月別アーカイブ: 2018年3月

サイトの移行は多分終了!

以前の「ジェイミーの哲学書庫」から多分移行終了。
結構色々書いてるなあ。疲れた。
2012年くらいから、6年くらいこんなことやってるんだなあ。
娘が中学に入るくらいから始めて4月から大学生か。
その後、初期の胃がんが判明したり、哲学カフェを始めたり、色々あったなあ。
けど、震災が終わってからなんだと思うと、それほど昔ではない気もする。

移行作業をしながら斜め読みをしたけど、うーん、ひどい文章だ。
自分で言うのもなんだけど、とってもいいアイディアなのに読んでも意味不明。説明不足。
いつか、と言ってもそんなに遠い将来ではない「いつか」きちんと書き直して出版したい!

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 7 まとめ

7 まとめ
7-1 ベタの神の勝利
ここまで私は、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という私の問題について、私なりの答えを模索してきた。
まず第4章において、様々な<中間>の根本に、「(充満した時間推移としての)現実」と「言語」の<中間>があることを確認した。
そして、第5章において、過去と未来の<中間>について考えるなかで、「現実」と「言語」それぞれの時間軸を発見し、その間での視点移動という言語の働きを見出した。
第6章においては、特に現在に着目し、その複雑さの原因は、二つの時間軸の絡み合いがまさに現在において発生しているからであることを確認した。
このように考察を進めることにより、現実と時間の絡み合いについて、「現実と言語という二つの時間軸における現実と言語の拮抗」というところにまで明らかにすることができた。

7-2 この文章の成果
この文章で主として行なったのは、いわば、時間を言語的な操作として捉え、現実についての「ある」の議論なかに時間についての「なる」の議論を埋め込むという作業だ。
そのような意味で、この文章は、「ある、なる」においては、数行で書かれていることについての考察だったのかもしれない。
「交錯配列の後半「なるようにある」も、時間(なる)と現実存在(ある)の絡み合いである。しかしこんどは、「なる」が「ある」の内へと入り込んで来る。つまり、「なる」という仕方で「ある」ということ、時間推移が生じるという仕方で現実が成立していることを、「なるようにある」は告げている。」(p.199)という部分だ。
「ある、なる」では、非常に雑駁に言うならば「時間原理Ⅰにより、現実が無時間的に存在する。時間原理Ⅱにより、現実が今という特異点で瞬間的に存在する。その中間に現実と時間はある。」というようなかたちで、主に時間に現実を埋め込む作業と行っていたと言ってもいいだろう。
私が目指したのは、「ある、なる」の議論を自分の問題に引き寄せ、より、ある、なるの交錯配列を明確に示すことだった。そして、その作業をある程度行うことができたと思う。

7-3 この文章の問題
しかし振り返ってみると、「ある、なる」では私がしたような議論がなされていないということこそが重要だという思いが湧き上がってくる。
私の議論は、本来、議論の末に垣間見ることができる、言語と現実の拮抗を、所与のものとして扱うことで成り立っている、いわば、逆立ちした議論だ。
いわば、私の議論は、スカの神が優勢な物語だとも言える。現実と時間について、このように言語化し、分節化した描写ができたのは、この文章においては、言語、つまり、スカの神が優勢だったからだ。しかし、最後には、ベタの神が優勢になって、物語は終わらなければならないはずだ。そうでなければ、この文章が、ベタの現実にあるということから離れていってしまう。
特に、この文章が、時間推移の問題について何ら解決できていないことは大きな問題だろう。そのことも多分、この逆立ちした議論の進め方に問題がある。
先ほど紹介した「なるようにある」の交錯配列の文は「それは、時間的な推移生成が、なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」(p.199)と続く。
私の「なるようにある」という一面的な考察では、時間推移という問題に対しては驚くしかないのだ。

7-4 「ある、なる」の魅力
だからこそ、「ある、なる」は、私がしたような議論をしなかった、ということにこそ真髄があり、魅力がある。
「言語」「現実」といった概念を所与のものとし、大上段から運命を切り分けるのではなく、現実Aというあたり前の描写から、排中律、様相、時間原理Ⅰ、時間原理Ⅱ、マスターアーギュメント、オズモの生涯といった色々な道具を使い、精緻かつ着実に運命の奥深くに分け入っていく。「ある、なる」で強調しているように、「言語」「現実」といった概念を使いつつも、ずらしていく。(この文章で、私は「ある、なる」の操作を「純化」としたが、純化などできないということこそが重要とも言える。)そのような過程を経るからこそ、そこに見出された、現実と言語の拮抗を、重層的な<中間>として捉えることができる。
そして、「ある、なる」は、第25章、エピローグへと進み、私がここで行った議論を振りきっていく。そこでは、現実と言語との拮抗が、神と人間との拮抗といった新たな次元に踏み入れ、別の色合いを帯びていく。その次元に達するためには、私が行なったような逆立ちした議論では足りず、丁寧な議論の積み上げが必要だ。
私は、この文章を通してやろうとしてできなかったからわかるが、これが、「ある、なる」の魅力だ。

更に「ある、なる」には、もう一つの魅力がある。先ほど引用した文章でも「なぜか(無いのではなくて)現に「ある」ということへの驚きの表現でもある。」としているところに、その魅力が現れている。入不二は、一歩ずつ知的探検を進め、そこから広がってくる景色に驚きを感じ、喜びを感じているようにさえ思える。私ならば、行く手を遮る障害物としか思えないような哲学的な問題を「驚き」と捉える、この屈託の無さも「ある、なる」の魅力だと思う。そして、この屈託の無さは、第25章、エピローグに向けて全開になっていく。
「ある、なる」の二つの魅力、つまり屈託の無さと精緻な議論の積み上げとは、無関係ではないと思う。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 6 複雑な現在

6 複雑な現在
6-1 二つの現在
それでは、いよいよ最後まで後回しにしていた問題、つまり現在について考えてみたい。

「ある、なる」において、現在は様々な描写がされている。
まず、「瞬間としての現在」が提示され、そこからオズモの物語を使って「無時間的な現在」「推移する現在」「特異点としての現在」(p.248)が展開される。そして、「「現に」という現実性は非時間的であって、時間の一部分ではない。」(p.253)ということから、現実と時間の<中間>の一場面として、「永遠の現在(全一的な現実)」(p.254)が追加される。
さて、この5つの現在を、どのように扱ったらいいだろう。これらの現在を、現実と言語の<中間>という道具立てで整理することは可能なのだろうか。

まずは、「ある、なる」の議論ではなく、この私の文章に沿って考えてみよう。
先ほどは、過去と未来という時制について述べてきたが、その二つの時制の接点として現在があるとすることには異論はないだろう。
また、先ほど、時間軸は、現実の時間軸と、言語の時間軸の二つがあるとしたのだから、接点としての現在が二つ現れるということも異論はないはずだ。現実の現在と言語の現在というように。

それでは、現実の時間軸における現実の現在とは何を指すのだろうか。
これまでの議論に即するなら、現実の現在とは、純粋にスカな無としての未来から、純粋にベタな現実としての過去が生まれる瞬間だと言っていいだろう。出来事が生じる瞬間と言ってもよい。
(なお、「生まれる」「生じる」という表現は不正確であり、何か生まれる元となるものがあるようなイメージから逃れられていない。しかし、他にマシな表現がないのでご容赦いただきたい。)
一方で、言語の時間軸における言語の現在が何を指すのかと言えば、言語の現在とは、既に発話された過去と、未だ発話されていない未来の間にある瞬間のことだと言えるだろう。つまりは、発話する瞬間と言ってもよい。

6-2 二つの現在のずれ
そして、重要なのは、現実の現在と言語の現在、つまり、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間という二つの瞬間は重ならないということだ。
「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間は重ならない。
流れ星が流れてから「流れ星が流れた」と発話するから、必ず、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続する。
なお、これは、「流れ星が流れる」という瞬間的な出来事でなく、「ネコがいる」というような持続的な出来事でも同じである。「ネコがいる」という出来事があってから、「ネコがいる」という発話がある。
ただし、その原因は、ネコを目で認識してから脳で処理するのに神経伝達の時間がかかるというようなことにあるのではない。
そうではなく、「現実について言語で語る」という基本的な構造があるからだ。
それは、ネコがいるという出来事を「ネコがいる」と表すなら、ネコがいると発話することを「「ネコがいる」と言う」と、より冗長なかたちで表現せざるを得ないということに現れている。「と言う」という表現の分だけ、出来事が生じる瞬間が先行し、発話する瞬間は後続せざるを得ない。

6-3 過去・未来との接続
更には、この二つの現在は、現実としての過去と、言語としての未来と、それぞれ結びつく。
「流れ星が流れた」現在は、現に「流れ星が流れた」という現実性が付与されている。
その意味で、出来事が生じる瞬間としての現在は、現実である過去と見分けがつかない。
あくまで、現在は、「今」であり、一方、過去は「昨日」であったりするが、その違いは、「昨日」と「一昨日」のような、過去同士の違いと見分けがつかない。
「現在は、現に、この目で、今、見えているんだよ。」などと主張したくなるかもしれないが、それは、あくまで言語による主張であり、出来事が生じる瞬間としての現在には届かず、発話する瞬間としての現在にしか届かない。
(主張以前の「現在は、現に、この目で、今、見えている」という認識自体は、出来事が生じる瞬間としての現在に届くと言いたいかもしれないが、後ほど、そのような認識も発話と同様に扱うべきと整理する予定なので、できないものとして読んでいただきたい。)
これは、純化された想起阻却過去は、過去であるという描写さえ失っているのだから、純化され、現在であるという描写を失った現在と見分けがつかないということでもある。

一方、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在である時点では、「流れ星が流れた」と発話する瞬間は、未だ現在ではない。つまり未来である。
発話する瞬間が未来であるとはどういうことかというと、未だ発話されず、現実性が付与されていないから、「流れ星が流れた」と発話することも、「流れ星が流れなかった」と発話をすることもできるということだ。これが、未来の空白であり、排中律の空白であり、現在の空白でもある。(ここで、やっと現在の空白が登場し、この文章の冒頭のスカの神の三つの側面が揃ったことになる。)
「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在の空白とは、つまりは、出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指している。現在の空白とは、未来の空白のことだったのだ。

このように、出来事が生じた現在と現実としての過去を結びつけ、発話する現在と言語としての未来を結びつけるようにして、二つの現在と、過去と未来を整合的に捉えることができる。

6-4 二つの現在を見渡す
ただ、違和感があるだろう。この二つの時間軸にある二つの現在を見渡しているのは、どの視点からなのだろうか。まるで、現実の時間軸にある「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間と、言語の時間軸にある「流れ星が流れた」と発話した瞬間を一つの時間軸に置き直し、順序よく並べたかのようだ。これらは一つの時間軸上にないということこそがポイントだったはずなのに。
しかし、このことは、やむを得ないとも言える。
どういうことか、引き続き流れ星の例を用いて考えてみよう。
常識的に考えれば、「流れ星が流れた」という出来事が生じた瞬間が現在であった時点は過ぎ去り、いずれ、「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在である時点が訪れるはずだ。
当然そうなのだが、そうではないという言い方もできるということが、二つの時間軸のズレの話であり、そこから生じる、出来事が生じる現在と発話する現在のズレの話だったはずだ。
そのような捉え方をするならば次のような言い方もできるだろう。
「流れ星が流れた」と発話した瞬間が現在となる瞬間など来ない。あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間自体はどこまでも現在にならない。発話したということが、流れ星が流れたこととは別の出来事として捉えられてこそ、現在になる。それならば、発話したということは、流れ星が流れたことと独立した別の出来事とさえ言える。というように。
しかし、ここで話が終わらないというところに、それでも「流れ星が流れた」瞬間と「流れ星が流れた」と発話した瞬間とを唯一の視点から見渡し、一つの時間軸上に並べられているかのように捉えてしまうというやむを得なさがある。
それは、「発話したということが流れ星が流れたこととは別の出来事」としたことに現れている。別の出来事だと違いをいくら強調しても、出来事であるという共通点からは逃れられない。同種の出来事として並べて俯瞰的に捉える視点からは逃れられない。これは、現実と言語の<中間>の一例であり、このやむを得なさからは逃れることはできない。
なぜなら、「流れ星が流れた」と発話することも、現実の出来事であることからは逃れられず、「流れ星が流れた」という出来事も言語で言い表さなければ文章で表現することができない、ということにまで、現実と言語の<中間>は及んでいるのだから。

6-5 二つの時間軸の図示的な比喩
二つの時間軸の<中間>的なあり方は、どこまでも<中間>的であらざるをえないから、「ある、なる」における様相についての考察が様々な<中間>的な局面を示したように、時間軸のあり方も、様々な<中間>的な局面を見せる。
よって、この二つの時間軸については、様々な<中間>的な説明ができる。例えば、次のように図示することもできる。
まず、現実の時間軸についてだが、現実性は過去と現在に付与されるが、純粋な未来には付与できないのだから、「現実の時間軸には、過去と現在しかなく、未来はない。」と言うことができる。そこで、現実の時間軸は、現在から始まり過去に向かう半直線として描くことができる。この半直線は、因果の充満についての話のなかで出てきた、大きな流れのイメージと重なる。現在を源流とする大河だ。
一方、言語の時間軸は、「未来しかなく、現在と過去はない。」と言うことができる。そこで、現在に最も接近した未来を始点とし、未来に向けた半直線を描くことで、言語の時間軸を表現したくなる。しかし、そうはならない。
なぜなら、純粋な過去には、昨日や一昨日といった時点が含まれているが、純粋な未来には、明日や明後日といった時点は含まれていないからだ。
純粋な過去とは、想起阻却過去であり、絶対現実である。「ある、なる」では、その無内包が強調されていたが、私は、因果の充満についての議論が示したように、そこに充満を見るべきだと考えている。それならば、充満した過去のなかには、昨日や一昨日が含まれているはずだ。ただ、充満しているから、明示することができないに過ぎない。そのような意味で、現在と過去を含む現実の時間軸は、昨日、一昨日といった無限の点で充満した線として表すことが適当だろう。
一方、言語の時間軸にある未来は、充満しておらず、無である。無なのだから、そこに、明日や明後日といった時点を含めることはできない。
だから、言語の時間軸を、点で充満した直線という比喩で表現することは適当でない。あえて書くなら、何も含まれていないということを意味する白丸だろう。書き入れる場所としては、現在の空白であり未来の空白であるということを意味するために、現実の時間軸として書き入れた半直線の現在の側の端に接するように、白丸を書き添えるようなかたちだろうか。
「過去--------現在
○未来」 というように。
しかし、この図は、間違いだらけでもある。まず、未来は無なのだから、未来について何かを書くということがすでに誤りだ。また、この捉え方は「ある、なる」の言い方をするなら、時間原理Ⅰに基づく「現実の未来」(p.194)を捉えることができていない。現実の未来を書き入れるならば、未来に向けて直線が続いていなければならないはずだ。などなど、色々な問題があるだろう。
ここで例示した二つの指摘は、それぞれ矛盾しているが、それでも、それぞれの指摘は一面的には成立しなければならない。つまり、これらは<中間>的な指摘だ。どうしても<中間>的な問題を抱えた<中間>的な比喩にならざるをえない。ここに、図示による<中間>的な比喩の限界がある。

