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旅の話2(趣味について)

0 はじめに

11月の上海に続き、12月には台中に行ってきた。こんなことを2ヶ月連続でできるなんて恵まれているなあ。家族には感謝したい。あとこういうことを成立させてくれている世界全体にも。

今回の旅のテーマは前回に引き続き「自然体」だった。同じ中国でも、大陸と台湾では難易度が違うから、より自然な感じで旅ができた。台湾、特に台中は、たいして見どころもないし、一人旅の最難関である(寂しくなりがちな)夕食も、夜市などで楽しく過ごせたし、とっても楽な旅だった。

ということで、持っていった哲学書はあまり読み進められなかったけど、とってものんびりと過ごすことができた。のんびりしすぎて、たいしたことを考えなかったけど、一応、旅の間に思いついたアイディアを発展させて、ここに書き残しておく。

1 趣味の魅力①固有の魅力

海外旅行は僕の趣味と言ってよいだろう。18歳の初海外にはじまり、毎年のように30年くらい海外旅行をしている。数えたところ今回が32回目だった。結構ハマっているほうだと思う。

では、僕にとって海外旅行という趣味はどういう意味があるのだろう。ほとんどの人がそれぞれ趣味を持っているけれど、そもそも人にとって、趣味はどうして重要なのだろう。そんなことを考えて今回、旅をした。

海外旅行には不思議な魅力がある。楽しいことばかりという訳でもないし、疲れる。特にバックパッカー的な貧乏旅行はなおさらだ。はじめの頃はうまくいかなくて、緊張の連続だった。学生時代にインドに行ったときは、トラブル続きで、なんでこんなことをしているのだろうと辛くなった。だけど、海外旅行には苦労しても味わいたくなる独特の魅力がある。未知の世界の真っ只中に放り投げられた異邦人としての自由な感覚、日常のしがらみから離れ、ただその日にやることだけに集中すればよいという解放感、時々ご褒美のように訪れる見知らぬ人との出会い。そういったものはほかではなかなか味わえない。苦しいこともあったけど、僕は海外旅行のそんな魅力にはまってしまった。

これが海外旅行の魅力なのだけど、世の中には色々な趣味があって、それぞれの趣味には固有の魅力があるのだろう。例えば、昔、はまっていたスノーボードなら、エッジを立てて遠心力に耐えつつ滑るスピード感や新雪を滑る浮遊感のようなものが魅力として挙げられる。きっと、僕が苦手な球技、草野球やフットサルにも別な魅力があるのだろう。

2 趣味の魅力②得意の魅力

今回、旅をしていて、僕にとっての長年の趣味である海外旅行には、もうひとつ別の魅力があることに気づいた。それは、僕にとって得意なこと、という魅力だ。

たしかに僕は英語もたいして話せないし、中国語はニイハオくらいしか話せないけど、これだけ経験を積んでいるので、海外旅行はスムーズにできる。入国審査だって手慣れたものだし、なんとなく現地の路線バスに乗ることもできる。当然自力ではなく、グーグル先生に助けてもらったり、(なるべくかわいい女の子を選んで)道を教えてもらったりもするけれど、人の力をどこで借りるべきかの判断も適切にできる。そんなふうに、うまく旅ができていると、やったぜ、と心の中でガッツポーズをとりたくなる。言葉が通じない中、適当に屋台でご飯を注文して美味しいご飯が出てきたときなんて、ビールを飲みながら周りを見渡し、俺っていい感じじゃん、と得意げになる。今回、そんなふうに屋台でビールを飲みながら、ふと、僕は、海外旅行固有の魅力からだけでなく、慣れていて得意だから海外旅行をしている面もあるのではないか、と気づいた。

先ほど書いたように、はじめからそうではなかった。インドで熱中症になったり、下痢になったりして、疲れているのに変なインド人が話しかけてきたときなど、もう嫌になって、早く日本に帰りたかった。

経験を積み、色々学び、余裕ができ、旅をコントロールできるようになったから、こういう旅の楽しみ方ができるようになった。これは、上達して得意になったからこその魅力だと言えるだろう。

多分、スポーツなどの他の趣味でも同じようなものだろう。最初はまず、下手なのになぜか、その趣味固有の魅力に捕らえられるところから始まる。そこから続けるうちに、徐々に上手になっていき、上達し得意になったこと自体が新たな魅力として加わっていく。当然、長年続けていても、もともと感じた固有の魅力が消え去ることはないけれど、新たに加わった魅力との構成比は変わっていく。最初は、 固有の魅力100:得意の魅力0 だったのが 固有の魅力50:得意の魅力50 になっていく、というように。

3 得意の魅力・自己肯定感

この得意の魅力は、自己肯定感の魅力と言い換えることもできる。僕は、長年旅をしてきたから、うまく旅ができる。うまく旅をしている自分を味わうのが心地よい。だから僕は旅が好きだ、とも言えるからだ。これはまさに自己肯定感と名付けてよいだろう。

ただ、自己肯定感というと、どうも何かと比較して高低を判断しているような感じがあるけれど、もっと根源的な心地よさだということも強調したい。例えるならば、旅先で、見知らぬ土地を走るバスの窓を開けると、そこから異国の風が吹き込んでくるような心地よさだ。

僕は旅が得意だから、僕は旅において上手な立ち振る舞いをすることができる。その結果、僕は素敵な世界に関わることができる。いわば、世界の素敵な部分を引き出し、僕自身がその素敵な世界のなかに存在することができる。そこにあるのは、僕自身も含めた世界全体が肯定され祝福されているような感覚だ。これは、旅を通じて、僕が世界と馴染み、僕と世界とがダンスを踊るようにステップを踏み、ともに存在として高められていくような感覚だと言いたい。(伝わらないと思うけれど、雰囲気だけでも伝わるとうれしい。)

そのような意味で、自己肯定感のうち「自己」というのは余分で、そこにあるのは世界全体の「肯定感」であり、旅行が得意であることの魅力とは、世界とうまく関わり合うことができることの魅力と言い換えてもいいようにも思える。

ここまで旅を例にしてきたけれど、旅以外の趣味でも同じことが言えるだろう。スポーツのほうが、よりわかりやすいのかもしれない。スノーボードできれいにジャンプができたとき、僕は世界と最適なかたちで接続し、世界全体に溶け込み、祝福されている。多分、野球でホームランを打ったときや、サッカーで絶妙なパスからシュートを決めたときなども同じような感じなのではないだろうか。球技は苦手だからそんなのは感じたことがないけれど。

4 趣味の魅力③達成感という魅力

もうひとつ、海外旅行には達成感という魅力もあるように思う。僕がインドから無事に日本に帰ってきたときには大きな達成感があった。課題を乗り越え、成長したという感覚と言ってもよいだろう。僕にとっての海外旅行の魅力は、この達成感が大きかったようにも思う。最近はそれほど感じないけれど、若い頃はこの達成感を求めていた側面が大きかったように思う。

この達成感という魅力は、様々な趣味に共通のものだろう。スノーボードなら、難しい斜面を滑りきったときや、上手にジャンプを決めたときには達成感があった。きっと、草野球で勝利したときや、編み物で大作を完成させたときにも同じような達成感があるに違いない。

残念ながら、達成感という魅力は、同じ趣味を続ければ続けるほど、失われていく。それに抗うように目標設定を引き上げ、より冒険的な旅をしたり、より高いジャンプ台からジャンプしたり、より強いチームと勝負したりすることも可能だが、それにも限界がある。同じことを続けていて、いつまでも新鮮な気持ちを持ち続けることはできない。達成感にも限界効用逓減の法則は働いているのだろう。

5 3つの魅力の関係

ここまでで、趣味には3種類の魅力があることが明らかになった。まず、海外旅行ならば、自由な感覚、解放感、出会いのような、趣味それ自体の固有の魅力。次に、肯定感とも言い換えることのできる、得意であることによる魅力。最後に、達成感という魅力だ。

このうち、第2の魅力と第3の魅力は、時間の経過とともに全く逆の動きをするという点に注目したい。その趣味を長期間続けることにより、得意の魅力は徐々に増加し、達成感の魅力は逆に減少していくのだ。

この2つの動きは、全く独立のことではない。その趣味を長期間続け、経験を積んだからこそ上達する一方で、経験を積んだからこそ達成感も減少していく。旅先でトラブルに会うと、学習して旅がうまくなる一方で、次に似たようなトラブルを乗り越えても達成感を感じなくなる。スノーボードでたまたま上手にジャンプを決めることができると、それが上達につながる一方で、次に同様のジャンプができても達成感にはつながらなくなる。上達と達成感は、いわば経験から帰結することの表裏なのだ。趣味において経験を積むということは、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくことなのだと言ってもよいだろう。

6 過去・現在・未来

では、経験を積み、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくという取引は、いい取引なのだろうか、それとも悪い取引なのだろうか。達成感の魅力と得意の魅力では、どちらが重要なものなのだろうか。

そのことを考えるためには、過去・現在・未来という時間のことを考慮に入れるといいかもしれない。(僕は時間について考えるのが好きなので、僕にとってはいいアイディアなのだ。)

