「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 2 距離0.5 追加・提案

2 距離0.5 追加・提案

ここからの考察は入不二の主張から徐々に離れていくことになるが、この章は、入不二の議論から半歩だけずれたものとなる。

つまり、入不二が読んだなら理解が得られるかもしれないし、そうではないかもしれないし、本を既に読んだ方なら違和感が生じるかもしれないし、納得するかもしれない。独自の考察ではあるけど感想とも言えなくもない。そんな主張が集められている。

2-1 祈り・受容

僕がまず取り上げたいのは第3章の議論だ。

ここでの進め方はとても美しいと思う。選択・賭け・神頼みを対比し緻密に議論する地点から、一気に祈りにまでせり上がるところでは、ある種のカタルシスのようなものを感じた。

言うまでもなく、ここでの祈りとは、現実性というものと強く関連している。「そもそも始めからそういう現実であるように」(p.115)という祈りの描写は、入不二が見出した現実を実感的な道筋から最もわかりやすく示してしているものだと思う。

ここで終わるのが話としては美しいのだけど、正確を期するならば、蛇足であっても付け加えるべき話があるように思う。これが僕の進めたい半歩だ。

第2章の議論によれば「現にソクラテスは哲学者である」は「∅ソクラテスは哲学者である」となり、ついには「ソクラテスは哲学者である」に徹底される。(p.65)この図式は現実性というものの無色透明さをうまく表現している。

この図式に対比するならば、「祈り」には「現に」や「∅」に相当する不徹底さが残っている。祈りを徹底するならば、祈りすらも捨て去らなければならないのではないか。

では、「現に」という表記を捨て去り「ソクラテスは哲学者である」に徹底されるのと同様に、祈りが祈りを捨て去るとどこに至るのだろうか。

入不二は、祈りの無色透明さを無態とも表現しているが、そのようにして至る完全な無態とはどのように表現すべきだろうか。

僕はそこで「受容」という言葉を思い浮かべた。何が起こったとしても、それは現に起こったことであり受け入れるしかない。いや受け入れると表現すると、そこに受け入れるかどうかという選択肢があるように感じられるので適切ではない。ただ、そのようにして過ごすと言ったほうがいいかもしれない。そのようなものとしての「受容」とは「あるようにあり、なるようになる」であり、「現に」や「∅」を除去した「ソクラテスは哲学者である」が通常の表現と全く違いがないのと同じように、誰もが送っている日常のことなのではないだろうか。

(その道筋で考えるならば、入不二は祈りを「無態」とするが、祈りは「能動と受動の高次の折り畳み」(p.117)としての中動態としたほうが、無態と中動態の違いが際立つように思う。そのほうが、受容と祈り、無態と中動態、無内包とマイナス内包という串刺しの対比ができるように思える。)

同じことを別の道筋で表現するならば、祈りは「全くの無力」(p.121)であることが求められるが、無力であることを自覚するだけでは無力さが足りないとも言える。

なぜなら、自覚するという力を手元に残しているからだ。無力さを徹底するためには、無力の自覚さえ手放し、すべてを忘却しなければならない。正確には、三重否定の「未生の無」(p.359)にまで至らなければならない。ここにも、自己や神といったシステムを完全に消去し、完全なる受容に至る道筋が示されているように思う。

ここまで、この半歩を自分の手柄のように述べたが、入不二は同じことを既に述べていると解釈することもできる。この本での入不二の言葉を都合よく切り取るならば、次のようにも読める。

「祈り」が「思い」として出現するかしないかは、「祈り」にとってあまり重要なことではない。・・・「純粋な祈り」は、・・・消え去るからこそ・・・現実世界にぴったりと重なっているからである。

いわば、「現に~である」こと自体が、神と祈りの一致なのである。

(pp.123-124)

純粋な祈りとして拡張された祈りは、ただ受容することと等しい。僕たちは、祈っているという自覚などなくても、日々、祈りながら、現実を受容し、現実という神とともに日常を送っているとも言えるだろう。

