※『氷の城壁』感想文シリーズ第3弾。ちょっと哲学濃度あり。14000字以上あります。

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、二周してしまった。

さらに僕は、このマンガをきっかけにして、ぼくの子ども時代のことまで振り返った文章まで書いてしまった。(https://dialogue.135.jp/2022/11/13/kodomo/

この文章で僕は、僕の中にまだ解消できていない子どもの頃の問題があって、それに正面に向き合いたい、という宣言をして終わった。これを書いたときは、こんなにすぐ、続きが書けるとは思っていなかったけれど、この文章を書いた翌日、ふと思いついたことがあって、それがとても重要そうな予感があったから、続きを書いてみることにした。

1 一緒に内面を成長できるような人とのつながり

僕の中にある解消されていない問題とは、同時並行で書いたもう一つの文章(https://dialogue.135.jp/2022/11/13/korinojouheki/)に基づくなら、僕には『氷の城壁』の登場人物のように、一緒に内面を成長できるような人とのつながりがなかった、という問題である。

だけど、この「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」という言葉は、このマンガを読むことを通じて、初めて言語化できたもので、それまではきちんと捉えることができていなかった。

たしかに僕は「人とのつながり」が欲しかった。だけど、中高生の頃の語彙力によるならば、僕の願いは、「クラスの中心人物の取り巻き」になりたかった、というものだ。クラスのすみっこにいた僕はクラスの中心人物とまではいかなくても、その周囲で楽しそうにしているくらいのポジションの人になりたかった。彼らのことを、普通で、人並みでいいなあ、と憧れていた。当時の僕は、人並みで普通なかたちでの人とのつながりが欲しいと思っていた。

もしくは、もうひとつ、当時の僕が憧れていた人間関係がある。それは高校2年生の頃好きになった女の子に対する思いである。僕は彼女に僕のことを理解してほしかった。色々考えている僕のことを見つけてほしかった。この、「僕のことを理解してくれる人」というのも当時の僕の語彙力で表現できる限りでの、当時の僕が求めていた人間関係である。

それにしても、「クラスの中心人物の取り巻き」も「僕のことを理解してくれる人」も、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」とは程遠い。この程遠さが、僕の失敗の原因なのだろう。僕は僕が何を求めているのかを把握していなかったのだ。いや、ざっくりとは把握できていたのだけど、あまりにも理解の解像度が低くて、僕自身が求めていたはずのものを明確に捉えることができていなかったのだ。

僕が「クラスの中心人物の取り巻き」という表現に込めているのは、人並みになりたい、普通になりたい、という思いである。中高生の頃の僕は成長のスピードが遅くて、周囲の人についていけていなかった。だから僕より一足先に成長している、普通の人達が羨ましくて、そこを目標としていたのだ。

だけど、クラスのすみっこからクラスの中心を眺めて、その形だけを真似てもうまくいく訳がない。(今考えてみると、そもそも「クラスの中心人物の取り巻き」にいる人が僕より一歩先に成長している人かどうか怪しいけれど)彼らのように成長するためには、彼らに憧れるのではなくて僕自身が成長しなければならない。僕は形さえ真似れば内面も伴うのではないかと勘違いしていたのだ。

もうひとつの「僕のことを理解してくれる人」というのもまずい。この問題については当時、失恋して随分考察したけれど、僕のことを多少理解してくれる人はいても、完全に理解してくれる人などいる訳がない。理解してくれる人を求める限り、一部でも理解してくれていないと気づいたとたん、僕は傷つく。そして、やっぱり「僕のことを理解してくれる人」ではなかったのだ、と失望するのは必然である。

ただし、「クラスの中心人物の取り巻き」とは違って、万が一、「僕のことを理解してくれる人」がいたら、その人が僕の内面の成長にあたっては役に立つのは確かだろう。僕の内面の問題まで理解してくれれば、適切にアドバイスをしてくれたり、もしかしたら僕が導くべき答えまでおしえてくれるかもしれない。まるで学校の先生のように、または、テストの模範解答のように。