さきほど、上達し、得意になったことにより感じる魅力は、肯定感とも言い表すことができ、世界とうまく関わり合うことができることの魅力と言い換えられるとした。この得意の魅力は現在に属すると言えるだろう。なぜなら、旅先で、見知らぬ土地を走るバスの窓から異国の風が吹き込んでくるとき、スノーボードできれいにジャンプができたとき、野球でホームランを打ったとき、サッカーで絶妙なパスからシュートを決めたとき、その瞬間に感じられるものだからだ。

一方で、達成感は現在を素通りし、過去と未来に属している。

まず達成感が過去に属するのは明らかだろう。旅における達成感とは旅が終わってから感じるものだ。日本に戻ってから、ああ、あれを乗り切ったんだな、というように振り返るようなかたちで。スノーボードならば、滑りきった急斜面を見上げ、ああ、あそこを降りてきたんだな、なんて振り返る。草野球なら、試合のあとに居酒屋で祝勝会をして、ビールでも飲みながら振り返るのだろう。草野球の話はあくまで想像だけど、とにかく、達成感は過去に属する。

達成感が未来に属するということについては、少々説明が必要かもしれない。

達成感が未来に属するのは、達成感を感じるためには予測が必要だからだ。インドに行ったらお腹を壊すおそれがある、とか、あの国の入国審査は面倒だ、という知識があり、その知識に基づき、旅を成功させるために乗り越えるべきハードルを設定する。そして、そのハードルを乗り越えることで達成感を感じる。達成するためには、未来に向けてハードルを設定することが必須となる。

もし、未来のことを全く考えず、ぼんやりと旅をしていたら、それがどんなに過酷な旅だったとしても、達成感はないように思える。全く前提知識がないまま、紛争地帯を戦場カメラマンのように旅をして、たまたま運良く無事帰ってきても、そこには達成感はないだろう。たとえ運悪くテロ組織に拘束され、その後、無事釈放されるというようなドラマがあったとしても、前提知識がないなら、それは、家の近所で誘拐されて釈放されたのとなんら変わりはない。そこに安堵感はあっても達成感はないはずだ。達成感を感じるためには、将来を予測し、それを乗り越えようと、主体的に関与する必要がある。その意味では、達成感には、予測、つまり未来が大きく関わる。

このような意味で、得意の魅力は現在に属し、達成感の魅力は過去と未来に属する。

7 過去・現在・未来 その2

いや、この区分は少々荒っぽいかもしれない。当然、達成感の魅力において、現在は無関係ではない。なぜなら実際に達成するのは現在においてだからだ。ただ、予測し目標設定した時点(未来)と、それを成し遂げた時点(過去)との間の、まさに渦中にある時点(現在)においては、達成感など味わう余裕はない。その意味で、達成感の魅力は、現在を素通りしている。

また、得意の魅力においても、当然、過去と未来は無関係ではない。過去において旅の経験を積んだからこそ、旅が得意になっている。つまり過去は、僕の血肉となり、得意の魅力の基盤として支えてくれている。

未来についても、まっさらな無垢な未来があるからこそ、そこで想定外の新しい出来事が起きる。そこで想定外の出来事を乗り越えるからこそ得意の魅力を発現させてくれる。もし想定内の既知の出来事しか起こらなかったら、旅が得意だと感じることもなく、世界とうまくやっているという実感が生じることもないだろう。

正確に述べるなら、得意の魅力においては、現在が顕在化し、過去と未来は背景に退いている。達成感の魅力においては、過去と未来が顕在化し、現在は背景に退いている。そう表現したほうがいいかもしれない。

8 タージマハル

このように考えると、得意の魅力と達成感の魅力とは、きれいに互いを補い合っている関係にあることから、同じものの2つの側面であると解釈したほうがよいと思うかもしれない。同じ旅の魅力について、旅をしている最中、つまり旅の現在においては得意の魅力として感じ、旅を終え、過去を振り返るときには達成感の魅力として感じるのだ、というように。

しかし僕は、あえて、この2つは全く別物であり、得意の魅力こそが本当の魅力であり、達成感の魅力はかりそめの魅力であるという方向で考えたい。つまり経験を積み、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくという取引は、いい取引なのだ。

なぜ、そのように考えたいかというと、まず、僕が歳を取りつつあるからだ。僕は年令を重ね、経験を積み、得意の魅力を味わえるようになる一方で、達成感の魅力は味わいにくくなっている。今後、ますますその傾向は強まるだろう。今後手に入りにくいものより、手に入りやすいもののほうの価値があったほうが嬉しい。そう思いたい。

もうひとつの理由としては、本当に、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが根源的なものだと心から思うからだ。

ただ、そう思う根拠を説明しようとすると、話がとても長くなってしまう。説明できなくはないけど、この文章もそろそろおしまいにしたい。だから説明はあきらめ、雰囲気を伝えるに留める。

達成感の魅力というと、タージマハルに行ったことを思いだす。タージマハルは本当に絵葉書のように美しい。だから、ちょうど絵葉書みたいに見えるところに立ってタージマハルを眺めると、タージマハルが想定どおり絵葉書のように見える。当然それが観光のピークとなり、写真をたくさん撮ったりもする。だけど僕はそのとき、じゃあ絵葉書でいいじゃん、と思ってしまった。これは、つきつめれば、よく夏休みにやっているスタンプラリーと変わりはなく、とてもつまらない。未来の予測と過去としての振り返りだけのためにタージマハルに行ったようなものだ。僕はこれが達成感の魅力の本質だと思う。

なお当然ながら、スタンプラリーは実はとてもつまらなくなどない。友達と一緒に行くのは楽しいし、色んな電車に乗れるのも楽しいし、うっかり通勤ラッシュに巻き込まれてしまったりといったハプニングも面白い。同じようにタージマハルはつまらなくなどなく、実は2日連続で行ってしまった。空いている時間にひんやりした大理石の上に座りのんびりするのはとても心地よかった。これらは、未来の予測や過去としての振り返りからは無縁な旅の現在において感じる魅力であり、これこそが得意の魅力であると言いたい。

当然両者は混ざり合っているから、現実にはきれいに区分けできないかもしれないが、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが重要だということがなんとなく伝わるとうれしい。

9 2種類の過去・現在・未来

きちんとした説明は諦めつつも、もうひとつの別の切り口から、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが重要だということを指し示したい。

そのために、さきほどの過去・現在・未来の話について、もう少し整理しておきたい。思い出していただくと、このような話だった。

第6章:達成感の魅力は過去と未来に属し、得意の魅力は現在に属する。

第7章:正確には、得意の魅力においては、現在が顕在化し、過去と未来は背景に退き、達成感の魅力においては、過去と未来が顕在化し、現在は背景に退いている。

つまり、過去・現在・未来は、それぞれ顕在化した過去・現在・未来と、背景に退いた過去・現在・未来とがある。列挙しよう。

過去1(顕在化した過去)思い出としての過去

思い出としての過去とは、タージマハルがきれいだったとか、タージマハルの大理石がひんやりしていた、といったような思い出としての過去のことだ。通常、過去というとこちらの過去をイメージするだろう。

過去2(背景に退いた過去)身体に取り込まれた過去

身体に取り込まれた過去とは、いわば、経験が血肉となったということを指し示す。僕はタージマハル観光をすることで、オートリキシャーがパンクしたのを乗り切ったり、ひんやりした大理石が気持ちいいことを学んだりした。その後の旅では、モスクがあるとつい立ち寄ったり、車が故障したらどうするかを頭の片隅で考えるようになった。過去の経験はそのようにして身体に取り込まれ、経験は血肉となり、旅の上達につながる。

現在1(顕在化した現在)瞬間としての現在

瞬間としての現在とは、タージマハルがきれいだ、タージマハルの大理石がひんやりしていた、とまさにそう思っている瞬間の現在だ。通常、現在というとこの現在をイメージするだろう。

現在2(背景に退いた現在)素通りされた現在

素通りされた現在とは、作業を行っている現在と言ったほうがいいかもしれない。タージマハル観光をしている現在だ。観光という作業をすることで、タージマハル観光が達成される。瞬間としての現在との違いを強調するなら、そこで現に何を感じたかではなく、そこで現に何をしたか、に着目した現在だと言ってよいだろう。

未来1(顕在化した未来)予測される未来

予測される未来とは、予測どおりだったか予測と違ったかに関わらず、予測でアクセスできる未来という意味だ。タージマハルを例にするなら、僕は、絵葉書のようにきれいだと予測してタージマハルに行った。実際、絵葉書のように美しかったのだが、実は絵葉書のようには美しくなかったとしても、それは予測と違ったという意味で、予測される未来の範疇だと考えてよい。タージマハルが美しいと予測することには、予測が外れて美しくないかも知れないと考えることも含む。タージマハルが美しかったり、美しくなかったりする未来が、予測される未来だ。

