高齢化問題

今、日本では高齢化により年金制度が破綻するのではないかと問題になっている。
この文章では、高齢化問題を哲学と絡めて考えてみたいと思う。

そもそも高齢化はなぜ進むのか。
科学技術の発達とか、人権意識の向上とか、いくつかの理由があるだろうが、より根源的な理由としては、みんなに長生きしたいという希望があるからだろう。
みんな長生きしたいから医療が発達し、寿命が延びる。だから、高齢化する。
みんなの長生きしたいという思いが高齢化につながっている。
それだけの問題ではないが、そういう一面があるのは確かだろう。

では、なぜ長生きをしたいのか。
ひとつの動機としては、具体的にやりたいことが何かあり、その何かをやるために時間が必要ということがあるだろう。
革命を成し遂げるために時間が欲しいとか、子供が成人するまでは子供の世話をしたいとか、孫の成人式を見たいとか、そういうことだ。
そのような具体的な何かのために長生きしたいというのは、その内容の是非はともかくとして理解できる。
だが、ここでは、そのような具体的な動機とは別に、なんとなく長生きしたい、という漠然とした思いを問題としたい。
具体的な何かのためではなく、とにかく長く生きたい、というのはどういうことなのか。

僕は、これは単なる死の先送りなのではないかと睨んでいる。
生きたいのではなく、死を避けたいのだ。

考えてみると「生きる」というのは何をしているかよくわからない。
革命を起こすとか、子供の世話をするとか、孫の成人式を見るとか、そういう具体的な何かをするではなく、その前提として普遍的にある「生きる」をするとはどういうことなのか。
この疑問は「人生とは何か。」という問いに言い換えてもよいだろう。これは哲学的な大問題だ。
この問いへの答えがないから、人は死を避けたいのではないか。
もし「人生とは○○である。」と断言できるならば、その○○が達成されれば、いつでも死んでもいいはずなのだから。

特にやりたいことはなくても苦しいから死ぬのは嫌だ。それでいいではないか。という反論もあるだろう。
だが、そうだとすると、それこそが人生の定義となる。
それならば、その反論を「人生とは○○である。」の○○に入れ込まなければならない。「人生とは苦しみを避けることである。」というように。
そして、この定義はどのような場合でもあてはまるべきものでなければならない。少なくとも、他にありえる定義と併記して両立しなければならない。
「人生とは苦しみを避けることである。」という主張は一見当たり前のようだが、普遍的に適用しようとすると色々な問題が出てくる。
例えば、ある解釈をとるならば、苦しみを避けるならば、死刑や懲役刑のような苦痛を与える刑事罰は許されないということになるかもしれない。
(ここでは、「(普遍的な)人生とは(それぞれの個人の)苦しみを避けることである。」というような解釈をしたが、「(私の)人生とは(私の)苦しみを避けることである。」というような解釈をしても似たような問題は生じるだろう。)
これはあくまでも原則であって、細かい適用は具体的な状況に応じて判断するべき、としたくなるかもしれないが、これは人生の定義なのだから、それはどこまでも定義のなかに書き込まなければならない。

回りくどい説明となってしまったが、ここで伝えたかったことは、人生について、普遍的に誰もが納得するようなかたちで「人生とは○○である。」と定義することは、かなりの困難があるということだ。
「人生とは何か。」とは、これまで、どんな哲学者も答えることができていない問いなのだ。
答えたつもりになっている哲学者もいるだろうが、残念ながら、その確信は反論され反駁されてしまっている。

それでは宗教はどうか。
多分、ほとんどの宗教は、「人生とは何か。」という問いに答えた気になっている。というか、この問いに答えていることこそが宗教の条件のひとつだろう。
だから、現実的な第一の選択肢としては、宗教を信じてそこに答えを見つけるというやり方がありうる。
だが、それで満たされる人はいいけれど、残念ながら、現在は、宗教が信じられにくい時代だがら、なかなか宗教は通用しにくくなってきている。
また、残念ながら僕に対しては宗教の企ては成功していない。
当然、成功していると言う人もいるのはわかるが(そのような人がいるからこそ宗教なのだろうが)少なくともその成功は僕のもとには到達していない。

第二の選択肢としては、宗教に替わって信じられるようになってきている自然科学があるだろう(僕も信じるなんて言葉を使いたくないほど信じている)。
だが、自然科学が教えてくれる答えは、現在のところ、人生とは遺伝子の乗り物として生きることである、というようなもので、あまりワクワクしない。
これが「人生とは何か。」の答えだとはあまり思えない。

ということで、ほとんどの人は、答えなどないとあきらめるしかなくなる。
「自然科学が教えてくれるつまらない答えを握りしめつつ、これ以上の答えはないとあきらめつつ、でもどこかで、どこかで見聞きした宗教的な妄想を忘れられずにいる。」
これが、僕も含めた多くの人にとっての「人生とは何か。」という問いに対する対処の仕方なのではないか。

これでは安心して死ねない。だから死を避けたい。この問題を直視したくないから、先送りしたくなる。
これが高齢化問題の本質なのだろう。

更に、高齢化のどこが問題なのか考えてみると、高齢者を生かすために周囲が色々と負担しなければならないのも問題だが、まだ望みがある。
金さえあればなんとかなるのだから。(まあ、それが難しいのだが。)
より大きな問題は、いくら長生きしても、いつか人は死ぬということだ。
「人生とは何か。」の答えがないまま、逆に言えば「死とは何か。」の答えがないまま、人は死んでいく。
自然科学的なつまらない人生の意義と、宗教的な妄想と、あきらめを握りしめて死んでいく。
歳をとり、周囲に負担を色々とかけたうえで、結局は何も得ることができずに死んでいく。
これは、まさに人生の大問題だ。