僕は、僕の内面の成長にあたっても、学校のテストと同様に、誰かが答えを用意してくれていると心のどこかで思っていた。僕のように駄目な人間より、遥かに優れた人間が世の中にはいくらでもいて、その人なら僕が知らない答えを知っているに違いないと思っていた。

このように考えてみると、僕が当時考えていたことは当たらずとも遠からずだ。「クラスの中心人物の取り巻き」も「僕のことを理解してくれる人」も、僕が実は求めていた「内面の成長」と多少は関係があるということだからだ。僕は僕なりに、内面を成長することが必要だと気づいていて、そして、そのためには人とのつながりが役に立つとも気がついていた。だけど惜しいことに、ちょっとずれていたのだ。

2 先送りのツケ

問題は、僕が中高生の頃、そのように考えてしまったことではなく、その間違いにずっと気付かず、今まで問題を先送りしてしまったことにある。僕は、大人になってからの長い間、中学高校時代の僕から目を背け続けてきてしまった。高校はともかく、僕の中学時代は明らかに黒歴史だ。だからそれを直視したくないのは当たり前とも言える。だけど、それにしても僕はその後、大学受験に成功してしまったり、哲学にハマってしまったりして、中高生の頃の問題に正面から向き合うタイミングを逸してしまった。そうこうするうちに処世術も身につけ、なんとなく、問題を上書きして、ないものにしてしまった。本当は向き合って解決しなくてはならなかった問題を、うやむやなまま先送りしてしまったのだ。

明らかに今、その弊害が出ている。僕の人間関係には、決定的に何かが欠落している。そのことには以前から心のどこかで気づいていて、僕は問題解決の方策を模索していた。だけど、うまい解決方法が見つからないどころか、何が問題なのかさえ掴みかねていた。

そんなタイミングで僕は『氷の城壁』を読んだ。このマンガは、僕の心に蓄積していたヘドロのようなものを溶かして、覆い隠されていた中高生の頃の問題を顕わにしてくれた。今の僕の問題は、目を背け続けてきた過去にこそ本当の起源があったのだ。

僕は「対話の哲学」なんていうブログをやっているくらいだから、対話的だと思う。対話とはつまり、他者を認めるということであり、そして自分を認めることでもある。自分を認めるとは、今の自分を認めるということであり、未来の自分の可能性を認めるということであり、過去の自分のことも肯定してあげるということでもある。

だけど僕は、過去の自分のことを抽象的なかたちで認めはしたけれど、きちんと、過去の自分に向き合ってこなかったのだろう。僕は、前に進むべきという未来志向を言い訳にして、過去に蓋をして生きてきてしまったように思う。僕は、前にすすむために辛かった過去など忘れてしまおうと決心し、そして実際、ある程度まで忘れてしまった。だけど、それでは本当の意味で前に進むことはできなかったのだ。

今ならば、僕の心の奥底で呟く中高生の頃の僕の声が聞こえる。「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」が欲しいとあの頃の僕が呟いている。大人になった僕は、これまで培った知見を生かして、その声に応えてあげたい。あの頃の僕に「こうすればいいんだよ。」と道を示してあげたい。なぜそうしたいかといえば、その道こそが、これから、この大人になった今の僕が、これから進むべき道に違いないからだ。これは今の僕の問題である。

3 僕が人間関係について考えていたこと

では、具体的にはどうすれば「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」などというものが手に入れられるのだろうか。

いや、そもそも、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」とはなんだろうか。『氷の城壁』を読んだ人には、その答えは、こゆんちゃんとミナトくんと美姫ちゃんとヨータくんの関係のことだよ、と言いたいところだ。だが、そうではなくて、僕が彼らの関係のなかのどこに、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」という関係性を読み取ったのか、という問題である。

このことを考える前に、『氷の城壁』を読む前の僕が人間関係についてどのように考えていたのか整理してみたい。(自分が何を考えていたのかなんて、整理しなくてもわかりそうなものだけど、経験上、意外とわかっていない。哲学カフェでやっていることの半分くらいはこんなことだと思う。)

僕はまず、人間関係について、友人関係と、恋愛関係や血縁関係の二種類に峻別していたように思う。そのうえで、恋愛関係や血縁関係は無償のもので、友人関係は利益でつながるものだと考えていたように思う。いや、そのように明確に区分していた訳ではなく、これまで断片的に考えてきたことを組み合わせると、そのように考えていたように思える、ということである。