6-6 「ある、なる」の現在との関係
6-6-1 5つの現在
このようにして、私の議論の流れに乗って、現在についての考察を深めてきた。
それでは、「ある、なる」の5つの現在について、この考察とどのようにつなげることができるか考えてみよう。
5つの現在とは、「瞬間としての現在」「推移する現在」「無時間的な現在」「特異点としての現在」
「永遠の現在(全一的な現実)」であった。

まず、「瞬間としての現在」だが、これは、「流れ星が流れた」という出来事が生じた現在と「流れ星が流れた」と発話した現在との両方を含んだ、未分化な現在のことを指すとしてよいだろう。
「瞬間としての現在」とは、「海戦」の議論で明らかとなった「排中律と共に残る「現在(今)」」であり、「肯定・否定を留保するための仮想的な緩衝地帯(空白)」(p.237)のことである。
これは、先ほど「出来事が生じた瞬間が現在である時点では、発話する瞬間は未来であるということを指しており」としたのと同じことである。
「流れ星が流れた」という出来事が生じたが、まだ、そのように発話していない時点を「瞬間としての現在」と捉えるからこそ、そこに、「流れ星が流れた」と発話するか、「流れ星が流れていない」と発話をするかの宙吊りの空白を見ることができ、排中律を立ち上げることができるということである。
また、いずれ、「流れ星が流れた」または「流れ星が流れていない」と発話してしまうことになる、ということも込みで現在として捉えられているので、「瞬間としての現在」は、あくまで「仮想的な」空白なのである。流れ星が流れる。その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる。細分化するなら、そのような一連の流れを含んだものが瞬間としての現在だ。

次に、「推移する現在」だが、これは、「流れ星が流れ、その時点では、そのようにまだ発話されていないが、結局は発話してしまう時点が訪れる」という一連の流れに意識的になることだと言える。
出来事が生じる時点と発話する時点という二つの時点の間の推移に意識的になったうえで、「瞬間としての現在」を捉えるということだ。
なお、推移を現在という観点から捉えることは、推移は現在においてしか生じない、という私の実感と一致する。現在において次々と出来事が生じ、過去として堆積していくというかたちで推移はあり、一旦、完全に過去となった出来事は、より過去に推移するということはないという実感である。
1年前の出来事が、やがては2年前の出来事になるのは、1年前の出来事がより過去に推移し、古くなるからではなく、現在が推移し、相対的に、より遠い過去になるからだ。そのようなイメージと、現在においてのみ推移があるという捉え方は整合する。

一方、「無時間的な現在」とは、出来事が生じる時点と発話する時点をそれぞれ独立のものとして捉え、「流れ星が流れた」と「流れ星が流れたと発話した」という独立の二つの対等な出来事として捉えるということである。「推移する現在」においては、出来事が生じる時点と発話する時点との間の推移という関係を強調していたが、「無時間的な現在」においてはその独立性を強調する。そのような意味で、「推移する現在」と「無時間的な現在」は対になっていると言える。

そして、「推移する現在」という捉え方と、「無時間的な現在」という捉え方に意識的になったうえで、その二つの捉え方が、「今」という特権的な時においては重なるということが、「特異点としての現在」である。これは、先ほどの、出来事が生じる瞬間と発話する瞬間とを見渡す視点に立つということである。

このように、「ある、なる」の「現在」についての考察は、出来事が生じた時点と、そう発話する時点という二つの時点を、未分化に「瞬間としての現在」として捉えていたところから出発し、そこから、二つの時点の推移という関係性(「推移する現在」)と捉える道と、二つの時点の独立(「無時間的な現在」)と捉える道に分岐し、再び「特異点としての現在」として合流する、という経路をたどったものだと整理することができる。

ここで、出来事が生じた瞬間は現実としての過去と結びつき、発話した瞬間は言語としての未来に結びついているということを思い出してほしい。
そうだとするなら、これら二つの瞬間を意識的に含んだものとして表現されている「特異点としての現在」は、意識的に過去と未来と結びついていなければならない。
現在が過去と未来に結びつくということは、要は、全てであり、永遠である。
これが、「全一的な現実」ということであり、「永遠の現在」ということである。

雑駁ではあるが、このようなかたちで、私の議論における「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの現在は、「ある、なる」の5つの現在と結びつく。

6-6-2 文章で表現することの限界
ただし、現在をこの文章で表現するのには限界があるということに、留意しなければならない。
限界とは、オズモの物語において「座って、図書館の向かいの喫茶店で本を読んでいて、(・・・)すっかり忘れている。」(p.260)というあの箇所として「特異点としての現在」を表現することの、「物語という限界」(p.261)のことである。
この限界は、この文章自体が発話であり、先ほどの「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在と、「流れ星が流れた」と発話する現在のずれが、この文章自体にも及んでいるということを示している。
「あくまで、現在となるのは、「流れ星が流れた」と発話した「という出来事が生じた」瞬間だ。発話した瞬間はどこまでも現在にならず、その発話が別の出来事として捉えられてこそ、現在になるのだ。」と述べたとおり、発話はどこまでも出来事とは別の出来事であり、どこまでも発話は出来事に追いつけない。そういう側面がある。この文章での「「流れ星が流れた」という出来事が生じる現在」という記述さえ、その出来事自体にはたどりつけてはいない。これが「物語という限界」である。
この「物語という限界」は、「推移する現在」という捉え方に根源があるとも言える。「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで関係づけるという飛躍があるからこそ、出来事を物語ることが可能となり、また、その物語の限界が明らかとなる。
「流れ星が流れた」ので「流れ星が流れたと発話した」というかたちでの推移を認めることが、この文章という物語を立ち上げ、また、物語という限界も立ち上げる。
多分、この推移という問題は、この文章で述べようとしたことのなかでは、最も難しい問題だ。
だから、推移についてより正確に指し示すためには、私は、因果の充満についての議論において言及した、大河の流れというイメージに頼ることしか思いつかない。

6-7 認識・想起・発話
この文章では、特にその理由を説明することなく、過去の想起、現在の認識を全て発話に含めて扱ってきた。
そのように扱ってきたからこそ、全てを現実と言語の拮抗として捉え、そして、現在を「出来事が生じる現在」と「発話する現在」に捉えることができた。
だから、最後に、本当に、過去の想起、現在の認識を発話として位置づけることができるのかという問題に答えなければならない。
過去の想起とは、例えば「流れ星が流れた」と思い出すことだ。また、現在の認識とは、例えば「流れ星が流れた」と目で見て認識するということだ。
これらは、これまでの私の議論に沿えば、「「流れ星が流れた」と思い出す」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と思い出す」と発話したということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」という出来事が生じたということであり、「「流れ星が流れた」と目で見て認識する」と発話するということである。そして、そうでしかない。だから、想起も認識も出来事であるか、発話であるかのいずれかだということになる。
しかし、想起する、(目で見て)認識する、ということには、それだけには留まらないものがある。想起、認識には、現に想起し、現に認識しているという現実性がある。「現に」という副詞の付加としては回収できない、現実との接続がそこにはある。
「流れ星が流れた」という事実としての描写と、「流れ星が流れたところを見たのを思い出した」という認識や想起を込めた描写は同じではない。後者の描写は一段階、現実に迫っている。
しかし、この「一段階」のずれについて、この文章で、これ以上迫ることはできない。
なぜなら、このずれについて述べようとする試みは、先ほどの「推移する現在」から生じる「物語という限界」に突き当たるからだ。
「出来事が生じる現在」と「発話する現在」という二つの時点を推移というかたちで繋げるという飛躍こそが、現実性の付与であり、想起であり、認識なのではないだろうか、ということだ。
そのような意味で、過去の想起や現在の認識は、発話とは全く異なるはずだが、発話に含めざるを得ない「物語という限界」がある。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 5 言語による時間操作

5 言語による時間操作
5-1 三つの時制の問題
ここまでの検討により、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」という問いについては、「現実と時間推移を結びつけ、また、言語と時制区分を結びつけることができ、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>があるという図式がある。」と、とりあえずの結論が出た。
しかし、先送りした問題が二つある。
ひとつが、予告したとおり、「現在」における<中間>の複雑さという問題である。
もうひとつは、明記しなかったが、「未来」「過去」「現在」という三つの時制相互の関係における<中間>についての問題だ。
これまでの検討では、突き詰めると、全てを現実と言語の<中間>として捉えることができた。それならば、「ある、なる」では明示していないが、未来、過去、現在という三つの時制相互の関係性についても同様に<中間>として捉えられるのではないか。そのような問題意識である。(「ある、なる」においては、未来、過去、現在というそれぞれの時制内部での<中間>や、過去、未来、現在を時制区分としてまとめて捉えたうえでの、時制区分そのものについての<中間>については述べているが、時制区分相互の関係性については述べていない。)
整理すると、「未来、過去、現在という時制区分相互というレベルにおいて現実と言語の<中間>という捉え方は可能か。可能ならば、それは、どのようなものか。」これが、この章で検討したい問題である。そして、予告するならば、この検討を通じて、「現在」における<中間>の複雑さというもうひとつの問題もあわせて解決できると考えている。

しかし、この検討については、ひと目で一筋縄ではいかないように思える。
現実と言語という二つの観点から、三つもある時制の関係性について、整理することができるのだろうか。
まずは、二つの組み合わせで考えたほうがいいだろう。
そこで、まずは、先ほど、現実と言語の様々な<中間>をたどる議論のなかで、未来においては、現実より言語が優勢であり、過去においては、言語より現実が優勢であると整理したことを手がかりに、言語と未来を、現実と過去を、それぞれ結びつけ、そこに対立構造を見出すところから検討をはじめたい。

5-2 過去を未来に渡す
過去・現実と未来・言語の関係については、冒頭のベタの神とスカの神の拮抗という捉え方と結びつけることもできる。過去・現実は、いずれもベタの神の領域にあり、未来・排中律は、いずれもスカの神の領域にあるとした話だ。
(その際、現在もスカの神の領域にあるとしたが、ここでも、現在については先送りする。現在は、かなりやっかいな問題なのだ。)
このような観点から、過去、未来について、捉え直してみよう。

5-2-1 過去を語る
過去について、「ある、なる」の純化の作業を逆にたどるかたちで整理してみる。
純化した過去とは、「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去であり、絶対現実のことだった。
純粋だからこそ名前をつけることもできない想起阻却過去に数値・名前を与えることで、想起阻却過去は想起過去と想起逸脱過去へと変質し、そこに、「内破と内閉」という拮抗が生まれる。
しかし、想起過去と想起逸脱過去は全くの対等ではない。
想起過去は、現に具体的な内容をもって想起されているが、想起逸脱過去は、現にそのようには想起されていないという違いがある。もし想起逸脱過去を具体的な内容をもって想起してしまったら、それは想起過去か反実仮想になってしまう。
だから、想起過去と想起逸脱過去の関係では、どこまでも想起過去が優位である。
これが、純粋な過去が内容のある過去Aに転落していく過程だ。

過去に含まれている「想起」という側面を捨象するなら、これは、「ある」の議論において行った、現実Aに、排中律というろ過装置を設置し、言語と現実とに純化していく作業とちょうど逆の作業と言ってよい。(「想起」については後ほど考える。)
確認のため、この話を、「ある」の排中律の議論に引き寄せて繰り返してみよう。
するとこうなる。
「名無しの過去」(p.212)である「ただ痛かった」という想起阻却過去は、排中律により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)、または「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった過去」という想起逸脱過去(非過去A:過去Aの否定)のいずれかである。こういう捉え方ができる。
これは、絶対現実としての想起阻却過去に、排中律により空白が呼び込まれ、過去は想起過去または想起逸脱過去、つまり、過去Aまたは非過去Aのいずれかという二つ性を有するものとして捉えられるということだ。
そして、更に、現に想起されているという現実性の付与により、「痛かったと想起される過去」という想起過去(過去A)が想起逸脱過去(非過去A)に優位することになる。
これは、現に想起しているという副詞的な現実性の付与により、過去は現にある過去Aという一つ性を有するものとして捉えられるということでもある。
このようにして、想起阻却過去は排中律と絡み合い、過去Aという具体的内容を持つ過去に転落する。これが、「過去を語る」という作業に相当する。

もう少し、どういうことか、例を用いながら説明しよう。
今日、11月15日にとっての過去、例えば11月14日は、まだ何も言及されていない過去、想起阻却過去だ。(厳密には、11月14日だったということは既に言及され、11月14日だったという内容を持っているが、喩え話なので目をつぶってもらいたい。)
ここで、私が今日、11月15日に「11月14日は雨だった。」と想起し、語る。そうすると、その過去は想起過去となる。そして、そう語るということは、同時に、そうでなかった可能性も立ち上げることになる。「11月14日は雨ではなかったということもありうる。」というように。なぜなら、それが排中律の働きであり、排中律の空白を利用するということだからだ。このようにして生じるのが想起逸脱過去だ。
しかし、私は、現に、「11月14日は雨だった。」と想起しているのだから、想起逸脱過去より想起過去が優位し、それが、「11月14日は雨だった。」という内容のある過去、過去Aとなる。
これが、「過去を語る」ということである。
このようにして、「ある、なる」の語り方を逆転し、「なる」の過去についての議論と、「ある」の排中律の議論を接続することで、過去について、「過去を語る」という側面から述べることもできる。

5-2-2 「雨だった」と「痛かった」の違い
なお、この11月14日の雨の例は、「ある、なる」の例とは違う。
「ある、なる」では、想起過去の例は、「痛かったと想起される」であり、想起逸脱過去の例は、「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった」であった。
しかし、この例と、私の例とでは、全く違うように思えるが、実は同じことを指している。
「痛かったと想起される」とは、何か特定の痛みがあったということを意味する。例えば、「足の小指がちぎれるように痛かった(と想起される)」というような。多分、角に足の小指をぶつけたのだろう。
とすると、想起逸脱過去は、その特定の痛みではない別の痛みがあったことを意味する。「足の小指がちぎれるように痛かった、とは異なる仕方で痛かった」である。
そして、「ある、なる」の議論によれば、この想起過去と想起逸脱過去の逸脱と回収の反復は、ついに、「痛かった」といった「特定の記述を失い」(p.213)、想起阻却過去に至る。
とするなら、想起阻却過去に至る直前には、「足の小指がちぎれるように痛かった」に対応する想起逸脱過去は、「全く痛くなかった」も含むものとなる。これは、排中律の力をどこまでも開放し、議論領域を越え、「偶数は黒色ではない」を認めるのと同じことである。
そのように考えるならば、「11月14日は雨だった。」に対応する想起逸脱過去は、その否定、つまり「11月14日は雨ではなかった。」だとすることに何ら問題はないだろう。

