※6,000字ちょっとあります。入不二哲学と永井哲学をある程度知っている方向けです。

1 合評会

昨日、植村恒一郎先生主催による入不二基義先生の(現時点での)最新作『現実性の極北』合評会にWEB参加した。入不二先生だけでなく永井均先生まで参加して、とても濃密な場で色々考えさせられた。だから、この文章は、合評会自体の記録というより、合評会を受けて考えたことの記録である。

なお、僕にとって特に重要だったのが、永井の「(無内包の)現実性を普通に使っても面白みがないので、わざと普通ではないアイロニカルな使い方をしている。」という趣旨の発言だった。この言葉について考えることで、僕なりに入不二と永井の違いが少し見えてきた気がする。だから、2から4節はそのことについて書いている。

以降、5から7節は、植村と入不二の関係性についての話で、8・9節は僕が以前から興味がある哲学のやり方についての考察となっている。

2 現実性の「なさ」

この合評会でも確認されたけれど、入不二の(遍在する)現実性と、永井の(独在する)現実性は、無内包という点で、とてもよく似ている。永井は、説明の都合上、他者と私の違い、過去や未来と現在との違いを強調し、あえて差異を設けることで、現実性の特別さを示す。一方で、入不二は、ストレートに、ただ遍在する現実性の特別さを示していく。

だから、あえて差異を設ける、といった手法の違いはあれど、両者は同じものを指し示そうとしているようにすら見える。

だが、合評会を終え、考えてみたけれど、冒頭で紹介した永井の「アイロニカルな使い方」という発言には、同じという捉え方を許さない深い含意があるのではないだろうか。

そこで、あれこれ考えて思いついたのが、次のアイディアである。

「永井は、私や現在の現実性を前景化することで、逆説的に、他者や過去・未来における現実性の「なさ」を語ろうとしているのではないか。」

一般的には、永井哲学は、〈私〉の独在論とされており、確かに永井自身もそのように論じる。だが実は、永井は、〈私〉に独在性、つまり、無内包の現実性があることを主張しているのではなく、〈私〉以外の他者には無内包の現実性が「ない」ことこそを語ろうとしているのではないか。

喩え話をするならば、まずキャンバスを青く塗り、その広大な海の真ん中に、(小さい砂浜とヤシの木が一本だけの)小島を描き入れたとする。これは小島の絵とも言えるが、見方を変えれば、小島の他には海しかない絵とも言える。同様に永井も、小島や〈私〉が「ある」ことではなく、大海には小島がなく、他者には〈私〉が「ない」ことを描こうとしたのではないだろうか。

つまり永井の「アイロニカルな使い方」とは、現実性という言葉を用いながら、現実性そのものではなく、現実性の「なさ」を浮かび上がらせる、という独特の用法のことであり、永井哲学とは、実は〈私〉の独在論ではなく、非〈私〉の非・独在論なのではないか。

このような、ちょっとひねくれた姿勢は、とても永井らしくて、道徳の「なさ」を描こうとする永井の倫理学にもどこか通じているように思える。

また、永井の山括弧は、バツ印を左右に分解し変形させたものだと聞いたことがある。それならば、〈私〉における山括弧とは、私の独在性を強調するための表現ではなく、普通の意味での「私」など哲学的に全然面白くないぞ、とバツ印を付けたものだとも言えるのではないだろうか。

3 ミソがない

これに対して、永井の「なさ」は徹底できていない、という批判はありうるだろう。なぜなら、他者には独在性はないとしても、他者は全く「ない」訳ではないからだ。生物学的な人間は何十億人もいて、そこにはタンパク質や水分があるし、そこには営みや心理学的な心だってある。

だから、他者は、「ない」どころか明確に「存在する」とも言える。存在しないのは〈私〉の独在性のほうである。

このような誤解に基づく批判を避けるためには、永井の「独在」とは、普通の用法での「存在」とは全く異なるという点を強調しておくべきだろう。同様に、僕が言っている「なさ」も普通の用法とは全く異なることになる。

ここでの「なさ」とは、哲学的な面白みがないということである。他者は普通に存在していて全然構わないけれど、その存在について語ることには、合評会での永井の言葉を借用するならば「ミソがない」のである。

この「ミソのなさ」は、哲学的には、真空状態や全くの無よりも、はるかに「ない」とも言えるはずだ。なぜなら、全くの無は哲学の対象となるが、「ミソのなさ」は哲学の対象となら「ない」からである。

だから、永井哲学のミソは、他者にはミソがないとして、他者を切り捨てるところにこそあるとも言えるだろう。ミソがないことこそがミソである、などと永井は言っていないが、なかなか永井的な永井理解にはなっているように思う。

4 永井と入不二のタウマゼイン

そうだとするならば、永井のタウマゼインとは、実は、私にだけ無内包の現実性があることに驚いたのではなく、他者には現実性がないことに驚いたのではないだろうか。小島があることではなく、周囲の海には他に島がないことに驚いたということである。