僕にとっての好ましい友人とは、趣味が合ったり、話が合ったりする人だ。一緒にスキーに行ったり、共通の話題で盛り上がったりする人は、いい友人だと思う。付き合いが長い友人は好ましい友人になりがちだけど、それは過去の共通の想い出があって話が合うからなのだろう。そういう広い意味も含めて、僕は友人とは利益でつながる関係だと思っている。つまり一緒にいると楽しい時間を過ごせるという利益でつながった関係である。

僕は男性の友人よりも女性の友人のほうが好きな傾向にあるのだけど、それはきっと、かわいい女の子といると楽しい、あわよくば何か性的な意味でのいいことがあるかもしれない、という利益が僕の心の中のどこかにあるからなのだろう。(そんなことを四六時中思っている訳ではないので安心してください。)子どもの頃、男子グループの中に溶け込めず、いじめられたりもしたから苦手意識があるから、という事情もあるけれど、それを割り引いても、僕は女性と一緒にいたほうが楽しい。これもひとつの利益である。

また、僕が考える利益の最たるものは、高校2年生の僕が望んだ、僕のことを理解してもらう、というものだろう。僕のことを理解してくれるというのは、多分、他者から与えられうる最大の利益である。当然、そんなものを手に入れることは不可能に近いのだけど。

だから、友人といるより独りでいたほうが楽しい時間を過ごしたりできて利益があると思えば、友人とは会わない。僕は独りで家にいて、こんな文章を書いたりすることが結構好きだから、あんまり友人とは会わないで休日を過ごしている。

一方で、恋愛関係や血縁関係はそうではない。まず血縁関係は、外的に決められたことで、そこには責任がある。親や子どもと話していても、楽しさのような利益はありえるし、実際あるけれど、もし利益が全くなくても、僕には親や子どもとつながる責任がある。また、恋愛関係のほうは血縁関係とは事情が違って、恋愛には、何らかの利益が必ずつきまとうけれど、決して、利益があるから、その人とつながりたい訳ではない。恋愛には、肉体関係という性的な利益があるからなかなか見えにくいけれど、利益があるから恋愛をする訳ではないことは確かだ。恋愛と利益は密接に結びついてはいるけれど、利益はあくまで恋愛の副産物であり、利益があるから成立する友人関係とは大きく異なる。

4 そばにいてほしい

ここまでは、なんとなく、今まで考えてきたことだ。これまで、きちんと整理し、言語化することはなかったけれど、どこかで僕が意識的に考えてきたことだ。

だけど、書いていて、ふと疑問に思った。そばにいてほしい、という思いはどうなのだろう。つらいとき、独りではなく友人がそばにいたら嬉しい。(独りになりたいときもあるから、正確には「友人がそばにいたら嬉しいときもある」かな。)スタンド・バイ・ミーという曲もあるくらいだし、このような思いは普遍的だろう。では、この「そばにいてほしい」という思いは、利益を求める願いなのだろうか。

なぜこれが疑問なのかといえば、この「そばにいてほしい」という願いは恋愛そのものであるように思えるからだ。他の人にとってどうかはよくわからないけれど、僕には「そばにいてほしい」という言葉は、恋愛のほとんどを言い表しているように思える。遠距離恋愛もあるけれど、精神的な距離も含めるならば、恋愛のときの心情を表すのは「そばにいてほしい」という言葉だろう。少なくとも、「かわいい」とか「抱きたい」よりは恋愛の本質に届いた言葉だと思う。

だから、もし「そばにいる」というのが利益なのだとしたら、恋愛関係と友人関係との違いはなくなってしまう。まあ、違いがなくてもいいのだけど、そうすると、僕のこれまでの人間関係についての考え方が間違っていたということになってしまう。これは僕にとっては大問題だ。

