2017年3月4日作

PDF:居場所と友情

1 居場所
僕は、多分、居場所を探している。
といっても、僕は働いていて、妻も子供もいる。つまり職場や家庭という居場所がある。それも決して悪くない居場所だ。
職場では一定の人間関係を築き、年齢に相応しいポストに就き、当然、物理的な居場所、つまりデスクがある。冷暖房などの環境は良いほうではないが、日本のオフィス事情としては及第点だろう。仕事が極端につまらない訳でもないし、仕事に忙殺されている訳でもない。
プライベートでも、数年前に家を建て、妻と子供の3人で住んでいる。狭いけれど、建築家に希望を伝えて設計してもらったから、当然僕たち家族に合っていて気に入っている。家族の関係は良いし、更には自分の部屋もある。居間にいても、自分の部屋にいても落ち着く。
更には、もっと観念的な居場所もある。僕は時々ヨガをしているのだけど、ヨガでは、ヨガマットの上は特別な場所とされる。まさに居場所だ。そこでは世間から離れ、一人、自分の体と向き合うことができる。また、こうして文章を書くことも自分の居場所と言えなくもない。僕は文章を書くのが好きで、自宅や喫茶店でパソコンを広げて書いているのだけど、パソコンの前にいると落ち着く。そのようなことをする時間も、まあ、確保できている。
これで居場所がないと言ったら怒られる。
だけど、僕は、居場所をなぜか探している。
僕は、何を求めているのだろうか。

2 コミュニケーションの負荷
きっと僕は人とのつながりを求めているのだろう。
僕には「友人」と呼べる人が少ない。
確かに、一緒にスキーに行ったり、旅行に行ったりするような、いわゆる遊び友達はいる。これは、いわば目的に沿った関係であり、友情に基づく友達とは違う気がする。
だから僕は、相手から近づいてくるので友達になることはあっても、用もなく相手に近づくことはあまりない。。つまり誘われれば遊びに行く関係ばかりだ。これで友人が多いはずがない。

僕は人と会うと、うまくコミュニケーションをとろうとして、逆に自分のペースを乱し、傷ついてしまうことが多い。
傷つくと言っても、ささいなことだ。調子に乗って話しすぎてしまったり、場の沈黙を打ち消すために無理に話してしまったり、うまい言葉が出てこなかったり、適当な相槌を打ってしまったり、人の名前を思い出せなかったり、相手の間違いを指摘できなかったり、そういう、コミュニケーション上のちょっとしたミスで僕は傷つく。
また、目立ったミスはなくても、ミスがないよう気を配ることで、とても疲れる。
この傷や労力に見合う何かを得られるのでなければ、人になんて近づかなくていい。そこには人間関係の負荷のようなものがあるのだ。

当然、人に近づくことで得られるものが多ければ、つまり負荷を乗り越えるような何かがあれば人と近づくことになる。
だけど僕には、人間関係から得られるものは多くなく、基本的に割に合わないように思える。数少ない例外が、家族のような人たちだ。家族のような人間関係は、負荷が軽い割に、得るものが多い。効率よく、コミュニケーションの喜びとでも言うべき何かを得られる。

3 家族
ここで「家族」という人間関係の特別さについて考えてみたい。
家族とのコミュニケーションの負荷が軽いのは、家族という基盤があることが大きいだろう。
親子や夫婦という関係からは、なかなか離れられない。離れるためには、離婚や離縁という手続きが必要だ。それでも、元夫婦、元親子という関係はなくならない。これは、それ以外の関係、つまり友人と疎遠になることの自然さとは全く違う。
だから、家族とは、基盤があるので安心して疎遠になる可能性を恐れずにコミュニケーションをとることができる。
これと似たことは、レベルは違うにしても、同級生、同窓生、職場の同僚といった関係についても言える。そこには揺るがし難い、ある特別な親密さがある。名前がついた人間関係には、コミュニケーションの負荷を軽減する力がある。

4 友人・親友
それでは、「家族」「同級生」「同僚」のような名前がつかない関係、いわゆる友人、友情一般とは、何なのだろうか。
先ほど言ったように、僕は友人が少ない。親友なんて居ないかもしれない。
その理由は主に、僕の人付き合いの浅さによるが、もうひとつ、友人や親友という語のあいまいさがあるように思う。
知人と友人と親友の境界はあいまいだ。知人から友人になる契約や儀式がある訳ではなく、年に何回以上会ったら友人になる訳でもない。友人になったからといって、知人とは違う何かが手に入る訳ではない。友人から親友へのランクアップについても同様だ。