5-2-3 過去を未来に渡す
このようにして、過去について、「過去を語る」という面から捉え、そこに、想起逸脱過去、絶対現実から過去A、現実Aへの転落との同義性を認めることができた。
更に話を進めると、「過去を語る」ということは、「過去を未来に渡す」ことであると言うこともできる。
どういうことか説明しよう。
「過去を語る」ということは、その過去の特定の内容に注目するということでもある。「過去を語る」ことにより、注目されたその過去、例えば、「11月14日は雨だった。」という過去は、特定の内容を持つものとして確定する。そして、その過去について既に行われた言及は、今後、いつでも使えるものとなる。
先ほどの例で、私は、11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。このように「過去を語る」ことで、私は、将来のある時点、例えば11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことができる。
当然だが、もし、11月15日の発言がなければ、11月16日に「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言った。」と言うことはできない。
これが、「11月14日は雨だった」というように過去を語ることで、この過去についての言及を、未来において使えるようになるということであり、そのような意味で、「過去を語る」ことは「過去を未来に渡す」ことであるという言い方もできる、ということだ。

5-2-4 認識誤りの問題
それでは、この「過去を未来に渡す」に着目することに、どのような意味があるのだろうか。
私は、認識誤りという問題について考察を深めるためには「過去を未来に渡す」という捉え方が必要だ、と言いたい。
ここでの認識誤りの問題とは、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」とか「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」とか「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」とか、そういう哲学的問題だ。私にとってはこれらの問題は重要な問題だ。

認識誤りが発生するメカニズムのかなり深いところに、「過去を未来に渡す」という作業は関わっていると思う。
11月15日の「11月14日は雨だった。」という発言、つまり「過去を未来に渡す」作業がなければ、「11月15日に「11月14日は雨だった。」と言ったけど、実は、それは勘違いで、本当は晴れだった」ということはありえない。「蛇だと思った」という言明をしたからこそ、その言明を未来において使い、「蛇だと思ったら、見間違いで、実はロープだった。」と言うことができる。「崖から落ちた」という言明があったからこそ、「崖から落ちたと思ったら、夢で、本当は教室で寝てた。」と言うことができ、「1+1=2と思っていた」という言明があったからこそ、「1+1=2と思っていたら、実は悪魔にだまされていて、1+1=3だった。」と言うことができる。
これらに共通するのは、ある時点で、それ以前の出来事について発言し、その発言が未来において見直されるということだ。
そのような意味で「過去を未来に渡す」という作業は、認識誤りを発生させるためには必須なのではないだろうか。
(なお、ここでは、現在と過去を分けずに取り扱い、想起、認識、発話といったものをあえて混同しているが、後ほど、それでいい、という議論を行うので、ここでは、そういうものだ、ということでお付き合いいただきたい。)

5-2-5 認識誤りの問題の重要性
私にとって認識誤りは重要な問題なのだが、「ある、なる」の議論との関係でも、その重要性を強調することができる。
まず、「認識誤り」は想起逸脱過去を立ち上げるためには必須だという言い方ができる。
想起逸脱過去とは、「痛かったと想起される」想起過去がまずあり、そこから「そのように想起される痛みとは異なる仕方で痛かった。」というかたちで立ち上がるものだった。
これを、この認識誤りの例で言えば、11月15日の「11月14日は雨だった。(と想起される)」という想起過去があるからこそ、実は、それは認識誤りであり、11月16日の「一旦は、「11月14日は雨だった」と想起されたが、実は、11月14日という過去は、その想起とは異なる「晴だった」という内容で想起されるものだった。」という想起逸脱過去の可能性が立ち上がるということになる。
このように考えると、つまりは、想起逸脱過去とは、将来、認識誤りが生じる可能性があるということ自体を指すとさえ言える。

また、認識誤りは、「ある」の議論においての中心的な概念である、否定、欠如を立ち上げるためにも必須である。
実は違ったという、別の過去の可能性がなければ、過去の否定、過去の欠如について語ることはできない。認識誤りの余地が全くなければ、ただ「11月14日は雨だった。」であり、実は「晴れだった」ということはありえない。
これは、排中律が働かないということであり、排中律を立ち上げるのに必要な空白がないということである。これは結構大きな問題だと思う。
「過去を未来に渡す」とは、「過去を語る」ということの言い換えであり、「過去を語る」とは、過去を言語的に捉えるということなのだから、排中律の話にまで結びつくということは当然と言えば当然なのだが、認識誤りの問題とのつながりという意義を強調するためにも、ここでは「過去を未来に渡す」ことが認識誤りを発生させ、排中律を立ち上げるということを強調しておきたい。

なお、認識誤りの問題は、「世界像の拮抗」(p.284)の問題にも通ずる。
現代人である私たちがが、ライオン狩りの成功のために最後の二日間も踊る酋長に説得する際に期待するのは、逆向き因果を信じていたが、それは認識誤りで、実は順向き因果が正しかった、という心変わりだ。踊りがライオン狩りの成功に因果を及ぼしていると主張する酋長に対して、それは実は認識誤りで、少なくとも最後の二日間の踊りはライオン狩りの成功には無意味だと、気付かせようとして説得する。
これは、蛇がいると騒いでいる人に、それは、実は認識誤りで、ロープだ、と気付かせることと同型だ。
もし、何も言葉を出さず、ただ踊り、ただ騒いでいる人がいたら、その人は何をしているかわからないから、説得することはできない。
説得ができうるのは、その過去に、「この踊りはライオン狩りの成功のためのものだ。」、「蛇がいる。」という発言があるからだ。
その意味で、「世界像の拮抗」の問題にとって、「過去を語る」ということは大きな意味を持つ。
そして、逆向き因果の可能性が否定できないということは、一瞬蛇に見えたそのロープが、やはり実は蛇だった、という可能性は、実はどこまでも否定できないことと類似性がある。(ただし、逆向き因果の話は、少なくとも祈りという別の問題を含むので、イコールではない。)
この、一見確定していると思われる過去について、どこまでも、「認識誤り」であり実は違ったという可能性を立ち上げるということが、「過去を未来に渡す」ということの意味でもある。

(「過去を未来に渡す」には、現に、1+1=2と計算したという過去を、未来に「以下同様」に計算するよう渡すという意味も込めており、「認識誤り」の問題は規則の成立という点でも重要な意味があると思うが、話が長くなりそうなので、この文章では触れない。)

そして、私は、「過去を語る」「過去を未来に渡す」ことについての考察を通じて、スカの神には言語という名と、未来という名があると言いたい。
そして、過去においてあるのは、スカの神による未来化とも言うべき言語的操作を通じて、根本にあるベタの神を透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、過去においては、ベタの神がスカの神に優位する。

5-3 未来を過去に渡す
その逆に、「未来を過去に渡す」という作業もある。
まず、それと同義となる「未来を語る」ということを考えてみよう。
純粋な未来は無であり、純粋な未来に言及することはできず、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの拮抗から透かし見るしかない。
だから「明日、海戦が起こるだろう。」と語ったり、11月16日に、「11月17日は雨だろう。」と語ったりすることは、未来を語っているということであり、本来、言及できないものについて言及しているということだ。
言及できないものをあえて語るということは、純粋な未来から、語られる内容を持った未来Aへ転落するということである。「未来を語る」ことについても、転落はついてまわる。

また、未来には言語という側面もあることから、「未来を語る」とは、「言語を語る」ということでもある。
現実と言語の<中間>、拮抗の一場面に、純粋な現実と、純粋な未来との純粋な対立があるならば、現実と全く切り離された純粋な言語は、「現に」語られていないのだから、そのような言語自体に言及することはできない。
現に言及することができないはずの言語に言及するということは、純粋な言語から言語Aへの転落であるとも言える。

こういった、純粋な未来または純粋な言語を、「現に」既に語られたものとして取り扱うということこそが、「未来を過去に渡す」という作業だ。
「明日、海戦があるだろう。」「11月17日は雨だろう。」というのは、既に語られた、過去の言明だからこそ、「現に」ある、現実の未来についての言明として明示することができる。
この行為は、いわば、空白を受肉するということだと言ってもよいだろう。

ここにあるのは、ベタの神による、過去化とも言うべき受肉的操作を通じて、根本にあるスカの神を、透かし見ようとする構図だ。操作されるものは操作するものに先行するという意味で、未来においては、スカの神がベタの神に優位する。

5-4 二つの時間軸
このようにして、過去を語り、過去を未来に渡す、また、逆に、未来を語り、未来を過去に渡すというかたちで、過去と未来はつながっている。
この接続を可能にしているのは、「ある、なる」の述べ方によれば、時制的な視点移動である。
この時制的な視点移動とは、過去を語り、未来を語るというやりかたで行われており、「語る」とあるように、つまりは、言語的な機能である。
しかし、時制的な視点移動という言語的な機能も、現実と言語の<中間>からは逃れられない。
どういうことかというと、完全な視点移動は不可能であり、どうしてもズレが生じてしまうのだ。
「11月15日は雨だった。」と過去を語っても、その過去自体を未来に渡すことはできない。未来に渡されるのは、「「11月15日は雨だった。」と語った。」ことである。
過去を語ることで行われているのは、現実の過去を言語的に捉え、未来でも言語的に使えるようにするということだ。その意味で、過去を語ることで行われているのは、現実としての過去を言語としての未来に渡すということにならざるを得ない。ここにズレが生じている。

一方、未来を語ることについてもズレが生じている。なぜなら、未来を語るとは、(無としての)現実の未来を、そのことについての既に行われた過去の言及とするということだからだ。これは、現実の未来を言語としての過去に渡すことと言ってもよい。
だから、時制的な視点移動を、一本の数直線上の移動のように捉えてはならない。
いわば、現実の時間軸と、言語時間軸という二つの時間軸があり、二つの時間軸を飛び移るかのように時制的な視点移動は行われるのだ。

5-5 時制的な視点移動の重要性
この、時制的な視点移動という言語的機能は、言語の根本的な機能だと言ってもよいだろう。
なぜなら、時制的な視点移動とは、つまりは、「過去を語る」ということであり、「未来を語る」ということであり、要は、全てについて語るということだからだ。
(「過去を語る」にも「未来を語る」にも含まれないもの、例えば「現在を語る」については、後ほど、「過去を語る」ことと「未来を語る」こととの複合というように位置付けるつもりだ。また、いずれの時制にも含まれない「反実仮想を語る」もあるが、反実仮想については、(実際は「11月15日は雨だった。」が)「11月15日は晴れだったなら。」というように言外に、「過去を語る」ことが含まれているので、「過去を語る」ことの派生として捉えることができると考えている。また、あいさつのように、「何についてでもなく語る」ということについては、語る対象ではなく「語る」ということ自体についての別な考察が必要と思われる。)

「ある、なる」のうち「ある」の議論において中心的な役割を演じていた排中律は、「ある」の議論の階層においては言語の根本的な機能を体現していると思われたが、「なる」の深まった議論を経るならば、「時制的な視点移動」こそが、言語の根本的な機能を体現していると考えた方がいいだろう。あくまで、重層的な「ある、なる」の議論における、「ある」という一側面を捉え、そこで輪切りにするならば、「時制的な視点移動」の断面図として、排中律が現れるに過ぎないように思われる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 4 派生的疑問

4 派生的疑問
4-1 因果の充満の特別さ
まず、本題に入る前に、ベタの神についての「時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」という述べ方の問題点について触れておきたい。
正直、この述べ方は、「ある、なる」のうち「ある」に偏りすぎていると思う。また、「ある」に偏っているがゆえに、「ある」、つまり、「存在」と同一視してしまう危険性も孕んでいる。この「ある、なる」の議論が、言語と存在という、どこか手垢が付いた切り口が繰り返されているだけと受け止められてしまう危惧があるのだ。
だから、私は、あくまでも「「なる」という時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」だということを強調しておきたい。「ある、なる」の議論は、この時間的な議論を経たところに魅力がある。本当は「絶対現実」より、もっと言い方があればいいのだが、「ある、なる」には残念ながら見当たらないし、私も思いつかない。

「ある」への偏りとして特に気になるのが、時間的な議論のなかでも、特に、第22章の因果の充満という議論が、この「絶対現実」という用語では捉えられないという点だ。
この問題意識は、この文章の冒頭で派生的な疑問として挙げた「この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の特別な意味があるのではないか。」という疑問につながる。

因果の充満とは、「全ての原因・結果が、全面的に肯定であり、そこに否定や欠如が入り込む隙間は全く無いことになる。」(p.275)という、いわば、因果関係において、「ある」を極大化した捉え方である。
そして、常識的な「ある」から遠く離れ、因果の充満をイメージするためには「一つの媒質内で波動が伝播するイメージ」がよく、「もう「二つの別個の物事のあいだの関係」とは言えなくなってしまう」というところまで至る。そのような描写からは、大河のような「一つの媒質」の大きな流れのようなイメージが浮かび上がってくる。
この「一つの媒質」には、当然、外はない。なぜなら、全てが充満し、その関係性が全てを一つの流れに取り込んでいるのだから。
そのように考えるなら、この大きな流れとは、「絶対現実」の流れそのものと言ってよいだろう。
因果の充満という議論には、このような方向性で、現実と時間を捉える力があるのではないだろうか。

充満した大河の流れのイメージを経るならば、私は、「絶対現実」とは、無内包と言うより、内包の完全な充満と言ったほうがいいと思う。完全に充満しているからこそ、そこに内包として指示すべき個別の何かなど無いのだ。そのような意味では完全な充満を無内包と言うことは間違いではないのだが。
「ある、なる」でも「現実それ自体は完全に充実している」(p.63)という捉え方がされているので、重点の置き方の違いなのだろうが、ここでは、「無内包」より、「充満」をイメージしたほうがよい場面があるということを指摘しておきたい。