なお、僕が「そばにいる」ことへの思いが重要だと気づけたのは、『氷の城壁』を読んだからだろう。『氷の城壁』の主要登場人物は互いに「そばにいる」。ミナトくんが悩んでいるとき、こゆんちゃんは、その悩みに答えを与えて、直接、問題を解決してあげているのではない。まあ、いいことを言ったりもしているのだけど、ミナトくんが悩みを乗り越えられたのは、きっと、こゆんちゃんが「そばにいてくれた」からだ。(ミナトくんに感情移入すると)君がそばにいてくれたからこそ、僕は悩みを乗り越えることができたのだ。同様のことは他の登場人物との関係でも言える。彼らは4人で互いにそばにいたから、壁を乗り越え、成長することができた。この「そばにいる関係」こそが、『氷の城壁』を通じて僕が気づき、そして僕が中高生の頃に求めていたはずの「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」なのではないだろうか。

という訳で、「そばにいてほしい」という思いは僕にとって重要すぎて、友情と恋愛をも飲み込み、両者の違いを無化してしまいそうなほどだけど、そこに更に踏み込む前に、ちょっと別の話をしてみたい。

5 無目的のパーティー

さて、僕がこの文章を書こうと思ったのは、「パーティー」という言葉を思いついたからだ。祝賀会などのパーティーではなく、ロールプレイングゲームなどでのパーティーのほうである。ふと、僕が中高生の頃に求めていた人間関係とは、「パーティー」なのではないかと思いついたのだ。

僕はクラスの中心人物やその取り巻きに憧れていた。けれど、では、そうなりたいかというと、、よく考えてみると、そうでもない。もし、中高生の僕がクラスの中心人物にメンバーに入るよう誘われたら、「無理!」と答えていただろう。オタクな僕ではドラマの話や誰かの噂話などの話題に合わせるのが技術的に無理ということもあるけれど、そもそも、そんなことに時間を使いたくないからだ。興味がない話題に付き合い、時間をかけることで、いじめられなくなったり、かわいい女の子と仲良くなれるというのはメリットだけど、別にドラマの話や噂話をしたい訳ではない。興味がない話に嫌々付き合っていても、きっとうまくいかないだろう。そのような意味で無理なのだ。

僕に合っているのは、ロールプレイングゲームでのパーティーのような人間関係だ。君は戦士で、あなたは魔法使いで、僕は盗賊で、力を合わせてダンジョンを攻略しようぜ、という感じ。ダンジョン攻略という共通目的があるから、別にドラマの話に話題を合わせなくてもいい。ダンジョンを歩いている間は、面白い話をせずに黙っていても、僕がイケメンじゃなくても、盗賊のスキルを活かして周囲を警戒していさえいれば、それで問題ない。僕は心穏やかにパーティーとしての人間関係を構築することができる。

だけど、パーティーにも問題はある。パーティーにはダンジョン攻略という目的があるけれど、そのような目的を共有した組織に所属したいかというと、それも嫌だからだ。僕は何十年も、パーティーに似たものである会社という組織に所属してきたけれど、その人間関係がいいとは思えないからだ。会社には、できるだけ金を稼ぐというような目的があり、その目的のために僕たちメンバーは働いているけれど、そもそも、会社のために金を稼ぐという目的が魅力的ではないから、その目的のために貢献する人間関係が好きにはなれない。同様に、ダンジョン攻略という目的が魅力的でなければ、冒険者のパーティーにも魅力がない。

そして、僕には、他の誰かと共有できるような魅力的な目的がないから、パーティーを組むことができない。僕にとっての魅力ある目的とは、例えば、この世界の存在の謎を解き明かしたい、といった浮世離れしたものだから、そんな目的を共有してくれる人などいない。宇宙科学などのアカデミックな分野になら対象者が居そうだけど、僕の興味は科学の枠内に収まらないから駄目だ。さすがに哲学者なら対象になるのではとも思ったけれど、今まで調べた限り、哲学にも色々と違いがあるから、僕と目的を共有できそうな人は見つけられていない。多分、僕は変人だから、そういう目的の共有が難しいのだ。