そこには多分、知人から友人、友人から親友というように、緩やかなグラデーションを描き連続的につながる何かしらの要素がある。それを多分友情と言うのだろう。
そして、僕は友情に疎いから、繊細なグラディエーションを感じることができず、友人や親友が少ないと思ってしまう。

友情というものの繊細さから、相手を友人、親友と呼ぶのを憚られるもう一つの理由が生じる。
友情とは捉えがたい繊細なものだから、この関係を相手がどう思っているか、なかなかわからない。お互いに友人と思っていなければ友人ではないし、お互いに親友と思っていなければ親友ではない。友人と思っていたら片思いということもある。だからこちらからはなかなか友人と呼びにくい。
実際、相手は明らかに友人と思っていそうだけれど、僕からは友人と思えないような関係もある。相手には申し訳ないと思うと同時に、かわいそうな気持ちにもなる。僕はそう思われたくない。

5 恋愛
僕だけの戦略かもしれないが、このような友情の微妙さを克服するために、僕は恋愛をするのかもしれない。僕は、友情というものの微妙なニュアンスを捉えるのが苦手だから、もっとわかりやすい恋愛というかたちに置き換えてしまっているのではないだろうか。
恋人とは、家族などと同じように名前が付いた関係だ。恋人になるためには告白というプロセスを踏む。お互いに恋人という関係に入ることに合意する。
恋は実らず片思いとなったとしても、告白し、失恋していれば、お互いに片思いという関係性をしっかり認識していることになる。また告白できず、思いを内に秘めていたとしても、自分自身は自らの気持ちを明確に意識しているし、また、相手がその気持ちに気付いていないことも明確だ。この状況は明確な片思いという関係性だ。いずれにせよ、恋愛からは、恋人や片思いといった名前がついた関係性が導かれる。
だから、どのような結果になるにせよ、恋愛は、友人よりもはるかに明確で安定的な人間関係だ。僕は、この恋が成就するにせよ、しないにせよ、こういう関係のほうが楽なのだろう。
このような事情から、僕は、ある人に近づきたいと思ったとき、実は、その動機は友情によるのかもしれないのに、それを恋愛感情と無理やり思い込んでしまっているのかもしれない。
そして、当然僕には性欲があるから、恋愛感情との思い込みに拍車をかけてしまう。性欲から誰かに近づきたいと思っているのに、それを恋愛関係のような、もっと正当化できる理由にしたいという気持ちは理解してもらえるだろう。恋愛感情というのは色々と便利な言い訳なのかもしれない。
このようにして、僕は、実は、異性に対する友情や性欲を恋愛感情に誤変換してしまっているのかもしれない。

6 コミュニケーションの喜び
ただし、僕にもわずかだけれど、家族以外にも、恋愛感情などによらず、近づきたくなる人達がいる。
人間関係が持つ、コミュニケーションの負荷という斥力を、コミュニケーションの喜びという引力が上回り、近づきたいと思う人達が、わずかだけどいる。
その人達を友人と呼ぶことに異論はない。もしかしたら親友と呼んでもいいのかもしれない。
コミュニケーションの負荷という斥力をコミュニケーションの喜びという引力が上回ることを友情と呼ぶ。これが、僕にとっての友情の定義になりそうだ。こんなに硬い定義をしなければならないというのが、いかにも友情下手な気もするけれど。

それでは、友情というものに関する僕自身の理解のため、コミュニケーションの負荷という斥力と、コミュニケーションの喜びという引力について、もう少し考えてみたい。
まず、コミュニケーションの負荷とは何か、という問いに対する答えは明確だろう。うまくコミュニケーションがとれず、コミュニケーション上のささいなミスをしてしまうかもしれないことこそが負荷の重さだ。家族と話すのは慣れていて緊張しないし、相手についての情報も多いから色々と予測や心構えができる。また、家族という揺るぎない基盤があるから、うまく話そうという気負いもない。だから負荷が軽い。こういうことこそがコミュニケーションの負荷の重さ、軽さだということは実感としてよくわかる。

