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哲学の述べ方 5誤りの意味

5の1 当面の誤り
哲学の正しい述べ方についてはこれまで述べたとおりだが、それでは、哲学の正しくない、誤った述べ方とはどのようなものだろう。
これまでの話の流れを受ければ、飛躍しすぎて、丁寧でない述べ方をしたということが作者にとっての誤った述べ方だろう。読者の観点からは、感動せず、心が動かなかったということが誤った述べ方ということであり、文自体の美しさという観点で言えば、飛躍しすぎて抽象画でも具象画でもなく、落書きになってしまい美しさが失われたような状況が誤った述べ方ということになるだろう。要は、誤った述べ方とはそういうことだ。
しかし、それはあくまで単一の文に着目した場合であり、先ほど述べたように私は「作者と読者が双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有するという相互関係」にこそ、正しい述べ方の根源があるとしているということに留意しておく必要がある。多少説明が飛躍しすぎて丁寧でなくても、読者の指摘を受けてあとで説明し直せばよい。例えば、「ワンと鳴くペットはイヌだ。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」と作者が読者に語りかけたときに、読者に「どうしてそうなるの?」と疑問を投げかけられたとしても、作者がきちんとフォローすれば誤りにはならない。作者が「ごめんごめん。浅田真央のペットはワンと鳴くってことを説明するのを忘れてたよ。」と言えば誤りはならない。
また、それでも読者に「ペットって何?」と更に疑問を呈されたとしても、作者が「ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだよ。」と説明して読者に理解してもらえれば、誤りとはならない。追加の説明により読者の心が動き、文自体が美しさを獲得できればよい。つまり、事後に訂正される「当面の」誤りは誤りではない。
繰り返しになるが、私は、正しさとは、作者の説明の内容や読者の理解力や個別の文章のなかにあるのではなく、現に作者と読者とで関心や疑問が共有されたということにあると考えている。だからこそ、作者と読者の間で共有に向けた努力が行われた後の最終的な結果をみなければ、それが正しさに至ったか、それとも誤りで終わったかはわからない。
私にはそこに特筆すべきことが隠されているように思えるので、もう少し丁寧に、別の述べ方で、事後に訂正される「当面の」誤りは誤りではないということを見てみよう。
例えば、「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。だから私のペットはイヌだ。」というような典型的な誤りの文があるとしよう。この文章は常識的な観点から誤っている。この誤った文が訂正されるまでの過程をAとBの会話形式でみてみよう。(なお、文の行数を横に書いておく。)
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「違う。ニャーと鳴く動物はネコだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
かなり不自然な会話だが、このようなやりとりにより、誤りは訂正されると考えてみる。
ここにはいくつかの誤りがあるように思える。1行目の文は、実はAのペットはネコだという観点からすれば明らかに誤りだ。また、3行目の「ニャーと鳴く動物はイヌだ。」としていることも常識的に考えて誤りだ。
しかし、私は、このように個別の誤りの文があるという考え方を否定したい。Aのペットはネコだと外から指摘するということは、実は、こういう会話をしているということである。
1A「私のペットはイヌだ。」
2あなた「違う。あなたのペットは実はネコだ。」
ここで、あなたは会話に参加している。そして、次のような会話が続く。
3A「どうしてネコだと言えるのか。」
4あなた「ニャーと鳴く動物はネコだからだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
もし、このようなやりとりにより誤りが訂正されたなら、既にAとあなたの間で双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有されたということだから、そこには誤りはない。違いは、ただ、あなたが会話に参加したということだけである。
この例により言いたいことは、当事者ではない第三者の視点から誤りを指摘することはできないということだ。指摘するということは当事者として哲学を述べることに参加するということだ。私にとっての哲学を述べるということには、このような側面がある。
念のため、AとBの会話に戻り、次のようにBが納得してしまった場合を想定してみよう。
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「そうなのか。それならば、あなたのペットはイヌだ。」
これも、AとBとの間で双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有されたということだから、述べ方として正しい。もし、あなたが、それは違うと声を上げたとしても、先ほどの例のように、ただあなたが会話に参加することになるだけだ。
作者が正しいと信じてこのように述べ、読者もそのように理解したならば、作者と読者以外の誰も誤っていると指摘することはできない。作者でも読者でもない観点に立つことはできない。つまり、文が個別に誤りであるということはない。
それでは、一般的に個別の文の誤りとされているのはどういう場合なのだろうか。私は、それは、最終的に正しさに至り、事後的に「当面は」誤っていたということがわかった場合のことをいうのだろうと考えている。
最初の例に戻れば、5行目のAの「私のペットはネコだ。」という結論に至った視点から、1行目の「私のペットはイヌだ。」という発言を振り返り、1行目の発言は「当面は」内容が誤っていたと述べているということだ。つまり、文の誤りは、正しい文章のなかの一部としてしか存在しない。
更に、最初の例には続きがありうる。
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「違う。あなたのペットは実はネコだ。」
3A「どうしてネコだと言えるのか。」
4B「ニャーと鳴く動物はネコだからだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
という会話の先に次のような会話が続きうる。
6科学者「Aさん、遺伝子検査の結果、あなたのペットはニャーと鳴く新種のイヌであることが判明しました。」
このような事後的な視点というものがありうる可能性も踏まえれば、それぞれの文に固有の正しさや誤りというようなものはなく、作者と読者の間で関心、疑問が共有されたかどうかという、最終的な観点からの述べ方の正しさ、または誤りしかないという私の主張は、決して荒唐無稽なものではないのではないだろうか。
私は、この文章の冒頭において哲学の内容ではなく、哲学の形式に着目し、どのような述べ方が正しいのかを考察することとした。その大きな理由として私の力不足があることは確かであるが、もう一つの大きい理由としては、そもそも内容の誤り、そして内容の正しさとは、事後的な視点から「当面は」文が誤っていたとか正しかった、という評価をしているということを指しているに過ぎないのではないだろうか、という問題意識があったからだ。
なお、先ほど同一律の比喩に着目し、トートロジーは極めて正しい述べ方であるとも述べたところである。しかし、この正しさは作者としての述べ方の正しさに留まる。厳密には、トートロジーであっても作者と読者の間で関心、疑問が共有されたかどうかという観点で、その正しさは評価されるべきである。そして、その共有が失敗することはありうる。失敗のあり方として私が思いつくのは、ルイス・キャロルのパラドクスである。亀がアキレスに、述べようとすることの前提を問い続け、述べようとすることとその前提との同一律の比喩が成立する根拠を問い続けるような場面である。これは、同一律の比喩についての読者との関心、疑問の共有が成立しない一例であると言えよう。ここで、根源としての作者と読者の間での関心、疑問を共有するという正しさではなく、そこから派生するものとしての作者の述べ方の正しさにのみ着目して「トートロジーは極めて正しい述べ方である」としたことは訂正し、「正しい可能性が高い述べ方である」という程度に弱めておく必要があるだろう。