未来2(背景に退いた未来)想定外の未来

想定外の未来とは、タージマハルの大理石がひんやり冷たかったり、タージマハルに行くときに使ったオートリキシャー(3輪のタクシーみたいなの)がパンクしたり、といったような物事についてのものだと言ってよいだろう。旅をしていると、突然の人との交流や、ふと立ち寄った街の景色が心に残る。このような出会いは、実際にあるまでは、全く予測できない未知のものだ。生まれる前の子供のようなものだと言ってよいだろう。まだ出会っていない偶然の出会い、まだ起きていない偶然の出来事、そのようなものこそが想定外の未来である。(これこそが、本当の未来だと言いたい。)

10 得意の魅力の優位

以上のように、過去・現在・未来がそれぞれ2種類に分けられるとするならば、達成感の魅力と、得意の魅力は、更に詳細な描写ができる。

達成感の魅力:予測される未来と素通りされた現在と思い出としての過去に属する。

(理由)達成感とは、事前に設定されたハードル、つまり予測される障害を乗り越えることで感じられるものであり、現在は作業として素通りされ、それを感じるのは、常に達成したあと、思い出として振り返るときだから。

得意の魅力:想定外の未来と瞬間としての現在と身体に取り込まれた過去に属する。

(理由)得意とは、想定外の出来事に出会い、それを現にその瞬間において楽しみ、そしてその経験が血肉となるというあり方をしているから。

僕の好みなのかもしれないが、こう並べてみると、明らかに僕は、達成感よりも得意のほうに魅力を感じる。達成感の魅力とは、得意の魅力の劣化版なのではないかと思えるほどだ。それは、ツアー旅行と個人旅行との違いに似ている。

当然、予測することは大事だし、色々感じてばかりではなく作業に没頭することも必要だし、たまには思い出にひたり達成感を感じるのもいいだろう。

だけど、今の僕には過去を振り返る暇はない。達成感など要らない。僕は、今を味わい、そして、想定外の未来のほうを向いていたい。達成感なんていうものに囚われず、趣味を楽しみ、そして、肯定感を持って世界と関わり、世界になじんで生きていきたい。

11 趣味に込めた意味・天命

最後に、なぜこんなに趣味について熱く語るのかについて少し説明する。

実は、僕は、趣味という言葉に通常よりも大きな意味を持たせている。ここでの趣味とは、いわば、楽しみ、味わうことのできること、全てを指している。仕事だって楽しいなら趣味としてよいし、家族への愛や恋人との恋愛だって、そこに喜びを見出しているなら、その側面では趣味としてよい。というか、実はどれも趣味と同じものだと思っている。これら全てをひっくるめて、生きるうえでの「こだわり」と言い換えてもよい。

更には、人生のポジティブな側面のすべてを趣味と捉えることが許されるならば、僕はそれを、天命とさえ呼びたい。人生がまったくののっぺりとした平板なものではなくて内容があり、内容があることに価値があるのなら、そこにあるこだわり、つまり趣味こそが天命なのだとしてもおかしくないだろう。趣味とは、まさに人生を賭けたこだわりであり、生きるということそのものなのだ。

そこまで話を大きくするならば、趣味という言葉に、もうひとつ、他者のためにやることではない、という意味があることを強調したくなる。僕は誰かのためになど行きていない。僕は僕の天命のために行きている。その意味では、人は趣味に生きるしかないのだ。

だから、海外旅行をしている僕も、日常を生きる僕も、地続きの天命を行きている。こう考えれば、日本に戻り、日常に帰ることは、決して寂しいことではない。

7:3の法則

もう20年近く前になるけど、仕事でプロジェクトに必要な人工(にんく)について業者から提案を受けていたとき、実作業とは別に、プロジェクトの管理のために3割くらい上乗せする必要があるという話を聞いた。
かなり昔の話だから本当に3割と言っていたかどうかすら怪しいが、僕のなかでは3割という具体的な数字も込みで心に残っている。
考えれば考えるほど3割というのはいい線をいっているように思う。2割だと上乗せ分が僅かな誤差に見えなくもない。4割だとほぼ半分が上乗せという感じになる。
重要だが、あくまで従としての管理業務が占める割合が全体の3割というのは妥当なところだろう。
誤差として無視はできないけれど、主たるものに匹敵するほどでもない。3割という数字にはそんな丁度よさがある。
主たる実作業が7割で従たる管理作業が3割だから、これを7:3の法則と名付けることにする。

思うに、7:3というちょうどよさは、色々なところで使える気がするのだ。
世の中のたいていの物事は、本体は7割で、残り3割は付属物だったり、余計なものだったりするのではないか、という気さえしてくる。
仕事を10時間するなら、3時間分の作業は、手直しや、余計な調整のため、無駄なものになると覚悟しておいたほうがいい。
相手に説明し、完全に共通認識に至ったように感じたとしても、3割は通じていないと見積もったほうがいい。
結婚式で永遠の愛を誓っても、3割は誓いきれない側面があると思ったほうがいい。

これらの例は、理想を夢見る人への悲しいお知らせのように思えるかもしれない。または、物事の裏を知ってしまった大人が吐き捨てたセリフのように感じるかもしれない。「人生ってこんなもんだよ」なんて。
確かにそんな側面もある。二度と挫折感を味わないためには、先回りしてワクチン接種のように無力感を事前に感じておくほうがいい。そんな類の話としても解釈できる。
だが、もっとポジティブなものとして活用できる解釈があることを見過ごすべきでない。
想定外が3割あると思っておくことで、不意打ちを避け、よりうまく対処することができる。敵は絶対海から攻めてくると思っていても3割は陸から攻めてくることもありうると心構えをしておくことができる。または7割は攻めてきても3割はそもそも攻めてこないこともありうるという想定もできる。
更にポジティブな解釈もできる。きちんと仕事をすれば、その労力の7割は活きたものになるし、言葉を尽くせば7割は理解してもらえるし、7割は愛を誓うことができる。7:3の法則によれば7割は無駄にならないということもかなり重要だ。
また、この法則は、何かを選択するときは、7:3のうちの7割として選択しており、3割を捨てているということも思い出させてくれる。3割を捨てた分、7割を精一杯がんばろうと思う。
現実を見据えて想定外の心構えをしつつも、未来の理想に向かって一歩踏み出すことを後押ししてくれる。それが、7:3の法則であるとも言える。

僕の心がけ

最初に

僕が、日々、心がけるようにしていることを記録しておく。
なんとなく、うまくまとまっている気がするから。
誰かが、僕がどうしてこのような考えにたどり着いたかなんて考えずに、ただ真似てくれるだけでも役立つのではないかと考えている。

僕には、心がけていることが7個ある。
自分を見失ったような気がしたとき、7つの心がけを一つずつ思い出し、今、自分がやっていることが、きちんと心がけに沿っているかどうか確認している。
また、電車の中などで手持ち無沙汰なときには時々、7つの心がけを一つずつ思い出し、どれかひとつでもおざなりにしていることがないか思い出している。

なお、僕は哲学が好きだけれど、それほど哲学的な意図は含まれていない。どちらかと言うと、自己啓発っぽい本に触発されて思いついたこととなどが多い。
だから、未来・現在・過去の3時制と紐づけて分類しているが、そこには時間論的な哲学的意図はなく、ただ思い出しやすいから、そうしているに過ぎない。
だが、いつか、うまく哲学的につなげて論じることができたらいいなあ、とは思っている。

では、まずひととおり列挙しよう。

(未来)
1 変化・成長
2 天命・天職
(現在)
3 健やかな心
4 健やかな身体
5 中庸・節制・(心がけの尊重)
(過去)
6 蓄積・こだわり
7 本能・身体的欲求

となる。
だが、これだけではなんだかわからないだろうから、ひとつずつ内容について説明しよう。

1 変化・成長

これは、7つの心がけの中でも最重要のものだ。
僕は、フランクルの「夜と霧」が好きで、特に若い女性とマロニエの木のエビソードが好きだ。強制収容所の中での一瞬のなかにも内面的成長はある、ということを教えてくれる。
僕は癌になり、手術後の一日だけICUで過ごしたけど、そのときの体の不自由さがずっと心に残っている。癌は再発しなくても、いつかあのような苦しみが何日も続き、そして死ぬかもしれない。僕は死ぬことよりも、死ぬまでの苦しみが嫌だ。何もできず、何も生み出すこともできないのに、ただ死なないためだけに苦しんで生きていくのが嫌だ。
だけど、もし、できるならば、その苦しみの中でも、死の直前まで内面的成長を目指すような生き方ができればいいな、と願っている。

また、成長とは変化であり、この7つの心がけのシステムの外部へと接続する道だ。僕自身がひとつのシステムだとするならば、僕は、変化を積極的に取り込むことができる開放系のシステムでありたいと思う。

2 天命・天職

矛盾しているようだが、変化が必要である一方で、変わらないもの、変わるべきでないものもあるように思う。
それは、僕の存在の芯となるものであり、僕はこの何かのために生きてきたとさえ言いたいものだ。
確かに、成長・変化により新たな気付きがもたらされ、その何かは変わるかもしれない。だが、いつか変わるその時まで、決して変わらないものとして、その何かを大事にして、そこに命をかけていきたい。それが僕の天命であり、仕事なら天職だと思う。