それでは、もう一方のコミュニケーションの喜びとは何だろう。
例えば、僕にとって望ましいものである家族とのコミュニケーションで、僕は何を得ているのだろう。
妻とは趣味が合うので、ライブの情報など、色々な興味深い話が聞ける。子供も頭がよいので機転が利いた楽しい話ができる。会話の内容として面白い。それがコミュニケーションの喜びのようにも思える。
だけど、もしそうなら、ネット上で興味のある記事や書き込みを読んだほうが、よほど効率がいい。人によってはテレビのお笑い芸人でもいいだろう。いわゆる文化人のインタビューもいいかもしれない。そういう、特別な人の特別な話は面白い。一方で僕の家族は一般人だ。確かに、生活を共にし、長く接しているからこそできる話もある。だけど、話が飛びぬけて面白い、とまでは言えない。会話の内容自体が優れているとは言えない。
それでも僕は、あえて、その内容・情報という面では非効率な家族とコミュニケーションを積極的に行っている。
家族だけに注目すると、会話をしなければ家族関係が壊れ、ひいては離婚につながる。子供をほったらかす訳にはいかない、なんていう他の話が入り込んできてしまいそうだ。だから、数少ない僕の友人のことを思い起こしてみるが、それでも、やはり同じだ。話の内容は、ネットの情報には及ばない。話の上手さだってテレビの芸人には及ばない。
会話の内容からコミュニケーションの喜びを得ている訳ではなさそうだ。

コミュニケーションの喜びとは、コミュニケーションを通じて、家族が自分を尊重し、優しくしてくれることを確認できるから生じるのかもしれない。例えば、妻が僕に愛している、と言ってくれれば、僕は安心し、嬉しいだろう。そう考えることはできないだろうか。
しかし、よく考えれば、その安心や嬉しさは、コミュニケーションに由来するものではない。僕が嬉しいのは妻が僕のことを愛していること自体であり、妻の愛しているという言葉ではない。僕は、コミュニケーションの手前にある妻の気持ちが嬉しいのだ。
それでも、愛していると言われなければ、僕は妻の気持ちに気付くことができない、とは言える。妻からの愛情の存在という、僕にとって好ましいことであっても、言葉がなければ僕は知ることができない。コミュニケーションがあるからこそ、喜びを感じることができる。ここから、家族とのコミュニケーションでは好ましい情報を提供されることが多いということこそが、家族とのコミュニケーションで喜びを感じるということなのだと考えることもできそうだ。
しかし、そうだとすると、お得で好ましい情報が多いから、テレビの通販番組とのコミュニケーションは喜びに満ちている、なんていう考えもできることになってしまう。コミュニケーションの喜びの源泉は会話の内容ではないか、という先ほどの話と違いがなくなってしまう。

いくら考えても、コミュニケーションから得られるものとは、家族や限られた人とだけ交わすことができる、良質なコミュニケーションそのもの以外には思いつかない。
暫定的な結論かもしれないが、良質なコミュニケーション、つまり負荷が軽いコミュニケーションこそがコミュニケーションの喜びの正体であり、僕が求めているものなのだ。としたい。
それが、なかなか得られないから、僕は人に近づきたくないと思っている。だから僕は友人が少ないのだ。

7 負荷の軽さの再確認
この、「負荷が軽い」ということについて、誤解の無いよう確認しておきたいが、負荷が軽いコミュニケーションとは、当たり障りのない話をすることとは違う。初対面の人とは、天気の話のような、当たり障りのない話をすることが多いが、これは決して負荷が軽くはない。うまくコミュニケーションをとるために、相手の出方を探りつつ、なんとか一致する部分を見出そうとするような試みが水面下で激しく展開されている。これは、僕には、かなり負荷がかかる作業だ。
だから、重大な家族の会話、例えば、子供の進路を決める家族会議のような場だからといって、負荷が重い訳ではない。確かに、このような重大な場の前は、しっかり話そうと思い気を引き締める。それを緊張と言ってもいいかもしれない。しかし、これは、コミュニケーションでミスをしないように、という、あの緊張感とは違う。いわば、もっとポジティブな緊張感だ。

8 発想の転換
どうすれば、負荷が軽いコミュニケーションができるようになるのだろう。どうすれば、うまくコミュニケーションがとれないことや、コミュニケーション上のささいなミスを心配せずに済むのだろう。

ここで、発想の転換ができるのではないか。
傷つかないようコミュニケーションを避けたり、コミュニケーションのなかでなんとか被害が最小限になるようやり過ごすのではなく、コミュニケーションをしても傷つかないような状況を準備すればよいのではないか。
うまくコミュニケーションをとれるか心配なら、うまくとろうとしなくても、うまくとれる場を作ればよい。
自分のペースを乱されるのが嫌なら、乱されない場を作ればよい。
うまくいくように前もって場を準備すればよい。それが居場所だ。

こうして、どうすれば負荷が軽いコミュニケーションができるのか、という問題は、僕が探している居場所とは何なのか、という問題と重ねることができた。居場所は探すものではなく、作るものだったのだ。