5の2 語り終える
以上、「当面の」誤りと対比することで、本当の述べ方の誤りとは、最終的に作者と読者の間で関心、疑問が共有されなかったということである、ということが、より明確に整理できたのではないだろうか。
確認のため例を示せば、
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「・・・」
と、Bが関心を失い、会話が終わることが述べ方の誤りである。
しかし、この誤りについては更に語るべきことがあるように思う。
個別の文に誤りはないといっても、Aが「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」と述べたことは、姿勢としては問題があるかもしれない。率直に言って、「ニャーと鳴く動物はイヌだ。」と言い切る前に、もう少し考えて欲しいと思う。考えてもわからなかったのなら仕方ないが、Bに「ニャーと鳴く動物はネコだ。」と言われて簡単に自説を曲げるなら、もう少し考えて欲しい。
また、同じことは「ごめんごめん。浅田真央のペットはワンと鳴く、ってことを説明するのを忘れてたよ。」と言った人に対しても言える。自分の説明が不足していないか、誤解を与えないか、少し考えて欲しい。
相手が会話についてきてくれたからよいが、もし相手が関心や疑問を失い、会話についてこなければ、そこで話が終わってしまう。もし、そこで終わってしまえば、作者と読者との間で関心や疑問が共有されなかったということであり、誤りに陥る。
こう考えると、簡単にあとで訂正されるような文を語ってしまうことに誤りが潜んでいるとも言いうるのではないだろうか。
作者が読者に哲学を語るということに、自問自答をして思考をすることを含めているということを思い起こしていただきたい。Aが頭の中で「簡単に、私のペットはネコだと言ってよいかな・・・」などと自問自答することと、AとBの間で会話をすることとは全く同じことである。単にAとAとの間の会話なのか、AとBとの間の会話なのかという登場人物の違いに過ぎない。
そして、頭の中でのAとAでの自問自答の思考を打ち切り、Bに向けて発話することと、AとBの間での会話が打ち切られるということには、同じ誤りが潜んでいる。いずれも重層的な伝達のある階層での伝達を打ち切っているという意味では同じような事態が生じている。
それならば、正しい哲学の述べ方として、これまで、適度に丁寧な比喩を行うという配慮を作者に求めてきたが、加えて、述べようとしていることが正しいかどうかしっかり自問自答して考えてから発言するという配慮も作者に求める必要がありそうだ。
しかし、具合が悪いことには、どんなに作者と読者との間の関心や疑問が共有されて正しいものだとされても、更に、事後の視点から見れば、実は誤りだったということはありうる。先ほど述べたように「私のペットはネコだ。」と合意をしたとしても、「実は私のペットは新種のイヌだ。」ということはありうる。
そのような事後的な視点も考慮するならば、作者がどれだけ配慮しても、誤りから免れることはできない。語り終えることで作者と読者のコントロールから離れ、確実に誤りを避け、正しさに辿り着くことはできない。
つまり、作者に求められることは、しっかり考え、配慮するというようなことには留まらない。確実に誤りを避けるためには、作者は語り始めたなら語り終えてはならない。これが、作者として正しいあり方なのかもしれない。

5の3 他者の信頼
しかし、この文章も含め、ほとんどの文章は語り終えられている。(今は書き終えていないが、この文章を誰かに読んでもらうときには書き終えているだろう。)
それならば、この文章の作者である私も含めた作者たちは、求められている作者の義務を果たしていないのだろうか。
その問いについて考えるにあたっては、私の考える伝達とは重層的であるということを思い出しておきたい。先ほどのイヌとネコをめぐる会話で言えば、AとBのそれぞれの文ごとに伝達は完結している。しかし、会話全体としてみれば、会話が終わるまで伝達は完結していない。また、事後的な視点からみれば、更に会話が続く可能性もある。
この文章にしても、重層的な層のうちある層においては伝達を終え、ここで一旦書き終わる。しかしその後、私が続きを書き始めるかもしれないし、別の誰かが引き継いで思索を進めるかもしれない。書き終えたこの文章を私自身かもしれない誰かが読者として受け取り、受け取った読者が今度は作者となり新たに哲学を述べ始める。そのようにして更に上位の階層においては伝達が継続するかもしれない。
正直に言って、私は、あなたがこの文章を読んで何らかの感想を持ってくれればよいのに、と期待している。私は、この文章を踏まえて、あなたがあなた自身に対して哲学を述べ、双方向的で、継続的で、重層的な伝達が続いていくことを期待しないではいられない。
一方で、この文章が誰からも関心、疑問が共有されず、誤りに陥ったまま語り終えられる可能性は厳然としてある。いくら期待を重ねてもその可能性を否定することは出来ない。
ここで私は考えずにはいられない。伝達がこのようなあり方をしているということにはどのような意味があるのだろうか。この文章を含めたおおかたの文章が一旦は書き終えられ、そこで伝達は終わるかもしれないが、それでも続いていくことを期待するということはどういうことなのだろうか。文章は、一旦語り終えることにより、誤りを潜在化させることとなる。もし、読者が哲学を述べることを引き継がなければ、その文章は誤りに陥ることになるかもしれない。そのような危険性を冒してまで語り終えるということに、どのような意味があるのだろうか。
私はそこに、他者の信頼という意味を読み込みたい。作者は読者が語り続けてくれることを信頼するからこそ語り終えることができる。更には、読者が作者を超え、新たな道を切り開いてくれるのではないかという期待さえも、その信頼のなかにはある。とするならば、語り終えることには積極的な意義があるとさえ言えよう。
他者の信頼により、作者が語り終えることができるからこそ、他者である読者が語ることを認め、双方向的で、継続的で、重層的な伝達を駆動することができるのではないだろうか。つまり、他者を信頼することが哲学を述べるということの原動力であるとも言える。
以上、まとめると、他者の信頼を原動力に、作者と読者の間で双方向的で、継続的で、重層的な伝達を行い、現に関心、疑問を共有するということが正しい哲学の述べ方である、ということになる。
ここに、私は、極めて倫理的な意味を読み込む。哲学を述べるならば、他者を信頼しなくてはならない。

哲学の述べ方 4真と美

4の1 抽象画
しかしながら、双方向的で継続的で重層的な作者と読者の相互関係よりも、単一の文における作者の述べ方のほうが単純で分析しやすいので、引続き、作者の述べ方に着目して考察を進めたい。
ここまでで、作者の述べ方の正しさは「適度に丁寧な比喩」にあると整理したところであるが、その正しさ自体のあり方について明らかにするために、極端に「適度に丁寧な比喩」について考えてみたい。なぜなら、極端な事例においては、その正しさも極端なかたちで露出するのではないかと考えるからだ。
私が考える、極端に「適度に丁寧な比喩」とは、トートロジーである。
トートロジーが極端に「適度に丁寧な比喩」であり、極端に正しい述べ方であるということを具体例により確認しておこう。
「魚は泳ぐ。よって、海は青い。」「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」という3つの文章を挙げてみる。
最初の「魚は泳ぐ。よって、海は青い。」という文章は、1つ目の文と2つ目の文で同じ単語が登場していないため、物語の比喩であっても同一律の比喩であっても比喩が成立しにくい。つまり、あまり「適度に丁寧な比喩」がされているとは言えない。
2つ目の「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」という文章は、「魚」という同一の言葉が用いられていることを手がかりに物語の比喩が成立しうる。そして、「泳ぐ」ならば「細長い」ということの関係について、「泳ぐためには水の抵抗があるから細長くなければならない。」というように考えられるなら、例えば、船についての「前に効率よく進むために細長くなければならない。」という物語を、物語の比喩により魚に適用することにより、この文章は理解される。
3つ目の「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」という文章は、「魚」と「泳ぐ」という用語を導入できるという意味での物語の比喩と、繰り返しという意味での同一律の比喩により容易に理解できる。
つまり、1つ目の文章は比喩が失敗しそうだが、2つ目と3つ目の文章は比喩が成功しそうだ。
しかし、2つ目の文章に更に注目すると、「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」ということを理解するためには、例えば船についての「前に効率よく進むために細長くなければならない。」というような知識が読者にあることが前提となる。または、知識がなくとも、作者が「進むためには水の抵抗があるから細長くなければならないんだよ。」と説明したなら読者に理解してもらえる必要がある。つまり、理解されるかどうかは、作者と読者で、現に関心、疑問を共有できるかどうかという現実の相互関係に依拠している。そういう意味で、2つ目の文章は比喩が失敗するリスクが高い。
説明が失敗するリスクを極力避けるならば、「泳ぐ」ならば「細長い」というような相手によっては理解されないかもしれないような物語の比喩は極力避けたほうがよい。同一律の比喩だけで語れば、説明は失敗しないだろう。つまり、3つ目の文章「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」のほうが、2つ目の文章「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」よりも正しい。
このように比較すれば、少なくとも3つの文章のなかでは、最も哲学的に正しい述べ方とは、トートロジーである3つ目の文章であるということは明らかだ。これが、トートロジーが極端に「適度に丁寧な比喩」であり、極端に正しい述べ方であるということである。(脱線だが、これが、論理的にトートロジーは常に真とされていることの意味ではないだろうか。)
更には、新たな物語の比喩を追加しなくても同一律の比喩だけで2つ目の文章を拡張し、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。・・・」という表現をどこまでも続けることができる。
文の長さに比べて新たな概念の導入が少ないほど失敗のリスクの割合が低い文章であるとさえ言えるならば、このように長く続くトートロジーは、リスクを犯さずに長い文章を述べることができるという意味でより正しい述べ方だとさえ言えるだろう。このトートロジーは、続ければ続けるほど正しいとさえ言えるだろう。
このようなことを考えてみると、私には、トートロジーには単純なパターンの繰り返しが生む抽象画のような美しさがあるように感じる。そこで、トートロジーを抽象画に例えることにしたい。

