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「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 4 派生的疑問

4 派生的疑問
4-1 因果の充満の特別さ
まず、本題に入る前に、ベタの神についての「時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」という述べ方の問題点について触れておきたい。
正直、この述べ方は、「ある、なる」のうち「ある」に偏りすぎていると思う。また、「ある」に偏っているがゆえに、「ある」、つまり、「存在」と同一視してしまう危険性も孕んでいる。この「ある、なる」の議論が、言語と存在という、どこか手垢が付いた切り口が繰り返されているだけと受け止められてしまう危惧があるのだ。
だから、私は、あくまでも「「なる」という時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」だということを強調しておきたい。「ある、なる」の議論は、この時間的な議論を経たところに魅力がある。本当は「絶対現実」より、もっと言い方があればいいのだが、「ある、なる」には残念ながら見当たらないし、私も思いつかない。

「ある」への偏りとして特に気になるのが、時間的な議論のなかでも、特に、第22章の因果の充満という議論が、この「絶対現実」という用語では捉えられないという点だ。
この問題意識は、この文章の冒頭で派生的な疑問として挙げた「この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の特別な意味があるのではないか。」という疑問につながる。

因果の充満とは、「全ての原因・結果が、全面的に肯定であり、そこに否定や欠如が入り込む隙間は全く無いことになる。」(p.275)という、いわば、因果関係において、「ある」を極大化した捉え方である。
そして、常識的な「ある」から遠く離れ、因果の充満をイメージするためには「一つの媒質内で波動が伝播するイメージ」がよく、「もう「二つの別個の物事のあいだの関係」とは言えなくなってしまう」というところまで至る。そのような描写からは、大河のような「一つの媒質」の大きな流れのようなイメージが浮かび上がってくる。
この「一つの媒質」には、当然、外はない。なぜなら、全てが充満し、その関係性が全てを一つの流れに取り込んでいるのだから。
そのように考えるなら、この大きな流れとは、「絶対現実」の流れそのものと言ってよいだろう。
因果の充満という議論には、このような方向性で、現実と時間を捉える力があるのではないだろうか。

充満した大河の流れのイメージを経るならば、私は、「絶対現実」とは、無内包と言うより、内包の完全な充満と言ったほうがいいと思う。完全に充満しているからこそ、そこに内包として指示すべき個別の何かなど無いのだ。そのような意味では完全な充満を無内包と言うことは間違いではないのだが。
「ある、なる」でも「現実それ自体は完全に充実している」(p.63)という捉え方がされているので、重点の置き方の違いなのだろうが、ここでは、「無内包」より、「充満」をイメージしたほうがよい場面があるということを指摘しておきたい。

そして、更に続けるならば、その充満は、静的な充満ではなく、動的な流れとしての充満だということに留意しなければならない。草木が成長したり、椅子に座っていた人が椅子から立ったり、毛布に潜り込んでいたネコが毛布から這い出して毛布の上に座ったりといった変化も含んだものとしての充満なのだ。
そこには、「ある、なる」で行った「時制的な視点移動という<関与・操作>」(p.301)から透かし見て、「時間推移」を捉えようとしたのとは違う、もう一つの「時間推移」を捉える道筋があるように思える。「ある、なる」においては、「時制的な視点移動という<関与・操作>」の働きを純化していくことにより、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱのシーソー関係を見出し、そこに時制区分と対になるものとしての純化された時間推移が提示されていた。
しかし、「時間推移」というものを捉えるには、そのような作業だけでは足りず、この純化の作業を駆動させるものとしての、「大河の流れのようだ」というイメージが必要なのではないだろうか。(ただし、後述するように、イメージによる把握という道筋は述べ方として不徹底である。)
このイメージによる把握の適否は別にして、ベタの神を「絶対現実」と呼ぶならば、「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」という捉え方を忘れないことが、最低限必要だろう。

4-2 様々な<中間>
次に、冒頭で列記した派生的疑問のひとつである「第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ言葉でまとめて表現してよいのか。」という疑問について、第24章を細かく読み解きつつ考えてみたい。
当然、これは、「様々な<中間>の根本に「絶対現実」と「言語」の<中間>がある。」と言えるなら、全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化することができるのではないか、という期待も込めての作業となる。

