最近、解像度を上げる、というキーワードが気になっている。
何かを大事にするとは、それを解像度を上げて捉えようとすることではないか、というように。
よく生きるとは、解像度を上げて生きるということなのではないかとさえ思える。

と言ってもなんだかわからないと思うので、僕にとって重要なものである哲学を例にしよう。
哲学とは、まさに、解像度を上げるということそのものなのではないかと思うのだ。

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探求のパラドクスというものがある。既に知っていることはそれ以上探求できないし、まだ知らないものは探求しようがない、つまり、探求は不可能だ、というパラドクスだ。
「正義とは何か。」と問うことが可能なのは、既に正義について何らかを知っているからだ。それならば、既に知っているのなら、問う必要なんてないのではないか、ということになる。
このパラドクスを受け入れるならば、「正義とは何か。」と問うとき、僕たちは何をしているのだろうか。そもそも、哲学とは何をしているのだろうか。

「正義とは何か。」といった哲学的な問いへの対比として、「財布はどこにあるのか。」というような哲学的でない問いがある。
哲学的でない問いは、探求のパラドクスに陥らない。
「財布はどこにあるのか。」については、どうすれば、その問いに答えを出したことになるのかは明らかだ。
財布というものを見つけさえすれば、その答えを出したことになる、という決着のつけ方に誰も異論はないだろう。

なお「決着をつける」という言い方をしたが、「答えを出す」をそのように言い換えることには意外と深い意味があるかもしれない。
財布問題の決着のつけ方は、財布の場所を明らかにするだけには限らない。
財布を持って出るのをあきらめ、とりあえず金をむき出しでポケットに入れて慌てて外出する、という解決の仕方もあるだろう。
また、その財布は壊れていたから捨ててしまったことを思い出す場合もあるかもしれない。
いずれにせよ、これで決着がついた、と明らかにわかるのが、哲学的でない問いの特徴だ。

一方で、「正義とは何か。」といった哲学的な問いについては、決着のつけ方が簡単にはわからない。
「正義とは○○である。」というような答えらしきものが見いだされたとしても、それで本当に決着がついたのかどうかがわからない。

これこそが、探求のパラドクスが言いたかったことなのではないか。
「正義」というような哲学の対象となるような抽象的な概念については、僕たちはなんとなくしかわからない。
だから「正義とは何か。」と問いたくなるし、だけど「正義とは○○である。」と言われてもどうもピンとこない。
つまり、探求のパラドクスのとおり、知らないものは探求しようがない。
これが、哲学的な問いの難しさであり、哲学というものの難しさなのではないか。

「正義とは何か。」という問いを明確に捉えることができれば、それは、その問いの答えにたどり着いたのとほぼ同じことである。
なぜなら、それは、哲学的な問いを、「財布はどこにあるのか。」というような哲学的でない問いに変換することに成功したということなのだから。

こう考えてみると、哲学をするとは、哲学的な問題に答えようとすることではなく、その問題自体をより明確に捉えようとすることだとさえ言えるだろう。
頭に疑問が浮かんだとき、その疑問は何を疑問に思っているのか、掘り下げていくことこそが哲学なのだ。

このことについては、通常、前提を明らかにする、という言い方がされる。
「会社の経営方針をどうすればよいのか。」について考えるならば、会社の資産や人的資源の状況や、利潤最大化という資本主義の原則といったことが前提となるだろう。
また、先ほどの「財布はどこにあるのか。」問題であれば、僕が持っている財布が茶色の正方形のものであることや、財布を目視で確認できることなどが前提となるだろう。
これは、いわば、ある問いが何を前提にしているかを明らかにすることで、その問いの答えの出し方を明らかにしていくという作業だ。
これと似たことは、哲学的な問題においても行われているのではないか。
しかし、大きな違いは、哲学的な問題に対しては、前提を明示的に設定できないという点にある。