4の2 具象画
トートロジーは、極端に正しい述べ方である。しかし、トートロジーだけで述べられることはあまりにも少ない。どこかで同一律の比喩を乗り越え、トートロジーを超えた内容を語る必要がある。絵に例えるならば、単なるパターンの繰り返しとしての抽象画から、複雑な具象画に移行していく必要がある。そのためには同一律の比喩によらない新たな概念の導入が必要だ。
なお、そもそも文から新たな概念の導入を全く無くすことはできない。それはトートロジーであっても同じである。実は、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」という単純なトートロジーであっても、「魚」「泳ぐ」という概念は、既にそれらの言葉を使った別の概念から物語の比喩により、新たに導入されているはずだ。どんなに単純なパターンの繰り返しとしての抽象画であっても具象化の第一歩は避けることはできない。全く具象化がされなければ、それは白いキャンバスである。描き始めるためには、ある種の飛躍が必要だ。
そして、トートロジーが始動し、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。・・・」というどこまでも続く表現が行われたなら、その表現はどこかで打ち切らなければならない。しかし、同一律の比喩の正しさには3回目の繰り返しでも、4回目の繰り返しでも差異はないことから、3回目で繰り返しを打ち切らなかったのに、4回目で打ち切る理由はない。打ち切る理由がないという意味で、より正しいトートロジーとはキャンバスをはみ出て永遠に同じ模様で埋め尽くすようなものであるはずだ。それでもどこかで理由なく打ち切らなければならない。これが第2の具象化である。永遠に続くものをキャンバスに納めることも飛躍である。
つまり、トートロジーを抽象画として成立させるためには、描き始めるという第一の飛躍と描き終わるという第二の飛躍が必要である。つまり、抽象画には少なくとも2つの具象化が含まれている。
そして、その先、模様に変化をつけるなどして、抽象画は具象画に徐々に変化していく。それは、文章表現で言えば新たな概念の導入を繰り返していくということである。飛躍を繰り返すと言ってもよい。
なお、その絵を単なる落書きではなく絵画とするためには、飛躍は適度に行われなければならない。つまり、概念の導入の困難さとして私が述べたように、ホーリズム的な危うさがつきまとうことを踏まえ、現実的に、相手を踏まえ、適度に丁寧に説明しつつ、新たな概念の導入を行わなければならない。
トートロジーの美しさを抽象画に例えたことに対比し、この、ホーリズム的な危うさを乗り越え、適度に飛躍し、新たな概念の導入を行うという優れた手腕により生み出された美しさを具象画に例えることができるだろう。
この飛躍の適度さの例としては、野矢茂樹が「語りえぬものを語る」において用いている「山が笑う」という表現がある。これは、「文字通りには、もちろん、山が笑うはずがない。」と野矢自身も述べているように通常の表現ではない。野矢によれば、「芽吹き始めた早春の山の、まだ緑が白っぽい初々しい姿。」を表現しようとして導入した隠喩表現である。「笑う」は通常、「山」に対しては用いられないことから、「山が笑う」という表現は「語りえぬものを語る」を読んでいない人からすれば、多分初めて目にした表現だろう。しかし、うまい表現であり、私はこの表現をすぐに理解できた。多分、多くの方が理解できただろう。
それは、例えば「子供が笑う」というような文を既に知っており、その、「笑う」のうちにある、穏やかで少し華やかで初々しい幸福感というような、微妙なニュアンスを物語として掬い取り、「山が笑う」の「笑う」に適用することができたということである。
この微妙なニュアンスを有する物語を橋渡しとして物語の比喩を成立させ、「山が笑う」という表現を成立させるためには、かなりの大きな飛躍がある。そしてその飛躍を適切に成し遂げ、ホーリズム的な危うさを乗り越え、新たな概念の導入に成功できたという優れた手腕がある。その手腕が生み出した美しさがある。この美しさは具象画の美しさと言えよう。
哲学を述べるということ、つまり、「作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということ」には、トートロジーの「抽象画」としての美しさと、「山が笑う」のような適切な飛躍を成し遂げた文が持つ「具象画」としての美しさの2種類の美しさがある。
ただし、留意しておきたいが「抽象画」は完全に抽象的である訳ではない。少なくとも描き始めるという第一の飛躍と、描き終わるという第二の飛躍という2つの具象化が含まれている。また、「具象画」は完全に具象的である訳ではない。「山」「笑う」という言葉が同一律の比喩により理解されているからこそ、「山が笑う」という適切な飛躍が成立する。つまり、文が文として理解されるためには、同一律の比喩が成立する程度の抽象性が求められる。
この留意点を踏まえ、哲学を述べるということには、トートロジーに多く含まれる「抽象的な美」と、「山が笑う」というような文に多く含まれる「具象的な美」がある、というように整理しておきたい。

4の3 論理操作の美・数学的な美
哲学の述べ方の美しさには、「抽象的な美」と「具象的な美」の2種類があるというように述べた。しかし、いずれに分類すべきか迷ってしまう美がある。
とりあえず名付けるならば「論理操作の美」とでも言うべきものだ。
再び、トートロジーである「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」という文に登場してもらおう。
これは、同一律の比喩を用いたものであり、いうなれば、同一という論理操作を行ったとも言えるだろう。
それでは、同一という論理操作の代わりに否定という論理操作を行ったならどうなるだろう。すると、そこには「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」というような表現が現れる。
私は、この文章は、禅問答のようだが、どこかありそうな気がする。この、ありそうな感じをとりあえず「論理操作の美」としたい。
このありそうな感じがなぜ生じるかといえば、これまでの同一律の比喩の話を踏まえるならば、「魚」「泳ぐ」というような同一律が多く維持されており、「ない」という否定が1つ入っているだけだからだ。つまりは、全く同一律が維持されていない文よりは、ある程度は同一律が維持されている文に美は残っている。
それでは、「論理操作の美」は、「抽象的な美」の劣化版なのだろうか。
しかし私は、なぜか「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」よりも「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」の方に興味がひかれる。「論理操作の美」には「抽象的な美」の劣化版にはとどまらない独自の美しさがあるのではないだろうか。
それでは、その独自の美しさとは、「具象的な美」の第一歩なのだろうか。
「ない」という否定が付加されるということは、既に使ったことがある例えば「ニワトリは空を飛ばない。」というような文における「ない」の否定性とでも言うべき物語を取り出し、物語の比喩により「魚は泳ぐ」という文に比喩的に付加したというように言えよう。そう考えるなら、新たに概念が導入され、適度に飛躍したという意味での「具象的な美」があると考えることに違和感はない。
しかし、「ニワトリは空を飛ばない。」という文における「ない」と、「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」の「ない」は明らかに違う。前者の「ない」は完全な否定だが、後者の「ない」は、魚が泳ぐことも容認しているという意味で、完全な否定ではない。否定と肯定の両方を認めるというかたちの別の否定である。とするならば、「論理操作の美」は「具象的な美」とも言い切れない。
このように、「論理操作の美」には、「抽象的な美」とも「具象的な美」とも決めかねるような、独特な美がある。
否定という論理操作のみを例に出したので、あまり「論理操作の美」というものに着目することの意味が伝わらないかもしれない。だが、否定という論理操作以外にも、哲学の分野には、「論理操作の美」に拠っているとしか思えないような例が多く存在する。
例えば、ニーチェのルサンチマンという概念がある。これは私の理解では、極めて簡単に言えば、弱者こそ倫理的に優れているという考え方から弱者と強者を反転しようとする考え方である。私は、この反転というところに「論理操作の美」があると感じる。多分、ルサンチマンという考え方が成立する根拠には、キリスト教的道徳等、様々な要素があるのだと思うが、私がこの言葉に特段の意義を感じるのは、「弱いからこそ強い」という、美しい価値の反転自体にある。ここには、反転という「論理操作の美」があるのではないだろうか。
他にも、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一という考え方には、矛盾という「論理操作の美」があり、入不二基義の無限後退の落差自体を肯定的なものとして捉えようとする考え方には、反復とでもいうべき「論理操作の美」があるように思われる。他にも同様の例は挙げられそうだ。
私が、これらを同じ「論理操作の美」として捉えたのは、いずれも運動性があるという共通点があるからだ。そこには反転するという動きがあり、矛盾が含意する衝突し循環するという動きがあり、極北に向かって反復するという動きがある。ニーチェや西田幾多郎や入不二基義が述べようとしていること自体を私に理解できているとは思えないが、そこには共通の美しさがあるように感じる。
これらの特殊な述べ方は、少なくとも私に対しては、ある特別な迫力をもって美しさをみせつける。私は、その美しさを特別なものとして捉えたいと言う衝動にかられる。そこで、私は、その美しさが意味するものを十分に掴み取ることができていないが、あえて「論理操作の美」と名付けることとしたい。
また、「論理操作の美」に似たものとして「数学的な美」がある。
数学的な内容を持つ文について考えてみよう。例えば「4629551は4629550よりも大きい。」という文がある。これは正しいとすぐに理解できるだろう。それでは、どのように理解できたのかというと、私が適当に選び多分読者にとっては初めて目にした「4629551」「4629550」という数字について理解したのだから、既にその数字を目にしたことを手がかりに同一律の比喩により理解したのではないはずだ。
それならば、数字の持つ物語により、物語の比喩により理解したということも考えられるが、その数字の持つ物語がどういうものかがわからない。また、数字が無限にあるとするならば、物語も無限になければならないということになり、これまでの物語という概念から大きく外れる。
つまり、この文は、これまで挙げたような比喩で理解したものではないように思われる。
同様に、「+」「-」というような数学記号を文字と解釈するならば、「3+4=7」が理解できるのは、既に「2+6=8」を行ったことがあり、そのときに+の物語を比喩的に適用したということになるが、「2+6」のときの「+」の働きをいくら見ても、そこには2と6に関わる物語しかなく、「3+4」の理解につながるような物語は見当たらない。つまり物語の比喩で理解できるものではない。
しかし、私は「4629551は4629550よりも大きい。」は「4629551は4629550よりも小さい。」よりも美しく感じ、「3+4=7」は「3+4=6」よりも美しく感じる。比較が微妙でわかりにくいかもしれないが、「3+4=5084286」よりも美しい、と言えば、少しは伝わるだろうか。
このような例をみてみると、数学的な文には、これまで比喩をもとに述べてきた「抽象的な美」でも「具象的な美」でもない、独自の美があるように感じる。
「4629551は4629550よりも大きい。」や「3+4=7」というような文にある独自な美しさを「数学的な美」と呼ぶこととする。
しかし、「論理操作の美」にしても、「数学的な美」にしても、私には、それが何なのか、全くわからない。そこで、ここでは、哲学の述べ方の美しさには、まだ語るべきことがあるということを指摘するに留めることとしたい。