なお、ここでの「祈り」をはじめとして、この本では、語ることができないことをぎりぎりのところで語ろうとする言葉がいくつも登場する。そもそもタイトルにもなっている「現実性」や「現に」という言葉こそが、そのような言葉の代表例と言ってもいい。語ることのできない純粋な祈りや現実性と、語ることができるいわゆる祈りや現実性という二つの意味をひとつに込めることで、ぎりぎりを語ろうとする。

そのようにして描く図式のことを、前著「あるようにあり、なるようになる」では中間や(二つの焦点があるという意味で)楕円的と呼び、この本では(二者間での)緊張関係という用語を用いている。

(緊張関係という語が登場するお気に入りの例としては、「現実性という神は、どの局面で特異的に出会われるとしても、必ず二重性(矛盾的な緊張関係)を帯びて現れる。」(p.386)がある。)

入不二の本を読むうえでは、このような特別な言葉に込められている二重の意味に注意するといいと思う。

緊張関係という言葉はこの本の雰囲気をよく表しているように思う。どちらかというと、入不二はこれまでの著作(例えば、「あるようにあり、なるようになる」)では議論がせり上がる過程に重点を置くことが多かったように思える。だが、この本には、これでもか、というほどに議論のせり上がった先を捉えきろうとする執拗さが充満している。そのぎりぎりの執拗さと緊張関係という言葉はうまく合致しているように思うのだ。

(この点で、「あるなる」とこの本を比較すると面白い。前者は、自己抑制的に、いわば緊張的な筆致で運命論に絞って描写することを通じて、最終章のサーフィンにつながるような自由を描いていた。後者は、いわば好き勝手に自由に主題を行き来しながら、円環モデルやn位一体と表現されるような緊張的な構造を描いている。ここには自由と緊張の交差関係を見いだせるように思う。)

2-2 顕在・潜在

入不二は第2章において現実性と潜在性を対比して論じている。その主張をうまくあらわしている比喩がメビウスの輪だ。このメビウスの輪は片面に現実性、もう片面に潜在性が割り振られている。(p.79)

先ほども取り上げたソクラテスの比喩のとおり、現実性は、現前・顕在と言い換えてもいい認識論的な水準から、「現に」という副詞的な現実性、更には「∅」の先にある無色透明な現実性へと深まっていく。

一方で、潜在性も、自動車免許を持っている人が(車を運転していないときでも)有する車を運転する能力のようなものから、その能力を可能とするような(視力や筋力や判断力を持つことを可能とするような)遺伝子配列、更には、それらを下支えするような潜在的な力そのものへと深まっていく。

この描写自体は完全に正しいと考えるが、用語の使い方が誤解を招くおそれがあるように思う。

入不二は、慎重に、顕在という語を肯定的に用いることを避ける。なぜなら、この本を誤解なく理解するために重要なポイントのひとつは「現実と顕在は違う」ということだからだ。入不二は、図式的に「現実=顕在+潜在」と考えることはミスリーディングだとも言っている。(p.193)

だが、顕在という語を避けることで、現実性という言葉を、顕在的に現れている現実としての現実性1と、顕在性とは関係ないものとしての現実性2という2通りの語で用いざるを得ない状況となっている。このふたつは全く違うものであるにも関わらず、同じ語が割り振られている。

なお、一方で潜在性という用語についても、潜在性1、潜在性2という表現は使われているが、それらは深度の違いはあっても、連続的であり、対立するものではない。

現実性と潜在性という用語には、このような非対称性が生じている。

現実性と潜在性を理解するうえでは、両者の対称性と非対称性の両方に着目することが重要だ。

第2章が「現実性と潜在性」と対比的に名付けられているとおり、両者には対称性がある。第2章の議論は、対等な二者が撚り合わされるようにして、力の中立的一元論に進んでいく過程と読むこともできるだろう。そのような議論のうえでは現実と潜在という対比はわかりやすい。