今のところ、僕の天命・天職は、哲学をすることだ。
なお、暫定的な天職ではあるけれど、きっと、死ぬまで変わらず天職なのだろうなあ、という予感がある。
性格的に結構向いているし、これまでの蓄積もあるし、なにより、「世界を知る」ということより大きなロマンなんて思いつかない。こんなのに命をかけるなんて最高だ。

以上の2項目は、これからの僕ということに着目しているという程度の意味で「未来」に区分している。

3 健やかな心

この心がけは、最も僕の哲学的考察が反映されている。
今まで考えた限りでは、「生」に対する肯定感というものは、他の何かから導かれることはない。傍目から見たら同じような人生であっても、その人生を良いものと受け止められるか悪いものだと思うかの違いは、脳内物質がどうこう、という科学的説明は別にして、哲学的には根拠はない。
僕は、そこで、まずは、無根拠、無条件の「生」の絶対的肯定が必要だと考えている。

なお、その肯定は、永井の独在論的な意味での「今・ここ」で行われる。
そこから僕は、瞑想的なアイディアも取り入れ、バイタル・スフィアというイメージを編み出した。
これは、「今・ここ」の肯定が、独在論的に、全世界の肯定として広がるというイメージだ。その肯定された世界は、動的なあり方をしていて、呼吸し脈動する球のようなイメージにつながる。それがバイタル・スフィアだ。
哲学的にそこまで精緻に分析するには至っていないし、瞑想においてもそこまで達することはできていない。だから多少間違いがあるかもしれないが、方向性に大きな間違いはないという予感がある。ということで暫定的に、そのようなものをイメージしてもよいだろう。

僕独自の哲学が満載なのでわかりにくいかもしれないが、このような意味で、健やかな心は重要なのだ。ただし僕は内心では健やかな心ではなくバイタル・スフィアと呼んでいる。

4 健やかな身体

一転して、これは当たり前の話だ。
不可抗力的に病気になったりするのは仕方ないけれど、できる限り病気や怪我をせず、元気に活動できたほうがいい。
そのためには運動したほうがいいのだけど、先ほどのバイタル・スフィアの関連もあり、瞑想とおおいに関連があるヨガをしている。
動く瞑想とも言えるだろうヨガは、健やかな心と健やかな身体を一挙に手に入れられるものとして一挙両得でとても効率が良い。
それに、姿勢や呼吸など、日常生活でも得るものは大きい。
ということで、健やかな身体についても僕は内心ではヨガと呼んでいる。

5 中庸・節制・(心がけの尊重)

僕は、低きに流れ、だらだらとポテチを食べながらゲームをしたりして、耽溺してしまうところがある。
そうすると、ここで挙げているような心がけなど、全て忘れて、目先の快楽を追ってしまう。
快楽自体は悪いことではないけれど、僕はコントロールが苦手なので、テレビやゲームやSNSや飲み過ぎや食べ過ぎなどは、その入り口に立たないよう気をつけるようにしている。

これは、中庸や節制というキーワードで心がけているのだけど、別の捉え方をすれば、ここに挙げているいくつかの心がけを見失わない、というかたちでのメタ的な心がけとも言える。

その意味では最後の7項目目の心がけでもいいのだが、以上の3項目は「今・ここ」の僕の心がけとしての側面が強いことから、現在に区分している。

6 蓄積・こだわり

とにかく僕は、これまで生きてきたという蓄積がある。僕の歴史と言ってもよい。現在の僕や将来の僕が大事にしたいものは色々とあるが、それはともかく、過去の僕がこれまで大事にしてきたものを粗末にすべきではない。
これまでの僕を肯定し、これまでの僕がこだわってきたことについても、あえて否定する理由がない限り、大事にしたい。
そのような意味で、僕のこれまでの蓄積・こだわりは大切なのだ。

なお、僕がこれまで大事にしてきたものは具体的に7つある。
この文章で挙げている理念的な7つの心がけとは別に、具体的な7つの重要なものがあるという二重構造となっている。
一応挙げておくと、

(1)哲学
   これは項目2天命・天職につながるもの
(2)ヨガ
   これは項目4健やかな身体につながるもの
(3)家族
   これは仏教的には煩悩かもしれないけどギリギリまで大事にしたいもの
(4)趣味(海外旅行など)
   他の項目に比べれば優先順位は低いが、気分転換であり、項目1の新たな出会いにもつながるので大事にしたいもの
(5)ライブ
   同上。また妻との関係でも大事にしたいもの。
(6)セックス(身体的接触)
   これは単なる趣味というと恥ずかしいけど、僕は皮膚感覚が大事なタイプのようなので、いわゆるセックスに限らず、身体的接触がないとストレスがたまるようなので大事にしている。(だけど他の項目に比べてあまり達成できていない項目。。。)
(7)人間関係(新たなものとの出会い)
   ここで列挙したものに固執せず、その外を知ることが重要。そのためには新しいものに出会う必要があるけど、新しいものはたいてい「人間」が持っている。という意味で人間関係は大事。僕は基本的に内向的で一人でもいいと思っちゃうタイプだからなおさら心がける必要がある。
なお、これは項目1変化・成長につながるけど、項目1での成長とは内面的な成長である一方で、ここでの成長とはもう少し広い意味での成長だから少し違う。

となる。僕は7つの理念的な項目とは別に、この7つの具体的な項目を大事にしている。重複はあるが、計14項目のチェックリストがあると言ってもよい。

なお、ここで7つを挙げているのは、7つを限定して挙げているというところに意義があって、ここに挙げられていないようなもの、例えば、見栄とかお金を稼ぐための仕事のようなものに囚われて優先順位を見失わないように、という思いを込めている。

7 本能・身体的欲求

当たり前だけど、食欲や睡眠欲のような欲求は大事にすべきだし、ここまで生きてきてくれた身体のことを大事にして、身体の声を聞いてあげたい。
当たり前のことを当たり前に認めて、変に禁欲的にならないことが、この7つの心がけを無理なく達成するうえで重要だと思う。

ということで、この二つの項目は、これまで生きてきた自分自身を尊重するという意味で、過去に区分している。

最後に

以上、7項目の理念的な心がけ(と、ついでに7項目の具体的な心がけ)について説明してきた。
(具体的な心がけのほうはともかく)あまり僕の哲学に興味がなくても、参考になることもあったのではないだろうか。
こうやって眺め返してみると、僕の哲学好きは、予想どおり盛り込まれているが、意外とヨガも入り込んでいるのだなあ、と感じた。
哲学とヨガはかなり大事なのだなあ、としみじみ思う。
こんな感じで当面がんばるぞ!
また考えが変わったら書き込みます・・・

NLPと皮膚感覚の話

1 NLPの話
NLP(Neuro Linguistic Programing)という怪しげ名前の心理療法的な技法がある。
これによれば、世の中の人は、視覚優位タイプ、聴覚優位タイプ、皮膚感覚優位タイプ、の3種類に分けられるそうだ。
(複数のタイプの混在とか、程度の違いとかもあるようなので、あくまで単純化すると。)
正直言って、疑似科学に区分されうるもので、科学的な根拠は怪しいけど、このアイディア自体は面白い。

NLPが主張する通りの違いかどうかは別として、人によって物事のとらえ方が全然違うという実感は確かにある。
そして、相手に対して、自分と違うタイプかもしれないと思って接することは、とてもコミュニケーションに役立つと思う。
そうすれば、相手と自分との間ですれ違いがあったとき、それを相手の態度や誠意のせいではなく、また自分の能力のせいでもなく、お互いの理解の仕組みの違いが原因と捉えることができる。
そうすれば、相手や自分を責めることなく互いに歩み寄ることができ、現実的なやり方で少しずつでも理解を深めることができる。
NLPに限らず、人を分類するというアイディアは、相手を既存の枠にはめて理解した気になるためではなく、お互いの違いに気づくために使う限りにおいては十分に意義がある。

ただし、互いの違いに気づいたうえで、その違いがどのようなものか具体的に明らかにするためには、NLPなどの既存のツールを手がかりとしては使ってもよいが、それだけにとらわれるべきではない。
なぜなら、相手と一緒に確認するというのが、その違いを明らかにするための唯一の道だからだ。
自分と相手の具体的な違いは何か、という問いの答えは、自分と相手しか持っていない。
NLPのような誰かが考えたツールを使ったとしても、それで本当の答えにたどり着いたか確認する作業は、自分と相手の二人で行うしかない。
他者理解のための近道はないのだ。
これは、相手と対話し、徐々にすれ違いを埋め、違いを確認するというやり方でしか他者の理解はできない、と言ってもよい。

2 皮膚感覚の話
とは言いつつ、このNLPによる三タイプの分類は興味深い。
人には五感があるとされる。そのなかでもマイナーな皮膚感覚(触覚?)を取り上げるという着眼点が面白い。
NLPにおける視覚優位タイプ、聴覚優位タイプ、皮膚感覚優位タイプの3分類によるなら、僕はかなり皮膚感覚タイプの度合いが高いと思う。