4の4 美と感動
以上、哲学を述べるということには2種類から4種類の美しさがあるということを示した。
この哲学を述べるということの美しさと、哲学を述べるということの正しさ、つまり「作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということ」とはどのような関係にあるのだろうか。
私は先ほど、作者と読者の間での関心、疑問を共有するという相互関係に哲学の正しい述べ方の根源があり、そこから作者が「適度に丁寧に比喩を行う」ことができたかどうかという作者の述べ方の正しさが派生していると述べた。
同様に、この美しさは、作者と読者の間での相互関係の正しさから派生していると考えることはできないだろうか。もし、そのように考えられるならば、この美しさとは、作者から読者に伝達されるものとしての哲学書、つまり文自体の正しさである。つまり、作者と読者の間での相互関係の正しさから、「美しい」というあり方で文自体の正しさが派生するということになる。
更に言えば、もう一方の登場人物である読者としての正しさも、作者と読者の間での相互関係の正しさから派生すると言えそうだ。読者としての正しさとは、哲学書の文自体の美しさに心が動かされ、感動することだということになるのではないだろうか。
つまりは、作者と読者の間の「関心、疑問の共有」という相互関係の正しさから、「適度に丁寧な比喩」というかたちでの作者の正しさ、「心が動かされ、感動すること」というかたちでの読者の正しさ、「美しい」というかたちでの伝達される哲学書、つまり文自体の正しさが派生するということだ。
かなり荒っぽく、一気に考察を進めてしまった。その理由も示していないので、このような進め方には全く納得がいかないかもしれない。ただ、このように先を急いだのは、まず、更にその先を述べておいた方がよいと思われるためである。もう少し、この荒っぽさにお付き合い頂き、先を述べることとしよう。
このように、一気に「関心、疑問の共有」、「適度に丁寧な比喩」、「心が動かされ、感動すること」、「美しい」ということをつなげて論じたが、私が、これらの言葉に割り振ろうとしているものは、言語の外の現実との接続である。「現に」作者と読者が関心、疑問を共有し、「現に」作者が適度に丁寧な比喩を行い、「現に」読者が感動し、「現に」文自体が美しいこと、をこれらの言葉を用いることで表現しようとしている。
言語の外の現実との接続について述べるのに、「感動」や「美」よりも適した言葉があれば、その言葉を用いてかまわない。しかし、私は、感動や美という言葉により、言語の外の現実というものに対するイメージが強く喚起される。イメージが喚起されるような用語を用いることで、言語により、言語の外を示したい。「感動」や「美」という言葉を用いた動機についてはそのようにご理解いただきたい。

4の5 現実
それでは、そのようにして示そうとしている言語の外としての「現実」はどのようなものなのだろうか。
ここで新たに導入した、読者が感動し、文自体が美しいということについては説明が順序立てられておらず駆け足となってしまったが、一方で、作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということについては、ある程度順序を追って論じてきたつもりだ。
その説明のなかでは、概念の導入の困難さとしてホーリズム的問題があると述べたところで現実という観点が登場している。ある概念の説明が成功するかどうかは別の概念の説明が成功するかどうかにかかっているが、現実には、危うさを含みつつも、なぜか、うまく相手を踏まえ、適度な範囲で説明が行われ、折り合いがつけられているということを述べている。更には、その飛躍は、例えば「山が笑う」のような文に多く含まれる具象的な美により、現に適度なものとして行われているということも述べている。
このように現実は、ここまでの説明の随所に顔を出している。ここに、私がここまで述べてきた「哲学の述べ方」の現実からの離れられなさがある。作者と読者の間の「関心、疑問の共有」という相互関係の正しさは現実から離れることはできず、「適度に丁寧な比喩」というかたちでの作者の正しさも現実から離れることができない。
ここで私は、同じように、読者の正しさや、伝達される文(哲学書)自体の正しさも現実から離れられないということを述べたい。それならば、その現実からの離れられなさを表現するために、読者が「心が動かされ、感動すること」に読者としての正しさがあり、伝達される文自体が「美しい」ということに文(哲学書)の正しさがあるとすることには、それほどの違和感はないのではないだろうか。
しかし、いくら言葉を尽くしたとしても、「現に」読者が感動し、「現に」文自体が美しいということの正しさにはたどり着くことはできない。というか、それ以前に、ここまである程度丁寧に述べたつもりである「現に」作者と読者が関心、疑問を共有し、「現に」作者が適度に丁寧な比喩を行うということの正しさについても、実は何も説明できていない。
ここには簡単に論じることができない言語と現実という大問題がある。私は哲学を言語的なものと捉えており、この文章も言語であると捉えている。言語である文章により「言語の外の現実との接続」を述べるということには、当然ながら独特の困難さがある。
しかし、私が行なっているこの説明で、「現に」何かが伝わっているのならば、それが現実というものなのではないだろうか。
現実について語ることは不可能なのか、私の力不足なのかは、現段階ではよくわからない。しかし、ここでは、ここでは、ここまで述べてきたような現実というものに対する問題意識が「現に」伝わっていることを期待し、先に進むこととしたい。

