※6000字以上あります。仕事が落ち付いてきて、文章を書く元気が出てきました。

1 時間とは何か

永井の本を読みつつ本からは脱線して、時間のことを考えた。

常識的には、時間は、未来から現在、過去へと流れていくとされる。人間はそれを予期、知覚、想起により把握する。その過程で時間は二つの流れに枝分かれし、客観的な世界の側における事物の未来・現在・過去への流れと、主観的な世界の側における心象風景の未来・現在・過去への流れがある。

当然、このような描写は色々な問題を含んでいて、未来は無だから未来を予期により把握することはできない、とか、客観的な現在などなく、無時制的な出来事の順序があるだけである、とか、色々な指摘をすることもできる。

だが、ここで着目したいのは、このような常識的な時間観をすべて切り捨てることはできない、ということである。時間というものを考えるとき、そこに豊かさや賑やかさとでも表現したくなるような何かが付き纏ってくるように思えることは確かだと思う。もし、時間がない世界と時間がある世界を並置し、外から眺めることができるならば、時間がない世界にはない何かが、時間がある世界には付け加わっているはずだ。そこに付け加わる何かとは何なのか、そんなことを考えてみた。

2 無時間的な認識

実際、僕がどうしたかというと、僕は、周囲を見回したり、目を閉じて思い浮かべてみたりして、時間につながる何かを捉えることができないか色々と試してみた。

その結果、わかったのだけど、そんなことをしても、未来・現在・過去といった時制や、時間の流れのような、時間につながりそうなものを捉えることはできない。明後日出勤した時の自分のデスクの情景を思い浮かべても、それは、ただの情景であり、そこに何ら未来性はない。目を開いて周囲を眺めてみても、そこにはペンやパソコンがあってネコが寝ている雑然とした風景があるだけで、どこにも現在はない。昨日の食卓を思い浮かべてみても、そこには美味しかったカブのサラダが並んだ景色が広がっているだけで、過去性のようなものが食卓に並んでいる訳ではない。再び、目を開き、目の前で指を動かしてみると、確かに指が動いている状況は確認できるけれど、その動きの中に時間の推移のようなものは確認できず、そこには指が動くという情景があるだけである。

改めてそんなことをしてみて、僕は結構びっくりしたのだけど、僕の認識は、思っていたよりも時間と結びついていない。情景は無時間的である。

(内容としての無時間)

僕が気づいたことの半分を表現するならば、想起した情景や、知覚した情景や、予期した情景の中にある内容としては無時間的であるとも言える。

(周囲を見回したり、目を閉じて思い浮かべてみたりして、時間につながる何かを探す中で僕が気づいたことの、もう半分は後ほど述べる。)

確かに、想起した情景の中には、過去の日付が書かれたカレンダーも含まれているかもしれないし、予期した情景の中には、明後日の月曜日の職場の状況が描かれているだろう。そのような意味で、認識された情景の中には時間的な情報が含まれうる。

だが、そのように、認識された情景のなかに時間に関わる情報が含まれていると考えるのは、事前に年表的知識を手に入れていて、年表的知識と認識された情景とを照合させることができているからである。

つまり、この話を成立させるためには、事前に入手した年表的知識が時間的なものであることが大前提となるが、その前提を無根拠であり導入できない。よって、想起も予期も、その内容としては時間と結びつかない。

だが、そのように過去と未来の時間性は否定できたとしても、ありありと知覚したクオリアに満ちた情景は、明らかに現在のものであるはずだ、と言いたくなる。それならば、ありありとしていなければ過去か未来であり、ありありとしていれば現在である、という区別ができるはずである。しかし、そこには、無根拠にクオリアと現在とを結びつけてしまっているという問題があり、クオリアに基づく時制の区別も採用できない。よって、認識の情景は、その内容としては全く無時間的である。

3 馴染み

だが、色々と試していて、ひとつだけ時間的なものを見つけた。僕は、その無時間的な情景の中に、その情景を以前から知っているという馴染みのようなものを感じたのだ。そのような意味で情景には過去性がある。

僕は、今、目を開いて周囲の状況を知覚により捉えているが、そこで知覚している景色、つまりパソコンがあってネコがいる景色を、僕は既に知っている。パソコンやネコというものに馴染み、既に知っているから、それをパソコンやネコとして知覚していると言ってもいい。そこには、旧知の馴染みのモノとしてのパソコンやネコというかたちで、過去性が流れ込んでいる。これが、唯一、僕が認識できる時間なのではないか。