そして、更に続けるならば、その充満は、静的な充満ではなく、動的な流れとしての充満だということに留意しなければならない。草木が成長したり、椅子に座っていた人が椅子から立ったり、毛布に潜り込んでいたネコが毛布から這い出して毛布の上に座ったりといった変化も含んだものとしての充満なのだ。
そこには、「ある、なる」で行った「時制的な視点移動という<関与・操作>」(p.301)から透かし見て、「時間推移」を捉えようとしたのとは違う、もう一つの「時間推移」を捉える道筋があるように思える。「ある、なる」においては、「時制的な視点移動という<関与・操作>」の働きを純化していくことにより、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱのシーソー関係を見出し、そこに時制区分と対になるものとしての純化された時間推移が提示されていた。
しかし、「時間推移」というものを捉えるには、そのような作業だけでは足りず、この純化の作業を駆動させるものとしての、「大河の流れのようだ」というイメージが必要なのではないだろうか。(ただし、後述するように、イメージによる把握という道筋は述べ方として不徹底である。)
このイメージによる把握の適否は別にして、ベタの神を「絶対現実」と呼ぶならば、「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」という捉え方を忘れないことが、最低限必要だろう。

4-2 様々な<中間>
次に、冒頭で列記した派生的疑問のひとつである「第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ言葉でまとめて表現してよいのか。」という疑問について、第24章を細かく読み解きつつ考えてみたい。
当然、これは、「様々な<中間>の根本に「絶対現実」と「言語」の<中間>がある。」と言えるなら、全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化することができるのではないか、という期待も込めての作業となる。

4-2-1 排中律の<中間>
まず、第24章の冒頭では、排中律の<中間>について語られる。
ここでは、二つ性と一つ性の<中間>などが挙げられるが、「排中律は言語と現実の<中間>で働く。」(p.296)とあるとおり、その<中間>の根源には、言語と現実の<中間>があると言ってよいだろう。
「ある、なる」において、排中律は、純化のためのろ過装置として働いている。
現実と言語が混在している沼に、排中律という装置を設置し、純化した現実を取り出そうとする。また、スイッチを切り替え、同じ沼から、純化した言語を取り出そうとする。
だから、排中律は、ときには現実と対立するフィルターのように振る舞い、ときには言語と対立するフィルターのように振る舞う。
そして、ろ過の働きはどこまでも<中間>的だから、排中律は、ろ過の過程において、一つ性、二つ性といった様々な形を見せることになる。
だから、「ある、なる」を読んでいると、文脈のなかで排中律という語が、「現実」寄りなのか、「言語」寄りなのか、その位置づけがよくわからなくなることがある。この文章でも、排中律を言語に寄ったものとして使っている場面が多いが本来、あくまで<中間>なのである。
しかしそれは、入不二の表現がまずいのではなく、私の理解がまずいわけでもない(と思う)。
現実から言語を取り除き、絶対現実として純化しようとする場面では、ろ過されるものである言語自体に言及することはできないから、フィルターである排中律について言及せざるを得ないという、やむを得なさがある。(ろ過の過程では「言語」という語も使われているが、それはあくまで、純化されていない「言語」だ。)
もし、言語というものを直接的に触れて操作することができるなら、ろ過作業にあたって、排中律というフィルターは必要ない。直接触れることができないからこそ、フィルターを使っているのだ。
そこには、「言語」という語を使わず、ろ過される対象である「現実」という語と、ろ過装置である「排中律」という語のみを使って、現実と言語の拮抗を描かなければならない、という表現の難しさがある。

4-2-2 <中間>の<中間>・現実A
引き続き、第24章では、「「中間」も「端」も<中間>」(p.296)であるということが述べられている。
これは、先ほどの、ろ過装置の例えと重なる。
ろ過される対象である、現実、言語には直接触れることはできない。フィルターを通じて、どこまでも<中間>的なろ過の作業のなかで、<中間>的にしか言及できないということが、ここで述べられていると言ってよいだろう。

次に、相対現実、様相との関係で、<中間>について触れられている。
まず、絶対現実と相対現実の<中間>とは、「一つ性と二つ性の中間」(p.298)という文脈のなかで登場していることからしても、先ほどの排中律と同様に、現実と言語の<中間>に含まれるものと捉えることで問題ないだろう。
ここで留意しておきたいのは、この<中間>が、「特定の内容を持つこの現実-現実A-は、絶対現実と相対現実の<中間>である」(p.298)というように登場していることだ。
排中律によりろ過し、純化していたのは、「この現実-現実A-」だったのだ。つまり、言語と現実の混合物である現実Aをろ過し、純粋な言語と、純粋な現実(絶対現実)を取り出そうという試みが、「ある、なる」のうち「ある」の議論だったということになる。
このように<中間>という言葉は、現実Aというろ過される対象、排中律というろ過装置そのもの、<中間>的なろ過装置の働き方、といったいくつかの意味を込めて用いられている。

様相の議論においても、<中間>は様々な場面で現れている。ここでは、「もっとも基礎的な<中間性>は、無様相と様相の<中間>性であり」(p.300)とされている。
ここで言われる無様相とは無様相の絶対現実のことであり、そもそも、様相の議論は、相対現実と絶対現実の<中間>性の話から出発していることからしても、様相の議論における<中間>は、相対現実と絶対現実の<中間>と同様に、現実と言語の<中間>に含まれると考えてよいだろう。
ここで、特に着目すべきは、この様相の議論においては、様々な<中間>が現れており、まさに<中間>はどこまでも<中間>であるということが見事に描かれているということだ。
また、排中律に加えて、「様相」と「様相の潰れ」もまた、ろ過装置となっていることにも留意しておくべきだろう。「様相の潰れ」が、まだ議論が<中間>に留まっていることを示す、リトマス試験紙のような働きをしつつ、様相という議論の構造を通じてろ過作業を前進させている。

4-2-3 時間推移と時制区分の<中間>
ここから、第24章の<中間>にまつわる議論は、「なる」の時間の土俵へと移っていく。
まず、「時間は、時間推移と時制区分の<中間>で働く。」(p.301)とされる。
ここでの議論は、先ほどの「ある」の議論と同様に、「この時間推移-時間推移A-」をろ過し、純粋な時間推移と、純粋な時制区分とを取り出そうとする方向にあると言ってよいだろう。
この場合のろ過装置は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱだ。
時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの<中間>をフィルターとして、時間推移Aを純粋な時間推移と時制区分とに純化しようとする。この<中間>は、「ある」の議論の場合と同様に、「中間」も「端」も<中間>というかたちで重層的に働く。だから、<中間>は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの間で働くだけでなく、時間原理Ⅰのなかでも働き、時間原理Ⅱの内側の、未来、過去、現在のそれぞれの時制区分のなかでも働く。

なお、純粋な時間推移と時制区分との<中間>とは、「なる」の時間的な議論を経たうえでの、現実と言語の<中間>のことだと言ってよい。
どうしてそう言えるのかといえば、まず、時制区分は「時制という言語的な装置」(p.196)とされていることからも、時制区分とは言語のことである、ということは言ってよいだろう。
ただ、ここで、言語「的」とされているとおり、通常の意味での時制区分は言語そのものではない。あくまで、「ある、なる」の議論を経て純化された時制区分と言語とが重なる。
一方、時間推移は因果の充満について述べた際に既に登場している。そのときの議論を振り返るなら、時間推移とは「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」のことだと言ってよいだろう。
以上を踏まえ、現実と時間推移を結合し、言語と時制区分とを結合して扱うことができるということになる。これが、「ある、なる」における、最も簡素な、「ある」の現実論と「なる」の時間論の接続の描写となるだろう。

4-2-4 未来、過去、現在の各時制における<中間>
そして、第24章は、未来、過去、現在という時制ごとの描写へと移る。
現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗は、未来においては、言語(時制区分)が優勢である。言語が優勢だからこそ、「言語(時制)によるベタな現実への反逆」(p.302)である「未来の「無」」が立ち上がる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、反逆は完遂されない。
一方、過去においては、現実(時間推移)と言語(時制区分)では、現実(時間推移)が優勢である。現実が優勢だからこそ、想起阻却過去という究極の無関係である何らかの現実を垣間見ることができる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、阻却も完遂されない。
そのような拮抗、つまり<中間>性が、未来、過去においても見いだされる。
最後に、現在における現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗についても描かれるが、現在における<中間>については、明らかに未来や過去に比べて複雑なものとして描かれている。これを紐解くには、章を改めたほうがいいので、ここでは分析しないことにする。
(その後も第24章は、因果における<中間>、思考の<中間>へと考察が進んでいくが、この部分は第25章以降と結びつけて扱ったほうがいいと思われるので、この文章では扱わない。)

このように第24章の流れを再確認した結果、当初の目論見どおり、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>がある、というように整理することができた。これは全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化する目処がついたということであり、私の理解のためには重要な成果だ。
しかし、第24章全てを使って「ある、なる」が述べているように、この<中間>は、重層的な中間である。例えば、様相の議論において様々な<中間>が見出されたことで鮮やかに示されているように、<中間>の<中間>と言ってもよい拮抗に満ちているということが同じくらい重要だ。

4-3 「現に」という副詞
この現実と言語の<中間>は、「ある、なる」やこの私の文章が伝えようとしている現実性にまつわる問題について、文章で伝えられないということと、なぜか現に伝えられているということとの<中間>でもある。
これは、「ある、なる」でも、現実の感覚の問題について、ケーキの例えを用いて、「現に生じている感覚ではなく、生じうる感覚を持ち出すことによって、概念(観念)との差をつけている。」(p.72)としている問題のことである。この問題について「ある、なる」では、「「現実」は、「現に腰の痛みを感じる」~のように、体験内容の外側から副詞的に付加されるしかない。」(p.73)と副詞的に付加するということで、解決しようとしているが、この「ある、なる」の文脈ではそれでよいとしても、本当はそれでは済まない。
なぜなら、いくら「現に」という言葉を足しても、文章に書かれた言葉は現実ではないのだから、現実に届かないからだ。
「現に腰が痛い」「現に椅子に座っている」「現に雨が降っている」と言っても、現に腰が痛くなく、椅子に座っておらず、雨が降っていなければ、現に腰が痛く、椅子に座っており、雨が降っているということはない。もしかしたら、たまたま、腰が痛かったり、椅子に座っていたり、雨が降ったりしているかもしれないが、それは、そのような文章を読んでも読まなくても、そうであるはずで、文章の表現とは全く関係ない。
そのような意味で、現実性を文章で伝えることは不可能である。
しかし、一方で、現実性を文章で伝えることは、とても容易にできているとも言える。「現に腰が痛い」と書かれていれば、現に腰が痛くなくても、そこで伝えようとしている現実性について理解できる。そうでなければ、「ある、なる」やこの文章を理解することなんてできないはずだ。
また、現実性をきちんと伝えようとする配慮や技術なんてなくても、現実性は伝えられるとさえ言える。小学生の作文で「夏休みにおばあちゃんちに泊まった。」とあれば、「現に」という副詞なんてなくても、現実と理解できる。更には、全ての記述は、現実性が付与されているとも言える。どんな荒唐無稽なSFでも、抽象的な表現にあふれた詩でも、それを理解できるならば、そこには現実性が付与されているはずだ。そう考えると、「現に」という副詞は、何も付与していないとさえ言える。
このように、現実と言語の<中間>は、「現実性は文章で全く伝えることができない」と「現実性は文章で完全に伝えられるし、また、全ての文章に現実性は必ず付与されている。」の<中間>であるというかたちでも現れる。その<中間>に「現に」という副詞の付加があるということになる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 3 ベタとスカ

3 ベタとスカ
3-1 三つのスカ
まず、この本には三つのスカが登場することに着目するところから始めたい。
三つのスカ、つまり空白とは、まず一つ目が、第4章で「表現(排中律)は「空白」を招き寄せる。」(p.60)とされる、排中律との関係から語られる空白である。
二つ目が、第16章で「「空白」は、未来時制という言語的な装置が創り出す言語的な仮想である。」(p.197)とされているように、未来との関係から語られる空白である。
もう一つが、第19章の小見出しともなっている「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在における空白である。
これらは、そのいずれもが、「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」として扱われているとおり、同じものを指すと言ってよいのではないか。
こんなところを手がかりにして議論を始めていきたい。

排中律、未来、現在に現れる三つのスカは、スカの神の三つの側面だと言ってもよい。
そう考えるなら、ある側面では、排中律・未来・現在をつなげて考えることもできるはずだ。
このようなやり方で、現実と時間の区分や未来と現在という時制区分を越えて、概念同士を結合して捉えてみるという着眼点が、現実と時間との関係を捉えるうえでは役に立つと思われる。この線で検討を続けてみよう。

3-2 二つのベタ
それでは、スカの神の領域にないもの、つまりベタの神の領域にあるものはなんだろうか。

この本の、少なくとも第24章までの議論を辿ってみると、おおまかには、運命は、現実と時間という側面から捉えられている。まず、現実は、排中律・様相と、それらではどこまでも捉えきれない現実性・絶対現実という関係で描かれる。その後、時間について、未来、過去、現在という三つの時制に分けて考察が進められていく。そして、ついには、「運命」は「ある、なる」に至る。
この一連の流れにおける中心概念である、「排中律・様相」、「絶対現実・現実性」、「未来」、「過去」、「現在」から、スカの神の領域にある「排中律・様相」、「未来」、「現在」を除くと、「絶対現実・現実性」と「過去」が残る。
そこから、この二つがベタの神の領域にあると言えるのではないかという推測ができる。絶対現実・現実性と過去、という結合が成立するということである。
もし、そのように考えることができるなら、この本における、ベタの神とスカの神の拮抗は、単純化すると、ベタの神の領域にある「絶対現実・現実性+過去」と、スカの神の領域にある「排中律・様相+未来+現在」との関係性のことを指すということになる。

では、本当にそのように考えることができるか、ということになるが、過去と現実性とを結びつけるという捉え方は、「ある、なる」から逸脱した独自の解釈ではないだろう。
まず、過去についての「<過去の確定性・変更不可能性>」(p.206)という描写は、現実についての「現実的な必然性」(p.145)という描写と、とても似ている。過去と現実は必然性・確定性を介して結びつく。これは、運命論が、確定した過去を必然的な現実として受け止めるところから始まっていることからしても、常識的な捉え方と言えるだろう。

また、常識的な捉え方から進み、「ある、なる」において行われている「純化」とでも言うべき独自の操作を経ても、過去と現実は結びつけることができる。(今後、「純化」という言葉を何度か使うが、「ある、なる」において「純化」という言葉は使っておらず、純化そのものは語りえないということにこそ重要性がある。)
「ある、なる」において、「現実」は、一旦は「現実的な必然性」とされるが、これは「様相の潰れ」へと繋がる中途状態であり、ついには、絶対現実に至る。
「過去」についても、第17章において、想起過去、想起逸脱過去、想起阻却過去と深められていく。そして、ついには、「特定の記述を失い、「∅だった」のような内容を持たない過去」(p.213)としての想起阻却過去に至る。
「ある、なる」における純化を経た、現実と過去、つまり、絶対現実と想起阻却過去は、とても似ている。絶対現実は現実であり、想起阻却過去は過去である、ということを除き、内包・内容に違いはない。なぜなら、いずれも無内包、無内容だからだ。
更に言うならば、絶対現実は無内包なのだから「現実である。」という内包はなく、想起阻却過去も、特定の記述を失っているのだから、「過去だった。」という内容を持たない。
よって、語りうる限りでは、「現実である。」という内包を持たない無内包の絶対現実と、「過去だった。」という内容を持たない想起阻却過去とは、見分けがつかないとさえ言えるはずだ。