9 留意点
ここで、居場所を作るにあたっての留意点を確認しておきたい。
まず、僕は、一人で居るのが好きで、そのような時間を必要としていることは認めるべきだ。常に、コミュニケーションを求めている訳ではなく、常に人と繋がることができる居場所に居たい訳でもない。これは個人差であり、多分、どうしようもない。どんなに理想的な居場所でも、僕はそこに長居したくないときもあるに違いない。
また、僕は、この居場所に誰構わず招きたい訳ではない。まず、僕が望んでも相手がが望まないならば、無理に来てもらわなくてよいし、また、僕自身が招きたくない人というのも、確かに居る。
つまり、僕自身は居場所に入ったり、入らなかったり選択できるのでなければならない。また、僕以外の他者がその居場所に入るかどうかも、僕自身とその他者自身が選べるのでなければならない。

10 聖域・儀式・祈り
そのためには、まず、居場所は、それ以外の世界、つまり外界と分けられていなければならず、居場所に入るためには、僕自身も他者も何らかの障壁を乗り越える必要があるのでなければならない。
日常と連続的につながっていては、僕はその居場所に入ったり、出たり、という選択をすることができない。常に入りっぱなしになってしまう。誰かを招いたり、断ったりすることもできない。
だから、僕は、隔離された空間・時間を居場所として確保し、そこを良質なコミュニケーションができるような場として整え、準備する。
できれば、心地よい場としたほうがいいだろう。ロケーションやインテリアにこだわり、音や匂いにも配慮する。空気感というか、皮膚感覚も含めた五感で快適さを感じられれば最高だ。
ここで、僕は、おしゃれな古民家カフェのようなものをイメージしているけれど、見方を変えれば、宗教施設のようだとも言える。清々しい神社ともイメージが重なる。これは、僕にとっての聖域なのだ。

そして、聖域に入るためには儀式が必要となる。
儀式とは、聖域に入った後は聖域のルールに従うという態度表明である。
聖域のルールはただひとつ。その場でのコミュニケーションのみを尊重することだ。
僕のコミュニケーション上の失敗は、コミュニケーションの場にあるもの以外を気にしてしまい、目の前のコミュニケーションをおろそかにしてしまうことから生じていると思う。
僕は、現にその場で交わされている言葉や、態度や、眼差しといったものから気をそらし、僕が勝手に想像で作り上げた相手のイメージや、その相手から見えている自分のイメージといったものに気をとられてしまうことがある。だから、勝手に心配したり、変に繕ってしまったりする。これが失敗の原因だ。
僕は、僕の想像するあなたではなく、目の前のあなたが現に発している言葉や、態度や、眼差しをしっかりと受け止めなければならない。また、僕が想像する僕自身の見られ方ではなく、僕が発する言葉や、僕の内面といったものをしっかりと見つめなければなない。そして、僕とあなたとの間で交わされる対話そのものを深く感じ取らなければならない。それは、他のことに気を取られつつ、片手間でできるようなことではない。その場では、ただ、その場でのコミュニケーションだけを尊重しなければならない。
これが、僕の居場所、コミュニケーションの聖域でのルールだ。
これさえ守られれば、現に行われているコミュニケーションが、何か別の事情により阻害されることはない。僕は傷つくことはない。

その結果、聖域でのコミュニケーションは、ある特別なものとなる。
そこには、場に対しての真摯な思いがある。ただし、真剣、真面目、集中といった言葉とは違う。これらの言葉には静的なニュアンスがつきまとう。コミュニケーションとは、軽やかで動的なものだ。そこには集中だけでなく解放、真剣さと気楽さ、真面目さと脱線という両極がある。なぜなら、聖域におけるコミュニケーションは、コミュニケーション以外の何者にも束縛されない、いわば全てなのだから。だから、コミュニケーションは、集中と解放、真剣と気楽、真面目と脱線といった両極も含めた全てを織り込むことになる。聖域でのコミュニケーションにおいては、僕たちは、その全てに真摯に向き合うのだ。
この動性には、広がる水の波紋や水の波紋に例えられるようなリズムがある。両極を揺れ動くリズムがあるからこそ、コミュニケーションは全てを折り込み、包み込むことができる。
そして僕は、自由なコミュニケーションの場において、傷つくことの恐れから解き放たれ、自由を手に入れる。天に向け駆け上がり、深海に潜るような生命の喜びを手に入れる。
この不思議なプロセスは、まるで祈りのようだ。