例えば「戦争は悪か。」と考えるとき、殺人は悪いということを前提に考えましょう、となってしまったら、それは哲学的な問題設定ではない。(と僕は思う。)
哲学とは、前提といったものによって制限することのできない、自由で無制約な知的活動なのだ。
(そうではない哲学もある、と考える人もいるかもしれない。その人と僕とは哲学というものに対する考え方が違うということだから、そのような方がいたら、僕のような考え方もあると思って続きを読んでいただくか、読むのをやめていただくしかない。)

なお、僕はどんな場合でも決して前提を設けるべきでない、と言いたい訳ではない。
前提というかたちで制約を加えることには大きな意義がある。
無制約な問題を制約することにより、その問題は扱いやすくなるのだから。
世界という言葉を、全てとか全体というような特別な意味で使うならば、前提を設けることで、世界を切り取り、扱いやすいサイズに加工できるのだ。
これが、哲学的でない問題の特徴であり、哲学的でない問題であれば決着がつくということである。
だが、どうしても前提を設け、切り取り、扱いやすいサイズに加工できない問題がある。そうしたいのに、そうできない問題がある。
それが哲学の問題だ。

どのような前提を拒否し、何を前提なしの哲学の問題として扱うかは人によって違うだろう。
ある人は、殺人は悪いことだ、という前提を受け入れるだろうし、またある人は、世界は時空的なあり方で存在している、という前提を受け入れている。
多分僕も、何らかの前提を受け入れて生きている。
僕は疑り深い性格だから、人より前提が少ないとは思うけれど、何らかの前提のうえで生きている。
ただ、多くの人が、殺人は悪いことや、世界が時空的なあり方をしていることを単なる前提とされることに違和感があるように、
僕は僕の前提が単なる前提と認めたくはないだろう。だから、僕自身では僕が何を前提としているのかわからない。
僕の哲学においても何かを前提としているのだろうが、その何かを明示することはできない。それが哲学の特徴だ。

なお、前提を設けて世界を切り取ると言ったが、哲学と非哲学の答えやすさの違いは、世界を切り取ることによるサイズの違いだけの問題ではない。
哲学の問題の難しさのかなりの部分は、その自己言及性にある。
哲学は世界を切り取ることを許さない。それは、つまり、問う本人自身や、問う営み自体も、その問われるべき世界に属するということを意味する。
哲学的な問いを行う主体と問われる客体はつながっており、そして、問うという営み自体も問われなければならないのだ。
哲学には、安全地帯もないし、確たる足場もない。いわば、自らの足場をスコップで掘り返そうとするような作業だ。

それならば、哲学的な問題に対処するとは、どういうことなのか。
それは、非哲学的な問題への対処の仕方とは全く違うものとなる。
非哲学的な問題であれば、問題がある地点から、その問題が決着がついた地点まで、いわば「移行」すればよい。
財布がない状況から、財布がみつかった状況や、財布がそもそも見つかる訳がないと気づく状況や、財布を買い直す状況や、財布を諦める状況に移行すればよい。
一方で哲学的な問題では、そのような「移行」はできない。
そのような移行先が見つかるということは、その前提としているものに気づくということであり、哲学の問題ではなくなるということなのだから。
だから哲学においては、ひたすら閉じられた場(正確には閉じられたとも気づかない場)のなかで自己言及的に、どこまでも問題の内部で問題に対処し続けなければならない。
そこでできることは、ひたすら精緻に考え、その問題の捉え方の解像度を上げることでしかない。
それこそが、哲学的な問題への対処の仕方なのだ。

なお、これは諦めのようなものではない。哲学的な問題に対して精緻に取り組むことで、具体的な前進は可能だ。
例えば「正義とは何か。」という問題を哲学的に考えるとしよう。
考えるうちに、「人から物を盗むことは悪なのか。」と考え、「飢えた子供のためにパンを盗むことは正しいのか。」という疑問に至ったとする。
そのとき、「正義とは何か。」という問題に答えは出ていないし、「飢えた子供のためにパンを盗むことは正しいのか。」についても完全な答えは見つかっていないと感じているだろう。
それでも、このような考察を経て、議論が深まり、「正義とは何か。」という問題が、より鮮やかにとらえられたのは確かだ。
なぜなら、「正義とは何か。」を考えるうえでは「飢えた子供のためにパンを盗むことは正しいのか。」という問題を考えることが重要だ、ということに気付いたのだから。
これは哲学における重要な前進だと言って良いだろう。