一方で、入不二は、無内包の現実性が遍在していることに驚いたのではないか。いや、遍在それ自体に驚きはなく、遍在は自明であるにも関わらず、そう捉えない人がいることに驚いたと言ったほうがいいかもしれない。

入不二的に述べるならば、人々は、様々なものごとに「ある」と「ない」の差異を設けようとする。『現実性の問題』や『現実性の極北』で描かれた入不二少年のエピソードを例とするならば、人々は、生を「ある」、死を「ない」と位置づけ、そこに差異を設けたりもする。

だが、その「ある」と「ない」は、遍在して「ある」無内包の現実の土俵上で成立するものであり、世の人々が言う「ない」は本当の「ない」からは程遠い。

だから、入不二の無内包の現実性とは、永井流のアイロニーからは程遠く、素直に、ただ「ある」ものは「ある」ことを描写しているだけである、とも言える。

このように二人を対比させるならば、「ない」を描こうとする永井と、「ある」を描こうとする入不二という違いがあるのではないだろうか。

ここまで述べた二人のタウマゼインや、そこから導かれる哲学の姿勢は、あくまで僕の想像にすぎない。だが、タウマゼインがその哲学者の哲学のあり方を規定するとは言えるだろう。だから、入不二哲学と永井哲学の間にある隔たりを捉えるためには、彼らの哲学の内容を比較して違いを見出すだけでなく、こんなところに着目することも役立つのではないだろうか。

5 キャンバスづくり

ここまで、入不二哲学と永井哲学の違いに着目して論じてきたが、二人の哲学は正反対であるにも関わらず、奇妙な一致がある。それも、ある側面から捉えるならば全面的一致と言っていいほどの一致である。

きっとそれは、両者に共通する台無し感にある。「ない」にせよ「ある」にせよ、それを徹底するならば、すべてが台無しになるということである。永井はすべてを消し去り台無しにして、一方の入不二はすべてを塗りつぶして台無しにする。いずれにせよ、すべてを台無しにして、(非)独在性/現実性という真っ白/真っ黒なキャンバスを作り上げたのである。

二人にとっての話はそこで終わるのだけど、そこから、本人の意図は別にして、別の話が立ち上がる。「いわゆる」哲学をしようとする人たちが、自らの哲学を描くためにキャンバスを必要とするのである。

だから、キャンバスを使いたい立場の者からすれば、永井と入不二は、前哲学としてのキャンバスづくりにいそしんでいる、ように捉えられることになる。

この、キャンバスを必要とする者の代表例が植村であるとも言えるのではないか。

植村は、入不二の現実論が、とてもよくできた「哲学地図」になっているという話をしていた。そして、その流れで、大きな「哲学地図」を手に入れたい、という哲学上の目標について語っていた。

植村によれば、大きな「哲学地図」とは、あらゆる哲学的問題が網の目状のネットワークのように書き込まれているものだということだった。僕は、首都圏の電車の路線図を思い浮かべた。渋谷や新宿には、様相や因果といった大きな哲学的問題が描かれ、郊外に伸びる路線には、そこから派生する問題が描かれる。世田谷線あたりは応用哲学的な問題が描かれるのかもしれない。

そのような地図を正確に描くためには、その哲学構造を下支えする、歪みのないキャンバスが必要となる。

この植村のニーズに応えるように、入不二は、遍在する現実性という最高のキャンバスを仕立て上げた。そして、そのようなキャンバスを準備できたからこそ、円環モデルのような哲学地図を思う存分描くことができた。

そこに植村は魅力を感じているのである。

6 植村のタウマゼイン

このように植村は入不二の理解者であり支援者なのだが、一方で、入不二の興味と植村の興味には大きな違いがあるという点が重要だろう。植村にとっては、描かれた円環モデルのような哲学的構造にこそ価値がある。一方で、入不二にとっては、描かれた円環モデル自体にはそれほどの価値はない。入不二にとっては、円環モデルを描くことによって、そこにも、キャンバスがあることを示せたことにこそ価値があるのである。入不二がやっているのは——こんなところにも、あんなところにも現実性は遍在しているではないか——という、ある意味では当たり前の確認作業なのである。

最近、入不二は自らを現実性の「媒体」のようだと言うことがある。もし入不二が遍在する現実性の「媒体」ならば、入不二の哲学的使命は、自ら(現実性)がそこかしこに遍在することを示すことにあるはずだ。それが「媒体」の使命である。そのためには、入不二は遍くものごとを書き、そこに、ことごとく現実性が遍在していることを示す必要がある。

ここにあるのは、キャンバスに書かれたことを重視する植村と、キャンバスに書くこと自体を重視する入不二の違いである。

それでは、なぜ、このような違いが生じるのかといえば、永井と入不二には、それぞれ異なるタウマゼインがあったように、植村にもまた異なるタウマゼインがあったからなのだろう。

