中学生のサツキへ

これが、娘シリーズ第一弾。2012年かあ。

・・・

長編ではないので、こちらに入れておきます。
サツキというのは、私の娘の仮の名前です。
名前をつけるときに、次点となった名前ですね。

01【まえがき】

これは、僕がおじさんになった証なのだと思うけれど、これまで生きてきた証を何か残したいという思いがある。
本当は多くの人に読まれるのが望みだけれど、まあ、それよりも書くこと自体に意義があると思ってるから、読まれるあてもなく色々と書いている。
そういう意味では、この文章は、明確に、中学生になろうとしているサツキが読むことを想定して書いているので、読者がいる珍しい文章だ。
やっぱり読者がいると気合が入る。なぜ、この時期にこういう文章を書くか、だけれど、多くの大人はそう思っていると思うけれど、中学生、高校生の頃というのは、何だか失敗や反省ばかりで、思い出すと一言、言っておきたいなあと思ってしまう時期だからだ。
そして、これもおじさんになった証なのだと思うけれど、僕には、これまで人生を乗り越えてきたことで、何かをアドバイスできるのではないかという変な(多分、勘違いな)自信がある。実際、言いたいこともたくさんある。
だけど、今後、ちょうどいいタイミングでちょうどいい話ができるかわからないし、そもそも小学生までと比べても人による違いが大きくなってくると思うから、僕が大切だと思うことが君にとって大切なものとは限らない。
第一、これから書くようなことを毎回、口で言われたら、僕だったらうざいと思う。
だから、文章にすることにする。そうすれば、取捨選択して必要なタイミングに必要な部分を読んでくれると思うし、それに読まなければうざくない。
(まあ文章にしても、結局は忘れて、そのうち同じような話をしちゃうんだろうけどね。)以下、いくつか、中学生、高校生の君に伝えておきたいことを書いていく。
できれば、最初の方に早めに伝えておきたいことを書き、後ろの方になるにつれ、あとで伝えればいいと思うことにしていくつもりだ。
だけど、人によって大切なことは違うから、合わないところは適当に読み飛ばしてもらってかまわない。
人とのコミュニケーションとは、そういうことだと思う。伝えようとする人と受け取ろうとする人の間ではどうしてもずれがある。
僕も、受け手である君のことはあまりイメージしないで書いていく。中高生だったころの僕自身に語るように書いていきたい。

02【他人について・世界について】

世の中には、色々な種類の他人がいる。
会ったこともないカンボジアの男の子、昨日道ですれ違った名前も知らないおじさん、よく行くレストランの声のおおきなおじさん、クラスメイトの女の子、学校の先生、仲のいい友だち、親戚のおばさん、お父さん、お母さん などなど。
この人達の共通点は、君じゃない人間だ、ということだ。
みんな、それぞれ自分のために生きている。
お母さんは、君のことをとっても考えてくれているかもしれないけれど、それは、自分のために君のことを考えているんだ。
君のことを考えると、お母さん自身が幸せになるから、君のことを考えているんだ。
そう思うと、なんだか孤独な感じがしないだろうか。
少なくとも、僕は、中学生の頃、そう実感した時、とても寂しい感じがした。世界に一人ぼっちのような感じがした。だけど、少しして、高校生になって、もう一つ気付いたことがあった。
他人は、僕じゃない人間だけど、僕と同じように人間だ。そういう人間がたくさんいるんだと気付いた。
僕のように誰もが一生懸命生きていて、悩んだり、楽しんだりしている。そんな人達が世界にはうじゃうじゃいる。
それは言葉にすれば当たり前のことだけれど、少なくとも僕にとっては、そう実感したことはとても大きなことだった。
僕は独りじゃなくて、愛しい人間達に囲まれて生きているんだ、そんなふうに思ったんだ。こうして、僕は、一周ぐるりと考えて、なんだか、世界をとても素晴らしい、肯定的なものとして捉えることができた。