僕は身体に閉じ込められているような気分になることが時々ある。
たいていは、あんまり良い感覚ではない。
湿気とか暑さとか、そういう不快感を感じる皮膚に包まれた存在になったような気分になることが多い。
そんなときは、魂が皮膚の内側に閉じ込められたような閉塞感を感じる。
本当はもっとのびやかで自由であるはずの魂がぎゅうぎゅうに押し込まれたような不快感だ。

だから、僕は、自分の身体からの解放感を求めて、ライブに行ったり、酒を飲んだりしている気がする。
一瞬だけでも皮膚という壁を壊して、僕の魂が飛翔できるように。
また、ヨガや呼吸は換気のようなものなのかもしれない。
こもった空気を入れ替え、身体内の環境を整え、魂が住みやすくするように。

こんなことを考え、自分の身体に訪れる感覚を丁寧に思い返してみると、たまにではあるが、同じく身体に閉じ込められた感覚であっても、不快感を伴わないこともあることを思い出した。どちらかというと落ち着いた気分になる。
そんなときは皮膚という革袋に満たされた羊水のなかに、魂というか小さい自分が漂っているような感じがする。
このとき、僕をつつむこの身体は母のようなものなのかもしれない。僕の皮膚は小さな僕のことをやさしく包み込み、外界から守ってくれている、そんな存在だ。

更に思い出してみよう。もう少し頻繁にある身体感覚として、僕自身が、身体に乗り移った魂になったように感じることもある。僕は今、僕の身体に憑依しているんだなあ、という感覚だ。
これも、あまり不快感とは結び付かない。
こんなとき、僕の魂は、皮膚よりも外側に存在している気がする。厳密には、僕は、僕の身体の数センチ上から、見下ろしているように思う。
僕は僕の外側に位置するので、これは、皮膚感覚というより、皮膚感覚を手放したような感覚と言ったほうがいい。そんなとき、僕は、開放感とまではいかないが、閉塞感はない。最高ではないが、それほど悪くない気分だ。

ここまで色々な身体感覚を列挙してきたが、たいていは、僕はなにも身体感覚など意識していない。それは、たいていの場合、僕は魂の場所などというものは考えていないということでもある。
僕がペットボトルを手に取るとき、僕の意識はペットボトルにしか向いていないし、猫をなでるときは猫にしか向いていない。
そんなとき、僕の魂はどこにもない。
だが、思い返すと、そんな身体感覚がないのが不思議になることがある。例えば、僕が、先ほど挙げたような閉塞感というか不快感に襲われているとき、それまで、特に身体感覚を感じていなかったことが不思議になる。
あのときだって魂はどこかにあったのに、それを意識していなかっただけじゃないかと思えるのだ。
あのとき、魂はどこかわからないけれど、どこかにあったのだ。それはどこにでもあったと言い替えることもできる。
そこに魂はなかったと言われたら否定したくなるし、そこに魂があったと言われても否定したくなる。だから、どこにもないし、どこにもあるということだ。

以上、僕が感じる、魂についての身体感覚を列挙したが、そこには法則性があるように思う。実感としての魂の大きさとでも言うべきものできれいに整列できるのだ。
小さい順に並べるとこうなる。

1 皮膚内の羊水に漂う魂
2 皮膚内に押し込まれた魂
3 身体の数センチ上から憑依した魂
4 どこにもなく、どこにもある魂

このように4類型に分けると、それが僕の世界観に符合しているように思える。

「類型2:皮膚内に押し込まれた魂」は僕の独我論的世界観に直結しているのではないか。
確かなのは僕の皮膚内の魂だけであり、外界からは皮膚に遮られ、隔絶され、閉じ込められている感覚。
僕は今まで、僕の独我論的傾向は、純粋にデカルト的な思考の結果として生じたと思っていた。
しかし、そうではなく、この身体感覚が僕の独我論的世界観の根底にはあるのかもしれない。

「類型3:身体の数センチ上から憑依した魂」は、それよりは一般的な世界観につながるだろう。
この世界には、何十億の人間がいる。そのうちのこのただ一つの身体に僕の魂は宿っている。
これは、魂や意識と呼ばれるような何かが存在すると考える多くの人が持っているイメージだろう。
つまりこれは、いわゆる心身二元論だ。
身体のような物質世界に重ね合わされるように、魂のような精神世界があり、それが憑依というかたちで重ね合わされるのだ。
こう考えると、心身二元論が常識的な考え方となっているのは、このような実感を伴っているからなのかもしれない。

「類型1:皮膚内の羊水に漂う魂」は、ヨガや瞑想といった捉え方に近いように思う。
自分自身を、感覚を感じる身体という存在ではないとし、もっと小さな存在だと考える道筋だ。
僕は「ここ」に居るよ、と言ったとき、「ここ」とは、この身体ではない。
例えば、僕の指先は、僕が感覚を感じたり操作したりする客体であり、主体ではない。
感じたり操作したりする主体は、この身体ではなく、そのもっと内側にある。
とすると、主体とは、わずかな点のような小さなものだという感じがある。
皮膚内の羊水に漂う魂という感覚は、自分自身とは、点のような微々たる存在だ、という世界観につながる。

それならば、「類型4:どこにもなく、どこにもある魂」とは、ある種の汎心論につながるかもしれない。
類型1の道筋とは逆に、主体をどこまでも拡大し、世界すべてが私であるという道筋だ。
当然、世界すべてが私などというのはおかしい。だけど、そのおかしさは、一方で、世界すべてが私ではないという方向で訂正される。
だから、魂はどこにもなく、どこにもある。
世界を完全に俯瞰的に捉えるならば、世界のどこにも私の魂はみつからない。そこにあるのは私の身体だけだ。
だが、一方で、魂はどこかにはなければならない。しかし、俯瞰した世界観においては、魂には特定の居場所はない。どこかに魂を位置づけるならば、どこにでも、というかたちで位置づけるしかない。
そんな汎心論的な矛盾した広がりを持つ魂こそが、ここでの魂だ。
この道筋は、類型1とは逆のベクトルではあるが、やはりヨガや瞑想といった捉え方に近いように思う。

類型1と類型4は大小の違いはあれど、極端に推し進めると、ある種の東洋神秘的な考えに通じる。僕がヨガや瞑想といった東洋的なものに惹かれるのも、やはり、僕の身体感覚が契機となっているのかもしれない。

このように考えると、僕の哲学観は、僕の身体感覚に影響されているように思える。
または、僕の哲学は、僕の身体感覚に裏打ちされていると言ってもいいかもしれない。
もしかしたら、NLPで言う皮膚感覚優位タイプの人は、僕と似たような哲学的傾向を持っているのかもしれない。
多分、それは、あまり幸福な道ではない気がする。もし、このような身体感覚がなく、こんな哲学に惹かれることがなかったら、もっと生きやすかったのではないかなあ、とも思う。

だけど、まあ仕方ない。こんな身体とうまくやっていこう。
と僕は少し上から身体を眺め、身体をいたわってやることにする。

そんなふうに身体を捉えることは若い頃は少なかった気がする。
魂のありかを身体の位置と重ね合わせ、操作できるようになったのは、こうして年をとり、色々考えたり、ヨガをやったりしているからかもしれない。
とすると、こうして生きてきたのも無駄ではなかったかもなあ、とも思う。

失敗について

僕は時々、過去のちょっとした失言などを思い出して、ヴァー!!って叫びたくなることがある。
会社からの帰り道など、ふとしたときに、唐突に数年前の失敗を思い出す。
言わなくてもいいことを言ってしまったことや、適切ではない言い方で言ってしまったことや、ちょっとした嘘をついてしまったことなどを思い出す。
全く関係ないタイミングで、唐突に。
そんなとき、僕は衝動的に、とにかく深く、強く息を吐き出したくなる。
流石にヴァー!!とは言わないが、周りに人がいなければ、ちょっと大きめにため息をついたり、周りに人がいれば、咳払いをしたりしてごまかす。
(わかってくれる人も多いのではないかと期待して書いてます。)
こんなとき、僕は、僕の存在を全否定して、消えてなくなりたくなる。
これは論理的に考えた結果としてではなく、衝動的に、そんな気分になる。
だから「そんな昔のちょっとした失敗なんて、もう誰も気にしてないよ。」という慰めは言われなくてもよくわかっている。
もし誰かに気づかれて、声をかけられたら、数十秒、長くても2、3分くらい、この気持ちに付き合ったら回復するから大丈夫だよ、と返事をするだろう。
今まで気づかれたことはないけど。