こうして僕は袋小路に陥っている。もし、僕が変人じゃなかったら、きっと、喜んでドラマの話やら隣のクラスの誰かの噂話をしてクラスの中心人物の取り巻きになれただろう。また、もし、僕が変人じゃなかったら、会社人間になって、弊社の組織目標を理解し目標達成に向けて邁進することまではできなくても、科学者としてアカデミックな人間関係のなかで、ともに力を合わせて宇宙の謎を解き明かそうとすることくらいはできたかもしれない。僕自身のコミュ力や理数系の能力はさておき、そのような可能性はあったはずだ。だけど、僕は変人だから、そのどちらもできない。

僕が心から欲しているのは、無目的のパーティーなのだろう。ダンジョン攻略も魔王討伐も目指さないパーティーなんて矛盾しているけれど、その矛盾したものを僕は欲しているのだ。

ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという言葉がある。ゲゼルシャフトとは会社のような目的を持った組織のことで、会社や冒険者パーティーなどが該当する。ゲマインシャフトとは地縁や血縁などによって成立している無目的な組織のことで、田舎の村社会や家族関係などが該当する。僕が欲している無目的のパーティーとは、つまり無目的なゲゼルシャフトということであり、その言葉からして矛盾しているのは明らかだろう。

社会学的にどうかは知らないけれど、僕は、学校のクラスもゲマインシャフト的だと思う。なぜならクラスのメンバーに共通する目標などないからだ。理想的には皆で知識を身につけましょう、という目的があるのかもしれないけれど、実態としては、そのような集団ではない。つまり、僕が学校の中心人物の取り巻きになりたいと思ったのは、村八分ではなく、ゲマインシャフトのメンバーになりたい、ということであり、だけど、無理!と思ってしまったのは、僕は変人だからその資格がないと思ったからである。僕のような者には農村社会のようなゲマインシャフトは無理なのだ。

では、都会に出て、会社のようなゲゼルシャフトに加入すればいいかというと、僕は変人だから、その組織の目的に賛同することもできない。探しても探しても、僕が賛同したくなるような組織を見つけることができない。

僕が感じている袋小路感とは、そのような感覚である。そして、その袋小路を抜け出る道筋として僕が思いついたのが目的のないゲゼルシャフトである。単に田舎に戻ってゲマインシャフトに加入するのではなく、新たに、この都会で目的のないゲゼルシャフトを創り上げる。それが僕が進むべき道なのではないだろうか。

6 ともに幸せになること

そして、『氷の城壁』における登場人物の4人がつくりあげている組織も、目的のないゲゼルシャフトである。先程述べた通り学校のクラスというのは単なるゲマインシャフトだけど、彼ら4人の組織には、単なるクラスメイトには留まらない、秘められた目的がある。このマンガは恋愛マンガだから、恋愛に覆い隠されてわかりにくいけれど、彼らに共通する目的は、内輪で恋愛模様を繰り広げることでは、決してない。彼らのなかには、言葉にはならない、秘められた共通の目的がある。

その共通の目的を、あえて僕の言葉で表現するならば、「ともに幸せになること」である。彼らは、ともに幸せになるという目的を目指して結成された組織なのではないだろうか。当然、そんな宣言などしておらず、多分、4人揃ってはそのような目的の確認すらしていないだろう。だけど、僕には、彼らの間にそのような暗黙の共通認識があるように思えてならない。

なお、「ともに幸せになること」という表現に違和感がある方もいると思う。僕も、「幸せ」という言葉は多義的なので、僕が伝えたいことをうまく伝えきれていないとも思う。だから、言い換えるならば、「一緒に内面を成長させること」でもいい。この方が、これまでの僕の言葉遣いに近いかもしれない。全く違う言い回しだけど、同じことを伝えようとしているつもりだ。

そのような言葉にしにくい何かを目指す組織こそが、無目的なゲゼルシャフト、または無目的なパーティーという言葉で僕が表現したかったものだ。目的がないのではなく、言葉にできない目的があるのだけど、それをうまく捉えることが難しいから、無目的のように見えるだけなのである。

僕はどこかにあるかもしれない、言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーに加入するか、なければ自分で誰かと創り上げたい。

7 スタンド・バイ・ユー

では、僕が目指すものがわかったところで、僕は具体的にどうすればいいのだろうか。どうすれば僕は言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーを創り上げることができるのだろうか。