03【注意事項:独自の体験のおしつけについて】

この文章では、あんまり、こういう話は書かないつもりでいる。
俺は昔こう考えたんだから、お前もそう考えろ、というのは理屈に合わないし、多分、話として面白くない。
だけど、あえて、こういう話を書いたのは、「世界を肯定的なものとして捉えること」というのは、理屈じゃないからだ。
どのような流れで、そう思えるかは人によって違う。そして、気づくことのできる環境ときっかけがあった人だけが思える。そういう性質のものなのだと思う。
だから、何かの足しになればと思い、僕の場合のきっかけを書いた。
(多分、ママにとってのきっかけは、君を産んで、母親になったことだと思うよ。)
そして、父親としては、何かそういう体験が訪れればいいと願うだけだ。

04【心の中と外のこと】

さっき、他人の中に、自分がいるという話をした。
自分だけが特別である一方で、同じように生きている人間が自分も含めてたくさんいる。という話だ。ここから、自分の心の中の世界と、自分が登場人物のうちのひとりになっているような心の外の世界のふたつの世界がイメージできるだろう。
自分だけが特別な、自分だけの心の中の世界と、自分が他の人と同じように並んでいる、自分も含めてみんなが一生懸命生きているような心の外の世界だ。みんなが僕のような感じでイメージしているかどうかは知らないけれど、多分、多くの人がそうだと思う。
そうだという前提で話を進めると、ここで言っておきたいことは、心の中の世界と、心の外の世界とがあることを明確にしておきましょう、ということだ。
(なんで、このようにふたつの世界をイメージするのか、とか、このようにふたつの世界をイメージするのは正しいのか、というのはバリバリ哲学なネタなのでパスね)心の中の世界というのは、自分の感覚や感情が全ての世界だ。
おいしい、痛い、とか、嬉しい、悲しい、とかといった、自分の気持ちにどっぷり浸かった世界だ。
ゲームで例えれば、操縦席から見た、フライトシミュレーターのような世界と言えばいいだろうか。一方、心の外の世界というのは、客観的な事実の世界だ。
ケーキがある、とか、彼女に別れ話を切り出された、とかといった事実が淡々と描かれた世界だ。
ゲームで例えれば、マップを上から見下ろした、ポケモンのような世界と言えばいいだろうか。ここで特に強調したいのは、客観的な事実の世界の重要性だ。
うまく現実に対応するためには、事実をしっかりと捉え、冷静に対応する必要がある。
そのためには、しっかりと心の外の世界、つまり客観的な視点を持っておく必要がある。
あまり自分の感情に流されるとベストな判断ができない。
(ブッチ神父は言う。「素数を数えろ」)一方で、自分の気持ちは心の中の世界にあるので、そこにも戻らないといけない。
自分の感情を見失ってはいけない。
このふたつの世界をしっかり持ち、うまく行き来できるようにすることが、うまく生きるコツなのだろうと思う。そのコツをつかむヒントは、客観的な世界とは、つまりは、言葉で描くことのできる世界だ、ということにあるのではないか。
僕の経験から言えば、少し落ち着いて、自分の感覚や感情から少し離れて、自分を登場人物の一人と位置づけて「言葉で思考すること」が客観的になるコツだ。
だから、色々な文章に出会い、色々な経験をして、色々な文章に込められた色々な気持ちやニュアンスをつかめるようになることが、心の中の世界と心の外の世界をしっかり持ち、豊富にしていくことにつながるのだと思う。