一方で、そうして進んでいく先に見いだされる「力の中立的一元論」とは「現実」の力の一元論だ。ここでの「潜在」は「潜在的な現実」というかたちで現実を修飾する言葉でしかなくなる。ここには現実と潜在の非対称性を読み込むべきだろう。

つまり、両者の対称性と非対称性のどちらを強調するかは、議論の場面によって使い分けるべきである。その意味ではこの本での「現実」という語の用い方に大きな誤りはない。だが、現実という用語を幅広く使うことによって誤解を招く記述が生じているように思える。

例えば、p.80の「純粋現実性-可能性-最深潜在性」という図式で示される純粋現実性とは、入不二のこの本全体の議論に沿うならば、純粋の名には値しないはずだ。最深潜在性に並ぶ限りでの現実性とは、円環モデルのなかを巡る力に過ぎない。あえて言えば、ここでの純粋現実性とは、顕在性を残した限りでの純粋現実性とも言える。真の純粋現実性の名に値するのは、円環モデルに差し込む光(矢印)として描かれる力そのものであるはずだ。真の純粋現実性とは最深潜在性をも現実のものとする力であると言ってもいい。

これは、現実性を描写するうえで顕在という語を避けるあまり、重要な局面において、逆に現実性に顕在性が混入してしまった具体例ではないだろうか。

第2章を読んでいて僕が感じた入不二への疑問を比喩的に述べるなら以下のようになる。

片面に現実性と書かれ、もう片面に潜在性と書かれたメビウスの輪は何でできているのだろうか。

または、メビウスの輪とは円環モデルの変形バージョンだとするならば、メビウスの輪のどこに、円環モデルに向かう縦の矢印が描かれるのだろうか。

その後の議論を踏まえるならば、メビウスの輪は現実性という素材でできていて、メビウスの輪を成立させるものこそが力としての(純粋)現実性であるいうことになるのだろう。つまり、メビウスの輪の図においては、少なくとも、片面を示すものとしての現実性、メビウスの輪の素材としての現実性、メビウスの輪を成立させる力としての現実性、という三種類の現実性が見いだされることになる。

これはこれで現実性の遍在性を示す比喩として使えそうだが、潜在性と対比する限りでの、メビウスの輪の片面としての現実性を描写しにくくなってしまうように思う。

誤解を招かないように、顕在という語をもう少し肯定的に用いて、潜在性と対等なものとしての現実性について顕在性という名前を与えてもいいのではないだろうか。

もしそのような使い分けが許され、顕在性という語を導入するならば、現在性のメビウスの輪は、片面に顕在性と書かれ、もう片面に潜在性と書かれているとも喩えることができるだろう。または、円環モデルなら、昼は顕在性の領域で夜は潜在性の領域である、と表現できる。顕在と潜在の対立を深める先に現実が見えてくることとなる。

ただし、このような用語の使い方をすると、入不二の美しい言葉が台無しになってしまうという欠点はあるだろう。

「現実性はどこまでも潜在的であり、潜在性はどこまでも現実的である。」(p.83)という詩的な言葉は次のように書き換えられることになってしまう。

「顕在性を潜在的に成立させるものこそが(純粋)現実性であり、潜在性を顕在的に成立させるものこそが(純粋)現実性である。」

これは、わかりやすくはあるが、美しくないし、現実性というものが持つ、円環モデルとして表現されるような滑らかさを正確に表現できていないようにも感じられる。その点では、僕の主張は、あくまで入不二哲学を理解するうえでの補助線としての提案にとどめたほうがいいのかもしれない。(僕自身は、この文章では、円環モデルの昼の領域を顕在性の領域と言い換えることにする。)

なお、このような主張をする理由のひとつは、入不二の議論(特に第2章)の行間に垣間見える、力とマテリアルの二元論的な描写に反論したいからでもある。

僕は、最深潜在性についてマテリアル的な描写をすることは否定しないが、潜在性の描写をそこで終えるのは不徹底だと思う。最深潜在性は純粋現実性に回収され、マテリアルは力として捉え直さなければならない。そのようにして、徹底した力の一元論を描くべきだと僕は思う。

