、「何かはわからないけれど、なんだかわかった。だけど、それで、何がわかったんだっけ?」というようなものだった。
読み返し、自分なりにこの本との対話を繰り返したあとで振り返ると、そう感じたのは、多分、この本が重きを置いて書いていないことが「私にとっての哲学上の問題」だったからなのだろうと思う。この本は「私にとっての哲学上の問題」を無視したのではないが、私にとってはペースが速すぎたのだ。
だから、私は、少し立ち止まって、引き返し、この本があえて述べなかった「私にとっての哲学上の問題」についての考察を書き足したい。そういう意図でこの文章を書こうとしている。
ということは、私は、これから、この本に書かれていない新しいことを書くつもりだが、実は、既に行間に書かれているとも言える。そのような意味では、この文章は、私が「ある、なる」を理解する過程での個人的なメモに過ぎないのかもしれない。