似たような話が続くけれど、またヨガ・瞑想と哲学の話。

数年前のヨガフェスタで、ODAKAヨガの創始者であるロベルト先生のクラスに参加したことがある。大人数だし、通訳を介してだし、そんなに期待していなかったけれど、とてもよかった。独特の空気感があって、さすが大御所だという感じ。クラスの内容としても、特に、自由に翔ぶというイメージを強調していたのが興味深かった。時間が経ち、記憶もあやふやとなり、僕の勝手な解釈が入り込んでいるかもしれないけれど、重力から解き放たれ、自由に翔ぶ鳥のようになる、というイメージだ。確かに、インナーマッスルの力も使って、重力に押しつぶされないようにするという感覚は、その後のヨガでも役立っているように思う。

だけど、ヨガでは、重力に抗い、上方向に意識を向けることは少ない。どちらかというと、立っているときには、しっかり足裏に感覚を向け、大地に根ざしているというイメージを持つことが推奨される。また、仰向けに寝ているときも、背中が地面に沈み込むような感覚を持つと上手にリラックスできるとされる。

どうも、ロベルト先生が言っていたことと、普通のヨガが言っていることは矛盾しているのではないか、という気もする。だけど当然、そんなはずはない。きっと両方が重要なのだ。例えば、気をつけの姿勢で立っているとする。ヨガではこれをサマスティヒというのだけど、このとき、僕の頭は上に伸びつつ、僕の足裏はしっかり地面に根付いている。僕はそんなに上手にはできないけれど、そういう方向で頑張る。理想的には、僕は空に羽ばたきつつ、大地に根付いている。ヨガは、その拮抗状態を目指していると言ってもいいかもしれない。僕は重力ゼロで大空と大地を結ぶ紐帯となっている。そんなイメージを持つと上手くヨガのポーズがとれる気もする。

 どうも理想論すぎて無理筋の話だと感じるかもしれない。人間が紐帯と化すことなんてできる訳がない。ちょっとスピ系すぎるように思える。だけど、実はヨガなんてやらなくても、人間はそういうものだとも言える。なぜなら、僕たちは飛行機や地下鉄に乗らない限り、大空と大地の間に生きているからだ。事実として、僕は約170cmの長さで空と地面との間をつなぐ存在だということまでは言えるような気がする。

 そうだとするならば、ヨガとは、実際生まれながらにして空と大地の間に生きる存在であることを思い出し、それを意識することにより、より上手に生きることを目指すものなのかもしれない。空と大地の間にある、人間の領域の幅を意識し、羽ばたき、根付くことにより、その領域の拡大を目指すものなのかもしれない。

 ここまでは、ちょっとスピリチュアル寄りの話すぎるので、ここまでなら僕が話すようなことではないだろう。こういうことについては、もっと造詣が深い人がたくさんいるのだから、僕などが出る幕ではない。

 僕がこのような話をしたのは、ここでの、空と大地の間の人間の領域の「幅」というアイディアは、哲学的に拡張することができそうだと思ったからだ。

 まず哲学の方向に進まず、いわゆるカジュアルなヨガの領域にとどまったままでも、空と大地(つまり頭と足の裏)以外にも色々な幅を見出すことができる。特に重要なのは、胸・お腹と背中の間の幅だろう。呼吸において、胸と背中の間や、お腹と背中の間の距離に意識を向けることはとても重要だ。

 そこから、身体から離れて瞑想的な話に入っていくと、きっと注意を向ける対象と、注意をしている自分との間の距離も重要だろう。例えば、目の前に燃えるロウソクの炎を見て瞑想していたとする。(したことはないけど。)そこで重要なのは、きっとロウソクと自分の間の距離だ。その距離を無限小にし、自分とロウソクを一体にするのがサマタ瞑想で、その距離を無限大にとっていくのがヴィパッサナー瞑想の道筋ではないだろうか。だけど、瞑想をしていない僕たちは、無限小でもなく無限大でもない日常的な「幅」をロウソクとの間に感じて生きている。

 いよいよ哲学の領域に入り込んでいくと、二点間の距離という意味で重要なのは、未来と過去の間の時間的な距離だろう。僕たちは、未来と過去の間の現在に生きていて、それがいわば、人間の領域の「幅」だと言ってもいい。なぜなら、手が届かない未来には自由はなく、確定した過去にも自由はないという意味で、現在にしか自由を見出すことできないからだ。人間にとって自由意志が必須だとするならば、現在こそが人間の領域だとすることは、そうおかしいことではないだろう。

 同様に、二点間の幅のなかにこそ人間性を見出すという思考の道筋はいくつもありうる。例えば、人間が、人間らしく生きるためには、ガチガチの因果的決定論でもなく、単なる神の気まぐれでもなく、その両者の間にある考え方をする必要があるという考え方がある。これは偶然と必然の間にある「幅」のなかに人間の領域を見出す考え方だといっていいだろう。

 ほかにも、色々なところに「幅」を見出すことはできるだろうが、重要なのは、そのいずれもが、人間の領域の「幅」として表現できるということだ。空と大地、お腹と背中、ロウソクと観察者、過去と未来、偶然と必然、いずれにも「幅」はあり、その幅にこそ人間の領域がある。(逆に、すべての「幅」とは人間の領域のことである、と言ってもいいようにさえ思える。)

 僕は哲学的興味に基づき、そんなことを考えているけれど、まだ、それが何を意味するのかはよくわかっていない。そのためには、もっと様々なところにある「幅」を発掘する必要があるのかもしれない。それこそが、人間らしく生きるということの鍵でもあるような気がする。  だけど、そんなことばかり考えてもいられないので、実際の僕は「幅」のことなどすっかり忘れ、日常を生きている。それでも僕は、時々、空と大地の間の「幅」を思い出すことで、僕は「幅」的思考の入り口に戻ってくることができる。このことは、ヨガや瞑想に役立つだけでなく、哲学にも役立っているような気がする。