磁石にはN極とS極がある。
この二つは反対の性質を持っていて、N極はS極を引き寄せ、S極はS極を遠ざけようとする、というようN極とS極についてだけを取り出して語ることができる。
一方で、N極とS極を切り離すことはできない。棒磁石を真ん中で切ると、それぞれがN極とS極を持つ。
だから、N極とS極は別には存在できず、磁石の一部であるという言い方ができる。
N極とS極は、磁石であるということに取り込まれてしまう。
しかし、完全に取り込まれてしまう訳でもない。
確かに磁石は他の磁石を引き寄せたり、遠ざけようとしたりする。
しかし、N極やS極という描写を失ってしまったら、棒磁石のどちら側を引き寄せ、どちら側を遠ざけようとするのかを明確に表すことができなくなってしまう。
N極とS極という事柄は、磁石という事柄に、完全に取り込まれるのでもなく、完全に独立しているのでもない。

思うに、世の中の事柄は、こういう関係に満ちている。この関係を「半取り込み」と呼ぶことにする。
愛や恋、愛する貴方や憎むべき殺人犯、世界や私、そういった事柄において、この「半取り込み」は起きている。
愛も恋もあなたへの想いであり、貴方も殺人犯も人間であり、世界も私も「全て」の一部である。
しかし、愛と恋のニュアンスの違いや、殺人犯を同じ人間とは呼びたくない気持ちのように、そのようには取り込みきれないものが残る。というように。
これらの僕の語り方が正しいかどうかは別として、ここで行ったことは、N極やS極に対する磁石というように、対立する事柄に対して、より上位の事柄を持ち出すという論法の一例だ。

なお、「半取り込み」を起動する「対立する事柄に対して、より上位の事柄を持ち出す論法」の「対立」は必須ではないようにも思える。
明確な対立関係がなくても「半取り込み」は成立するからだ。
例えば、ネコと耳の関係がある。
ネコには耳がある。ネコの耳はネコの一部だ。だが耳はネコに完全に取り込まれている訳ではない。
耳から血が出ていることを伝えたいときなど、耳だけを特定して取り扱うときもある。
ここには対立関係はないが、「半取り込み」が成立しているように思える。

だが、やはり、ここでも「半取り込み」を起動するのは、「対立」構造にあると言うべきだろう。
ネコの耳に着目し、そこから血が出ていることを伝えたいとき、ネコを耳と耳以外に区分するはずだ。
ネコの目や鼻や足に対して、血が出ている耳と同等に注目するのではなく、耳だけに注目するだろう。
そこでは、ネコの目や鼻や足は、耳と同等ではなく、耳以外という地位しか与えられない。
耳に注目している状況を想定するなら、そこには、耳と耳以外という「対立」構造があるはずなのだ。
つまり、そこでは、耳以外のどこでもなく、ただ血が出ている耳に注目する、という「対立」構造を通じて、ネコの一部である耳が指し示されている。
つまり、耳と耳以外の「対立」構造を通じて「半取り込み」が行われているのだ。

更に論を進めるなら、ここで登場する耳以外という表現を「耳ではないもの」と言い換え、それを耳の否定と解釈することもできるだろう。
そうするならば、つまり耳と耳の否定との対立を通じてネコと耳との「半取り込み」が行われていると言い換えてもいいはずだ。
つまり、「半取り込み」は、あるものと、そのあるものの否定との「対立」構造により行われるのだ。
磁石におけるN極とS極の「対立」構造は、たまたま、N極の否定にS極という別の名前がついていたから、否定が「対立」構造を生むことがわかりにくくなっていただけなのだ。

否定を「ではないもの」と解釈するなら、否定できないものは世の中にはないだろう。
パソコンではないもの、ペットボトルではないもの、あなたではないもの、というように、何にでも否定を想定することができる。
いや、「全て」やそれと同等の言葉、「世界」や「宇宙」や人によっては「神」などについては、否定は考えられないかもしれない。
なぜなら「全て」を否定する「全て+ではないもの」であっても、それは、より上位の「全て」には取り込まれるからだ。
それを、「半取り込み」が空回りしていると捉えるか、無限に「半取り込み」が成立していると捉えるかは議論の余地があるだろう。
だが、少なくともそこにはある種の行き止まり感があるのは明らかではないだろうか。

よってここでは次のようにまとめることにする。
すべての事柄は、その否定との対立構造により、より上位の事柄に「半取り込み」され、最上位にある「全て」(「世界」「宇宙」「神」といったお好みの表現で置き換えることが可能)とつながっている。
または、
すべての事柄は、なんらかの事柄との上下関係のなかに位置づけられていて、世界は、完全に取り込まれるのでもなく、完全に独立しているのでもない事柄で溢れている。

なお、この「全て」を最上位とした構造は、きれいに一本の線でつながっている訳ではない。
先ほどのネコの耳の例えを使うなら、ネコの耳は、ネコの一部として考えるだけでなく、人間の耳とネコの耳の機能を比較するというように、耳だけを取り出して取り扱うこともできる。
この場合、ネコの耳の上位にはネコではなくて耳全般が位置づけられる。
ネコの耳は、人間の耳などの他の耳と対立関係により、耳全般に「半取り込み」されている。
このように、ネコの耳は場合によってはネコとつながり、また場合によっては耳全般とつながるというように、事柄は色々なかたちで色々な方向でつながる。
そして、いずれの道をたどっても、いつかは、「全て」や「世界」といった最上位の事柄につながる。
というような複雑なあり方をしている。

と、N極とS極の思いつきから考えてみたが、振り返ってみると、これはそれほど新しいアイディアではないかもしれない。
この、否定を通じて全体とつながっているという構造は、まさに言語というもののあり方のように思えるからだ。
ただ、N極やネコの耳に「注目する」という現実の振る舞いが、その言語構造と並行した重要性があるように思えることに気づけたことが、新しい収穫かもしれない。