そのヒントになるのが、先ほどの「そばにいてほしい」という言葉なのではないだろうか。メンバー間で互いに「そばにいてほしい」と願ったとき、それが引力となり組織が形成される。そして、なぜ「そばにいてほしい」のかといえば、その人がそばにいることが幸せだからである。「そばにいてほしい」という願いにより形成された組織こそが、言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーなのではないだろうか。

だけど、それだけでは足りない。互いに「そばにいてほしい」と願うだけでは一方通行で、そばにいるという状況にはならない。ミナトくんが風邪をひいて、「そばにいてほしい」と願ったとき、こゆんちゃんが哲学の文章を書くのに一生懸命で「そばにいたい」と思わなかったら、「そばにいてほしい」という思いは叶わない。また、ミナトくんの願いを渋々聞き入れてそばにいても、それは、哲学の文章を書くのを諦めたこゆんちゃんの幸せにはならない。無目的のパーティーにおいて、暗黙の「ともに幸せになる」という目的が叶うためには、「そばにいてほしい」だけではなく「そばにいたい」も必要なのである。

というか、「そばにいてほしい」なんていうのは、風邪をひいていたり、ちょっと弱気になったり、孤独を感じたりすれば、かなり容易に思えることだから、本当に必要なのは、「そばにいたい」のほうだと行った方がいいだろう。スタンド・バイ・ミーと歌うのはとても当たり前のことで、まあ、当たり前すぎるほど普遍的なことだから、あれだけ有名な曲になったけれど、本当に必要なのは、スタンド・バイ・ユーなのではないだろうか。(と思って調べてみたら、Official髭男dismに『Stand By You』という曲があって、同名のファンクラブまであるんですね。)

ただ「そばにいたい」と願うことは難しい。一緒に趣味を楽しめるから、楽しく雑談ができるからといった具体的なメリットがなくても、ただそばにいたいと願わなければならない。あえて言えば、一緒に幸せになれて、または、一緒に内面を成長させることができるから「そばにいたい」のである。そんな漠然としたことのために、あえて自分の時間を割いて「そばにいたい」と思うことは僕には難しい。僕にはそんなふうに思える友人なんているのだろうか。そんなのはマンガの中だけの話ではないだろうか。

そんなふうに考えていて、一人だけ思いついた人がいる。恥ずかしいので一度だけ言うと、それは僕の奥さんである。僕は彼女と出会い、本気で付き合うと決めたとき、この人と一緒に色んなことを経験し、時には嫌なことがあっても一緒に乗り越えていきたいと思った。実際、そのようにできているかは甚だ怪しいけれど、あのとき僕が抱いたのは、ただ「そばにいたい」という感情だった。それは、一緒に幸せになって、一緒に内面を成長させていきたいと思った、と表現し直してもいい感情だ。だから、もし奥さんも同じように思っていたなら、僕はすでに夫婦で無目的のパーティーを結成しているのかもしれない。

8 友人問題

ここで話を終えてしまったら、単なるノロケ話になってしまう。まあ今日はちょうど結婚記念日なのでそれでもいいけれど、もう少し考えを進めてみたい。

とりあえず、僕は幸運なことに、夫婦で無目的のパーティーを結成できているとしよう。だけど、僕が更に他の人にも、無目的のパーティーを拡げていくことはできないのだろうか。これは、少数の限られた人とだけと限定的に幸せになりましょう、なんて禁欲的になるべき話ではないような気がする。

なお、ここで注意しておくと、これは、うちの奥さん以外の人と付き合いたい、という話ではない。僕には結構ハーレム願望があって、酔ってそんな話をしたことがあるかもしれないけれど、この話にはそのような性欲的なニュアンスは含まれていない。

また、この話は、決して宗教の勧誘のような話ではない。確かに、キリスト教の教会なんていうのは、キリスト教的な幸せを目指す、いわば無目的のゲゼルシャフトだと言えなくもない。だけど僕が今考えているのは、そういう組織化の話ではなく、もっと私的な、一対一の人間関係の話である。