ここでは、想起阻却過去と絶対現実が同じものを指すとまでは言わない。しかし、純化され、言語によっては違いを捉えられないほど一体化した過去と現実は、いずれも、ベタの神の二つの側面であるとまでは言えるだろう。

3-3 ベタの神とスカの神の正体
スカの神の三つの側面である排中律、未来、現在は、いずれも「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」なのだから、スカの神の正体は言語だとすることに異論はないだろう。
一方、ベタの神の正体は、「ある、なる」の「なる」の時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」だと位置付けることにも、大きな異論はないだろう。
しかし、私は、すぐには、ベタの神とスカの神の拮抗を、「絶対現実」と「言語」の拮抗と単純化したくはない。
第24章では様々な<中間>が挙げられている。もし、全ての<中間>の根本に、「絶対現実」と「言語」の<中間>があり、他の<中間>は、そこから派生しているということであれば、様々な<中間>を根本と派生というように構造化し、単純化して描き出すことができるかもしれない。しかし、少なくとも、「ある、なる」ではそのような語り方はしていない。
最終的には、そのように結論付けられるのかもしれないが、ここには、もう少し踏みとどまって考えるべきことがあるように思われる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 2 3つの疑問

2 3つの疑問
この本と「私の哲学にとっての哲学上の問題」との関係を捉えるためには、私が「ある、なる」を読んで感じた疑問から入っていくのがいいだろう。
私はこの本を読み返しても、最後まで3つの疑問が残った。これから述べるうえで整理するならば、一つの中心的な疑問と二つの付随的な疑問である。

中心的な疑問とは、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」というものだ。
この疑問が中心的になるのは、あたり前とも言える。「ある」の現実と「なる」の時間の関係は簡単に言うことができないからこそ、「ある、なる」というタイトルのこの本の全体で伝えようとしたのだろう。
そして、この本は、この点について丁寧に述べてもいる。現実と時間の関係性については、プロローグから「ある、なる」の交錯配列、または交錯配列の反復と短絡という明確な述べ方をしている。いうならば最重要事項として扱われているといってもいいだろう。しかし、それでも、この本を読むと、それで具体的には何がわかったんだっけ?という疑問が、どうしても残ってしまうのだ。
この文章では、主にこの疑問について考えていきたい。

あとの二つは、そこから派生する疑問となるが、一つが、第22章で出てくる因果の充満という考え方の取り扱いについての疑問だ。この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の意味があるのではないだろうか、という疑問だ。
もう一つが、第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ<中間>という言葉でまとめて表現してよいのだろうか、という疑問だ。
実は、他にもいくつか疑問はあるのだが、いずれも、第25章とエピローグに関する疑問であり、この本は、第24章までと、第25章からでは、分けて扱ったほうがいいように思われるので、この文章では第24章までを扱うこととし、それらの疑問には触れないことにする。
(厳密には、第23章の「祈り」の問題、第24章の「思考の運命」の問題も、第25章以降の問題とあわせて扱うべきように思われる。)

それでは、中心的な、現実と時間の関係という問題について、私なりの答え、理解に至るまでの過程をたどりつつ、派生する疑問についても触れていくことにする。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 1 はじめに

2015年12月6日作

※ 入不二基義「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」について書いた文章です。以下、「ある、なる」または「この本」と呼びます。

・・・

1 はじめに
この本「ある、なる」には二つの神が登場している。ベタの神とスカの神だ。神話には詳しくないけれど、シヴァとヴィシュヌ、いざなぎといざなみ、アフラ・マズダとアーリマン、そんな神たちにどこか似た二つの神がこの本の上には登場しているように思う。

そして、この本によれば、二つの神の間にあるのは、決して、どこかに落ち着くことはない「拮抗」だ。ベタ(黒)とスカ(白)が混じって灰色になることはない。黒いこの本のカバーを外すと白い本が現れることが、それを示している。カバーを外すという転換は一瞬だ。黒から灰色を経由して白に変わるのではなく、全面的な黒から全面的な白への瞬間的な転換である。その瞬間に垣間見られるものとして、運命が描かれている。

「ある、なる」には、正しさが含まれているという感触がある。
そう思う理由の第一は、今述べたように二つの神の拮抗として描くことができるような美しさがあるということにあるが、もう一つの理由は、読み返すたびに、何か新しいことに気付かされるということにある。
「ある、なる」を読んでいると、本と対話しているような気がしてくる。対話形式で描かれてはいないし、読者の気持ちに寄り添って優しく語りかけるように書かれているという訳でもない。それでも、読むたびに、新しいメッセージを見いだすことができるというのは、まさに本と対話しているということだ。そのような読み方ができる本には、ある正しさが含まれていると思う。
しかし、それは、つまりは、一度読んだだけではわからないということでもある。
最初に読んだときの感想を率直に言うと、「何かはわからないけれど、なんだかわかった。だけど、それで、何がわかったんだっけ?」というようなものだった。
読み返し、自分なりにこの本との対話を繰り返したあとで振り返ると、そう感じたのは、多分、この本が重きを置いて書いていないことが「私にとっての哲学上の問題」だったからなのだろうと思う。この本は「私にとっての哲学上の問題」を無視したのではないが、私にとってはペースが速すぎたのだ。
だから、私は、少し立ち止まって、引き返し、この本があえて述べなかった「私にとっての哲学上の問題」についての考察を書き足したい。そういう意図でこの文章を書こうとしている。
ということは、私は、これから、この本に書かれていない新しいことを書くつもりだが、実は、既に行間に書かれているとも言える。そのような意味では、この文章は、私が「ある、なる」を理解する過程での個人的なメモに過ぎないのかもしれない。

私の独我論 3最後に

3-1一つ性

以上、私の独我論は、認識論的独我論、意味論的独我論、存在論的独我論を「一つ」にまとめ、更に、時間を物語時間として取り込むことができた。

これは、私がひっかかっている哲学上の諸概念を「一つ」にまとめることができたということである。

そして、ここまで進めた論は、荒っぽいところもあるが、方向性に大きな誤りはないのではないかと考えている。これは、この文章の成果であり、私がこの文を残したいと考えた理由である。

この私の独我論の方向性は、前半で少し脱線したように、独我論でも一元論でも、なんでもよいが、「一つ」というものを目指すものだったと言ってもよいだろう。

というか、「一つ」を求めることが私にとっての哲学の目的であると言ってもよい。

なぜ「一つ」を求めるかとい言えば、「一つ」であることにより、全ての哲学的な疑問を無化できるからだ。「一つ」しかないものに、存在、言語、内包の認識、時間と名付ける必要はなくなる。そのようにして全ての概念は消去できる。これは、入不二によれば、ウィトゲンシュタインが「私」を消去するときに使った手だ。

だから、もし、この私が論じている方向性が正しければ、存在、言語、内包の認識、時間といった、私に疑問をもたらすものたちは消去される。

そして、私の様々な哲学的疑問は消え去り、そこに哲学以前の、当たり前の景色が広がることになるだろう。

3-2個人的な課題メモ:部屋の掃除

しかし、そんなにうまくいくだろうか。

私は、哲学とは、窓もドアもない部屋を掃除しているようなものだと思う。私の哲学は、部屋のホコリをできるだけ一つにまとめ、ゴミ箱に捨てることを目的としている。しかし、そのゴミを持ち出す先はない。一つにまとまるだけでゴミは部屋に残ったままである。

当然、このゴミとは哲学的疑問のことだ。そして、この私の独我論においては、ゴミは「認識」というかたちで一つにまとめられている。

「認識」に疑問が集約されているということは、まず、認識論的独我論が他の独我論に先行するとしたことに既に現れている。この先行性は、意味論的独我論や存在論的独我論を説明するためには、まずは認識論的独我論を経由しなくてはならないという説明の場における先行性であった。

それができるのは、内包の認識あり、という認識論的独我論の定義の仕方に仕掛けがある。言語ありとする意味論的独我論、存在ありとする存在論的独我論により描かれる世界は、どこまでも抽象的で静的である。一方で、内包の認識ありとする認識論的独我論の世界は、認識という行為がキーワードになっていることからわかるように動的である。

また物語時間について論じる際にも、認識が動的であるということは大きな役割を果たしている。物語時間における未来つまり言語は、可能性があるでもなく可能性ないでもない、という独特の在り方をしていると言った。この可能性とは何かと言えば、未来が語られて既に語られた物語となる可能性のことである。言い換えれば内包として認識される可能性のことである。この可能性が、あるでもなく、ないでもないという述べられ方がされるのは、認識というものが動的だからである。

そして、現実時間にも認識は関わる。というか、認識されていないものを認識するということが認識の意味ならば、そこには時間経過があり、現実時間における未来が過去になるということは、認識というものの動的な側面そのものであるとも言える。認識が動的なあり方をしているということを考慮外とすることと、現実時間を否定することは同じことである。

また、時間に対して抱く「時間は流れている」としか言いようがない、ある感じについても、この文章のなかでは十分に分析できておらず、認識の動性のなかに託してしまっている感がある。

認識はなぜ、どのようにして動的な在り方をしているのか、この解決していない疑問が、私の独我論においては、部屋の隅で一つにまとまったゴミの正体である。

このゴミを更に片付けることはなかなか難しそうだ。

なぜなら、認識が動的だからこそ、私の独我論は独我論の外に接続し、独我論の外から何かを導入し、独我論の第一歩を踏み出すことができるからだ。

そして、独我論を語るということ自体は、独我論のなかでは説明しきれない。独我論というものを位置付ける外がなくてはならない。

あえて言えば、語るという行為、つまり哲学において、その外はなくてはならない。

ここに、私の独我論、哲学というものの限界があるのかもしれない。

そして私は、動的な認識を通し、私の独我論の外に、私の独我論の生き写しのような、あたり前の客観的な世界を想定してしまう。その世界には、客観的な内包の認識、客観的な言語、客観的な存在があり、客観的な時間がある。あたり前の世界とは、この客観性の蜃気楼のことなのかもしれない。この幻が、私が他の文章でアミニズムと呼んでいるものだろう。

このように考えると、なんだか暗い気分になってしまう。

しかし、部屋の掃除の比喩により希望を見出すこともできる。

この掃除は、どんな道具を使って行なったのだろうか。この文章における掃除道具は、「存在」、「言語」、「内包の認識」、「時間」といった概念たちだった。

これらの概念を掃除道具として用いたのは必然なのだろうか。それとも恣意的なのだろうか。

私には必然に思える。そして、掃除により、最終的に「認識」というひとつのところに疑問を集めることができたことも必然に思える。

なぜなら、この掃除は現に行われており、私には、それ以外の別のやり方をするということが思いつかないからだ。

哲学的掃除は、必然的に、あるやり方で現に行われる。そこに別様の在り方はない。この必然さは、哲学が持つ力なのかもしれない。

私の独我論 2時間

2-1私の時間論についての素描

結論から言うと、この三者関係に割って入ってくるのは時間である。

これは、論理哲学論考の弱点が、以下同様という時間的な観点にあったことにも対応する。

論理哲学論考の弱点は、先ほど触れた思考、像、世界という道具立てにあるのではない。その道具立てとしての概念や、その概念相互の相互関係がどうして成立できるのか、ということ点に問題がある。この構造を成立させるのは以下同様の規則であり、時間の通時性である。時間がなければ、言語が法則を持つということが意味を持たず、異なる内包同士を比較することで具体的な内包として把握され、持続的な存在という在り方をすることができない。つまり、時間というものを考慮することによって、はじめて、言語、内包の認識、存在というものを理解することができる。このように重要な時間というものに関する考察がなかった点に論理哲学論考の不十分さがある。

だから、この文章においても時間について考察し、私の独我論に取り込む必要がある。

どのように取り込まれるのかという話を進める前に、更にまず結論から述べるならば、時間は、言語と存在と内包の認識という三者を結びつけるものとしてある。具体的には、 過去=内包の認識、現在=存在、未来=言語 というかたちで、これまで述べた三者は時間的に結びつく。

導入として、雰囲気だけでも伝えるため、輪郭を描いてみよう。

まず、未来について。

未来は存在しない。そして、内包の認識もない。未来とは、まだ存在せず、認識されていないからこそ未来なのだから。

一方で未来について言語的に語ることはできる。というか、言語的でもなかったとしたら、ここまで述べた独我論では未来が捉えられなくなってしまう。よって、言語と存在と内包の認識の三者のうち、未来は言語とだけ結びつくと考えざるを得ない。

次に過去について。

まず、過去は存在しない。過ぎ去ったからこそ過去なのだから。

また、過去は言語的でもない。過去のある出来事、例えば一昨日、沖縄そばを食べたということは、言語的ではない。なぜなら、今、ここで文章化するまでの間、言語で表現されていなかったのだから。

一方で過去には、いわゆる記憶というかたちでの内包の認識がある。よって、言語と存在と内包の認識の三者のうち、過去は内包の認識とだけ結びつく。

最後に、現在について。

まず、現在は存在する。これは特に説明の必要はないだろう。

また現在において、現在について語ることはできない。現在について語ることができるのは、未来においてである。今、鼻をかんでいるということは、今、語ることはできない。鼻をかんでいると語ることができるのは、鼻をかんでいるときから見た未来においてである。よって、現在は言語的ではない。

現在については、内包の認識もない。今、鼻をかんでいるならば、今は、鼻をかんでいるのであり、何かの認識を得ているのではない。だから現在には内包の認識はない。

よって、現在は、言語と存在と内包の認識の三者のうち、存在とだけ結びつく。

以上をまとめると、過去=内包の認識、現在=存在、未来=言語 となる。

私が当初思いついたのは、こんなイメージだった。このようにして、存在、言語、内包の認識の関係のなかに時間を取り込むことができると思いつき、我ながら、なかなかいいアイディアではないかと思ったのだ。そして、後ほど述べるように、更に考えるなかで修正した点も多々あるが、方向性に間違いはなかったと思っている。

2-2私の時間論についての疑問

この私の説明については、既に修正の必要があると言ってしまったが、納得がいかない点が多々あるのではないだろうか。

そこで、私が思いつく疑問点を列挙しつつ、逆に、言語と存在と内包の認識の三者のほうから、未来、過去、現在について捉えてみることとしよう。

まず、存在について。

既に去った過去とまだ来ない未来は存在せず、現にある現在だけが現在において存在する。よって、存在は現在と結びつく。

しかし、未来は存在するとも言えそうだ。何十億年後において膨張した太陽に地球が飲み込まれる未来が存在するかどうかはともかくとして、1分後に時計の針が1分進んでいるのを見るという未来は存在すると言いたくなる。