このことについては、入不二の(少なくとも第2章での)主張から半歩以上離れることになるので、後ほど論じたい。

(僕自身は、そのような主張を入不二自身が第9章あたりで行っていると解釈している。だが、もしかしたら、この文章の後半で論じる予定である、マイナス内包(潜在性)の位置づけの僕と入不二の違いが原因なのかもしれない。その場合、ここで論じたことは半歩ではなくて、一歩ずれてしまっていることになる。)

2-3 存在論・現実論

入不二は、存在論、認識論、意味論を可変的じゃんけん関係とし、同等のものとして捉えるが、その根底には存在論優位の構造が前提とされているように思える。例えば、この本には、「現実性の力の「侵入口」としての始発点」(p.163)、「「現実性という力」が入り込む「優先的な窓口」は、(存在と思考と概念という)三者の中では存在である」(p.375)というような記述がある。

ここには問題が潜んでいるように思う。現実論が存在論・認識論・意味論のいずれとも全く違うということを表現するためには、存在論・認識論・意味論に優劣があってはならないのではないだろうか。そのためには存在論を認識論や意味論と同程度に弱める必要があるのではないか。

思うに、存在論が優位に立っているのは、存在論のなかに現実論を混入させてしまっているからではないだろうか。(例えば入不二は、「「無内包の現実」においては、存在論的に「ある」ことと、認識論的に「ない」ことが一つになっている。」(p.342)という表現をしているが、このときの存在論とは、存在論というより現実論というべきもののように思える。)

当然、認識論や意味論においても現実論は混入せざるを得ない。「現に」認識するというかたちで現実は認識論を下支えし、「現に」意味するというかたちで現実は意味論を下支えしている。同様に、存在論においても最低限の現実性の力は必要である。しかし、「現に」存在するというかたちで現実が存在を下支えするということ以上に、必要最低限以上に、存在という言葉には現実性が入り込んでしまっているように思えるのだ。

意味論や認識論においては、公的言語や他者の感覚のようなものを思い描くことで、一応は現実性を最低限度に抑えたものをイメージできる。

だが、存在について、同様に現実性を最低限度に抑えるとはどのようなことなのだろうか。この点については、入不二だけではなく、その他の哲学者からも示されていないように思える。

いや、明示的に示されていないだけで、その答えは既に入不二の議論に登場しているだろう。入不二は、論理的運命論に対するものとして、因果的運命論、神学的運命論、物語的運命論といったものを挙げる。(pp.154-155)これこそが現実性を最低限に抑えたものとしての存在論ではないだろうか。

それは、入不二が述べるとおり、「何か(X)」が「他の何か(Y)」を決定するという二項関係性(p.154)と言ってもいいし、その関係性の前提となる複数性と言ってもいいだろう。ここで着目した二項関係性や複数性といったものには、認識論や意味論と異なる、そして現実論とも異なる独自の価値があり、それを存在論と名付けることは妥当ではないだろうか。

そのようなものとして解釈された存在論には、この本でも第二次内包として取り上げられている自然科学的な視点も含まれるだろう。なぜなら、第二次内包的なものごとが第一次内包を決定しているという二項関係性がそこに見いだされるからだ。

意味論や認識論においては、現実性を離れるために公的言語や他者の感覚のようなものを思い描いたように、現代人であれば、現実性を離れた存在論として自然科学的な物質的世界を思い描くことが、意味論・認識論・存在論の対等な関係を理解することに役立つように思える。

このようにして存在論を現実論から注意深く分離し、舞台を整えたならば、入不二の言うとおり、存在論、意味論、認識論という三つの立場が対等に循環しつつ対立し合うような図式を描くことができるだろう。

(現実性の力を失うかたちで解釈し直された存在論が意味論や認識論に優位となる場面としては、存在論的未知のように複数性そのものが優位性につながるような状況が考えられる。)