05【自由について】

世の中には色々とかっこいい言葉がある。
かっこいい、と言っても中二病っぽい言葉じゃなくて、もっと大人向けにかっこいいとされている言葉だ。
ここでは、そのような言葉の代表例として「自由」をとりあげたい。社会の時間に習ったかもしれないけれど、憲法には「基本的人権の尊重」という原則がある。
そして、基本的人権のなかのひとつに「自由権」というものがある。
なんて書いていくと、なんだか社会の授業みたいな感じになってしまうから、言い方を変えてみよう。
もう少し身近なものとして話すことにする。子供には大人に比べてもたくさんの「自由」がある。
大人は仕事に行かないといけないし、そもそも、残された寿命も子供より短いから、これから人生でやれることは少ない。
そういう意味では大人には可能性があんまり残されていない。
それに比べて子供には大きな可能性がある。
総理大臣になるかもしれないし、スポーツ選手になるかもしれない。色んな人生を選ぶ自由がある。
こう書けば、自由とは当たり前に身近にある言葉だと思えるのではないだろうか。だけど、「自由」というのは、その当たり前のものから脱線していきがちだ。
例えば、僕は、多分、理屈っぽい男の子だったからか、中高生の頃、親に対して「そんなの俺の自由だろ」とか言っていたと思う。
多分、勉強しないで漫画とかを読んでいて注意されたんだと思うけれど、そんな感じだったと思う。
これは、多分、「僕には勉強をしないで後で苦労することを受け入れる自由がある」という程度の意味だったと思う。
こう書くと、人によっては、こんな自由は、ちょっと当たり前だとまでは言えないな、と思うのではないだろうか。
まあ、このくらいならかわいいけれど、極端な場合だと、
「あとで、刑務所に入るってわかってれば、人を殺すのだって俺の自由だろ」というような主張だってある。
このような話をどのように考えるか、これは正しいのか、間違っているのかというようなことは、ガチンコな哲学的な話だから、そこには踏み込まない。
けれど、なんとなく、「自由」というものは、当たり前のものから、だんだん極端になって、ついには脱線していくという感じは伝わるのではないかと思う。ここで指摘しておきたいのは、どれも、自由というのは、自分にとっての自由だということだ。
自分が小説家になる自由、自分が漫画を読む自由、自分が人を殺す自由、というように。そうかな、と思うかもしれない。
友達が、「親に公務員になれって言われちゃってさぁ。俺は漫画家になりたいのに。」なんて言っていたら、
「お前には、仕事を選ぶ自由くらいあるだろ。」なんて言うかもしれない。
友達の自由だって大切だ。ここで、哲学もどきのことを書く必要がある。この場合の友達というのは、自分にとっての友達だ。
自分の友達の自由だから、自分の大切な人の自由だから、大切に思う。
もし、自分にとって大切な人でなければ、その人の自由なんてどうでもいいはずだ。
自分にとって大切な人に幸せになってほしいから、大切な人の幸せが自分の幸せだから、自分のために大切な人の自由を大切に思うのだ。君は、「そうじゃない。アフリカの難民の自由だって大切だ。」と思うかもしれない。
けど、それは、どうでもいい人の自由を大切に思っているということではなく、君がアフリカの難民を大切に思っているということだ。
君は、自分のために、アフリカの難民の自由を大切に思っている。この話は、哲学的には、更なるつっこみどころが満載だ。
(もし、こういう話自体に興味があるなら勉強してください。勧めないけど。)
だけど、このレベルであえて話を留めても、それほど悪くない話ができると思う。
つまり、「自分や自分にとって大切な人の自由と、それ以外の人にとっての自由では全然レベルが違う。」ということだ。
これは、結論ではないけれど、とても大切な視点だと思う。この話と先ほどの、極端な自由の話をくっつける。
極端な自由の話とは、先程の例で言えば、「人を殺すのだって俺の自由だろ」という、あの話だ。
そうすると、ひとつの結論が導かれる。
「自分にとっての自由だけが大切だ。そして自由は無限に認められる。つまり、自分がやりたいことなら、なんだって自由にやっていい。」ということになる。
なんかひっかかる結論だ。いつの間にか、普通の意味での「自由」が「わがまま」になっているのではないか、って思うのではないだろうか。
少なくとも、この結論を簡単に受け入れられる人はそんなに多くないと思う。まあ、これは極端な結論で、そこまで思う人は少ないだろう。
だけど、中高生の頃というのは、傾向として、物事を極端に考えがちだ。(極端になるのが悪いことではないけれどね。)
だから、自分が、自由とか(権利とか、真実とか、正義とかという他のかっこいい言葉も似たところがある)について考えていると気づいたときは、極端なことを考えていないか注意する必要がある。
自由のようなかっこいい言葉を強調するのは危険のサインだ。何か、かっこいい言葉に振り回されている可能性を示すサインだと思ったほうがいい。だけど、一方で、自由のようなかっこいい言葉が必要だという一面もある。
世の中には、本気で信じているのか、信じているふりをしているのかわからないけれど、自由のようなものをとても大事にしている人が多い。
(例えば、権利という言葉について言えば、憲法の基本的人権なんて本当はフィクションなんだけれど、教科書や憲法にそういう言葉を書くことで、みんなに信じさせて、少しでも、基本的人権が尊重されるような世界に近づくようにしているんだと思う。)
そういう人に働きかけるときは、自由のような言葉を積極的に使うことが、自分の主張を通す武器になる。いや、もう少しつっこんで言うと、言葉を使うだけじゃなく、本気で、「自由」を心から信じて主張することで、大きな力が発揮できる。
それは、決して悪いことじゃない。というか、ある程度は信じないと生きていけないとも思う。そのさじ加減が難しい。