過去についてもそうだ。恐竜が生きていた何億年前という過去が存在するかどうかはともかく、一昨日、沖縄そばを食べたという過去は存在すると言いたくなる。

また、未来が存在し、現在が存在し、過去が存在するからこそ、時間が存在する、という言い方もできそうだ。

そこから、仮に未来や過去が存在しないとすると、存在しない未来や過去について議論することなんてできるのだろうか、という疑問も思いつく。

次は、内包の認識について。

記憶というかたちで過去と内包の認識が結びつく。このことには異論はないだろう。しかし、現在と内包の認識は本当に結びつかないだろうか。今、鼻をかんでいるとすると、鼻をかんでいるときには、鼻をかんでいるという内包の認識はないと言った。しかし、鼻をかむという行動をしながら、自分がその行動をしているという認識を持つことは可能に思える。また、絵を見ながら、絵についての認識を得るということは、可能というか、当然のことのように思える。このように考えると、現在と内包の認識は結びつきそうだ。

それでは、未来と内包の認識の関係はどうだろうか。確かに、未来には記憶というかたちでの内包の認識はない。未来について、ありありと認識するということは、なかなか難しそうだ。何十億年後に膨張した太陽に地球が飲み込まれる状況や、10年後の自分の姿を、ありありと思い浮かべることはできない。しかし、1分後に時計の針が1分進んでいるのを見るという状況はありありと思い浮かべることができる。これは、未来についての内包の認識があるということではないのだろうか。

このようなアイディアには反論もあるだろう。しかし、ここでも、なかなか一筋縄ではいかない、ということだけ確認するに留めよう。

最後は、言語について。

言語は未来と結びつくが、過去や現在には結びつかない、と言った。なぜなら、過去や現在は、まだ言語で表現されていないからだ。しかし、そう言うならば、未来も同じである。まだ言語で表現されていない未来もある。

また、現在はともかくとして、既に言語で表現された過去というものもあるように思える。

過去に既に言語で表現された未来、未来において言語で表現されるかもしれない過去、と考えていくと、なんだか、何が過去で何が未来なのか、というところから混乱してきてしまう。

言語と時間の関係についての問題を解きほぐし、更に検討を進めるにあたっては、私が、時間というものについて、ある特殊な捉え方をしているというところから話をしなければならないだろう。

2-3現実時間と物語時間

時間というものに対する私の捉え方を述べるにあたっては、ここまでの流れを少し外れたところから話を始めたい。

突然だが、私は邦楽ロックのライブに行くのが好きだ。ライブで音楽を聴き、ノッて楽しんでいると夢中になる。音楽が体に染み渡る感じいい。まあ、前の客が邪魔で不完全燃焼なときもあるけど。

そして、ライブの最中に、ふと、楽しいと感じていることを意識する瞬間がある。そう意識するのは、だいたい曲の合間だ。演奏に夢中になっているときは楽しいと意識することはない。

邦楽ロックバンドのライブ鑑賞という、ややマイナーな趣味を出してしまったが、この夢中になるときと楽しいと意識するときがあるということは、私のもう少しメジャーな趣味である海外旅行においても言える。

私は海外旅行をしているときは夢中で楽しんでいる。そして、この旅は面白かったなあ、と思うのは、成田で日本に帰ってからだ。そこまで極端に言うと、なんだか自分を振り返らない思慮が足りない人になってしまうので、もう少し正確に言うと、例えばバスツアーで観光地に立ち寄り、美しい風景を見た瞬間は、ただ感動し自分の気持ちなんて意識しない。そして、次の観光地までの移動のバスに戻り、デジカメの画像などを見つつ、ああ綺麗だったなあ、楽しい旅行だなあ、なんて意識する。こう言えば、多くの人が共感してくれるのではないだろうか。

更には、これは日常生活でも同じだ。夢中で仕事をしている瞬間、例えば出張先から上司に電話連絡しているときは、今日の仕事は大変だなあ、なんて思わないが、仕事の合間、例えば電話を切り、一息ついたときに、ふと、今日は大変だなあ、なんて思いが頭をよぎる。

つまり、人生においては、夢中で過ごしている時間と、自分を振り返る時間の二種類がある。

この時間経過をライブを例にするなら、次のようになる。

1 1曲目(夢中で過ごしている時間)

2 曲の合間(自分を振り返る時間)

3 2曲目(夢中で過ごしている時間)

4 曲の合間(自分を振り返る時間)

5 3曲目(夢中で過ごしている時間)

3曲しかないライブなんてありえないし、曲の合間にはMCもあるけれど、簡略化するとライブにおいては、このように、夢中で過ごす時間と、自分を振り返る時間が交互に訪れる。私にはそのような実感がある。

私は、この二つの時間のうち、自分を振り返る時間には、通常の意味での時間とは違う、独特な時間があるように感じる。

このライブの例で言うならば、例えば4の2曲目と3曲目の曲の合間だとする。

そして、こんなことを考えたとする。

「2曲目は新曲だったなあ。オープニングの1曲目は最近いつも同じ曲だな。そういえば2曲目のとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」なんてことを。

そこには、通常の意味での時間の経過はないが、ある時間を要して語られるべき物語がある。そこには、通常の意味での時間と、物語としての時間がある。

私は、この二種類の時間の流れについて、現実時間と物語時間と名付けたい。1曲目、曲の合間、2曲目・・・と続くのが現実時間で、思考という物語を語るのが物語時間である。

2-4物語の組み換え

しかし、物語時間については、あえて別のものとして捉えず、現実時間のなかに位置付けることもできそうだ。

「4 曲の合間」における現実時間を更に細分化し、

4-1 2曲目が新曲だと思い出す

4-2 1曲目が毎回同じだと思い出す

4-3 2曲目で手がぶつかったことを思い出す

というような現実の時間経過があると考えることもできる。そうすれば、あえて物語時間というものを持ち出す必要はなくなる。

しかし、私は、物語時間という考え方を持ち出す必然性があると考える。なぜなら、物語は組み換えが可能だからだ。

4-1から4-3の曲の合間の思考の物語は、次のように再構成することもできる。

4-1 1曲目は毎回同じだ

4-2 2曲目は新曲で、そのときに手がぶつかった

このように再構成しても、内容は変わらない。というか、曲順に合わせてまとめたことで、わかりやすくなったとも言える。

並び替えを許容するならば、物語を現実時間のなかに位置付けることはできなくなる。

この考えについては、並べ替えを認めない、つまり、現実に行われた思考の流れとは別のかたちへの物語の組み換えは認めない、とすることで否定できるように思うかもしれない。

しかし、より微妙な物語の組み換えを想定するならば、そのように簡単には否定できないのではないか。

例えば、こんな思考をしたとしよう。

A「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。なぜなら、イヌは従順だけど、ネコは気まぐれだから。」

この思考については、次のように言い換えても、意味は変わらない。

B「イヌは従順で、ネコは気まぐれだ。だから、イヌのほうが好きだ。」

C「イヌは従順だから好きなんだ。だけど、ネコは気まぐれだからそこまで好きじゃない。

イヌとネコならイヌのほうがいい。」

この言い換えについても、先ほどと同じように、現実に行われた思考の流れはAなのだから、そこからの組み換えは認めない、と言いたくなるかもしれない。

しかし、私は、ここに疑問を感じる。実際の思考が、ABCのいずれによって行われたのかなんて、特定できるだろうか。

私の実感によれば、このくらいの思考は、一挙に行われ、その思考は、Aでもあるし、Bでもあるし、Cでもあると言いたい。

このことを検討するため、文Aのうちの前半部分A1「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。」を取り出してみよう。

この文を組み換え、「ネコとイヌだと、イヌのほうが好きだ。」とすることは可能だろうか。

A1を細分化してみよう。

A1ア イヌがいるとする。

A1イ ネコがいるとする。

A1ウ この2種類の動物を比較してみる。

A1エ 私はイヌのほうが好きだ。

これがA1の思考の現実時間における経過だとするならば、これを組み換え、A1ア「イヌがいるとする。」の前にA1イ「ネコがいるとする。」を持ってくることはできなくなる。

しかし、果たしてそうだろうか。脳科学的にどうかは知らないが、実感としては、この思考をするとき、私はイヌとネコの両者を一気にイメージしている。そして、既にそのイメージのなかには、イヌの方に好ましいというイメージがある。

つまり、私は、「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。」という思考を一気に行っている。思考を細分化し、現実時間と対応させることはできない。

更に言うならば、既にイヌのほうには従順というイメージが含まれ、ネコのほうには気まぐれというイメージが含まれている。

だから、あえて言うならば私は、A「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。なぜなら、イヌは従順だけど、ネコは気まぐれだから。」という思考を一気に行っている。

それは、B「イヌは従順で、ネコは気まぐれだ。だから、イヌのほうが好きだ。」という思考を一気に行っている、ということであり、C「イヌは従順だから好きなんだ。だけど、ネコは気まぐれだからそこまで好きじゃない。イヌとネコならイヌのほうがいい。」という思考を一気に行っている、ということでもある。だから、この3つの文は組み換え可能である。

そして更には、もっと長い思考、例えば、ライブにおける「2曲目は新曲だったなあ。1曲目は最近オープニングではいつも同じ曲だな。そういえば2曲目のとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」という思考についても、一気に行っていると言いたい。だから「1曲目は最近オープニングではいつも同じ曲だな。2曲目は新曲だったけど、そのとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」と組み替えることは可能だということになる。

なぜなら、2曲目が新曲だというイメージを持つときには、既に、その対比として1曲目がいつも同じ曲だったということを既にイメージしているはずだからだ。だから2曲目の言及に引き続き1曲目についての言及をすることができる。もし、1曲目と2曲目が全く無関係だったら、そのような一連の流れとしての言及なんてできないだろう。また、2曲目が新曲で、そのときに手がぶつかったということも同じ2曲目についての一連のイメージだと言うことができる。2曲目が新曲だということに言及しているときには、既に、手がぶつかったというイメージも持っている。だから一連の流れとして言及することができる。

このように、一連の流れとしての思考は一気に行われ、組み換えは可能であり、そこに現実時間と対応するような時間経過はないと私は考えたい。

それでも、物語を語るのには時間を要する。これを私は、現実時間とは別に、物語時間と呼ぶことにしたい。

2-5物語の分割

以上、物語時間について、文や語の組み換えという観点から説明を試みたが、納得できる部分と納得出来ない部分があるのではないかと思う。「イヌとネコ」を「ネコとイヌ」に並べ替えることはできても、「2曲目は新曲だ」と「2曲目で手がぶつかった」を並び替えるというのは、少々乱暴なのではないか。そんなふうに感じる人もいたのではないだろうか。

そこで、同じ話について、もう少し別の角度から説明を試みたい。

また、別の例を出してみよう。私には中学3年生の娘がおり、私はこんなことを悩んでいるとしよう。「娘にはもう少し勉強をさせたほうがいいのだろうか。勉強すれば、いい高校に入り、将来の選択肢が広がるのだろうなあ。だけど、友達と遊び、今しかできない経験をしておいたほうが、自分がやりたいことも見つかるのだろうなあ。」というような父にありがちな悩みだ。

この思考を分割し、現実時間に対比させるならば、次のようになるだろう。

1 「娘にはもう少し勉強をさせたほうがいいのだろうか。」と考える。

2 「勉強すれば、いい高校に入れる。」と考える。

3 「いい高校に入れば、将来の選択肢が広がる。」と考える。

4 「勉強をせずに、友達と遊び、今しかできない経験をすることもできる。」と考える。

5 「色々な経験をしておいたほうが、自分がやりたいことも見つかる。」と考える。

ここで、文2の「勉強」という語に着目してみよう。この「勉強」とは、どのようなことを指すのだろうか。この勉強とは、「1日23時間勉強する」というようなことではなく、また、「あと10年勉強する」ということでもない。あくまで、親が中学3年生の娘に対して考えている「もう少し勉強をさせたほうがいいかもしれない。」と悩む程度の量の勉強のことである。

つまり、文2を正しく理解するためには、文1が必要である。

文1とは別の時点で文2の思考が行われているという現実時間的な捉え方をするならば、「勉強すれば、いい高校に入れる。」という思考が独立して行われているということになる。しかし、文2を適切に述べるためには、文1が必要であり、文2が独立していては困る。現実の時間経過とは別に、文1と文2はつながっていなくてはならない。

これは、他の文や他の語でも同様である。文4にも「勉強もせずに」というかたちで「勉強」という語が出てくる。ここでの「勉強もせずに」とは、学校での勉強も含めた一切の勉強はやめたほうがいいというような極端なことを言っているのではなく、要は、「もう少し勉強をさせたほうがいいかもしれない。」と悩む程度の、やらせれば、いい高校に入れる、という程度の勉強についてはしなくてもいいかもしれない、と悩んでいるということである。文3の「いい高校」というのも、イギリスのボーディングスクールなどを指しているのではなく、勉強して入ることができる、近所の高校のなかでの偏差値が高い高校、という程度の意味である。

このように考えると、「娘にはもう少し勉強をさせたほうがいいのだろうか。勉強すれば、いい高校に入り、将来の選択肢が広がるのだろうなあ。だけど、友達と遊び、今しかできない経験をしておいたほうが、自分がやりたいことも見つかるのだろうなあ。」という文は、互いに密接に関連しており、部分ごとに独立に捉えることはできない。これは物語がホーリズム的に成立していると言ってもよい。

現実の時間のなかに思考を分割して落としこむことはできず、現実時間によっては思考というものを捉えきることはできない。これが、私が現実時間とは別に物語時間というものを持ちださなければならないと考える理由である。

思考を時間的に捉えるならば、物語時間という別の概念を持ち込まざるをえない。

2-6物語時間の独立性

ここまでで、現実のライブにおける時間の流れのような現実時間とは別に、曲の合間に行われる思考のような物語時間を想定する必要性が明らかになった。

しかし、説明の過程で、私は少々問題となることを言ってしまった。娘の教育の例文のなかでの「いい高校」という語についての「イギリスのボーディングスクールのことではなく、勉強して入ることができる、近所の高校のなかでの偏差値が高い高校、という程度の意味である。」という話だ。

実は、この文における「近所の高校のなかでの偏差値が高い高校」という話は、先ほどの例文において、どこにも出てきていない。うっかり、例文に登場していない前提を含めてしまった。

よく考えてみると、この例文に登場していない前提はたくさんある。例えば、私の娘は今の時点でも、そこそこ成績がいいので、「いい高校」というのが、偏差値55くらいの私が行ったA公立高校を指すのではなく、近所で一番の偏差値65くらいのB公立高校を指すということも説明していない。そういうことは、既に前提となっている。