また、円環モデルにおいても、その始発点を、私や世界といった脱内包にとらわれた存在論優位のものとして描写するのではなく、存在論(二項関係)と意味論(言語)と認識論(認識)に捕捉される直前の現実性の力そのものの発露として捉える道筋が見えてくるのではないだろうか。

2-4 複数の円環・波及と還流

僕は、円環モデルは非常に重要であり、この本が目指すものをコンパクトにうまく表していると考えている。だが、あくまで模式図としてのものであり、補助線に過ぎないという点についても強調しておく必要がある。

まず、入不二自身が始発点と第一歩の間に「0と1」の小さな円環を書き加えているとおり、この円環は多重的である。

入不二自身はあえて描いていないが、例えば、p.27で描写されている「反実仮想」と「可能性」の領域の立ち上げの間にも円環を見出すことができるだろう。なぜなら、反実仮想を成立させるためには別の現実であったという余地としての可能性がなければならないが、その可能性が成立するためには反実仮想がなければならない、というかたちで両者は依存し合うからだ。ここには明らかに循環があり、それを円環として描くことは可能だろう。なお、これは対等な循環ではない。入不二が「可能性→反実仮想ではない」とするとおり可能性は反実仮想に遅れる。ここには0は1よりも遅れるのと同様の前後関係を見出すことができる。この点でも、可能性と反実仮想の小円環は、0と1の小円環と同型である。

(入不二は反対するだろうが、後述するように、僕は、潜在性の領域においても、マイナス内包と脱内包の小円環があると考えている。)

ともかく、大円環のなかに小円環がたまたま見出される、というような捉え方をすべきではないだろう。現実の力を顕在性(入不二の用語では現実性)と潜在性という二項関係として描いたものが入不二の大円環だとするならば、同じ現実の力を局所的に捉えると、0と1、可能性と反実仮想といった二項関係の小円環として表現されることは必然なのではないだろうか。

以上の、大円環のなかにはいくつもの小円環が描かれるという話については、多分、入不二も同意してくれると思うが、この先は僕なりの半歩を進めることになる。

入不二が第1章で描いた大円環モデルさえも、数ある大円環モデルのうちのひとつだという捉え方ができるのではないだろうか。

入不二がこの本において行った議論のなかにも、いくつかの大円環を見出すことができる。

そのひとつは、いうなれば科学的な道筋、つまり先ほど現実論から切り離した限りでの存在論の道筋だ。

始発点から入不二は、反実仮想、可能性という道筋に進んだが、そうではなく、科学的探求という道筋に進むこともできるだろう。そこでは二項関係と科学的探求の正当性が円環を進めていくことになる。

入不二が第1章で示した円環モデルの道筋ではその先に、日没時(6時の転回)における可能性の飽和とでも言うべき事態が待っていたが、科学的探求の先には同様に探求の限界が待っている。

そこでは、無限の可能性を列挙しきれないという事態を、それ自体が肯定性の発露として捉えることで乗り切ったように、科学的探求で捉えきれないという事態を、そのまま一気に「物自体」の存在の発露として肯定的に捉えるという転回により乗り切ることとなるだろう。

あとは、「クオリアは逆向きの物自体である」(p.278)とあるとおり、マイナス内包のクオリアを潜在性とする入不二の円環と同じ道筋となる。

以上は、入不二が第7章で行った、第1次内包から第0次内包に進む議論とパラレルのもので、第1次内包から第2次内包に進む議論であるとも言える。(p.255で入不二が「真に二元論的」とした主観的な世界と客観的な世界という二つの道筋のうち、入不二が進まなかった客観的な世界側の道筋であるとも言える。)