僕の推測にすぎないが、植村のタウマゼインとは、この世界があまりにも見事に「ある」と「ない」が組み合わされて構築されていることへの驚きだったのではないだろうか。

「ある」で塗りつぶす入不二と、「ない」で消し去る永井という対比を持ち込むならば、植村は、「ある」で塗りつぶされた黒いブロックと、「ない」で消し去られた白いブロックがモザイク状に組み合わさって、精巧な世界が構築されていることに圧倒されたのではないだろうか。だからこそ、この精巧なモザイク状の世界を、哲学地図に落とし込みたいと願ったのではないだろうか。

7 レイヤーは斜めから見る

そうは言っても、植村は入不二の一面しか理解していない、などということはないだろう。

なぜなら、入不二が自らの議論はレイヤー構造を持っていることを強調したことに対し、植村は、その構造がレイヤー構造であるためには、レイヤーを斜めから見る必要がある、という指摘をしていたからである。

なぜ斜めであるべきかは、3枚の透明な板に、1枚目は日本地図の輪郭だけ描き、2枚目に都道府県境だけを描き、3枚目に県庁所在地だけを書き入れ、重ね合わせるような場面を考えれば明らかだろう。

真上から見たら、3枚の地図は完全に重なり、単なる平面的な地図になってしまう。また、真横から見たら、地図は断面図としての3本の直線になってしまい、そこに平面的広がりがあることが失われてしまう。重なりと平面的広がりの両方を捉えるためには(少し隙間を空けて重ねて)斜めから見なければならない。

同様に、入不二の現実論のレイヤー構造を捉えるには、重なりと平面的広がりを捉えるように、いわば斜めから見なければならない。

植村がそのような指摘を行ったということは、植村は、とにかく1枚目に日本の輪郭だけでも描き、それを日本地図として独立に斜め上から眺めなければ、いくら2枚目以降で都道府県境や県庁所在地を描いても、日本地図にならないことを承知していたということである。

同様に、植村は、まず遍在する現実性というキャンバスの重要性を捉えなければ、そこにいくら円環モデルのような構造を描き入れても仕方がない、ということも認めている、ということではないか。

8 メタファー

ところで、合評会の場において入不二は、参加者からの質問に対し、自らの執筆態度を、論証ではなくメタファーであることを認めていた。

その場では、なんとなくそんなものかと思っただけだったが、こうして考えてみると、入不二がメタファーを重視していることと、入不二が遍在する現実性を描こうとしていることは繋がっているようにも思えてくる。

なぜなら、遍くものごとを書くためには、論証可能なことだけに執筆対象を限定するべきではないからだ。むしろ、記述を微妙にずらし、描写を網の目のように張り巡らせていくことが、遍在を描写するという難題に対処する態度としては適当であろう。

そのときに役立つのがメタファーという語り方なのではないか。本来の意味からの「ずらし」が新たな記述を生み、網の目を張り巡らせることに役立つからである。

9 哲学のやり方

この合評会では、永井の「面白み」や、入不二の「メタファー」といった、哲学のやり方についての話にまで及んだ。

これらは、一見、彼らの哲学の中身の重要性に比べれば、脇道に逸れた些細な話のようにも思える。実際、哲学のやり方によって、哲学の中身が左右されてしまったら、本末転倒だろう。

だが、僕は、彼らの哲学を深く理解するためには、無根拠な推測でもいいから、彼らの哲学のやり方を思い浮かべることは不可欠だと思う。(だから、永井先生や入不二先生が踏み込んだ発言をして、思い浮かべるための手がかりを提供してくれた合評会は、非常に貴重なものだった。)

それに、哲学のやり方を通じて理解を深めるというアプローチには安心感もある。なぜなら、彼らは一流の哲学者だから、どのような哲学のやり方をしたとしても、結局、彼らは語るべきことを語ることになるからだ。語り方によって、その中身が変質してしまうようなことはない。入不二哲学と永井哲学の奇妙な一致がそれを示している。

だから僕は、安心して、彼らの哲学のやり方について無根拠に妄想し、僕なりの理解を深めることもできた。この文章は、妄想を通じた理解の記録である。

(備忘録)

永井は「ない」、入不二は「ある」、植村は「あるとないのモザイク」とするならば、僕のタウマゼインとはどんなものだろうか。僕のタウマゼインとは、「あるもないもわからない」ことへの驚きなのかもしれない。「ある」を黒、「ない」を白とするならば、灰色への驚きである。

灰色の僕は、正体不明の灰色の沼に投げ込まれて溺れそうな気分だ。これが僕のタウマゼインだとしたら、僕には彼らとは違う哲学のやり方が必要だ。

だから僕は、彼らの哲学を、その内容として参照しつつも、僕なりに書き続けなければならない。