だが、そう結論付ける前に、なぜ、パソコンやネコと知覚するために、パソコンやネコを既に知っている必要があるのかを説明する必要があるだろう。

僕が好きな野矢茂樹先生のクリーニャーというアイディアを使って説明したい。クリーニャーとは、ネコが掃除機に乗っている状況である。円盤状の自動掃除機(ルンバ)に乗っているネコを思い浮かべればいいだろう。なぜ、人間は、この情景を見て、掃除機とネコが合体したものとしてのクリーニャーという一つの事物があるのではなく、掃除機とネコという二つの事物があると捉えるのだろう。これがクリーニャーの問題である。

当然、その答えは、通常、ネコは掃除機に乗っておらず、すぐに降りてしまうし、プラスチックや金属でできた掃除機とタンパク質でできたネコでは科学的に大きな違いがあるからである。だが、そのような知識を、どのようにしてクリーニャーを見ている情景と組み合わせるのか、という問題が残る。僕はそれは、クリーニャーの情景を見る以前に、既に、ネコと掃除機のことを知っていて、ネコと掃除機に馴染んでいるからだと考えたいのだ。ここに知覚における馴染みの重要性がある。

クリーニャーの例を出したらかえってわかりにくかったかもしれないので、別の説明をしよう。僕が見ているこの情景は、液晶モニターの画像と同様、色がついた光の無数の連なりであるとも言える。その無数の光をどこかで区切り、グループ化して捉えることによって、このグループがパソコンで、このグループがネコである、というように分けて捉えることができる。では、グループ間の区切りをどうやって設定し、グループ化するのかが問題となるが、その答えは、僕はネコやパソコンをすでに知っていて、ネコやパソコンに馴染んでいるからだと考えたいのである。ここに知覚における馴染みの重要性がある。

同様のことは、現在と紐づく知覚だけでなく、過去の想起における情景や、未来の予期における情景ついても言える。過去の記憶の中の食卓も、未来の予期としての僕の職場の机も、それを食卓や机として把握するためには、分節化が必要であり、その分節化を可能とするのは、既に知っているという馴染みなのである。

4 直交する時間

ここまで述べたことをまとめるならば、予期・知覚・想起のいずれであっても、認識論的に把握された情景は、すべて無時間的であり、あえて言うならば、すべて、馴染みというかたちでの過去性を有しているということである。

僕は、それを、認識論的な世界は、存在論的には過去である、と表現したい。

図にすると次のようなかたちだろうか。

認識論的世界における認識論的時間は、想起というかたちで過去とつながり、知覚というかたちで現在とつながり、予期というかたちで未来とつながっている。だが、想起にせよ、知覚にせよ、予期にせよ、認識によって把握された情景は無時間的である。つまり、認識論的世界は無時間的であると言ってもよい。

そのうえで、この無時間性は、つまり認識論的世界自体の存在としての無時間性であり、認識論的時間軸とは別に存在論的時間軸というものを措定するならば、認識論的世界は、存在論的時間軸上は時間的幅のない点として位置づけられることになる。

以上のことを、とりあえず、認識論的時間と存在論的時間が現在で直交すると仮定するならば、上記の図のように描くことができる。認識論的世界は馴染みという過去性を有しているから、そのことを矢印として書き入れている。横軸の認識論的時間(としての世界)が縦軸の存在論的時間(としての世界)の下半分に位置づけられているような状況である。

5 一つだけ残る認識

ここで、どうして現在において、二つの時間が直交するとしたのかを説明する必要があるだろう。

そのためには、「(周囲を見回したり、目を閉じて思い浮かべてみたりして、時間につながる何かを探す中で僕が気づいたことの、もう半分は後ほど述べる。)」とした、もう半分について述べる必要がある。

僕が気づいたのは、周囲を見回したり、目を閉じて思い浮かべてみたりすること自体の難しさである。僕は、昨日の食卓を想起したり、目の前のパソコンやネコがいる風景を知覚したり、明後日の職場を予期したりしようとしてみた。だけど、そんな当たり前のことが、よく考えてみるとできない。

昨日の食卓を想起することはできても、それから、明後日の職場を予期してみると、そのとき、すでに昨日の食卓の想起はどこかに行ってしまっている。では、再び想起してみても、そうすると今度は予期がどこかに行ってしまう。それは知覚でも同じことで、パソコンを知覚しようとすると、予期も想起もどこかに行ってしまう。実はネコを見るためには後ろのベッドを振り返らないといけないから、ネコを知覚しようとすると、パソコンの知覚さえどこかに行ってしまう。認識は、どれかひとつしか手元に残すことができないのである。

それを、一つの認識だけ残し、その他の認識は「過去に」行ってしまった、と表現したくなるけれど、そうですらない。認識論的には、その他の認識が過去に行ってしまったことを、何らかのかたちで認識できなければいけないが、その認識自体ができないからである。認識論的には、まさに、認識は過去にすらない。結局、認識は一つしか残らない。