(この本から色々な示唆を得たが、この本の主題ではないものの、コンパクトに意義深かった言葉の代表が、この「クオリアは逆向きの物自体である」だ。つくづくそのとおりだと思う。僕は物自体という概念を評価しつつも、ひとつの疑問があった。「机の上にリンゴがある状況で、物自体としての机と物自体をとしてのリンゴどのように区別すればいいのだろうか。」という疑問だ。この疑問については、入不二のクオリアについての議論をそのまま物自体に適用することで解消する。まず、「見られるリンゴではなく、リンゴそのもの」というときのリンゴとしての物自体(第一次物自体)は、「リンゴの背後にある決して認識されることのないもの」としての物自体(第0次物自体)へと深まる。更には、クオリアの解像度が下げられマイナス内包となったように、解像度を下げることにより、無尽蔵な物自体(マイナス物自体)へと至る。この無尽蔵なマイナス物自体とは机でもあり、リンゴでもある。以上は物自体の側からの潜在性の描写であるとも言えるだろう。こうしてリンゴ・物自体と机・物自体を区別するという僕の問題は解消する。クオリア問題に対する入不二の答えが決定的なものであるのと同様に、これは物自体の問題の最終決着に近いように思える。)

ほかにも入不二の議論のなかに別の大円環を見出すこともできる。第3章では、合理的な選択の方向で突き進んでいった結果、ビュリダンのロバ的な状況が示され、そこで賭けへと進み、神頼み、祈りへと深まっていく。この図式は、合理的な選択が昼の領域であり、賭けを日没(6時)、神頼み、祈りを夜の領域と捉え、完全な祈り(受容)を日の出(12時)と捉えるならば、入不二の大円環モデルときれいに重ねることができるだろう。

(また、相対主義は昼、絶対主義は夜と捉えた相対主義・絶対主義の円環なども考えられるだろう。)

僕がここで行った解釈には異論があるかもしれないが、それはともかく、僕が強調したいのは、大円環であれ、小円環であれ、円環モデルはいくつも描くことができ、それらを重ね合わせることで、波及と還流の構図につながる、ということだ。

円環モデルとは、あくまで補助線であり、いわば模式図だ。では何の模式図かというと、それは波及と還流の一部を切り取った断面図のようなものなのだ。(p.234の図を縦に切ると、二つの円環が現れるはずだ。)

つまり、p.234の図で「●→」として表される波及は、円環モデルの昼の領域に対応し、「→●」で表される還流は、円環モデルの夜の領域に対応する。「●」が日の出(0時)の始発点であり、「●」の周囲を囲むように描かれている「○」が日没(6時)の転回を表している。

入不二も、円環モデルとは波及と還流を示す模式図であるということは認めるように思える。だが僕が半歩進んで強調したいのは、入不二は波及と還流の構図における円環の複数性を、このもの主義の文脈から個体の数の複数性によるものと捉えているのに対し、僕は、円環モデル自体の複数性によるものとしても考えたい、という点である。

では、どうして、多くの円環モデルを見出し、円環モデルを重ね合わせるようなことができるのだろう。それは円環モデルが描く内容ではなく、円環という形式自体に正しさがあるからではないか。

円環には角(かど)がない。小円環モデルを例とするなら、1であることをそのまま受け止めることと、1ではなくて0ではないかと突き詰めて考えることは、何の無理もなくきれいに重なる。(そこにギャップは残るにしても。)反実仮想という考えをそのまま受け止めることと、それを成立させるために可能性の必要性について突き詰めて考えることは、何の無理もなくきれいに重なる。(そこにギャップは残るにしても。)

この「無理のなさ」を円環という図形はうまく表現しているように思うのだ。「無理のなさ」こそが円環モデルの正しさの源泉なのではないだろうか。

入不二の議論の魅力は、無理のない議論を積み重ねるうちに、読者をとんでもないところに連れて行ってくれるというところにある。円環モデルとは、入不二の議論の構造そのものを示したものなのかもしれない。

円環モデルや、その先にある波及と還流の構図の正しさは、このような議論の進め方の正しさと、切っても切れない関係があるように思える。

なお、議論の内容ではなく議論の形式の正しさを優先する考え方から、可能世界論がなぜ魅力的かを説明することができると思う。(僕は可能世界論が好きだし、入不二も、あえてここで取り上げているということは、取り上げるに値する意義があると考えているはずだ。)