それでは、これらの前提とは何なのかと問われれば、前提とは、今回の思考以前に行われた思考である、という答えとなるだろう。

私は、1ヶ月前に、娘の模試の結果を見て、ひと通り、こんなふうに考えていたとしよう。「模試の結果を見ると、今のところ近所で二番の公立高校なら行けそうだな。もう少し勉強しないと一番の公立高校は厳しそうだな。高校から一人暮らしをさせる訳にはいかないし、私立高校は学費が高いし、とりあえず近所の公立高校を目指したほうがいいかな。」というように。この思考が、その1ヶ月後に行われた今回の思考の前提となる。

このように1ヶ月前という別の時点の思考を持ち出すことは、時間について検討するうえで大きな意味を持つ。なぜなら、前提となる1ヶ月前の思考と今回の思考はつながっていることを意味するからだ。

一連の思考を物語と呼ぶならば、1ヶ月の現実時間を経て中断していた物語が続いたと言ってもよいだろう。1ヶ月前の思考と今回の思考は、1ヶ月の現実時間を間に挟みつつ一連の物語時間のなかに属している。

なぜなら、ふたつの思考は、ひとつながりの物語として捉えることができるからだ。

この、思考というものの現実時間を超えての中断と再開については、この文章自体も、よい例となる。この文章は、実際には何ヶ月もかけて、とぎれとぎれ土日に書いており、この部分を書くにあたっては、この部分以前の文章もざっと読み直しつつ、思い出しながら書いている。つまり、とぎれとぎれの土日という現実時間のなかに属しながらも、この思考は、ひとつながりの物語時間のなかにある。

このように考えていくと、徐々に現実時間に対する物語時間の独特な独立した在り方が浮き彫りになってくる。

2-7私の独我論における時間

ここまで、現実時間、物語時間というものを持ちだしたが、このような時間と私の独我論とはどのような関係があるのだろうか。

このことを整理するためには、この文の前半で登場した、私の認識論的独我論における夢の懐疑の拒否ということを、再度持ち出す必要がある。

先ほどのライブの例に戻ってみよう。私は、2曲目の演奏が終わった時点におり、1曲目と2曲目を振り返り、3曲目を待っているとしよう。夢の懐疑によれば、私は実はライブ会場になどおらず家で布団で寝ているのではないかという疑いがありうる。

しかし、私の認識論的独我論は「実は違った」という別の視点からの判断を拒否する。私の認識論的独我論によれば、実は布団で寝ているのかもしれないという疑いは成立せず、ただライブ会場にいるという認識があるだけである。

これは、現在ではなく過去についてであっても同じである。

夢の懐疑によれば、1曲目と2曲目を観たと思っているが、実は寝ぼけて勘違いしていて、本当は5曲目と7曲目だったのかもしれない。しかし私はその懐疑を拒否し、「1曲目と2曲目を観たと思っているのであれば、そう思っていないということはありえない。」と言い切る。私の認識論的独我論によれば、ただ、1曲目と2曲目を観たという認識があるだけである。

これらの認識は、あえて視点という言葉を用いるならば、今の視点からの今についての認識であり、また、今の視点からの過去についての認識である。

「認識とは常に今の視点からのものとしてある」という意味で、認識は独今論的在り方をしていると言ってもよい。しかし、私しかない独我論を独我論と言う必要すらないのと同じように、今以外の視点はないのだから、視点というものを持ち出し、独今論と言う必要すらないに過ぎない。

そして、私の認識論的独我論が否定している、夢の懐疑における「実は違った」という別の視点とは、今ではない未来の視点のことである。

夢の懐疑は、未来において、実は私は布団で寝ていると気付くことや、実は1曲目ではなく5曲目だったと気付くことがありうると囁くが、私はその可能性の囁きについて拒否する。このようにして、私の独我論と時間は接続する。

なお、なぜ私の独我論に過去の視点が登場しないのかと、疑問に思うかもしれない。

実はライブを観てなどおらず布団に寝ているのだったと、過去において既に気付いていたが、それを忘れてしまい、ライブを観ていると思い込んでいるだけかもしれない。そのような疑いは、過去の視点をベースにした夢の懐疑として成立するのではないか。そして、この過去の視点をベースにした夢の懐疑を拒否するものとしての独我論があってもいいのではないか。

しかし、このような、一見すると過去の視点をベースにしたように思える懐疑も、未来の視点としての夢の懐疑に含まれる。

なぜなら、「実は、過去において気付いていた。」ということに気付きうるのは未来においてだからだ。「ライブを観てなどおらず布団に寝ているのだったと過去において既に気付いていた。」ということを思い出すことができるのは未来においてである。

よって、私の独我論には過去の視点は登場しない。

以上、私の独我論においては、未来の視点を拒否し、今の視点に基づく独今論的立場に立つ、というかたちで時間を捉えていると言えよう。

2-8私の独我論における物語時間

この私の独我論に基づき、現実時間と物語時間という二つの時間を捉え直してみたい。

その前に、まず、具体例に基づき、現実時間と物語時間における過去・現在・未来について整理しておこう。

毎回例が変わって申し訳ないが、こんな例を用いたい。

「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声でビール乾杯し一口飲んだ後、餃子を食べた。隣の人がネギラーメンを食べていたので、たった今、いつものネギラーメンを注文した。数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」

この例において、現実時間の過去・現在・未来はこうなるだろう。

現実時間:過去「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声でビール乾杯し一口飲んだ後、餃子を食べた。隣の人がネギラーメンを食べていたのを見た。」

現実時間:現在「いつものネギラーメンを注文する。」

現実時間:未来「数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」

この現実時間の区分については、異論はないだろう。

一方で、物語時間の過去・現在・未来はこうなる。

物語時間:過去「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声でビール乾杯し一口飲んだ後、餃子を食べた。隣の人がネギラーメンを食べていたので、たった今、いつものネギラーメンを注文した。数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」

物語時間:現在(なし)

物語時間:未来(なし)

つまり、例文は全てが過去に位置づけられる。

どうしてそうなるのか、順を追って考えてみよう。

先ほど述べたとおり、物語時間において、物語つまり文は組み換え可能なものとしてホーリズム的に成立し、分割は不可能である。

よって、文の一部を過去に位置づけ、別の一部を現在に位置付ける、というようなことはできない。もしできるならば、それは分割可能であるということを意味することになってしまう。

つまり、物語を過去・現在・未来に位置付けるにあたっては、そのいずれかに全てを割り振らなければならない。

それでは、過去・現在・未来のいずれに物語の全てを位置付けることが適切なのだろうか。

そのことを考えるためには、文つまり物語から現実の時間という側面を削ぎ落としていく必要がある。

文には時制がある。時制表現を通じて、文は過去、現在、未来を指すとされる。しかし、文が過去・現在・未来のいずれかに全てが位置づけられなければならないとすれば、時制というものは決定的な意味は持たなくなる。

現実時間について、数直線の上に並べられた年表のようなものを想定するならば、過去、現在、未来という時制表現については、昨日、一昨日、数億年前というような、より近い過去、より遠い過去を意味する表現であったり、明日、明後日、数億年後というような、より近い未来、より遠い未来を意味する表現と同列に扱うことができることになる。

物語における時間から現実時間という側面を削ぎ落とす過程では、数直線の上に並べられた年表のような時間観とともに時制も削ぎ落とされる。

また、物語には文や語の前後関係があり、この前後関係が、物語時間の流れを生んでいるようにも思える。

「2曲目は新曲だったなあ。オープニングの1曲目は最近いつも同じ曲だな。そういえば2曲目のとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」というライブの例において、最初に「2曲目は新曲だったなあ。」と思い、次に「1曲目はいつも同じ曲だなあ。」と思う。そんな、いわゆる頭の中での思考の流れともいうべき時間の流れがあるようにも思える。

ラーメン屋での一コマとでも言うべき物語においても、ビールと餃子を注文し、ビールを飲み、餃子を食べる、という時間の流れがあるように思える。

シンデレラの物語でも、継母にいじめられていた前半と舞踏会に出る後半とがあり、前半から後半につながる時間の流れがあるように思える。

しかし、文の前後関係は、物語時間のことではない。

物語つまり文は組み換え可能なものとしてホーリズム的に成立し、分割は不可能である。継母にいじめられていた物語と舞踏会に出る物語とを分割して前半、後半と述べることはできない。シンデレラの物語は一挙に成立している。

物語に文や語の前後関係があると思えるのは、現実に物語を語った時間により物語を分割することができる、という現実時間の捉え方が入り込んでいるからである。

物語における時間から現実時間という側面を削ぎ落とす過程では、文の前後関係についても削ぎ落とされなければならない。

そのようにして、物語から現実の時間という側面を削ぎ落としていった結果、時間的なものとして何が残るのだろうか。

全ては既に語られた物語であり、何も時間的な要素は残らないようにも思える。

それでも、あえて、そこに残る何かを時間的に捉えるならば、そこにあるのは、既に語られた物語か、今語られている物語か、まだ語られていない物語か、という違いだけである。

あえて物語に特有な物語時間というものを措定するならば、これが物語時間である。

そして、既に語られた物語、今語られている物語、まだ語られていない物語のそれぞれが、過去、現在、未来に割り振られる。物語時間における過去は既に語られた物語としてあり、現在は今語られている物語としてあり、未来はまだ語られていない物語としてある。

これが、物語時間における過去・現在・未来である。

2-9私の独我論における現実時間

ここまでで物語時間については明らかになったとして、次に現実時間とは何かについて考えてみたい。

物語時間について検討するなかで削ぎ落とされたものを見直してみよう。

削ぎ落とされたのは、物語ビールと餃子を注文し、ビールを飲み、餃子を食べる、というような数直線の上に並べられた年表のような時間であった。

また、シンデレラの物語が継母にいじめられていた話から舞踏会に出るという話に続いていく、というような、文や語の前後関係であった。

そして、過去、現在、未来という時制区分であった。

これらは全て現実時間に属する。

これらの捉え方に共通するのは、複数の視点を想定するということである。

わかりやすいものから述べていくことにしよう。

まず、数直線の上に並べられた年表のような時間として時間を捉えられるのは、対等に複数の視点を出来事ごとに想定するからである。ビールと餃子を注文するという出来事とビールを飲むという出来事と餃子を食べるという出来事の三つの出来事を同等に捉え、同じ数直線の上に置くためには、三つの視点が並列となっていなければならない。

この説明にあたっては、直線上の三つの点で例えてもいいだろう。直線が時間の流れであり、直線上の三つの点は、ビールと餃子を注文する時点、ビールを飲む時点、餃子を食べる時点を意味する。そこに1点を加える。当然ながら、これは視点である。

三つの点を同等に見渡すことができる視点、つまり三つの点から等距離にある点はあるだろうか。

答えは、ない、だ。三つの出来事を同等に見渡すことができる視点は存在しない。

イメージしやすくするため、数直線上の点を三つにした。しかし、現実時間においては、年表のような時間軸上にはいくらでも出来事を想定できる。目の前の時計が午後9時5分1秒の時刻を示すという出来事と午後9時5分2秒の時刻を示すという出来事の間には、1・5秒の時刻を示すという出来事が想定できる。そのようにして、数直線上にはいくらでも時点を想定することができる。

ある任意の点を想定した場合、数直線上に直近の点が必ずある。また逆に、ある数直線上の任意の点に対して、他のどの数直線上の点よりも、その点を直近とする点が必ずある。

これは、数直線上に示される特定の時点と、特定の視点とは「直近」という特別の関係にあるということである。目の前の時計が午後9時5分1秒の時刻を示すという出来事には、必ず午後9時5分1秒の視点が対応し、目の前の時計が午後9時5分2秒の時刻を示すという出来事には、必ず午後9時5分2秒の視点が対応するということである。

そして、この視点と時点との関係は対等に並列している。

これが、数直線の上に時点を並べて年表のような時間を想定することが、並列した複数の視点を想定することにつながるということである。

次に、物語を文や語の前後関係として捉えるということについて述べることとしよう。 これも対等な複数の視点を想定するということになる。

物語のある部分、例えばシンデレラのカボチャの馬車のシーンに着目すれば、その前に継母にいじめられていた話があり、その後に舞踏会に出るという話がある。また、ガラスの靴を落とすシーンに着目すれば、その前に舞踏会の話があり、その後に王子がガラスの靴の持ち主を探す話がある。

このように、物語のある部分に着目することで、そこを区切りとして前後ということを述べることができる。

この着目とは、つまりは視点をそこに置くということである。

つまり、シンデレラという物語において文や語の前後関係を見出すことができるのは、そこに視点を置くからである。そして、シンデレラの物語のどこに着目しても文や語の前後関係があるように思えるのは、物語のどこにでも視点を置くことができるからである。物語に任意に複数の視点を置くことができるからこそ、文や語の前後関係として捉えることができる。そして、この任意というのは、視点の置き方に優先順位がなく対等であるということである。

これが、物語を文や語の前後関係として捉えることは複数の視点を想定するということである、ということの意味である。

最後に、時制区分についてだが、これも結論としては、同様に複数の視点の想定につながる。

ただ、説明が複雑になるので順を追って丁寧に説明することにしよう。

まず確認だが、先ほどの例を現実時間として捉えると、ビールと餃子を注文したということは過去に属し、ネギラーメンを注文するということは現在に属し、ネギラーメンが出されるだろうということは未来に属する。現実時間における時制区分についてはこのように捉えられる。

この現実時間における過去と未来の関係は、私の独我論において重要な役割を果たす夢の懐疑と深い関わりがある。先ほどの「私の認識論的独我論が否定している、夢の懐疑における「実は違った」という別の視点とは、今ではない未来の視点のことである。」という話のことである。

現実時間における過去と未来という二つの視点を想定することで、私の独我論が拒否した夢の懐疑が生じる。「ビールと餃子を注文した」時点と、「ネギラーメンが出されるだろう」時点とを別の時点として想定し、それぞれに並列的な視点を付与するからこそ、「ネギラーメンがだされるだろう」未来の時点での視点から、「ビールと餃子を注文した」過去の時点での視点に対して疑うことができる。ネギラーメンを食べながら、さっき本当にビールと餃子を注文したのだろうか、と夢の懐疑を遂行することができるということだ。

それでは、なぜ未来の視点から過去の視点を疑うことができるのに、逆に過去の視点から未来の視点を疑うことはできないのだろうか。

それは、現実時間における過去の出来事、「ビールと餃子を注文した」という出来事は、

「ビールと餃子を注文したと思っている」という認識を、現実の出来事に変換しているからだ。その変換の際に、夢の懐疑に付け込まれる隙が生じる。出来事として確定的に「ビールと餃子を注文した。」と述べるということは、「ビールと餃子を注文しなかったかもしれない。」と述べることに等しい。