06【やるべきこととやりたいこと】

では。自由とか、権利とか、真実とか、正義とかといったかっこいい言葉について、どう対応すればいいのだろう。
僕は、こういう言葉には注意が必要だと言った。一方で、言葉としては使えるし、ある程度は信じないと生きていけないとも言った。
正直に言って、僕はここで結論めいたことを言うことはできない。
あえて言えば、ちょっと危ない言葉なので、ちょっと距離を置いたらどうでしょうか、ということになるだろうか。
黙認しながら黙殺する、と言えばいいのだろうか。とりあえず、そういうことで話を進めると、やっかいなことがある。
今、黙殺することに決めたこれらの言葉の役割の一つには、「生き方を示す」という役割があると思う。
「自由に生きるべきだ。」とか「相手の権利を守って生きるべきだ。」とか「真実をみつけるために生きるべきだ。」とか「正しいことのために生きるべきだ。」
というように。
これらの言い方は、ひとつひとつを聞くと、もっともだ、と思うけれど、今、黙殺すると決めてしまったので、採用することはできない。
そうすると、生き方に迷ってしまう。仕方ない、生き方にルールなんてない、とあきらめるしかないのだろうか。僕はそうではないと思う。ここで、心の中の出番だと思う。
自分の心の中の声にしっかりと耳をすませれば、何か答えが返ってくるだろう。
「自由に生きるべきだ。」とか、そんな大上段の声じゃなくて、例えば友達とケンカをしたあとなら「友達に謝ろうよ。」とか、そういう微かな、とても具体的な声が返ってくるのではないだろうか。
僕は、そういう声を大事にして生きていくべきだと思う。ここで大事なことは、心の中の微かな声は、「○○したい」というような願望か、「○○すべき」というような強制か、はっきりしないということだ。
あえて言えば、「○○しようよ。」という提案、呼びかけとでも言うのだろうか。
これは、心の中の自分から、心の外の自分への語りかけとも言えるだろう。だから、やるべきこととやりたいことのどちらを優先すればいい、なんて悩みは出てこないことになる。
自分の心の中の声はひとつしかないから、それに従えばいい。
(ボブ・ディランの言葉「やるべきことをやるだけさ」は、このことを指しているんだと思う。)