このようにして解像度を上げるというやり方こそが、哲学のやり方だ。
哲学とは自己言及的で出口がなくて息苦しい営みのように感じることも多い。
その場で足踏みを続けるような、無駄な悪あがきなのではないかとも思えてくる。
世のアカデミックな哲学は、傍目から見たらどんな成果を上げてきたのかわからないだろう。
だが、それは、非哲学的なものさしで哲学を捉えようとするからなのだ。
哲学には哲学のやり方がある。
解像度を上げるというやり方により、これまでも哲学は前進してきたし、今後も前進できるのだ。

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実は、解像度を上げる、というやり方は、非哲学的な場面でも役立っている。
先ほど説明したとおり、非哲学的な問題は、問題がある地点から問題に決着がついた地点への移行に例えられる。
財布がない状況から、財布がみつかった状況に移行できればよい。
ここでは確かに解像度を上げる必要はないように思える。
しかし実は財布がないことを明らかにするためには、その状況を解像度を上げて把握しなければならない。
出発点としての問題がある状況を把握し、確認するためには、一定程度、解像度を上げて状況把握することが必要なのだ。
財布がないかもしれないと気付いたとき、ひととおり周囲を見渡したり、バッグの中を探ったりするだろう。
これは解像度を上げて状況を確認したうえで財布がないと判断するということだ。
また「会社の経営方針をどうすればよいのか。」という非哲学的な問題について考えるためには、ライバル会社の動向や自社の資産の状況などを把握しなければならない。
どの程度調べるかは、ケースバイケースだろうが、ある程度解像度を上げて問題を捉えようとしなければ、対処のしようがない。
このように非哲学的な問題であっても、解像度を上げることは重要なのだ。
ただ、非哲学的な問題であれば、決着がついた地点への移行というもう一つの対処法があるから、その場に応じたちょうどいいバランスで二つを併用すればよい。
一方で、哲学的な問題の場合には、解像度を上げる他に選択肢がない、という違いがあるだけだ。

少々話は脱線するが、だから、哲学を学ぶことは非哲学的な場面でも役立つと言えるかもしれない。
解像度を上げること、それだけをこれほど学ぶ場は哲学以外にはないに違いない。
例えば、解像度を上げることの一側面は論理的思考とも捉えられるだろうが、論理的思考それ自体を学ぶことができる場面は少ない。
そのような意味で、哲学には教育的な存在意義があるという言い方もできそうだ。

最後に瞑想について。
瞑想も解像度を上げることにつながるのではないかと思う。
あまり詳しくないけど、瞑想は「今ここ」を重視する。
これは、過去、未来ではなく現在に焦点をあて、他の誰かではなく、自分自身に焦点をあてるということだ。
しかし、それは、過去や未来や他者を切り捨てるということではない。
時間的にも空間的にも、すべての広がりが「今ここ」のなかにとりこまれていると理解することを伴う。
このような考え方には、いくつかのバリエーションがあるが、ある考え方によるなら、
過去を思い出すのは現在においてであり、他者の感情を理解するのは自分においてである、というような話だ。
このような話に賛同できるかどうかは別として、このような道筋に対しては、先ほど哲学に感じた、出口のない息苦しさと同じものを感じるのではないか。
この息苦しさを打ち破るものとして「今ここ」を解像度を上げて捉えようとするものとしての瞑想があるのではないかと僕は思う。
これは、哲学における解像度を上げた思考とは別物かもしれないけれど、結構近いところにあるような気がする。