哲学の述べ方 3関心、疑問の共有

3の1 比喩の成功
それでは、哲学の述べ方としての「適度に丁寧な比喩」が成功するためには何が必要なのだろうか。メタ比喩である同一律の比喩を考慮から外し、物語の比喩に注目すれば、それは、「動物」「太陽系」「8個」「これ」というような概念を作者と読者で共有しているということであろう。
ただし、作者と読者の間で概念の認識が全く同じである必要はない。例えば、読者が、最近、冥王星が準惑星に格下げされたということを知らず、太陽系に存在する惑星は冥王星を含めた9個だと考えていたとしても、「太陽系は銀河系の中にある。」という文を理解するうえでは問題は生じない。太陽系の惑星が8個だと思っている人が書いた「太陽系は銀河系の中にある。」という文を、太陽系の惑星が9個だと思っている人が読んだとしても正確に理解される。
また、その概念に対して用いる用語が同じでなくてもよい。「太陽系」を「太陽のまわりグルグル」などと呼んでいる読者がいたとしたら、作者は「太陽系」とは「太陽のまわりグルグル」のことだよ、と追加で説明してあげればよい。
更には多少概念の捉え方が異なっていてもかまわない。仮に読者が天体について、太陽と地球だけの関係で捉え、「太陽系」というような括りで捉えていなかったとしても、作者が「太陽の周りを地球以外にも木星のような星が回ってるでしょ。その全体の仕組みのことだよ。」と説明して読者が理解できれば、それが認識を共有しているということである。
それでは、作者と読者の間で、正確に比喩が理解される程度に概念に対する認識を共有し、比喩が成功するためには何が必要なのだろうか。
私は、必要なのは、作者と読者の間で、ある概念に対する「関心、疑問を共有することができる。」ということであると言いたい。
太陽系というものに関心を寄せることができ、それが銀河系の中にあるのだろうか、という疑問を持つことができる人だけが「太陽系は銀河系の中にある。」という文章を作者として書くことができ、読者として理解することができる。作者と読者の間で、関心、疑問を共有できるならば、多少の知識の違いや用語の違いなどは問題とならない。しかし、作者がいくら言葉を尽くしても読者が「太陽の周りを地球や木星のような星が回っている仕組み全体」ということに関心を持つことができなければ、作者と読者が関心、疑問を共有することはできない。
それは、ルビンの壺のだまし絵を見せて、いくら、壺の背景に人間の横顔があるでしょ、と説明しても理解してもらえない状況と似ている。背景に関心を寄せられない人にはルビンの壺を理解することはできない。
なお、念のため付言しておくと、私は読者の理解力を問題としているのではない。読者の側からすれば、関心、疑問を共有できないというのは、作者が関心、疑問を共有できるようなうまい説明をしなかったということだ。関心、疑問を共有できるかどうかは、作者と読者の相互関係の問題である。
関心、疑問という言葉で作者と読者が共有すべきものを過不足なく捉えられているかどうかはわからないが、私は比喩が成功するということを、そのように捉えたい。

3の2 同一律の比喩と関心、疑問の共有
更に、一旦考慮から外した同一律の比喩というメタ比喩について思い起こすならば、同一律の比喩とは、この関心、疑問の共有のこと自体であるとも考えることができる。ある概念について作者と読者が「関心、疑問を共有する」ことが、文において同一律の比喩が成立するということで、逆に文において同一律の比喩が成立するということが、作者と読者の間で「関心、疑問を共有する」ことである。
それはどういうことか簡単に説明してみよう。
例えば、「太陽系」について作者と読者が関心、疑問を共有しているということは、作者の「太陽系」に対する関心、疑問と、読者の「太陽系」に対する関心、疑問とが同一だということだ。
ここで、先ほど、私は、哲学を述べるということは、自問自答としての哲学的な思考を行うということも含むとしたことを思い起こして頂きたい。つまり、作者と読者は同じ人に割振られてもよい。「太陽系は銀河系の中にあるのだろうか。」と自問し、「(地球からの星の見え方を分析した結果を踏まえれば)太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」と自答するということは、作者として「太陽系は銀河系の中にあるのだろうか。」という文を述べたうえで、読者として、その文を受け止め、更に作者として「(地球からの星の見え方を分析した結果を踏まえれば)太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」という文を述べているということに置き換えることができる。つまり、「太陽系は銀河系の中にあるのだろうか。(地球からの星の見え方を分析した結果を踏まえれば)太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」という一つの文章を書くことに等しい。
自問自答としてのひとつの思考は、思考のプロセスという観点からは、自分自身を作者とし、また自分自身を読者としたうえでの哲学を述べるという伝達の繰り返しとして捉えることができ、思考の結果という観点からは、ひとつながりの文章として捉えることができる。
この二面性をふまえると、思考のプロセスにおいて、作者としての思考の担い手である私と、読者としての思考の担い手である私との間で概念に対する関心、疑問が同一であるということと、思考の結果において、ひとつの文章の中で同一律の比喩が成立しているということは同じことであると言うことができる。
ここでは自問自答を例にしたが、自問自答の思考でない他者との間での伝達の場に置き換えても同じである。
関心、疑問の共有と同一律の比喩は等しい。
(この文章においては、同一律の比喩、関心、疑問の共有という用語を用いているが、「私の哲学」においては、アミニズムとしているものがこれにあたると考えられる。)

3の3 留意点:双方向の継続的で重層的な伝達
ここで、留意しておくべきことが一点ある。ここまで私は、哲学を述べるということを、主に作者から読者への伝達という観点から捉えてきた。そのような前提のうえで、作者は読者に「丁寧に説明する」ことが重要だと述べ、そして、「適度に丁寧に概念を導入する」、「適度に丁寧に比喩を行う」と言い換えることも可能であるとしてきた。しかし、伝達というもののニュアンスを若干変更しなければならない。
私は、伝達とは、作者から読者に一方的に行われるものではなく、作者と読者の相互関係の問題であると捉えている。作者の説明が多少飛躍しすぎて丁寧でなく、すぐに読者が理解してくれなくとも、読者の反応を聞くことができ、読者の反応を踏まえて説明し直すことができると考えている。具体的には、「太陽系」という言葉を理解してくれなくとも、「それじゃわからないよ。」という読者の声を聞き、「太陽の周りを地球や木星のような星が回ってるでしょ。あれのことだよ。」と追加で説明して理解してもらえたなら、それでよいと考えている。
また特に、これまで伝達に含まれるものとして扱ってきた思考については、それが顕著に現れる。思考は、自分自身を作者とし、また自分自身を読者とした自問自答として行われる。そこには相互のやりとりがそもそも想定されている。読者としての自分自身の声を聞き、作者としての自分自身が考え直すからこそ思考である。伝達には双方向性がある。
また、伝達には継続性もある。読者から、「まだわからないよ。」と言われれば、「地球や木星とかをまとめて惑星っていうんだよ。」なとど説明することで議論は継続されるし、自問自答としての思考も一度限りのフィードバックで終わるものではない。「太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」という自答を読者である私が受け止め、更に「観測結果は正しいのだろうか。」などと自問自答は続けられる。この文章を一例とすれば、私の思考の足跡であるこの文章は何度も書き直して、書き足すという継続的な作業により作られている。伝達には双方向性と継続性がある。
これまでもそのような前提のうえで検討を進めてきたつもりだが、説明の都合上、ともすれば作者から読者への一度限りの伝達という側面を重視してきたきらいもある。そこで念のため、伝達とは、このように、双方向的に、継続的に行われるものだということを強調しておきたい。
しかし、ここで疑問が生じる。先ほど「自問自答としてのひとつの思考は、思考の結果という観点からは、ひとつながりの文章として捉えることができる。一方で、思考のプロセスという観点からは、自分自身を作者とし、また自分自身を読者としたうえでの哲学を述べるという伝達の繰り返しとも捉えることができる。」と述べた。それでは、伝達というものを、どのような単位で捉えればいいのだろう。このような疑問を積み残してきたことに、これまで作者から読者への一度限りの伝達という側面を重視して述べてきたことの弊害があるようだ。
例えば、「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という文章の伝達は、どのような単位で行われているのだろう。文章全体で1回にまとめて伝達されるのだろうか。それとも文単位で3回に分けて伝達されるのだろうか。
この問いに対する私の答えは、伝達は重層的に行われる、というものである。
この文章は、「浅田真央のペットはワンと鳴くけれど、ワンと鳴くペットはイヌだから、浅田真央のペットはイヌだ。」というように一つの文にまとめることも、「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央はペットを飼っている。そのペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」というように四つの文に分けることもできる。つまり、文の単位は恣意的である。よって、完全に文単位で分けられるとはいえない。
一方で、ひとつの文章ではなく、ある程度は細分化して伝達が分かれていると考えなければ、先ほど自問自答の思考を例にして述べた、同一律の比喩と、作者と読者の間の関心、疑問の共有を同一視するということが成立しない。仮に、文章はひとつにまとまってしか伝達されないと考え、例えば、この「哲学の述べ方」という文章のような長い文章もひとつの伝達であると考えたなら、伝達が双方向的に、継続的に行われるということさえも否定されることになる。ここに、矛盾があるようにも思われる。
しかし、この問題については、伝達は重層的に行われているとすることで説明が出来ると考えられる。文単位でも伝達され、文以外の単位、例えば文章単位でも伝達されているということだ。どのような構造で重層的になっているのかは現時点では私にはわからないが、少なくとも、文と文全体の二層構造というような単純な重層性ではないはずだ。恣意的な文の分割をどのように行なっても双方向的で継続的な伝達が成立するような複雑なあり方をしているに違いない。
そして、伝達は双方向的に継続的に行われるということを踏まえると、この重層性は、作者と読者で双方向的に継続的に行われる全ての伝達に及ぶ。読者の側からの反応や、作者の再反論というようにして続けられる議論や自問自答の経緯は全て重層的である。伝達とは双方向的に継続的に重層的に行われるものである。少なくとも、作者が一方的に伝達を行い、単一の文の説明の成否により、作者が「丁寧に説明する」ことができたかどうかを判断できるような単純なものではない。
このように考えるならば、作者と読者が双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有するという相互関係にこそ、哲学の正しい述べ方の根源があると言えよう。そこから作者の単一の文の説明における「丁寧な説明」「適度に丁寧な比喩」というような観点からの、作者の述べ方の正しさが派生していると考えるべきであろう。