(更に言うと、一つだけ残った認識も、その認識を思考で捉えようとした途端、思考に追いやられ、どこかにいってしまう。だから、認識論的には認識が全くない、と言いたくなるけれど、それはまた別の問題なのでこの文章では深入りしない。)

6 現前する認識と潜在する認識

この一つだけの認識を、現前する認識と呼ぶことにする。現前の対比は潜在である。一つだけの現前した認識以外は、どこかに行ってしまったのだが、行先がわからないままだとまずいので、とりあえず、その他の認識は潜在したと考えてみるのである。僕がパソコンを知覚しているとき、昨日の想起も、明後日の予期も、ネコの知覚も、すべて潜在してしまったと捉えるのである。

そして、重要なのは、この唯一の現前した認識だけは、馴染んでおらず、過去性を有していない、ということである。なぜなら、この現前した認識は、まだ認識の作業を完了しておらず、進行途上だからである。アスペクトという言葉を使うなら未完了のアスペクトを有していると言ってもいいだろう。いずれ認識作業が完了し、認識に落とし込まれてしまったら、それはネコである、というように確定し、ネコという馴染みを帯びてしまうだろうが、そのように認識が確定するまでは、その認識の内容が決まらないから、馴染みも帯びない。

よって、この唯一の現前した認識を存在論的時間の現在に置き、それ以外の馴染み、潜在した認識を存在論的時間の過去に置くことは妥当だろう。認識は、存在論的時間上の現在において現前するから、存在論的時間軸上の現在において、認識論的時間軸は交差するのである。または、同じことだけど、認識論的に現前することを、存在論的な現在と呼ぶから、存在論的時間軸上の現在において、認識論的時間軸は交差するのである。

なお、もう一方の、認識論的時間軸上の現在において、存在論的時間軸が交差することについては、たまたま、そのような例を用いたからに過ぎない。たまたま僕が、昨日の食卓の想起や明後日の職場の予期が、目の前のネコの知覚に押しやられてしまった場面を想定したから、認識論的現在を唯一現前した認識に捉えただけなのである。だから、再々度、昨日の食卓の想起で目の前のネコの知覚を追いやってしまえば、昨日の想起のみが現前しているという意味で、過去の昨日の時点において存在論的時間上の現在が交差してもかまわない。

そのようにして、認識論的時間軸上のどの点でも、その点が現前することは可能であり、そのような意味で、認識論的時間軸上のどの点でも、存在論的時間上の現在と交差することができる、と考えることもできる。その場合は、一つだけの現前した認識という捉え方の半分は放棄することになり、情景は無時間的である、というこの文章の第二節において行った議論に戻っていくことになる。

(前節のカッコ書きで述べた、「一つだけ残った認識も、その認識を思考で捉えようとした途端、思考に追いやられ、どこかにいってしまう。」という話を持ち出すならば、結局は過去の想起も、未来の予期も、現在の認識も、すべて現在の思考に追いやられ、現在の思考しか現前しないとも言える。だから、やはり、認識論的時間軸上の現在(の思考)においてしか、存在論的時間とは交わらないとも言える。)

7 存在論的時間

存在論的時間における現在とは、認識の現前であり、そして、存在論的時間における過去とは、認識の潜在である。この認識の潜在というアイディアは、当然、僕が好きな入不二の現実論から流用している。というか、『〈私〉の哲学をアップデートする』における「B変容」そのものだと僕は思っている。(入不二は否定するかもしれないが。)

だから、認識論的時間軸上の最も深く潜在した過去には、入不二哲学における、マテリアルとしての無尽蔵の潜在性が位置づけられることになるだろう。そこからすべての認識は立ち上がるのである。

ということで、先ほどの、直交する二つの時間の図については、ほぼ説明を終えたことになるが、最後に、存在論的時間軸上の未来とは何なのか、が問題になる。

またもや入不二の用語を用いるならば、この存在論的未来とは『あるようにあり、なるようになる』における「ケセラセラの未来」のことだろう、と僕は思う。これは、存在論的現在、つまり現前から、全く隔絶された未来である。だからケセラセラの未来としての存在論的未来に、認識論的時間軸が入り込む余地はない。認識論的時間は、認識され、馴染むというプロセスを経るかたちで、存在論的時間軸上の現在と過去を行き来することしかできない。

しかし、このケセラセラの未来とは、それなのに、なぜか一方的に、無慈悲にも、(または大いなる救いとして)現在として到来してしまう未来でもある。未来は、まさに存在論的未来から降ってきて、全く無根拠に認識を現前させてしまう。ただそれだけのものなのである。だから、存在論的未来とは、マテリアルとしての潜在性から、認識される現前を立ち上げる力そのものの純粋な姿であるとも言える。この力とは、当然、入不二における力としての現実性のことである。