考えてみると、決意さえすれば、誰かと「そばにいたい」と願うことは難しくない。物理的にそばにいるためには同居しないといけないけれど、ここでの「そばにいたい」とは精神的な距離のことだから、ただそう願いさえすれば、あとは、時間や労力をその誰かにかけることで、そばにいることは実現するからだ。

もしかしたら、少なくない割合の人にとって、これはさほど問題ではないのかもしれない。誰かのために時間と労力をかけることが幸せへの道であるということを本能的に知っていて、迷いなくそうできる人は結構いるのかもしれない。考えてみれば、『氷の城壁』の登場人物も、極めて自然にそうしていたような気がする。たまたま僕が、自分自身や奥さんに時間と労力をかけたいと思うタイプだから、そこに問題があるだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、これから書くことは、そうなれなかった、僕のような自己中心的なタイプの人だけに意味があるのかもしれない。

では、ここからは、僕自身と、僕に似た人だけに対象を限定して、話を続けたい。

(1)条件の問題

僕にとってまず問題となるのが、どのような人を無目的のパーティーのメンバー候補として選定すればいいのか、という問題である。あまり大人数だと、自分自身や奥さんに時間と労力をかけることができなくなってしまうから、うまく両立するためには条件を絞って対象人数を狭めたほうがいい。また、明らかに、メンバー候補には不適当な人を除くためにも条件は必要だろう。ある程度長く生きてみると、本当にやばい、明らかにサイコパスな人がいて、どんなに理想論を掲げても、そういう人とは関わってはいけない、ということを知ってしまう。

ではここで対象を絞る条件として、趣味が合うかどうか、話が合うかどうか、といった基準を持ち出すと、目的があるゲゼルシャフトの話に戻ってしまう。そうではなく、無目的のゲゼルシャフトを創り上げるにはどうすればいいかを考えなければいけない。つまり、ともに幸せになり、ともに成長できそうな人を選び出すにはどうすればいいか、という視点で考えなければならない。

では、すでに幸せで成長した人を探し出して、その人からやり方を教えてもらえばいいのかというと、そうではない。それでは、高校2年のときに頭がいい彼女を好きになったのと同じ過ちを犯してしまう。僕が探しているのは、僕の先生やカウンセラーではなく、僕とともに歩んでくれる人なのだ。

だとするならば、僕のパーティーのメンバーを選定する基準は、僕と一緒に幸せへの道を歩んでくれそうかどうか、または、僕と一緒に試行錯誤して内的成長をしてくれそうかどうか、というようなものになるだろう。

これは、人生という言葉を使って、僕より早すぎもせず、僕より遅すぎもせず、同じ歩幅で人生を歩んでくれそうかどうか、という選定基準であると言い換えることができるだろう。または、人生に対して僕と同じような熱量を持っていて、人生に対して僕と同じような真摯さや誠実さを持っているかどうか、という基準である、と言ってもいい。なぜここで人生という言葉を持ち出すかというと、つまり、幸せとは人生における幸せであるからだ。そして内的成長とは人生における成長のことだから、つまり、人生を生きることそのものの問題であるはずだからだ。

(2)方法の問題

だけど、どうやって他人の人生に対する熱量や真摯さなんてものを把握すればいいのだろう。よく観察すれば不可能ではないけれど、そこまで観察できるためには、既にかなり近い友人になっていなければならないだろう。そこまで労力と時間をかけるのは現実的ではない。

周囲を見回してみると、マンガの中だけではなく、世間にはそのような関係を築けている人がたくさんいるように思えるけれど、彼らはどうやっているのだろうか。

きっと、彼らはそれほど考えていないのだろう。いわば嗅覚のようなもので、その相手を見つけているのではないだろうか。そして、多少悲観的になるならば、その嗅覚が最もよく働くのは、子どもの頃からせいぜい中高生の頃までで、だから、多くの人にとって幼なじみが大事なものになるのではないだろうか。残念ながら僕は、中高生の頃までその嗅覚を用いる機会がなく、こうして歳をとってしまった。ギリギリセーフで20代の半ばで僕の奥さんに出会ったときにこの嗅覚が働いたのかもしれないけれど。