哲学の述べ方 2概念の導入・比喩

2の1 概念の導入
それでは、実際の哲学の述べ方として、「丁寧に説明する」ということはどのように行われるのだろうか。
具体的な場面として、「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という、3つの文で構成されたいわゆる三段論法の文章を取り上げてみよう。
この文章は一見、あまり哲学的な文章とは思えない。しかし、文章表現であるという点で広義の文学であり、浅田真央のペットについて正しいことを述べようとしているという点で、正しさを求める文章である。つまりは、私の定義においては哲学的な文章である。よって、この文章も哲学の述べ方の一例だという前提で話を進めることとしたい。
仮に、この文章の2つめの文を飛ばすと、「ワンと鳴くペットはイヌだ。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という文章になる。これだと「浅田真央のペットはワンと鳴く。」ということをすぐに思い出せない人にとっては説明が不足している。「ワンと鳴くペットはイヌだ。」から直接「浅田真央のペットはイヌだ。」とするには飛躍がある。しっかり説明するには「浅田真央のペットはワンと鳴く。」ということも述べなければならない。これが丁寧に説明するということの一例となろう。このように話のプロセスをきちんと説明することを、プロセスにおける丁寧さとしよう。
また、この例文では、例えばペットという言葉を知らない人にとっては説明が不足している。そのような人のことも考慮するならば、「ワンと鳴くペットはイヌだ。ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」とでもする必要がある。これは新しい概念を導入する際にきちんと説明するということであり、また別の丁寧さがあるように思われる。これを概念の導入における丁寧さとしよう。
このように、すぐに2つほどの丁寧さの類型が思いつく。他にも哲学の述べ方における丁寧さの類型はあるかもしれないが、少なくとも、プロセスにおける丁寧さと概念の導入における丁寧さという2つの丁寧さがありそうである。
しかし、ここで行った、何をプロセスにおける丁寧さとし、何を概念の導入における丁寧さとするかの切り分けはかなり恣意的である。私の考えでは、実は、この両者は対比されるべきものではない。結論から言えば、概念の導入における丁寧さがプロセスにおける丁寧さを包含する。
「概念の導入」を字句どおりに解釈すれば、ペットという言葉自体を全く知らない人に対してペットという概念を教えるように、全く耳慣れない新しい概念を導入することであると考えられよう。
しかし、例えば、ペットにはイヌとネコしかありえないと思っている人に、イグアナもペットだと教え、概念の意味を付加するような場面がある。これを概念の付加という別の捉え方をしてもよいが、ペットという概念がイグアナも含むものとして導入し直されたと考え、広く概念の導入と捉えることに違和感はないだろう。
他の例を挙げれば、ネコはワンと鳴くと思っている人に対して「ネコはニャーと鳴くんだよ。」と教えたなら、その人にとってのネコという概念はニャーと鳴くものとして変更されて導入し直される。これは概念の変更と捉えても良いが、広く概念の導入と捉えてもよい。
また、1時間前にヘビを見たと思っている人に対して「あれはヘビではなくロープだったんだよ。」と伝えたなら、その人にとってのヘビという概念は「1時間前に見た細長いもの」ということが削除されたものとして導入し直される。これを概念の削除と考えてもよいが、同様に概念の導入と捉えても良い。
先ほど、プロセスにおける丁寧さの一例とした「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という三段論法の2つ目の文を省略せずに説明するということについても、2つ目の文を、浅田真央という新たな概念が導入され、ペットという概念に浅田真央にもペットがいるという意味が付加される、などと捉えれば、2つ目の文を省略しないということは、概念の導入における丁寧さと言ってもよいだろう。
つまり、プロセスにおける丁寧さは概念の導入における丁寧さに含まれる。概念の導入における丁寧さのうち、既に知っている概念を組み合わせて作られた文が丸々ひとつ漏れてしまうことがないように配慮するということに対して、プロセスにおける丁寧さという別名を与えただけだというようにも言える。両者をあえて分ける必要はない。
こう考えると、哲学的に何か新しいことを述べるということは、必ず概念の付加、変更、削除等を伴うとも考えることができ、哲学を述べるということは概念の導入そのものと言ってもよい。概念の導入という概念については、このように幅広く捉えることが可能である。
ここで、現時点における哲学の述べ方のルールをあらためて整理すると、「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮して説明し、概念を導入しなければならない。」ということになる。

2の2 概念の導入の困難さ
それでは話を戻し、再度、ペットという概念を新たに導入する場面を例に、更に概念の導入のあり方を考察してみよう。
先ほど、ペットという概念を知らない人に対しては「ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだ。」ということを説明する必要があるとした。しかし、その説明でも「動物って何?」と聞かれれば、「動物」という概念についても説明する必要がある。概念を説明するために用いた概念を更に説明する必要が生じることがある。現実には「ペット」「動物」のような常識的な概念ではありえないかもしれないが、もう少し一般的でない概念では似たような経験があるのではないだろうか。
ここで、思考実験として極端に知識がなく物わかりが悪い人を想定してみたい。その人はペットという概念を知らない。そして、「ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだ。」と説明されても、「動物って何?」「人間って何?」と全ての言葉について質問をしてくる。そして、「動物とは植物や微生物ではない、動く生き物のことだ。」などと説明しても、「植物って何?」「生き物って何?」と質問が続く。この応答は終わることがない。
ここに、「丁寧に説明する」ことの困難さが顔を出す。あえて哲学用語を使う必要はないが、ここにはホーリズム的な問題が生じていると言ってもよい。ある概念を説明するには、別の概念を用いざるを得ない。ある概念の説明が成功するかどうかは別の概念の説明が成功するかどうかにかかっている。そして、その別の概念もまた更に別の概念と関連している。よって原理的には、その説明の成否は説明に用いた概念の理解にかかっている以上、どんなに丁寧に説明したとしても、新しい概念の導入が成功する保証はない。
しかし、新しい概念の導入は現に行われている。現実には、なぜか、うまく相手を踏まえ、適度な範囲で説明が行われ、折り合いがつけられている。
このように、概念の導入の場面で丁寧な説明の現実のあり方を踏まえると、そこには、ある種の危うさがあることに注意しておく必要がある。丁寧に、と言っても、限りなく丁寧に、無限に応答を続けることはできない。どんなに抽象的で形而上学的な哲学であっても、その哲学の作者から読者への伝達の場面では、読者との折り合いという現実的な側面から離れることはできない。
このような観点を踏まえ、再度、現時点における哲学の述べ方のルールを確認すると、「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮し、現実的に、相手を踏まえ、適度に丁寧に説明し、概念を導入しなければならない。」とでも言えよう。