この高齢化問題を根本から解決するためには、残念だけど「人生とは何か。」という誰も解いたことのない問題に向き合わなければならない。
それも、誰か頭のいい哲学者や宗教者や科学者といった誰かに押し付ければいい話ではない。
なぜなら、生きて死ぬその本人が納得する答えでなければならないのだから。
誰かが見つけた答えでは、これまでの宗教と同じことになってしまう。
そんなことで体に合わない既製服を無理やり着せられたまま、死に向かい合わなくてはならなくなる。
多くの宗教を信じきれない人たちは、それができなくて苦労しているのに。

それならば自分で考えるしかない。
一から自分ひとりで考えなくてもいいかもしれないが、既存のアイディアを組み合わせたり、誰かから聞き取ったアイディアを借用したりして、「人生とは何か。」について、自分が納得できる答えを探さなければならない。
少なくとも既存のアイディアのどれかを自分で考えて選び取らなければならない。
それは、まさに哲学するということだ。

これは、大変困難な道だろう。
一方で悲観はしていない。
なぜなら、まず第一に、これは自分だけが納得できればよいからだ。
先ほど哲学者が成し遂げられていないとしたのは、誰もが納得できる普遍的な答えを見つけることだ。
自分だけが納得できればよいなら難易度は低くなる。
ただ、誰かからの批判や反論には耐えなければならないし、また、誰かからの批判や反論がありうるものを真実だと思い続けることに耐えなければならない。
(僕にとっては後者のほうが困難な気がする。)

悲観しない二つ目の理由としては、僕にとっては、哲学をして、道を探し続けることこそが、当面の「人生とは何か。」という問いの答えのように思えるからだ。
これが本当の答えだと安住はできないけれど、少なくとも、もがき、体を動かし続ける限り、体は水面に浮いていられる。

いずれにせよ、自ら哲学することが重要という線で考えるならば、宗教的な確信がある場合を除いては、哲学をする人だけが人生を生きる価値がある、と考える方向につながるだろう。
宗教を信じず哲学的なことも考えていないような人は、人生というものを捉えられていないのだから生きる資格がない、ということになりうる。
もしそうならば、高齢化問題はかなり解決するだろう。
労働などを通じて社会に貢献できなくなったら、そういう人は死ねばいいのだから。
これは、ある種の選民思想と言ってもよい。

だが、それは誤りだろう。
なぜなら、逆説的には、宗教を信じず、かつ、全く哲学的なことも考えない人こそが「人生とは何か。」を知っているとも言えるからだ。
そのような人にとっての人生とは、日々を生きることなのだろう。
本当にそれでいいのか、などと疑わず、ただ生きている。
若くて元気に過ごしたり、年老いて病気になって苦しんだり、延命治療を受けたり、拒否したりしつつ、ただ生きている。
そのような人の人生について、生きる価値があるとか、ないとか、外野から評価することはできない。

問題となるのは、僕も含めた、そこまで割り切れない多くの人たちだろう。
僕たちは悩んでいるからこそ、人生というものを捉えきれずにいる。人生を見失っているとさえ言ってもよい。
その悩みを直視せずに漫然と生きることこそが、全力で生きていないということなのではないか。
そのような人には高齢化により周囲に負担をかけてまで生きる資格がないのではないか。
負担をかけるならば、全力で生きなければ申し訳が立たないのではないか。

「人生とは何か。」という問題に気付いたならば全力で答えを見つけようとしなければ生きる資格はない。
その努力の過程で、自ずから自らの生き時、死に時は見えてくるはずではないか。
これが高齢化問題についての僕の主張だ。

最後に、蛇足となるが、死ぬのを先延ばしにすることには現実的な効用があるという話をしておきたい。
死ぬのを先延ばしにするということは、歳をとるということでもある。
歳をとると、思考するうえで求められる基礎体力のようなものが衰えてきて、色々なものがどうでもよくなってくる。
ひらめきの鋭さのようなものは衰えなくても、切実なこととして物事を考えることができなくなってくる。
色々なことがどうでもよくなってきて、「人生とは何か。」など、どうでもよくなってくる。
先ほど挙げた、「人生とは何か。」など考えたことがない人にだんだん近づいてくる。
そうすれば死ぬのが嫌だとか、生きていたいなどと考えず、ただ毎日を生きることができるようになる。
このような方向で問題解決とまではいかなくても、解決に近づくこともできる。
これが死ぬのを先送りし、高齢化することの効用ともいえる。

ただ、これは、あまりにも自己中心的なやり方だろう。
真剣に考えるという道を選択せず、周囲に迷惑をかけつつ、時の流れに乗り、心を摩耗させることにより問題解決を図るというのは褒められるものではない。
このような受け身の解決方法をとらざるを得ないことは、ある側面では確かにやむを得ないとしても、それを当然とするのはどこか間違えている。
そのような人に対しては、周囲の人たちがそこまで負担できないということを明確にすべきではないか。

以上、高齢化問題の解決方法として、人生に正面から向き合わない人への福祉の削減を提案することで、この文章を終える。

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