だから、今後、僕には、昔のように、自然と、ともに人生を歩むことができるようなパーティーのメンバーを見つけることはできないのかもしれない。本来なら自然にできることを、このように、ぐだぐだと言葉で考えているということ自体がその困難さの現れなのかもしれない。

まあ、僕は奥さんを見つけられたのだから、良しとするべきなのかもしれない。だけど、不自然ではあっても、もう少し頑張ってみたい。なぜなら、もし、大人になってからでもパーティーのメンバーを見つける方法をみつけることができたならば、それは、僕自身にとってだけでなく、この世界にとっても意義があるだろうからだ。僕は、僕自身に加え、僕に似た人にも、君だってもっと、誰かと一緒に幸せになれるんだよ、と言ってあげたい。

(3)対話

そこで役立つのが対話だろう。確かに僕はこれまで対話を重視してきた。だけど、まだまだ解像度が荒くて、きちんと、それぞれの個人に焦点をあてて対話することができていない。相手と向き合い、相手を型にはめて一般化することなく、相手を唯一のオリジナルな存在として認めることで、その人の人生に対する態度も見えてくるはずだ。その労力を惜しんではいけない。僕はもっと他者と対話しなければならない。

その動機は、僕自身の哲学のスタンスにも由来している。僕は、僕一人でやる哲学が好きだ。僕は、僕の哲学にもっと時間と労力をかけたい。だけど、僕の哲学とはつまり、対話の哲学なのだから、僕の人生においてきちんと他者と対話をしなければ本末転倒だ。他者との対話にかける時間と労力を犠牲にして、自分自身の対話の哲学に注力することはできない。理論と実践はつながっていて、僕は対話を哲学的に理論化しつつ、僕の対話を実践していかなければならない。

(4)癒着

さて僕は今、「僕の対話を実践していかなければならない。」と表現したけれど、この「ならない」は義務ではない。

話が少しずれるけれど、こゆんちゃんのミナトくんに対する「そばにいたい」という思いは「そばにいなければならない」と言い換えても全く同じ意味である。この「そばにいなければならなない」も義務ではない。なぜなら、こゆんちゃんとミナトくんは、ともに幸せを目指すゲゼルシャフトの一員なのだから、「そばにいたい」という個人の目的と「そばにいなければならない」という組織の目的は完全に重なり、癒着しているからだ。だから、こゆんちゃんはミナトくんに対して「そばにいなければならない。」とも思っているに違いない。

更にはミナトくんのこゆんちゃんに対する「そばにいてほしい」という思いすらも重なり癒着している。あえて言えば、「そばにいたい」でも、「そばにいなければならない」でも、「そばにいてほしい」でもなく、ただ「そばにいる」のであり、「そばにいる」以外にはないのである。ミナトくんはそばにいてほしい、のではないし、ましてや、そばにいてもらう、でもない。こゆんちゃんはそばにいたい、ではないし、ましてや、そばにいてあげる、でもない。ただ二人は互いに「そばにいる」だけであり、それしかないのである。

僕が無目的のパーティーであるという言葉を使ったのはそういうことである。あえて幸せになるという言葉や内面を成長するという言葉を目指すものとして使ったけれど、正確には、幸せになりたいでもなく、成長したいでもなく、幸せにしたいでもなく、成長したいでもなく、ただ二人で、幸せになり、成長するのである。そのような意味で、幸せも成長も目的ではない。

これは、國分功一郎先生が『中動態の世界』で描いた中動態の話に少し似ている。

同様に、「僕の対話を実践していかなければならない。」とは、「僕の対話を実践していきたい。」でもあり、「僕の対話を実践していってほしい。」でもあり、より正確には、僕は「僕の対話を実践していく。」しかないのである。きっと僕という人格さえも、つまりは無目的のパーティーであるということなのかもしれない。

そして、僕は、そのような人間関係のあり方、幸せのあり方、内面の成長のあり方、または人生のあり方こそが、対話的であると考えている。対話の言葉により人はつながり、無目的に前に進むことができるのではないだろうか。

いくつも書いてきたけれど、『氷の城壁』の感想文シリーズは一段落かな。普通に色々できる人は羨ましいけれど、僕もこうやって言葉を捏ねくり回して何とかついていくぞ!