2の3 比喩
それでは、実際の哲学の述べ方として、「適度に丁寧な概念の導入」は具体的にどのように行われるのだろうか。
またもや、正しさを求めるという意味では哲学的な文章ではあるが、一般的な意味での哲学からは程遠い例を用いることにする。幼稚園か小学校低学年くらいの子供に太陽系という概念について教える場面を考えてみよう。どのように教えるかは人によると思うが、私ならば「大きいボールみたいな太陽があって、その周りに8個、小さいボールみたいな星があって、太陽の周りをぐるぐる回ってるんだよ。」などと教えるだろう。これが「適度に丁寧な概念の導入」の一例であるとしよう。より「適度に丁寧な概念の導入」である表現もあるに違いないが、いずれにしても相手の子供が既に知っていそうな言葉を組み合わせ、例えなども用いつつ、似たような説明をするのではないだろうか。
ここで、このような説明全般を比喩と呼ぶこととしたい。「ボールみたいな」というような直接的な比喩を比喩と呼ぶのは当然として、「ぐるぐる回る」というような表現についても、もともとは多分、その子供にとっては、おいかけっこ、とか、山手線、のような別のものについての表現であったのが、太陽系という別のものに対して、比喩的にずらして用いられていると考えることもできる。また「8個」という表現についても、もともと子供にとってはリンゴなどに使われ、少なくとも惑星の数を数えるためには使われていなかったところ、リンゴから惑星に比喩的にずらして用いられている。そういうものも幅広く比喩とするならば、このような説明全般を比喩と呼ぶことにそれほど違和感はないのではないだろうか。
なお、比喩は、「動物」「太陽系」「8個」といった直接観察できないものだけではなく、目の前で直接観察できる「このネコ」のような個別のものを説明する際にも用いられる。「ネコ」という概念を用いることで、以前相手が会ったことがある「ネコ」と同じ種類の新たな「ネコ」だということを示す比喩的な説明になるのはもちろんとして、「ネコ」という言葉を使わずに「これ」とでも言ったとしても比喩を伴わざるを得ない。「これは、これとしか言えない。」と言ったとしても、それが説明として成立しているなら、その相手は、既に知っていた「これ」という概念を比喩的に用いて、新たに使われた「これ」を理解したということである。
このように考えると、哲学的に新しいことを述べる文章には必ず比喩が使われているとさえ言えるだろう。先ほど整理したように、哲学を新たに述べるということは概念の導入そのものである。つまり、概念の導入は比喩により行われる。比喩により、新しい概念が既に知っている概念につながり、理解できる。
2の4 物語の比喩
更に言えば、この比喩は、物語を仲介して行われる比喩である。
私は、概念と概念を結びつけることを物語と表現している。
例えば、ネコという概念と動物という概念を結びつくということを「ネコは動物である。」という物語がある、というように捉えることができると考えている。
(詳細は、「語りえぬものを語る」で述べているところなので、ここでは、そういうものだと考えていただきたい、と要請するに留めたい。)
ある概念を比喩により理解するという過程については、もともと知っていた概念から、もともと知っていた物語を取り出し、新たに知った概念に対してその物語を適用するというように説明することができる。
例えば、概念の付加の例で言えば、ネコというものは知っているがネコが動物であるということまでは知らなかった人が、「ネコは動物である。」という説明を理解し、ネコに「ネコは動物である。」という意味を付加できるのは、例えば「イヌは動物である」という言葉をすでに知っており、そこから「○○は動物である」という物語を取り出し、ネコに対して、その物語を適用できたということになる。
また、よりわかりづらい例である、「これ」という概念を用いた「これはネコだ。」というような文を理解するような場面においても同様である。この場合、以前「これ」と指を差されたコップの「これと指を差されたコップ」という物語から「これと名指しされた○○」という物語を取り出し、「これ」と指を差されたネコにその物語を適用して理解していると言えよう。
二つの比較的単純な例を説明したが、現実にはもう少し複雑になるだろうし、 詳細の説明の仕方には不正確な部分もあるかもしれないが、おおむね、このようにして、物語を仲介した比喩により新しい概念は導入されると言えよう。
このような、物語を仲介して行われる比喩を、物語の比喩と呼ぶならば、新たな概念の導入は物語の比喩により行われていると整理することが出来る。

2の5 メタ比喩
更に言うならば、物語の比喩が成立するためにはメタ的にもうひとつの比喩が成立していなければならない。
「ネコは動物である。」という文を、物語の比喩により理解できるためには、「ネコ」「動物」という言葉を既に知っていなければならない。
既に知っているということは、例えば、以前に聞いたことがある「イヌは動物である。」という言葉における「動物」と、今初めて聞いた「ネコは動物である。」という言葉における「動物」とは同じものだということを知らなければならないということだ。
これは、以前、例えば「スイカは赤い。」という言葉と「スイカは甘い。」という言葉を使ったことがあり、2つ文における「スイカ」が同じものを指すということを知っているということである。そして、同じ言葉で表されたものは同一のものを指すという「スイカ」に対する知識を「動物」にも比喩的に適用することができたということである。
これは、同一という知識を比喩的に用いたということだ。既に知っている言葉を同一のものとして適用できる、つまり同一律をメタ比喩的に適用できるということが物語の比喩が成立するための前提となっている。
このメタ比喩を同一律の比喩と呼ぶならば、比喩には、物語の比喩とメタ比喩としての同一律の比喩という2段階があると言うことができる。
比喩について同一律の比喩も含めたものと考えるならば、先ほど、「新たな」概念の導入は比喩により行われているとしたことは若干訂正しなければならない。新たではない、既に知っていることを繰り返すだけの概念の導入であっても、それは比喩により行われていると言えよう。つまり、既に知っていることを繰り返すだけのトートロジーであっても、そこには同一律の比喩による概念の導入が含まれているということだ。「スイカは甘い。」という言葉を既に知っている状況において「スイカは甘い。」という言葉を聞いたというようなトートロジー的な状況においてさえ、それが理解できるためには、新たに聞いた「スイカ」「甘い」という言葉が、既に知っていた「スイカ」「甘い」という言葉と同一だということを知っていなければならない。
このように比喩を幅広く捉えるならば、「適度に丁寧な概念の導入」をするということは、「適度に丁寧な比喩」を行うということそのものだとも言えよう。
ここで再度、現時点における哲学の述べ方のルールを確認すると、「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮し、現実的に、相手を踏まえ、適度に丁寧に説明し、概念の導入としての物語の比喩と同一律の比喩(メタ比喩)を行わなければならない。」というように言える。これが、ここまでで確認した正しい哲学の述べ方である。

哲学の述べ方 1哲学の述べ方

2013年2月2日作

「私の哲学」の続編です。ちょっと「「語りえぬものを語る」を読んで」のことも踏まえてます。
希望としてはその後に読んでほしいかも。と当時書いてますね。

PDF:nobekata

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1の1 問題認識
私は哲学に興味がある。だが、「哲学とは何か。」と問われても答えられない。私には自らの興味の対象が何かわからないという気持ち悪さがある。その気持ち悪さを解消したくて、哲学とは何か考えている。個別具体的な哲学的疑問ではなく哲学という領域自体について考えることに独立した意義はない、という考え方もあるかもしれない。しかし、私は、ある文章が私にとって哲学的な文章であるということが現にわかる。そこに独立した考察すべきことがあるように感じる。
そこで、「哲学とは何か。」という問いを「哲学とはどのような内容なのか。」という問いと、「哲学とはどのような形式なのか。」つまり「哲学とはどのような述べ方がされるのか。」という問いとに分け、この文章では、後者の哲学の述べ方という側面から、哲学というものについて考えてみたい。