07【今と未来のこと】

今、自分の心の中の声に従って生きればいい、と言ったけれど、自分の心の声が混乱してしまう時もあると思う。哲学の問題で出てきそうな話では、「AさんとBさんのどちらかを殺さないと2人とも死んでしまう状況です。あなたは銃を持っていますがどうしますか。」なんていう究極の状況もあるけれど、もうすこしありがちな話がある。それは、今の自分と将来の自分とで、どちらを優先するか、例えば、「アイスを今食べるか、風呂に入ってから食べるか。」という問題だ。こういうとき、一般的には、なんとなく、将来を優先する方が偉いと思いがちだ。
けれど、僕はそうではなく、都度、考えなければいけない問題だと思う。例えば、アイスの話だと、アイスを食べると嬉しいのは今の自分で、アイスを食べる楽しみを後にとっておけて嬉しいのも今の自分だ。
ということは、どちらも今の自分なのだから、要は今の自分にとってどっちが大事なのかなあ、と落ち着いて今の自分に問いかければいいだけの話だ。一方、似たような問題として「今の楽しみのためにテレビを観るか、将来のために勉強するか」という問題もある。
これも、テレビを見て嬉しいのは今の自分で、勉強して将来のためになったことがうれしいのも今の自分だから、どちらを優先してもおかしくないとも言える。
だけど、ちょっと違うのは、「勉強して将来のためになる」、というような複雑なものの場合、その意味が、現時点でちゃんとわかっているか、という問題があるということだ。
この勉強が将来のすごい可能性につながり、とっても大切なものになるかもしれないし、勉強自体が全く無駄なものになるかもしれない。
こういう場合、わからないから勉強の方を優先しようかな、と思うこともあるかもしれない。なんとなく、将来を優先する方が偉い、と思いがちなのは、このあたりの事情があるのではないかと思う。つまり、複雑なものだと、将来のことが不確定になりやすいので、一応保険のために将来を優先しておきましょう、という程度の話なのではないかと思う。だから、しっかり将来のことまで考慮に入れたうえであれば、将来を優先する必要はなく、今を優先して判断することは全然問題ないと思う。
一番まずいのは、変に将来に色々なことを先送りにしてしまうことだと思う。
今、判断するのが怖いから、今、楽しみを味わうのが怖いから、今、嫌な思いをした方がましだ、という判断だ。
そういう判断を積み重ねると、人生を味わえなくなるおそれがある。

08【死ぬこと】

ちょっと毛色が違う話だけれど、「死」についても少し触れておきたい。
僕は死ぬのが嫌だ。
その理由は何かな、と考えているけれど、この文章の最初の方で書いた「世界を肯定的なものとして捉えること」と深い関係があるのではないかと思う。
世界を肯定的に捉えているからこそ、死んで、それを失うことが嫌だ、ということだ。
はっきりとは言えないけれど、もし、この世界が嫌で仕方なかったら、死んでもいいと思ったのではないだろうか。(少なくとも、嫌な度合いが減ったのではないかと思う。)
つまりは、死ぬのが嫌だというのは、この世界が好きだということにとても近い。僕が大好きなこの世界に生きているということをしっかり捉えられなければ、死ぬということもしっかり捉えられないと思っている。
考えるべきは、死ではなく、生きるということ自体だ、という訳だ。だから、僕は、大好きなこの世界に生きていることの意味を考える。この世界のために、どうやって生きるべきかということをよく考える。
それが、僕にとっての一番大きな心の中の声だと思っている。そしてその声に従って生きていきたいと思っている。そして、父親としては、君にも、大好きなこの(君の)世界のために、生きて欲しいと思っている。