入不二は、D・ルイスの可能世界論について、現実を指標詞的に捉えているとし、「現実性は諸可能世界に相対化されていて、諸可能世界の内に再帰的な仕方で埋め込まれている。」とする。(p.58)

この描写に沿うならば可能世界論を、p.234の波及と還流の構図に似たかかたちで表現することが可能となるだろう。「●」の周囲を囲むように描かれている「○」が「この世界」ではなく諸可能世界となるという点で違いはあるが、「→●」を指標詞的な指し示しと解釈し、「●→」から「○」に至り、「→●」へと進むプロセスを再帰として読むことで、入不二の波及と還流の図式に重ね合わせることができる。

つまり、可能世界論においても、再帰というかたちではあるが、現実は経巡っている。可能世界論は矮小化されてはいるが、波及と還流を描いているという点で形式的に正しい。ここに可能世界論の魅力があるのではないだろうか。

2-5 二重否定の抜け道・非A的A

入不二は、「無でさえない未来」の「究極の言えなさ」というアポリアには抜け道があるとする。(p.205)

彼は「無でさえない」という二回の否定を「相関(対)以前の端的な肯定へと戻ろうとすること」「絶対的な(=非-相関的な)肯定」「肯定以前の肯定(否定と対にならない肯定)へと差し戻す」という方向で考えることを「抜け道」と呼んでいる。

僕は、この抜け道が、入不二の議論を進めるうえでは極めて重要であると考えている。これを「二重否定の抜け道」と呼びたい。

通常の二重否定には、そのような抜け道はない。入不二自身、第1章で、二重否定と肯定の間の一致とズレについて論じている。入不二はここでは、「二重否定による肯定」は「否定が存在しない肯定」へと行き着かない(pp.23-24)としているが、その言葉に反して、二重否定には原初肯定に到達する抜け道がある、とするのが第6章での議論だと言えるだろう。その点では、これは「超・二重否定の抜け道」と呼ぶべきかもしれない。

ここまでであれば、入不二の議論の圏内から大きくは外れていないだろう。ここで付け加えたいのは、「非A的A」という用語だ。この「非A的A」という言葉は、この本にも登場する森岡のツイートで見かけたものだ。次のような内容だった。

「非A的A」(Aは任意の名詞)っていう概念は、Aに何を代入しても成立しそうに見える。これはどういう構造なのだろう。

「非非的非」はさすがに成立しそうにないが。非が自己言及してるから。でも「非想非非想」がある以上、成立するのかね。

(僕はその言葉に興味を持って、文章も書いたこともある。http://dialogue.135.jp/2018/03/17/shitekigengo/

ここでなぜ、「非A的A」という言葉を持ち出すのかというと、この用語が、「超・二重否定の抜け道」のある部分をうまく表しているように思えるからだ。

「無でさえない」における抜け道としての超・二重否定とは、肯定(有)に対比されるものとしての否定(無)を更に否定することにより、否定が持つドメインを乗り越える力を用いて、否定と対比される限りでの肯定(有)よりも以前の原肯定に立ち返ろうとするものだった。つまりこれは、二重否定という作業を経て、(否定と対比される限りでの)肯定よりも以前の原肯定を指し示そうとすることだと言ってもいい。

このようにして見いだされる肯定と原肯定との間には差があるはずだ。(その差とは、原肯定という土俵の上で肯定と否定は対立しているに過ぎないという意味で、(肯定と対比される限りでの)否定と(土俵としての)原肯定との差とも等しいはずだ。)

この差をコンパクトに表現するものが「非A的A」という言葉なのではないか。この場合なら、非肯定的肯定、と呼ぶことで、原肯定と(否定と対比される限りでの)肯定の間に横たわる差を表現することができる。つまり、「非A的A」という表現は「超・二重否定の抜け道」が成し遂げたことをコンパクトに表現するものなのだ。