1の2 科学との対比
哲学の述べ方を考えるにあたっては、まずは、哲学を哲学以外のものと対比するところから始めてみたい。対比の対象は、私が勝手に哲学に近いものだと思っている科学と文学である。
哲学から科学に発展したという歴史的な事実がある。そのことを踏まえれば哲学と科学は近い。
ただし、一般的な受けとめとしては、現在の哲学は、もしかしたら、科学と対比できるような存在ですらないかもしれない。現在の科学の隆盛を踏まえれば、哲学とは、疑似科学のようなものであり、まだ科学が扱うことができない「心」等の限られた分野にのみ生き残っている絶滅危惧種であり、その隙間的な生存圏でさえも今後、科学により駆逐されていく、というように受け止められているかもしれない。
しかし一方で、哲学から科学に発展したという歴史的な観点を思い起こせば、当然ながら現在でも、哲学の一分野が科学だという言い方はできる。そして、哲学と科学を仲介するものとして科学哲学という哲学の一分野があるとも言える。現に科学哲学においては、科学の方法論も議論されている。例えば、科学には反証可能性が求められる、というような議論だ。これらのことを踏まえると、哲学のうちの、反証可能性等の科学哲学が提示する方法論に則って行われている一分野が科学だとも言える。あくまで哲学の側から見るならば、哲学の一分野が科学である。
両者の視点は両立しないという意味で、哲学と科学の関係は恐竜と鳥の関係にも似ている。現在の私たちから見れば恐竜は絶滅しているが、中生代の観点からすれば、恐竜のうち、羽毛を持ち、空を飛ぶことを選んだ者たちは生き残り、繁栄している。
ただし、「科学とは何か。」という問いに科学で答えることはできないという点で哲学と科学の関係は恐竜と鳥の関係とも違う。恐竜から鳥に進化したように哲学が別の何かに完全に置き換わることはない。どんなに科学が発展しても科学自体を哲学する科学哲学のような観点が失われることはない。科学は哲学により基礎付けられうるが、哲学は別の何かに基礎付けられることはない。科学には科学哲学が示すような方法論的なルールがありうるが、哲学には哲学以外の何かからルールを示されるということはありえない。このような相違点がある。

1の3 文学との対比
次に、哲学者がノーベル文学賞を受けているという社会的な取扱いも踏まえ、哲学と文学との関係について考察すると、ノーベル賞の例を出すまでもないが、哲学は文学の一分野である。文章表現のことを文学と呼ぶならば、文学のうち、ある特定の哲学的なテーマについて文章で表現したものが哲学だという言い方ができよう。
しかし文学という用語には、文章表現されたものという意味と、芸術作品という意味の2つがあるように思われる。意味の違いに応じて広義の文学と狭義の文学というように用語を使い分けるならば、辞書や取扱説明書のようなものは文章表現されているという意味で広義の文学ではあるが、芸術作品ではないという意味で狭義の文学ではないと言えよう。
同様に、哲学も広義の文学ではあるが狭義の文学ではない。芸術作品としての狭義の文学は、芸術作品として美しいかどうかで価値判断がなされる。一方で哲学は正しいかどうかで価値判断がなされる。そこに大きな違いがある。よって、哲学は狭義の文学ではない。
しかし、哲学書と取扱説明書とを一括りに狭義の芸術作品としての文学ではないとすることに抵抗があるかもしれない。確かに優れた哲学書は芸術作品としても価値がある。
この抵抗感の解消方法は三通りほど思いつく。まず、哲学には正しさと美しさという二つの評価軸があると認める方法。次に、正しさと美しさとは一体であると認める方法。最後に一つの文章に哲学的要素と狭義の文学的要素が混在していると認める方法である。前二者の方法をとるならば、哲学に正しさが割り振られ、狭義の文学に美しさが割り振られるという対比はできなくなり、哲学と狭義の文学の違いを見出すことはできなくなる。これらの方法をとるならば、これからこの文章では、哲学とは何か、ではなく、正しさとは何か、美しさは何か、という観点から語っていかねばならないだろう。
しかし、この文章は哲学とは何かを考察するものであることから、当面は三つ目の選択肢を選び、一つの文章に哲学的要素と狭義の文学的要素が混在していると考えることにしたい。そして、哲学的な文章から狭義の文学的要素、つまり芸術作品としての価値、美しさを捨象したものを哲学として検討していくこととしたい。(ただし、検討の過程では、正しさとは何か、美しさは何かという観点からは逃れられないため、後ほど、私が考える正しさと美しさの関係についても最低限触れていく予定である。)
このように哲学と文学を対比すると、哲学は正しさが求められるが、狭義の文学は美しさが求められるという相違点があると整理できる。

1の4 丁寧に説明する
この2つの対比から、その相違点に注目すると、哲学とは、科学と異なり方法論的なルールはないが、狭義の文学と異なり正しさが求められるものだ、とまとめることができる。
ここで哲学を述べるということにつきまとう困難さに気付く。ルールがないのに正しさが求められるというのはどういう状況だろう。それは、まるで勝ち負けを決めるルールがないスポーツを行っているようなものだ。サッカーをしていると思ってシュートの数を競っていたら、実は行っていたのはサッカーではなくて格闘技で、試合終了後、倒した相手の人数で勝敗が決められる、というようなことが起こりうる。哲学を述べるということにはそのような困難さがある。
それでは、哲学において述べ方のルールを見出すことは全くできないのだろうか。
私は、哲学と科学、文学とを比較し、その相違点に着目するのではなく、両者との共通点に着目することを出発点として、哲学の述べ方をある程度捉えていくことが可能なのではないかと考えている。
まず、哲学、科学、文学という3者の関係を整理してみると、科学は哲学に含まれ、哲学は広義の文学に含まれるという関係にある、というように言えよう。「科学⊂哲学⊂広義の文学」である。
つまりは、哲学は広義の文学としての特徴を持っている。そこで、文章表現されたものという意味での広義の文学と哲学の共通点に着目すると、少なくとも二つのことが言える。まず、哲学は文章表現なのだとすれば、作者と読者があり、伝達されるものとしての本(哲学なので哲学書)があるはずだということ。そして、作者は読者にどのように伝わるか配慮しているはずだということだ。
加えて、哲学と科学との共通点もある。先ほど、哲学と文学を対比し、哲学は正しさが求められ、狭義の芸術作品としての文学は美しさが求められるという相違点について述べたが、このうち、哲学は正しさが求められるということは、哲学と科学の共通点でもある。ルールがあるかどうかという違いがあるものの、いずれも正しさを求めるという点では同じだ。
このようにして明らかとなった哲学と科学、文学の共通点を踏まえると、次のように哲学の述べ方のルールをまとめることができる。「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮して説明しなければならない。」
この、正しく伝えようとする読者への配慮は、一言で言えば「丁寧に説明する」ということである。「丁寧に説明する」ということが哲学の述べ方のルールの少なくとも一部であるということを踏まえ、より詳細に、哲学の述べ方について考察していきたい。

1の5 留意点:伝達
なお、前もって触れておく必要があるが、これまで哲学については哲学者が書いた書物としての哲学書を念頭に述べてきたが、その形式は書物に限らない。哲学の講義でもよいし、居酒屋で行う哲学的な議論であってもよい。文字であっても口頭であっても、何らか伝達されている場面であればよい。そういう意味では、作者、読者という用語も、発信者、受信者というような意味合いで考えてよい。
また、哲学者という用語についても、職業的な意味での哲学者ではない人を含めてよい。哲学の専門家ではない私が書いたこの文章は哲学書に含まれる。
更には、哲学を述べるとは独り言であってもよい。自分自身に語りかけるという意味で、自問自答している場面での自分も読者に含まれる。当然、独り言と言ってもブツブツ声に出さなくともよい。
私は哲学的な思考をするということを、自分自身を読者として哲学書を書くことに置き換えることが可能だと考えている。例えそれが私の頭の中での自問自答であっても、作者である私が私も含めた読者に対して哲学書を書いているように、思考というものを理解することができると考えている。私の哲学の捉え方には、このような伝達という視点が色濃く反映されている。
そういった意味では、これまで文章表現としてきた広義の文学とは、いわゆる言語そのものであり、そのなかには、いわゆる思考も含まれると考えてよい。広義の文学つまり言語のうちの哲学的思考も含む哲学的に使用された言語が哲学だということになる。しかし、思考や言語というような用語は人によって受け止め方の違いが大きく、私が期待しているのと全く違うイメージを持たれてしまうおそれがある。特に伝達という視点が抜け落ちてしまうことが危惧される。よって、今後も思考や言語というような用語は極力使わず、作者、哲学書といった用語を用いて述べていきたい。
(少々駆け足の説明であったが、私が哲学を文章表現として捉え、作者、読者、哲学書という捉え方をしていること等については、既に詳細を「私の哲学」で述べているところである。)