読書会における村上春樹問題

ノルウェイの森の読書会に出たので備忘録。皆さんの話を聞いて思ったこと。

村上春樹の文章は、読者が自分なりの読み方で読み進めやすく、読者が自分の思いを投影しやすいようにできている。
だから多くの人が、彼の文章は自分の思いをうまく表してくれていると感じることができる。
それは、とても柔軟性がある繊維で織られた服に似ている。オーダーメイドではないのに体にフィットする生地に包み込まれる心地よさに似た快感がある。

ある人が言っていたけれど、それが癒やしなのかもしれない。
村上春樹に限らず、小説の文章は、読者一人ひとりをそれぞれ自分の世界の中に包み込んでくれる。そこでは、読者はただ一人、世間から隔絶されて小説の世界の住人となる。つまり小説はその読者の小宇宙となる。そのことこそが癒やしなのではないか。その感覚を、学校を早退して帰る時のバスの中のようだと例えていた人もいた(と僕は理解した)が、僕はその癒やしの感覚を一人旅に例えたい。
本来居るべきではないけれど、どこか懐かしいところにただ一人いる感覚。安心感と違和感、または充実感と喪失感。これらは旅によく似ていると思うのだ。
小説には、登場人物であるワタナベや直子や緑やレイコたちと一緒に僕一人だけが特別にそこに居ることが許されていることの安心感と違和感がある。これは異国の街角で感じる、誰も僕のことを知らないなか、僕だけがそこにいるという安心感と違和感に似ている。そして小説という満ち足りた完全な小宇宙にいることの充実感と、小説を読み終わることによる喪失の予感は、旅の充実感と旅の終わりの喪失感に似ている。
旅に似ているかどうかはともかくとして、これこそが癒やしであり、読書の愉しみの大きな部分を構成していると思う。
読書のこの愉しみを味わいやすくする「何か」があるというのが、村上春樹の文章の特徴なのかもしれない。

その「何か」については断言はできないが、読書会の場でも言ったように、価値の中立性によるところが大きいと思う。価値観の押し付けのようなものがないから、読者は自分の思いを文章に投影し、読書に没入し、読書の愉悦を感じやすくなる。当然それだけではないだろう。文章のリズム感や東京という設定の身近かさも貢献しているだろう。そのあたりの話については、多分、既に膨大な村上春樹ファンの分析があるだろうから、そちらに譲ることにする。

僕がここで着目したいのは、村上春樹の文章の価値中立性という特徴と、そのことがもたらす、読者一人ひとりをその人だけの小宇宙に誘うという読書の愉悦効果だ。
このことにより、村上春樹の読書会での対話は、特有の困難につきあたる。
村上春樹以外の通常の作家の文章ならば、そこには価値観についての何らかの主張が含まれているから、その主張が錨の役割を果たして読者同士を近くにつなぎとめてくれる。その価値観に賛成であれ反対であれ、読者はそこに着目せざるを得なくなる。
しかし、村上春樹の文章は価値的な主張がないため、読者の読み方の自由度が高まり、読者同士の距離が広がり、ついには相互理解を困難にする。
ここに読書会における村上春樹問題が生じると思うのだ。

まとめると村上春樹の読書会は、彼の文章の魅力ゆえに盛り上がるけど、一方で、その魅力ゆえに深まりにくいのかもなあ、というのが感想でした。だけど、このようなメタ考察もできるというのが、村上春樹の読書会の別の面白さかもしれません。

 

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