反出生主義再考

僕は反出生主義について少し触れたことがある。(『○○をしたい』http://dialogue.135.jp/2021/10/24/shitai/ という文章を書いています。)

そこで書いたとおり、僕は、反出生主義は間違えていると思っている。だけどそれは「生命とはこの僕によく似たものである。」と考える限りにおいてである。生命のことを客観的に考え始めると、反出生主義も捨てがたいものとなる。

例えば僕は、工場式畜産に対する嫌悪感から肉食に対して疑問を持っている。家族で焼き肉を食べることもあるけれど、自分ひとりのときはなるべく肉は食べないようにしている。(『動物倫理学』http://dialogue.135.jp/2021/08/15/animal/ という文章も書いています。)なぜそうするかと言えば、劣悪な環境で飼育され、短期間で殺される動物を減らしたいからだ。僕は家畜については反出生主義である。

僕が家畜について反出生主義をとるのは、僕は神様のように家畜たちを俯瞰し、この家畜たちの苦しみを減らしたいと願うからだ。家畜たちの生命を数えられるものとして捉え、苦しむ生命の数を減らしたいと思っている。

人間についても同様で、僕はアフリカなどではもっと避妊が広まり、人口が抑制されるといいと思っている。幸せに生きる準備ができていないところで、その許容量を超えて生命が誕生することは決して喜ばしいことではない。

僕が、家畜であれ人間であれ、絶滅を目指した究極的な反出生主義をとらないのは、幸福を分け与えることができるような適度な数量が維持できるのであれば、生命の数を調整しつつ残していくほうがいい、という考えがあるからだ。僕は穏健な反出生主義者である。

だけど、それはどうも自己欺瞞のような気がする。そういう穏健な反出生主義を選ぶことで、自分自身も生命の一員であるという事実から目を逸らしているだけではないだろうか。

反出生主義が真に問いかけるのは、当事者である僕も含めた生命のあり方である。もし僕が生まれようとする家畜の子供だったり、アフリカの子供だったりしたならば、その僕が悲惨な人生をおくるのが確実なのだから、僕は生まれるべきではない。僕は無のほうがいい。反出生主義はそのように主張する。だが本当にそうなのだろうか。僕が考えるべきはこのような問題である。このような難問を穏健な妥協策で切り抜けることはできない。(以前の文章での切り抜け方は、いわば、「僕という生命と僕以外の生命とは切り離すことができ、僕に対してだけは、反出生主義は無効である。」と答えたことになる。だがこの文章では、その切り離しはできないとしたらどうだろう、と考えていることになる。)

僕はこの問いに対する答えを持っていないけれど、答えを検討するにあたって重要なのは「時間」だと思う。僕は時間論が好きで、時間について色々と考えているからか、どうしても自分の好きな分野に結びつけてしまう。

常識的には「未来はやがて過去になる」という時間観があり、その時間の流れに沿うようにして「生まれ、やがて死んでいく」という常識的な生命観がある。反出生主義の主張に力を与えているのは、この常識的な時間観であり、この常識的な生命観であるとも言える。過去に生まれたから、今ここで苦しみ、そして未来においては死んでいく。そのようなあり方をしている生命ならば、苦しむ前にそもそも生まれてこないようにすればよい。

けれど、僕は、時間というものを「未来はやがて過去になる」というようなかたちで単純に捉えることにはどうも無理があると思っている。確かに時間にはそのような側面もあるけれど、それだけにはとどまらないものがあると考えている。それならば、「生まれ、やがて死んでいく」という生命観にも同様に無理があるということである。だから、苦しむ前にそもそも生まれてこないようにする、という反出生主義の単純な処方箋の有効性には疑問がある。

今のところ、僕はここから先の答えは持っていない。僕は「生まれ、やがて死んでいく」ことを全否定している訳ではないから、反出生主義が提起する問題は依然として深刻なものである。一方で、新たな時間論に光明を見出すこともできそうな気もする。僕が哲学的に考えていれば、いつか反出生主義を乗り越えることができるかもしれない。

そのような未来への希望を持つことも、「未来はやがて過去になる」「生まれ、やがて死んでいく」という常識的な時間観・生命観からのささやかな離脱の試みであるとも言える。

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