多分、このようなことが起きるのは、僕が、その過去をきちんと処理しきれていないからなんだろう。
何かを失敗したとき、仕方ないよ、忘れるしかないよ、と自分の胸の深くにしまっておく、という解決策をとる。
当然、きちんと謝ったり、挽回しようと努力したり、といったこともする。
だが、たとえ失敗を謝罪して許されたとしても、なんであんなことを言っちゃったんだろう、という自己嫌悪みたいなものは残る。
その気持ちは、もうどうしようもないから、自分の中に収めておくしかない。
そんな失敗たちが、僕の心の奥底にマグマのように溜まっていて、時々、噴き出すのだろう。
それは、失敗というものが生じる限り、仕方のないことなのではないか。そう思って過ごしてきた。

さて、なんで、こんな文章を書いているのかと言うと、僕は、うまい対処方法を思いついたからだ。
それも、マグマの噴出を抑える、というような対症療法ではなく、根治療法だ。
「そもそも、失敗なんていうものはない。」というアイディアだ。
失敗の反対には、成功がある。失敗とは、ある行動を、失敗と成功に二分した場合の、悪い方のことだ。
だが、そもそも成功と失敗を二分する考え方がおかしいのではないか。

僕は今、コリングウッドという哲学者の本を何冊か読んでいる。
僕の理解では、彼は、物事とは抽象的に区分されるのではなく連続していると考えている。
美術は宗教につながり、宗教は科学につながり、科学は歴史につながり、歴史は哲学につながる、というように。
真偽の区分についても同様で、世の中には色々な哲学があるが、完全に間違えている哲学というものはなく、どこか、真なるものを含んでいる、としている。
そして、それらは、弁証法的に動的に連続していると考えている。
美術から段階を経て哲学に至り、間違いの多い荒っぽい哲学から間違いの少ない精緻な哲学に至る、というように。

このアイディアの哲学的意義は改めて考えたいが、その前に実生活でかなり使えるのではないか、と思いついた。
先ほどの話に戻ると、コリングウッド的に言えば、僕の過去の行動は完全に間違えてもいないし、完全に正しくもない。
僕のどうでもいい嘘は、本当はそうすべきだった正しい発言と、弁証法的に連続してつながっている。
僕の嘘は確かに駄目だ。だけど、そのなかには少しは正しさが含まれている。そこに正しさがあるからこそ、僕はそうしたのだ。
自分を守りたいというような、程度の低い正当性であっても、そこには正しさがあるから、僕は嘘をついた。
そのことは尊重して、大切にしてあげてもいい。
僕は嘘をついた僕自身にこんなふうに語りかけてもいいのではないか。
「その行為はちょっとは正しかったよ。だけど正しさが足りなかったから、次はもっと正しくなろうね。」
嘘をついた過去の僕は、未来の正直な僕に弁証法的につながっている。
そう思うことで、過去の行為をそのままに受け止め、過去の自分を肯定してあげることができる。
「わかるよ、仕方なかったんだよね。」と過去の自分の頭をなでてあげることができる。

僕が会社帰りに、踏切を待ちながら、過去についた嘘を思い出して叫びたくなるのは、嘘をついたからではなくて、嘘をつかざるを得なかった自分のことを否定し、心の奥にしまったままにしているからかもしれない。
僕はもう少し過去を解き放ち、未来に活かしてあげたいと思う。それが、弁証法的な生き方ということなのだろう。

天皇制への僕のスタンス

どうでもいいことだけど、平成から令和になったタイミングでなんとなく書き残しておこうかな、と。
僕は天皇制について微妙なスタンスだ。少なくとも、世の中の雰囲気ほど賛成じゃない。違和感を持っている。
その理由を挙げてみよう。

1 皇室業界の硬直性が嫌だ。
天皇が車で移動するとき、信号は常に青信号になり、道路の両脇には数メートル間隔で警官が配置されるそうだ。僕は皇室ウォッチャーじゃないので知らないけれど、このような調子で、皇室の活動では色々な昔からのしきたりやお約束で莫大な手間と費用がかかっているに違いない。秋篠宮は一般客と電車に同乗するけど天皇は同乗しないなんて意味がわからない。警備の都合とは言うけれど、秋篠宮と天皇で差をつけるというのがわからない。多分、業界全体で硬直化した前例踏襲な雰囲気が漂ってるのだろう。
もう少しカジュアルな感じにできないものかと思う。それが無理なら本当に天皇制って必要なのかなあ、とも思う。

2 天皇制反対と言えない雰囲気が嫌だ。
正直、天皇制についてそれほど真剣に考えている訳ではない。だから論理的に天皇制のメリットを並べれば、天皇制っていいかもな、と思うような気がする。グローバル化の流れのなかでは、こういう特別な文化は武器になるし。
だけど、そもそも天皇制についての疑問を表明すること自体が許されない雰囲気が気持ち悪い。
それは、これまで天皇制に反対してきた左翼のアホさによるところが大きいとは思うけれど、だからと言って疑問を言葉に出せないというのはおかしい。

3 天皇推しが嫌だ。
マスコミなどが天皇いいぞ、尊敬したほうがいいぞ、とぐいぐい推してくるのが嫌だ。
元号は 大切な文化だと思うから使いたい人が使うのはいいし、天皇がどこどこに行きましたとかニュースになるのも、なんだかめでたい感じでいい。
だけど、それを僕にあんまり押し付けないでほしい。もともと嫌いじゃないのに、無理に押し付けられると逆に嫌いになりそうだ。

特に僕が嫌なのは、天皇のことを話題にするとき、それがたとえ家族や友人との間であっても、天皇陛下とか敬称をつけたり、変な敬語をつけなければならないことだ。天皇というのは、そもそも社長みたいな役職で、「社長様」と言わなくても「社長」といえば失礼にあたらないのと同じように、「天皇」と言えば失礼にはらないだろう。また、「天皇は那須に行きました。」と言えばいいのに、「お行きになられました。」みたいな謎の敬語を用いなければいけないのはおかしい。(国語は詳しくないけど丁寧語で話せばいいのに尊敬語を使っていると言えばいいのかな。)
僕はツールとしての天皇制についてはメリットがありそうな気がしているけど、少なくとも、天皇個人をそれほど尊敬してはいない。「それほど」と言ったのは、あまり知らないけど、どうも立派らしい人、という程度には尊敬しているからだ。そういうときには丁寧語を使うくらいがちょうどいいだろう。

誤解がないよう明確にしておくが、僕は皇室の人たちの人格を問題視している訳ではない。きっと悪い人ではないのだろうと思う。平成の天皇(上皇)個人で言えば、立派な人だったのだろうなあ、と思っている。
皇室の人たちが特権を持っているのが問題だと思っている訳でもない。職業選択の自由もなく制約が多い一方で、衣食住に困ることなく行きていくことができるというのは、まあ、ちょうどいいバランスだと思う。
また天皇制は太平洋戦争につながった、というような批判をしたい訳でもない。歴史というのはそんな単純化した話ができるものではないと思っている。どちらかというと僕は民主主義の無謬性みたいなものに疑問を持っているくらいだ。このような話を持ち込み、天皇制についての議論を混乱させたのは左翼のひとたちの罪ではないだろうか。

以上、読んでわかるように、これは皇室の人たちや天皇制そのものではなく、皇室を取り囲む関係者への批判だ。
天皇制については、賛成か反対か、というような雑な議論ではなく、もっと丁寧な議論がきちんとされてほしいと思っている。
それは、多分、嫌韓のようなネトウヨ対パヨクみたいな図式ができているすべての問題に共通の僕のスタンスだ。

夏草の匂い

夏草の匂い。
それが僕にとっての達成するということのイメージのようだ。

僕にはこの世で成し遂げたいことがある。
僕は、僕ができるかたちで、この世界の知の発展に貢献したい。

僕の見立てでは、この世界の知は、あまりにも掘り下げが浅い。
それを担っているのは、現代では哲学という営みだが、僕から見れば、まだまだ掘り下げようがある。
そう思えるのは、僕に、ある程度の哲学的才能が授けられているからなのだと思う。
僕は、この僕の才能をかたちにして残し、この世界の知に付け加えたい。

まあ、ほかにも、家族のこととか、趣味のこととか、物欲とか、人並みに色々な思いややりたいことはある。
そういうこともひっくるめて、全てをやり尽くし、もう十分と思ったとき、僕はどうなるのだろうか。
最近、そんなことを時々考える。

僕は全てを成し遂げたときをイメージしながら目を閉じる。
僕は広い草原に立ち尽くしている。
夏の風が熱い風を運ぶ。草がぶつかりあい、音を立てる。
全部わかるよ、もういいんだよ、十分だよ、と誰かの声がする。
そんな想像をするとき、そこにあるのは、夏草の匂いだ。

濃密な生の匂い。人の肌のような温度。僕の呼吸は浅くなり、汗が吹き出る。
これが生きるということだ。
全ての使命を成し遂げ、生きることそのものを掴み取った僕は、こんな天国にたどり着くに違いない。

僕は高校2年のとき、恋をした。
僕は、今から思えば懐疑論的な哲学的問いに悩まされ、孤独感に苦しんでいた。
僕は、あるクラスメイトを好きになった。頭が良くて、優しくて、母のように包み込んでくれそうな人だった。この人だったら全てをわかってくれるかもしれないと思った。
夏の夜、50ccのバイクで彼女の家の近くに行き、彼女を呼び出し、近くの空き地で少し話した。
彼女には別に好きな人がいるのを知っていたから、それは告白というより、確認のような行為だった。僕と彼女との間に、僕と世界との間に、線を引くという行為。
別れ際、彼女は僕を軽く引き寄せ、頭に載せたフルフェイスのヘルメットにキスをしてくれた。

あの夜の夏草の匂いこそが僕の天国なのだろう。
僕は、いつか、あの天国にたどりつき、
全部わかるよ、もういいんだよ、十分だよ、と言ってもらうんだ。

僕は目を開く。
僕は、まだまだやることがある。

(読み返すと、キモいおっさんの文章の典型例だが、おっさんだし、仕方ない。)

サイトの移行は多分終了!