なぜ、ここまで「超・二重否定の抜け道」にこだわるのかというと、これこそが、円環モデルでの6時の転回を可能とするものだと思うからだ。

第1章における円環モデルの概観のなかで、僕にとって最も理解が難しかったのが転回の議論だった。

入不二によれば、転回とは、諸可能性が無数に立ち上がり、完結「しない」という否定性を転回するものだ。または、無数の肯定項や肯定枠のひとつひとつを可能とする分割のなかに潜む「他では『ない』」という否定性を転回するものだ。(pp.32-33の議論の僕なりの要約)

僕はこのような議論について、議論としては理解しつつも、なんだか狐につままれたような、どこか納得できないものがあった。

だが、第6章の「抜け道」の議論を読み、納得できた気がした。この転回は、諸可能性が生まれる以前に立ち返り、分割自体ではなく、分割を生じさせる土俵に着目することにより可能となるのだ。

ここには、時間的なものか、空間的なものかはともかくとして、ある種の視点移動を伴っているが、この視点移動こそが「超・二重否定の抜け道」が「抜け道」である所以であるに違いない。

この視点移動を根拠がないものとして拒否するか、自然なものとみなすことができるかが、円環モデルに喩えられるような入不二の議論を受け入れられるかどうかの境目になるのではないだろうか。入不二自身は、その転回(視点移動)は、肯定主義の力により円滑に完遂できると考えており、僕も、(第1章を読んだ際には疑問があったが、すべてを読み終えてみると)力の一元論とは、そのように進めるべきものだと思う。

僕は「超・二重否定の抜け道」により成し遂げられる「転回」は、円環モデルの肝であると考えている。だから「超・二重否定の抜け道」の抜粋版とも言える「非A的A」という表現は、円環モデルにとっても、その要約版になると思っている。そうだとするならば、「非A的A」という表現を見出すことができるということは、そこに円環モデルがあるということを表しているということになる。

森岡は「「非A的A」(Aは任意の名詞)っていう概念は、Aに何を代入しても成立しそうに見える。」とする。そのとおりなのだろう。

円環モデルとは波及と還流の模式図であるとするならば、入不二の第6章の議論に基づき、少なくとも「指差しの運動」により示される「もの」は、円環モデルに取り込まれ、その要約版としての「非A的A」という表現も成立することになる。

更には、僕の主張が認められるなら、「非A的A」に代入できるAは「もの」に限らない。僕の考えでは円環モデルはこの本の議論全体を貫いているから、彼の議論に登場するキーワードを「非A的A」と表現できるはずだ。

例えば、賭けにおける意志は非意志的意志(p.107)、「「無でさえない未来」という概念は、・・・非-概念なのである。」というときの概念は非概念的概念(p.209)、「語りえぬものを語る」での野矢の主張は非相対主義的相対主義で、入不二が示すのは非絶対主義的絶対主義 (p.308)、「転覆した(破れた)時間」は非時間的時間(p.363)、夢と対比されるなかで見いだされる現実は非現実的現実(p.378)などなど。

このように言い換えて列挙すること自体には哲学的意義はないけれど、入不二の文章を読むうえでの工夫にはなるし、円環モデルが彼の議論を貫いていることの証左にはなるように思える。

2-6 新しい語り方・非言語的言語

この章において、僕は、入不二がこの本で成し遂げたことについて、僕なりに重要だと感じたことを表現しようと努めてきた。そのために、必要と思われる用語の置き換えを提案し、新しい用語も導入した。

このように舞台を整えたうえで、僕が強調したい入不二の成果とは、彼が潜在性や力という新たな議論領域を発見しただけでなく、その議論に必要な新たな語り方を発明したということだ。

入不二が日没(6時)の転回以降に行っている議論は、あまりにも新しくて目眩がするようなものだ。

その議論を駆動しているのは、明らかに肯定主義だろう。

入不二は肯定主義について、「肯定主義の元基(もと)には、否定という操作を本質的に含む言語よりも、言語以前的な実在やその直感の方を優位に置く考え方があるだろう。」(p.332)とする。

入不二は肯定主義により、言語以前を捉えることに成功したのではないか。これは、非A的Aという用語をしつこく用いるなら、非言語的言語の発明と言ってもいいと思う。

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