一方で現実時間における未来の出来事、「ネギラーメンが出されるだろう」という出来事は、つまりは「ネギラーメンがだされるだろうと思っている」という認識そのもののことである。そこに何ら変換のようなはなく、夢の懐疑が生じる隙はない。ネギラーメンが出されるだろう、と思っていたら、店員が間違えてチャーシューメンを出したということはありうるが、これは単なる予測の誤りであり、「実は違った」という夢の懐疑ではない。

つまり、現実時間の過去、未来という時制区分は、複数の視点を想定し、未来において過去を疑うという夢の懐疑を生じさせる仕組みそのもののことである。

このように、数直線の上に並べられた年表のような時間、物語における文や語の前後関係、時制区分という、現実時間的な捉え方に共通するのは、複数の視点を想定するということへの深い関与である。

複数の視点を拒否する私の独我論においては、必然的に複数の視点を想定せざるを得ない現実時間を拒否しなければならない。

2-10現実時間の現在についての補足

なお、説明をとばしてしまったが、現実時間における現在というものの扱いについても述べておく必要がある。

現実時間における現在とは、この例においては、ネギラーメンを注文するということだった。

しかし、ネギラーメンを注文するという作業は一定程度の時間を要する。私「ネギラーメンちょうだい。」、店員「へい、わかりました。」くらいのやりとりがあり、多分、5秒か10秒くらいの時間がかかるだろう。このような幅があるものとして現在というものを考えてよいのだろうか。

「ネギラーメンちょうだい。」という発話だけを取り出しても、「ネギ」という発話と「ラーメン」という発話では、ある時間経過があるといってもよい。「ラーメン」と発話しているのが現在ならば、「ネギ」と発話したのは過去である。こんなふうにも言えそうだ。

この問題については、現在には幅があり、場合に応じて伸縮するという考えにより解決することもできるようにも思える。私のラーメン屋での行動についての場面であれば、ネギラーメンを注文するということが現在になり、天文学的な地球の成り立ちについての場面であれば、数百万年前に人類が誕生してからが現在になる、というような具合にだ。

しかし、このような、出来事をまとめて捉えるという方法は、現実時間ではなく、物語時間と親和性がある。物語だからこそ分割不可能な一連のものとして捉えることができる。

天文学的な時間軸のなかでは数百万年の幅を現在と捉えることができるのは、それが、天文学的な地球の成り立ちについての物語だからであり、その物語において、数百万年前以降を現在と表現しているからである。また、ラーメン屋での私の行動という物語において、ネギラーメンの注文を現在として表現しているからである。

このような任意の幅を持ったものとしての現在の捉え方を、物語時間に属するものとするならば、現実時間における現在とは、幅のない、過去と未来の境界という意味しかなくなる。現実時間の未来は、現在という境界を乗り越えて過去となる。現在について、それ以上の意味を持たせることはできない。

なお、ここでの説明で物語時間に属する現在というものを持ちだしたが、先ほど既に語られた物語は全て過去であるという話をしたことと齟齬があるようにも思えるかもしれない。この点は、少し説明しておく必要があるだろう。

ここで持ちだした物語時間に属する現在というのは、物語の中で、現在として語られているということに過ぎない。つまりは、物語の中での時制区分の表現に過ぎない。物語の中で「私は今、ネギラーメンを注文した。」とあれば、それは物語の中での現在とされた、ということである。この「現在」という語は、物語のなかの他の時間に関する語、例えば「1ヶ月前に子供の進路について考えた。」の「1ヶ月前」や、「数十億年後には地球が太陽に飲み込まれるだろう。」の「数十億年後」と全く同じ位置づけである。

更に言えば、先ほど、現実時間を拒否したことにより、時間に関する語である「現在」「1ヶ月前」「数十億年後」といった語について、数直線上の年表のような現実時間としての意味を持たせることも拒否するということになる。これは、時間に関する語について、時間特有の意味を持たせることはできないということである。

「現在」「1ヶ月前」「数十億年後」といった語には、既に語られた物語のなかに登場する語という位置づけしかなく、「ペットボトル」や「赤い」のような語と全く同じ位置づけにであると言ってもよい。

つまり、現実時間における現在とは、物語のなかで「現在」という語を使うということであり、それは、「現在」という語と「ラーメン屋で注文する」という文を結びつけて語ったということに過ぎない。これは、「楽しくライブを観た。」という文は、「楽しい」と「ライブを観た」が結び付けられてできた文であり、楽しい行為として、ライブを観るという行為を語ったというように分解して説明できるということと全く同じ構造である。

2-11物語時間における内包の認識・存在・言語

先ほど、現実時間を認めることは複数の視点を認め、夢の懐疑を認めるということであり、別の視点を拒否する私の独我論においては、現実時間を拒否しなければならないと言った。これは、つまり、私の独我論においては、物語時間しかないということである。

ここまで述べれば、私の独我論と物語時間とは、極めて密接な関係にあるということが容易に理解できるだろう。

このように舞台を整えたうえで、もともとの問題であった、過去=内包の認識、現在=存在、未来=言語 という独我論と時間の対応関係の話に戻りたい。

この対応関係は、ここまでの話を踏まえれば、私の独我論と物語時間における過去・現在・未来との対応関係だということになる。

物語時間における過去とは、「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声で乾杯した後、餃子をつまみにビールを飲んだ。隣の人がネギラーメンを食べていたので、たった今、いつものネギラーメンを注文した。数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」というような語られた物語のことであった。

これが内包の認識であるこということは明らかだろう。内包の認識は、物語時間における過去、つまり既に語られた物語としてホーリズム的に存在する。

なお、このホーリズム性こそが、ウィトゲンシュタインの以下同様なのであろう。今日の足し算と明日の足し算、そして1ヶ月前の足し算と数十億年後の足し算は、同じ物語に含まれるからこそ、同じ足し算として理解できる。

また、物語時間における現在とは、今、語られている物語のことであった。これが、物語の存在を意味し、存在論的独我論における存在と結びつくということも異論はないだろう。この現に物語を語るということこそが、独我論的には、内包の認識としての過去、そして、言語としての未来も含めた全ての存在を担保する。

物語時間における現在とは、存在のことである。

最後に、物語時間における未来については、結論としてはイコール言語ということになるが、少々丁寧な説明を要するだろう。先ほど、現実時間における未来はないが、物語時間における未来はあるとしたところからして、わかりにくいのではないか。

現実時間における未来とは、私の認識論的独我論において否定した「別の視点」のことであり、物語時間における未来とは、まだ語られていない物語のことであった。両者は何が異なるのか。なぜ一方は否定され、もう一方は肯定されるのか。

このような疑問を解決するためには、私が未来と結びつくとしている言語というものについて、詳述しておく必要があるだろう。

私はこれまで、言語について、言語ゲームにおいて用いられるペットボトルのような具体的な語をイメージできるかのように話を進めてきた。

しかし、ここから先に話を進めるためには、もう少し純度を上げなければならない。

私の独我論は、認識論的独我論、存在論的独我論、意味論的独我論という三種類の独我論の緊密なネットワークである。

よって、それぞれの独我論の中心的概念である、内包の認識、存在、言語についても相互に緊密な関係がある。ペットボトルは、ペットボトルという言語であるだけでなく、ペットボトルという内包の認識であり、ペットボトルの存在である。そこには緊密な関係があり、ペットボトルから言語としての側面だけを抽出することはできない。それが容易にできるならば、そもそも三種類の独我論のネットワークとして語ってきたことの意味がなくなってしまう。

しかし、ここから先に話を進めるためには、ペットボトルから、ペットボトルという内包の認識とペットボトルの存在を除去し、ペットボトルという言語だけを抽出してイメージすることを強いなければならない。そこには本質的な困難があり、不十分なものとならざるを得ないが、少し、お付き合いいただきたい。

まず、ペットボトルから、様々な内包の認識、つまり物語時間における既に語られた物語を除去してみよう。生まれてから今までの間に語られたであろう、全てのペットボトルに関する物語を捨て去ってみよう。少しでもペットボトルに関係しそうな物語は全て捨て去らなければならない。

内包の認識はホーリズム的に一繋がりの物語としてあるのだから、厳密にはペットボトルについての物語だけを捨て去ることはできない。しかし、ペットボトルにまつわる物語を思い付く限り捨て去ることで、近似的、擬似的な思考実験として方向性だけは理解できるはずだ。

次に、ペットボトルから、ペットボトルの存在を除去してみよう。この存在の除去をイメージすることも困難なはずだ。なぜなら、この除去すべき存在とは、入不二流に言えば、つまりは無内包の絶対現実のことであり、このような意味での存在が欠けた状況というのは、具体例としてありえないからだ。

この二段階の困難を乗り越え、ペットボトルの言語としての側面だけをイメージすることはできただろうか。

私がそこに見出したのは、可能性そのものとしての言語である。

私は、言語について、可能性を立ち上げるものとして捉えている。

「ペットボトル」という例を用いて説明するならば、言語について、次のように説明することができる。これは、排中律を立ち上げ、いずれか一方に決定する働きであると言ってもよい。

「ペットボトルがある。」と語るということは、「ペットボトルはあるか、ないかのいずれかである。」という可能性を立ち上げたうえで、いずれかのうちの「ペットボトルがある。」の方である、と確定させることである。

この説明文のうちのカギ括弧は、「ペットボトル」というキーワードが含まれているとおり具体的な内包の認識のことである。そして、現に語られ、現に可能性が立ち上がり、現に確定するということが、存在するということである。

内包の認識と存在を除去し、言語としての面のみを捉えるということは、先ほどの説明文から具体的な内包の認識と存在に関する表現を除去するということと似ている。

先ほどの文から、内包の認識についての表現であるカギ括弧の中身と、存在に関する表現である述語、つまり「語る」「立ち上げる」「である」「確定させる」を除去してみる。

そうすると、こうなる。

「 」ということは、「 」という可能性、いずれかのうちの「 」の方

というようになる。

この文は不完全ではあるが、可能性そのものを指していると言えるのではないか。

つまり、ペットボトルというような具体性はなく、現に語られるでも語られないでもなく、立ち上がるでもなく立ち上がらないでもなく、確定するでも確定しないでもない可能性そのものこそが言語であると言うことができるのではないか。

まだこれではわかりにくいので、更に説明を試みてみよう。ただ、これ以上踏み込んだ説明をするためには、不正確な説明とならざるを得ない。

言語について「可能性が立ち上がっている」の方に若干振って、不正確な説明を行うならば、言語とは、「内包の認識をもとに、その内包を別様に再構成することができる可能性」のことであるとも言えよう。

あえて具体例を出すならば、生まれてから、ラーメンを食べ、ビールを飲むという経験しかしたことがなく、それらの内包の認識しかない人がいるとしよう。

この人が語ることができる言語は、「ラーメン」「ビール」「食べる」「飲む」という内包の認識の組み合わせだけである。つまり、「ラーメンを食べる」「ビールを飲む」「ラーメンを飲む」「ビールを食べる」という言葉を語ることができる。

この組み合わせが「内包の認識をもとに、その内包を別様に再構成することができる可能性」としての言語である。

また、言語について、逆に「可能性が立ち上がっていない」の方に若干振って不正確な説明を行うならば、言語は、ただ「ない」ということである。

このように言語というものの純度を上げたうえで、物語時間の未来について捉え直してみたい。

物語時間における未来とは、まだ語られていない物語のことであった。物語は、「まだ」語られていないのだから、今後、語られる可能性がなければならない。全く可能性がないのなら、そこに、「まだ」語られていない物語があるとは言えない。

しかし、一方で、語られる可能性があってはいけない。なぜなら、語られるということは、過去となり、内包の認識になるということを意味するからである。そのような可能性があるということは、過去、つまり既に語られた物語と何らかの繋がりがあり、未来としての純度が低いということを意味する。(なお、現実時間における未来を否定したのは、過去と繋がりを保ったままとなっている純度が低い未来を、「実は違った」という視点を招くものとして否定したということである。)

このように、物語時間における未来も、可能性があるでもなく、可能性ないでもないというあり方をしている。

これは当然ながら、物語時間における未来とは、「可能性そのもの」という意味あいとしての言語のことだということになる。このようにして、物語時間における未来は、言語と結びつく。

そして、言語について行なったのと同様な不正確な説明は、物語時間における未来に対しても行うことができる。

未来があるとするならば、先ほどの、ラーメンを食べ、ビールを飲むという経験しかしたことがない人が描くことができる未来は、「ラーメンを食べる」「ビールを飲む」「ラーメンを飲む」「ビールを食べる」だけである。このような未来しか描けないということは、逆に言うならば、このような未来は描くことができる、ということである。

また、未来がないとするならば、未来は、ただない。

この「ある」と「ない」の狭間に、物語時間における未来はある。

2-12注意:私の独我論の範囲

ここまでで、ほぼ私の独我論についての説明は終わった。

ただ念のため最後に、この独我論は徹底的に別の視点を否定するものだということを強調して説明を終えたい。

この独我論は徹底的に別の視点を否定する。だから当然ながら、この文章における、この私の独我論にも、別の視点はない。これは現に行っているこの思考だけを具体例として考察を行なっているということを意味する。

それはまず、私の独我論では、読者であるあなたの視点は、別の視点として拒否されるということを意味する。

また、私自身の別の視点も拒否されるということをも意味する。

今、私は、この文章に書いてあるようなことを思考している。なぜなら、現に、この文章を書いているのだから。よって、私にはこの視点しかない。別の視点、例えばライブを観たり、ラーメンを注文したり、ラーメンのことや娘の受験勉強のことを思考したりしている私の視点はこの議論に持ち込むことはできない。私が普通の意味で、生まれてから今まで行なってきたとされる経験や思考は、この文章で登場しない限り、別の視点であり、私の独我論では無視される。

一方で、ラーメンや娘の受験勉強についての思考は、例としてこの思考のなかに登場しており、その限りでは、現に行なっているこの思考として、私の独我論のなかにあるとも言える。

また、この文章にあることであっても、今、この思考で考慮していないことは、私の一連の思考とは言えないので、私の独我論では無視されることになろう。今、私は、この文章の「0最初に:言い訳」において何を書いたか覚えておらず、この思考において「0最初に:言い訳」で書いたことは登場してこないので、「0最初に:言い訳」の記載は、私の独我論では無視される。(厳密にはここで登場したので、その限りではこの思考であるとも言えるが。)

このように、私の独我論は、どこまでも独我論的に、そして独今論的に、自己言及的なかたちで行われる営みである。

このことは、私の独我論が捉えることができる範囲が、私のこの思考という極めて狭いものであるということを意味する。

しかしながら一方では、ホーリズム的な観点からすれば、私のこの思考は、思考全てのことであり、独我論的な意味での世界全てのことでもあるとも言える。