以前の「ジェイミーの哲学書庫」から多分移行終了。
結構色々書いてるなあ。疲れた。
2012年くらいから、6年くらいこんなことやってるんだなあ。
娘が中学に入るくらいから始めて4月から大学生か。
その後、初期の胃がんが判明したり、哲学カフェを始めたり、色々あったなあ。
けど、震災が終わってからなんだと思うと、それほど昔ではない気もする。

移行作業をしながら斜め読みをしたけど、うーん、ひどい文章だ。
自分で言うのもなんだけど、とってもいいアイディアなのに読んでも意味不明。説明不足。
いつか、と言ってもそんなに遠い将来ではない「いつか」きちんと書き直して出版したい!

受験生のサツキへ ~区切りの話~

20170416

PDF:受験生のサツキへ

君は、この4月で高校3年生になる。
今は、君にとっての、とても大きな区切りの時期だと思う。
普通に考えれば、君が高校を卒業する来年3月のほうが、より大きな区切りだろう。だけど、僕には、今こそが区切りだと思えるんだ。
これまで、君にとっての区切りは、大きく捉えて、多分3回あったと思う。
最初は・・・確か小学5年生の頃。初めて友達らしい友達ができたとき。
当然、その前にも、初めて喋ったときとか、初めて歩いたときとか、そういう大きな転換点はあったろうけど、君に意識があるなかでは、これが最初の区切りだろう。なぜなら、傍目から見ていて、この時期に、君の中にはっきりした意識が目覚め、そして友達ができたように見えるから。意識が目覚めたから自覚的な友達ができたのか、本当の友だちができたから意識が芽生えたのかはわからないけれど、意識と友達はセットだったように見えた。
次の転換点は、中学に入り、吹奏楽部に入ったとき。僕たち親の勧めに従い、渋々だけど、君は集団の中で過ごし、集団に所属するということを知った。そして、それをかなりうまくこなし、対応できるようになった。
第3の転換点は、高校に入り、吹奏楽部を続けたとき。
君は高校を自ら選択し、そして吹奏楽部に入ることを自ら選んだ。ここで、君は属する集団を選択し、そして、その選択の責任を背負うことを学んだ。傍目から見ても、かなり頑張って責任を果たしたと思う。
この3つが、僕が思う大きな区切りだ。これらの転換点は人間関係に着目したものだと言える。君は、第1段階で人間関係の存在を知り、第2段階で集団への所属を知り、第3段階で集団への所属の選択・責任を知った。
そして、僕には、今、君は人間関係について、第4の転換点を迎えようとしているように思える。なにせ、君は、あんなに苦労した吹奏楽部を引退するんだから転換点でない訳がない。
それでは、次に訪れるだろう第4の区切り、転換点とは何を意味しているんだろうか。
はっきりとは言えないけれど、多分、集団への所属から、もっと個別の人間関係の構築への移行なのだろうと思う。
君は部活を引退し、吹奏楽部という集団から離れる。それでも、引き続き高校という集団には所属しているし、塾という集団の重みも増していくことになるだろう。そのうち大学にも属するだろうし、遠くない将来には会社に通うかもしれない。これからも、これまでと同様に、集団に所属したり、集団から離れたりするだろう。
だけど、多分、中学、高校での部活ほどに深く集団に属することは今後ないだろう。これからは、多分、集団に属すれば、自動的に一定の人間関係がついてくる、というようなことにはならない。
僕の経験からすれば、会社という集団でさえ、君にとっての部活ほど、人間関係の源泉にはなりえない。同じ職場で四六時中一緒に過ごしたからといって、仲が良くなるわけではない。
(もうひとつの有力候補である家族については、別の話のような気がするので省略。)
だから、これから君は、集団に属することで一挙に人間関係を構築するのではなく、もっと個別に人間関係を構築していくことになる。集団に属することも人間関係を構築するための一手段に過ぎなくなる。受動から能動への切り替えと言ってもいいと思う。
これは、既製品の服を脱ぎ、手製の服に着替えるようなものかもしれない。
中学生の君は親が勧めるまま吹奏楽部という既製服を着ていたけれど、高校生になり、自分の意志で既製服を選び、着こなすようになった。そして、これからの君は自分の好みに合わせて、自ら服を作り、そして着こなすように、もっと個別に、自分にちょうどいい人間関係を築くようになっていくのだろう。
君はこれから、誰とつながるか自ら選び、どこまで深めるか、どの程度距離を置くかも自ら選んでいくことになる。そして、そのひとつひとつの選択に責任を負っていくことになる。このような第四の転換点が君には訪れているのだろう。
きっと、君はこれからの人生において、色々な人と、色々な場で出会うことになる。大学のクラスや、サークル活動や、バイト先や、新入社員同士のつながりや、職場の中や、ママ友や、PTA活動や、老人会や・・・・
そこで君は、君自身の活動の成果として、君なりの人間関係を築いていくことになる。人生は人間関係だらけだ。
そして、より強く言うなら、人生においては、人間関係から逃れられないとすら言えるだろう。
誰かと出会って、そして話しかけることにしたなら、それは当然、人間関係を築いたことになる。しかし、もし話しかけないことにしても、人間関係を築かなかったということにはならない。単に、話しかけないという人間関係を選択し、構築したことになる。家に引きこもったとしても、人間関係からは逃れられない。君は家の中だけの人間関係という、ある種の人間関係を自ら選び、そして責任をとっていくことになる。
君は小学生の頃、人間関係というものを知ってしまった。
服を着るということを一旦知ってしまったなら、そこから服を脱いでも、ヌーディストというある種のファッションとなってしまう。それと同じように、君は一旦身につけ、自覚してしまった人間関係という服を脱ぐことはできない。
かっこよく言うならば、人とは人間関係に包まれる存在なんだ。

・・・

偉そうに言っているけど、実は、僕は、最近になって、やっと、このことを実感しつつある。
これまで、僕にとって、人間関係というのはかなり優先順位が低い問題だった。
確かに、人がある種のことを成し遂げようとするなら人間関係は必要だ。一人だけでは運べない重さの机でも4人いれば運ぶこともできる。百万人の同志がいれば革命だって起こせる。
だけど、僕にとっての人生の一番の興味は、こうして一人で色々考えることだったりするから、そういう場合には他人の力はあまり必要ない。確かに人と繋がると寂しくないし、なんだか嬉しいときもある。けれど疲れるし面倒だし、何より、一番大切な自分一人の時間を取られる。最優先の自分一人で思考する時間を取られるくらいなら、人との繋がりは諦めたほうがいい。そう思っていた。
だけど、最近、人間関係というものの重要さに気付きつつある。
「思考」という活動においてですら、実は他者は重要だ。誰かが僕の考えに何か意見を言ってくれるおかげで、僕は自分の考えを更に深めることができる。その意見が、一見、的外れで浅いものだったとしても、その人が本気で考えてくれた意見ならば、どこか考えさせられ、得るものがある。そのおかげで僕の思考は前に進むことができる。
僕にとっては、他者とは、いつも新しく、刺激を与えてくれる世界そのもののように思える。そして、その他者の力を自分のものとすることで、他者を自分自身の拡大した身体のように見做すことすらできる。
そのような意味でも、人とは人間関係に包まれる存在だ。そういうことが、ようやくわかってきた。
僕は、君の成長段階で言うなら、やっと小学校高学年になったところなのかもしれない。つまり人間関係というものの必要性をやっと実感できたレベルなのだ。
だから君は僕よりもよっぽどうまく人間関係を構築できるだろう。なにせ中学生でしっかりと組織に属し、そして高校生で組織の選択までしたのだから。
確かに僕も中学では部活に入っていたし、色々と組織には属してきた。だけど君ほどに組織に入りこみ、その人間関係に自分を委ねたことがない。きっと君は、僕がやっと気付いた「人とは人間関係に包まれる存在だ」なんてことは、既に肌で知っているのだろう。
僕は第1段階から一気に第4段階に進もうとしているけど、君はしっかりと第2・第3段階を経ている。既製品であれ何であれしっかりと服を選んで着たという経験は今後活きるはずだ。
以上、これからの人生、集団に属するだけじゃなくて、都度の判断の積み重ねで、サツキだけの唯一な人間関係を構築してね、という話でした。