09【死後のこと】

僕は死ぬのが嫌だけど、輪廻はあると思っている。
当然、僕には前世の記憶はないので、証拠はないけれど、逆に、輪廻がないという証拠もない。そういう話とは別に、こうも思う。
死ぬときの別れと似た別れというのは、毎日、いや一瞬ごとに繰り返しているのではないか。
死んだら、サツキに会うことはできないし、ソファーに会うこともできない。
それと同じように、生きていても、もう、11歳のサツキには会うことはできないし、昨日のソファーにも会うことはできない。
一瞬前のパソコンには、もう会えない。
時間の流れというのは、そういう、死に似たところがある。
過去というのは、まるで、死ぬことみたいだ。だけど、その代わりに、12歳のサツキには会えているし、今日のソファーにも会えている。
目の前には午前2時4分のパソコンがある。(遅いからもう寝よう。)
時間の流れの話でいうと、一瞬ごとに死んで色々なものと別れている代わりに、一瞬ごとに生まれ変わって新たに出会っているという感じだろうか。そういうふうにして、時は流れても、僕の大好きな世界は続いていて、僕は生きている。それなのに死んだ時だけ、次の出会いがないなんていうことにどうしてなるのだろうと思う。
もし、死後の世界があるのが不確かなら、それと同じくらい、1瞬後の世界があることも不確かなのではないかと思う。
(1瞬後に、神様がサツキのことも、ソファーのことも、パソコンのことも、僕のことも、全て消してしまっても、おかしくはない。)死んだらそこでお終い、という世界は、目に見える現実しか考慮しない、自然科学が見せる幻なのではないかと思う。
時間とは何か、というのは哲学上の大問題で全く答えなんて出ていない。
少なくとも、そんななかで、死のことばかりを取り上げて怖がる必要はないと思う。
せいぜい、わからなくて気持ち悪いなあ、と思うくらいがいいのではないかと思う。

10【注意事項:哲学のこと】

ここに書いたことは、多くが、哲学に近いことをテーマにしている。
僕としては、哲学に近づきすぎないように気をつけたつもりだけれど、哲学臭が強かったらすみません。
だけど、僕にとって大切なことは、ほとんどが哲学に近いところにあるので、どうしようもないところもある。哲学が好きな僕から注意事項がひとつある。
哲学は必要な人にとっては必要だけれど、必要がない人にとっては全く必要がないということだ。ただ、経験上、若い頃は、比較的多くの人が、哲学的なものが必要になることがある。
それでも、哲学までは必要なくて、哲学風の何かで足りる場合がほとんどだ。
その「哲学風の何か」の線をねらって、この文章を書いた。
哲学が必要ない人にとって、哲学的なことで悩むのは時間の無駄だから、この文章で足りるなら、これで時間を節約して欲しいと思う。

11【あとがき】

これまで、色々なことを書いてきた。
そこには共通していることがひとつある。
それは、「ひとつのことだけに囚われすぎない」ということだ。
この文章の根底にあるものとして、つまり、僕の考えの根底にあるものとして、「すべてのことは相対的で、絶対に正しいことなんてない。だからひとつのことだけに囚われるなんてよくない。」という考えがある。
心の中か外かとか、自由かどうかとか、やるべきことかどうかとか、今か未来かとか、輪廻はあるかどうか、とか、そういうものをひとつに決めつけちゃうのはおかしい、ということだ。しかし、ここで、とても重要な注意点がある。
それは「ひとつのことだけに囚われすぎないこと」にも囚われすぎてはいけないということだ。
いつも、全てを相対的に捉え、批評家のように、外から観察して人生を生きることはできない。
どっぷりと人生という現実にのめり込んで、喜んだり、悲しんだりすることが必要な時もある。
(というか、そういう時がほとんどだろう。)
そういうときに、これまで書いてきたようなことは何も役に立たない。
何故なら、人生というひとつのものに囚われて生きていくのが人生だからだ。
そして、現実にどっぷりと浸かって味わって生きていくのが人生というもののあるべき姿だと思う。
そこで、あまり頭でっかちになって、人生を味わえなかったら、なんだかもったいないとも思う。
(僕とっては、「現実にどっぷりと浸かって味わって生きていく」とはどういうことかと哲学的に考えることが人生の味わい方なのだけれど、ここらへんになると個人のマニアックな趣味になるので、説明はやめておく。)僕としては、何か必要なタイミングがあったら、ここに書いたことを思い出して欲しいとも思うけれど、必要がなければ、ここに書いたことなんて忘れてしまったほうがいいし、もし、必要だったとしても、四六時中ここに書いたようなことに囚われて生きるくらいなら忘れてしまったほうがいいと思う。ということで、ここまで読まされてそれはないだろ、と思ったかもしれないけれど、これは忘れてもいい(ある意味)全く無駄な文章でした。すみません。

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