・・・

と言っても、具体的に、どうやって人間関係を構築したらいいんじゃ、という話になるだろうから、一応アドバイス。僕は人間関係を築くのが下手だから、逆に、教訓にはなると思う。一流選手が必ずしも名コーチではなくて、苦労して英語を学んだ人のほうが、英語の勉強法を知ってるのと同じことだ。
とは言っても、例えば、大学のクラスの初日に使える技みたいなのを伝授できればいいのだけど、そんな都合がいいノウハウは持っていない。
年相応に積み重ねた失敗例から導かれる心構えのようなものしか伝えることはできない。
まず第一に言えるのは、事前に色々と考えて構えても仕方がないということだろう。
誰かに声をかける前に自分に合った人を見分ける必要はなく、合うかしれないという予感だけでいい。もしかしたら、そんな予感すら要らないかもしれない。
なぜなら、僕にとってだけかもしれないけど、他者というものの醍醐味は、その意外性にあるからだ。あえて言えば、何か面白そうなことがありそう、という予感さえあればいいのかもしれない。
第二に、そんな予感を信じて行動したとしても、もし予想が外れていたなら、離れればいい。嫌になったり、より良いものを見つけたら方針転換すればいい。
人間関係というのは、ロールプレイングゲームのジョブやクラスのように明確に名付けられ、位置づけられるものではない。友達とか親友という呼び方はあるけれど、人間関係というのは、そんな言葉で捉えられるものではなく、もっと個別なものだ。同じ友達と呼ばれる関係でも、AさんとB君では違いがあっていい。人間関係というのは、0と1のデジタルではなく、アナログなものだと言ってもいい。
だから人間関係には時間的にも変化があっていい。友達になったからと言って、ずっと友達でいられる訳でもないし、ずっと友達でいなくてもいい。または、ずっと疎遠だったからと言って、徐々に友達になってはいけないということもない。
僕は、人間関係というものを、様々な色、太さ、材質の糸で編まれた織物のようにも思う。縦軸がAさん、B君というような個人。そして横軸が時間軸だ。人間関係とは、相手ごと、瞬間ごとに異なる都度のやり取りや距離感の積み重ねという糸で編まれた繊細な織物のように思うんだ。
第三の心構えは、いつも良い人でなくていい、というものだ。人によって違う対応をしたり、誰かと離れたり、近づいたりと軌道修正するにあたっては、あまり良い人であろうとしなくていい。そういうことに囚われていると、大事な判断ができなくなる。
それに、良い人であろうとして無理をすることは、自分にとって良いことではないだけでなく、その相手にとっても良くないとも言える。なぜなら、自分で勝手に無理をしているような人を友人とすることは、その相手にとっても不幸なことだろうから。
良い人であるべき、というような実現が難しく、堂々巡りになってしまうような問題には、あまり立ち入らないほうがいい。
以上、3つほど心構えめいたものを書いてみたが、そこからなんとなく透かし見えてくるのは、とりあえず何か動いてみたほうがいい、という楽観的で積極的なスタンスだろう。
僕はそう思うし、実際に、自分自身そうしたいと思っている。
だけど、一番大事な心構えは、それでも、自分自身がやりたくない時にはやらなくていい、ということだ。当然、やれるときにはやったほうがいいし、少々無理してでも積極的にやっていくほうがいいときも多い。だけど、あまり無理しないほうがいい。自分の内なる声に耳を傾け、自分を大切にしてあげるのが第一だ。
人の気持や態度には、あるリズムのようなものがあると思う。少なくとも僕には、気が満ちていて、何か積極的に行動したいときと、そんなことは投げ出して、ゆっくりと一人で過ごしたいときがある。
うまくいっているかどうかは別にして、僕は、その波をうまくとらえて、自然に、そのなかでも、ちょっとポジティブさを心がけつつ、波に乗って生きていこうと心がけている。
そして、君にもできればそうしてほしいと思っている。
自分自身の内面のリズムに正直に、だけど、そのなかでもできるだけ積極的に、そして楽観的に生きていってほしい。

・・・

最後に、この文章のタイトルとしている「区切り」について。
多分、この文章で一番伝えたかったことは、区切りすぎないほうがいい、ということなのだと思う。
集団に属するか属さないか、友達か友達じゃないか、良い人か良い人じゃないか、というようにざっくりと区切りすぎるのではなく、もっと目の前の個別具体的なものに目を向けて生きていくべきだ。そういうことを自戒を込めて伝えたかったのだろう。
僕自身のこれまでの人生の反省点は、区切りすぎた、ということだったのかもしれない。(ママの長所は、区切らない、というところだ。)
この文章の冒頭でも、君の成長を4つに区切ったように、僕は、色々と区切って分析するのが好きだ。これは、物事を単純化し、大枠で理解するのに役立つ。しかし、うまくいかないこともある。
例えば僕は子どもの頃、大人になるのが嫌だった。嫌というか、大人というのが未知の世界すぎて先に進むのが怖かった。
そう思ったのは、きっと子どもと大人とを区切りすぎていたからなのだろう。この歳になってはっきり言えるけれど、子どもと大人とを明確に分けることなんてできない。人というのは、その瞬間その瞬間で少しずつ変わっていく。確かに人生の中には大きく成長するタイミング、大事な瞬間というのもあるけれど、そこで一気に全く違う存在になってしまう訳でもない。僕はどこまでも連続的に僕だ。大人という全く違う存在に生まれ変わる訳がない。今の僕が大人なら、あの頃の僕もどこか大人だったはずだし、あの頃の僕が子供だったなら今の僕もどこか子供なはずだ。
それに加えて、はっきりと、大人的な性質や子ども的な性質というものがある訳でもない。一般的に言われるように冒険心や残酷さといったものが子ども的な性質で、思慮深さのようなものが大人的な性質なら、今の僕のなかには、あの頃と同じか、もしかしたらもっと子どもな面がある。そして、あの頃の僕のなかには、今と同じか、もしかしたらもっと大人な面があった。
つまりは、子供から大人になるなんて捉え方は粗雑すぎるんだ。
同じようなことだけど、もうひとつ嫌だったのが、大学生から社会人になることだった。これも、学生のうちだけは自由に何でもできて、社会人になったら稼いで子供を育てる以外何もできない、という区切りのイメージに囚われていたのだと思う。そして、僕は、そのとおり、学生時代は、絵に描いたように自由に遊んだし、その後、そのとおり、安定しているけれど、自由がない職に就いた。まさに予言の自己実現という事態に陥ってしまったように思う。
だけど、よく考えれば、世の中には、学生のうちから起業している社会人のような学生もいるし、ママのように、社会人になっても学び、色々と生き方を自由に定めている学生のような社会人もいる。
自由で可能性に溢れた学生と、不自由で可能性を失った社会人という捉え方自体が、やはり粗雑だったんだ。
そして、もうひとつの大きな誤りが、この文章でも触れた、友達というものの扱いだったように思う。僕は友達か友達じゃないかの区別に因われ、しかも、その区別がなんだかわからず、孤独感を感じていた。みんなにはどうやら友達というものがたくさんいるみたいだ。だけど、どうやら僕には友達というものがよくわからない。だから僕は、皆がやっている(ように見える)友達の作り方を真似て、傍目から見て友達らしきものを作ってみた。だけど、当然、そんなのは友達なんかじゃなかった。友達というのは、そんな粗雑なものではなく、ただ、振り返ってみると友達だったとしか言えない、日々のつきあいの積み重ねのことだったんだ。
このように、僕はいくつも勝手に区切りを設け、勝手に苦しんできた。これが僕の反省点だ。
(誤解がないように言っておくと、僕は、このような試行錯誤を重ね、大人らしきものになり、充実した社会人生活を送り、友達と思えるような関係も築きつつあるよ。)
確かに区切ることには利点がある。僕が好きな哲学とか、君が好きそうな社会学なんていうのは、区切ってざっくり捉えること自体が学問の醍醐味とさえ思う。
だからこそ君には、区切りつつも、区切りというものに因われすぎず、日々、目の前にある生(ナマ)の現実に目を向けて、自分の中にある生(セイ)のリズムを尊重し、それらを望ましい方向にコントロールしつつ生きていってほしい。
以上、時々書く、君にあてて書いたように見せかけて、自分自身に書いた文章でした。

大人になったね

2017年2月6日作

高校2年のサツキ(仮名)へ

年末年始のスペイン旅行楽しかったね。

旅行も楽しかったけど、君のことを見ていて、しみじみ大人になったんだなあ、と思ったよ。
親に対しても対等な大人として気を遣って、自分の価値観に基づいてきちんと行動する。
まあ、もともとできるほうだったけど、完成したんだなあ、と思ったよ。
もう親としてすべきことなんてほとんどないね。

確かに、日常生活では突っ込みどころ満載だから、日々色々と言いたくなることはあると思うけれど、人生や自分自身や他者や世界や生命に対する基本的な態度については、もう、言うことはないね。

だから、これからは対等な人間としての関係ということになっていくのだろうね。