4-2-1 排中律の<中間>
まず、第24章の冒頭では、排中律の<中間>について語られる。
ここでは、二つ性と一つ性の<中間>などが挙げられるが、「排中律は言語と現実の<中間>で働く。」(p.296)とあるとおり、その<中間>の根源には、言語と現実の<中間>があると言ってよいだろう。
「ある、なる」において、排中律は、純化のためのろ過装置として働いている。
現実と言語が混在している沼に、排中律という装置を設置し、純化した現実を取り出そうとする。また、スイッチを切り替え、同じ沼から、純化した言語を取り出そうとする。
だから、排中律は、ときには現実と対立するフィルターのように振る舞い、ときには言語と対立するフィルターのように振る舞う。
そして、ろ過の働きはどこまでも<中間>的だから、排中律は、ろ過の過程において、一つ性、二つ性といった様々な形を見せることになる。
だから、「ある、なる」を読んでいると、文脈のなかで排中律という語が、「現実」寄りなのか、「言語」寄りなのか、その位置づけがよくわからなくなることがある。この文章でも、排中律を言語に寄ったものとして使っている場面が多いが本来、あくまで<中間>なのである。
しかしそれは、入不二の表現がまずいのではなく、私の理解がまずいわけでもない(と思う)。
現実から言語を取り除き、絶対現実として純化しようとする場面では、ろ過されるものである言語自体に言及することはできないから、フィルターである排中律について言及せざるを得ないという、やむを得なさがある。(ろ過の過程では「言語」という語も使われているが、それはあくまで、純化されていない「言語」だ。)
もし、言語というものを直接的に触れて操作することができるなら、ろ過作業にあたって、排中律というフィルターは必要ない。直接触れることができないからこそ、フィルターを使っているのだ。
そこには、「言語」という語を使わず、ろ過される対象である「現実」という語と、ろ過装置である「排中律」という語のみを使って、現実と言語の拮抗を描かなければならない、という表現の難しさがある。

4-2-2 <中間>の<中間>・現実A
引き続き、第24章では、「「中間」も「端」も<中間>」(p.296)であるということが述べられている。
これは、先ほどの、ろ過装置の例えと重なる。
ろ過される対象である、現実、言語には直接触れることはできない。フィルターを通じて、どこまでも<中間>的なろ過の作業のなかで、<中間>的にしか言及できないということが、ここで述べられていると言ってよいだろう。

次に、相対現実、様相との関係で、<中間>について触れられている。
まず、絶対現実と相対現実の<中間>とは、「一つ性と二つ性の中間」(p.298)という文脈のなかで登場していることからしても、先ほどの排中律と同様に、現実と言語の<中間>に含まれるものと捉えることで問題ないだろう。
ここで留意しておきたいのは、この<中間>が、「特定の内容を持つこの現実-現実A-は、絶対現実と相対現実の<中間>である」(p.298)というように登場していることだ。
排中律によりろ過し、純化していたのは、「この現実-現実A-」だったのだ。つまり、言語と現実の混合物である現実Aをろ過し、純粋な言語と、純粋な現実(絶対現実)を取り出そうという試みが、「ある、なる」のうち「ある」の議論だったということになる。
このように<中間>という言葉は、現実Aというろ過される対象、排中律というろ過装置そのもの、<中間>的なろ過装置の働き方、といったいくつかの意味を込めて用いられている。

様相の議論においても、<中間>は様々な場面で現れている。ここでは、「もっとも基礎的な<中間性>は、無様相と様相の<中間>性であり」(p.300)とされている。
ここで言われる無様相とは無様相の絶対現実のことであり、そもそも、様相の議論は、相対現実と絶対現実の<中間>性の話から出発していることからしても、様相の議論における<中間>は、相対現実と絶対現実の<中間>と同様に、現実と言語の<中間>に含まれると考えてよいだろう。
ここで、特に着目すべきは、この様相の議論においては、様々な<中間>が現れており、まさに<中間>はどこまでも<中間>であるということが見事に描かれているということだ。
また、排中律に加えて、「様相」と「様相の潰れ」もまた、ろ過装置となっていることにも留意しておくべきだろう。「様相の潰れ」が、まだ議論が<中間>に留まっていることを示す、リトマス試験紙のような働きをしつつ、様相という議論の構造を通じてろ過作業を前進させている。

4-2-3 時間推移と時制区分の<中間>
ここから、第24章の<中間>にまつわる議論は、「なる」の時間の土俵へと移っていく。
まず、「時間は、時間推移と時制区分の<中間>で働く。」(p.301)とされる。
ここでの議論は、先ほどの「ある」の議論と同様に、「この時間推移-時間推移A-」をろ過し、純粋な時間推移と、純粋な時制区分とを取り出そうとする方向にあると言ってよいだろう。
この場合のろ過装置は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱだ。
時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの<中間>をフィルターとして、時間推移Aを純粋な時間推移と時制区分とに純化しようとする。この<中間>は、「ある」の議論の場合と同様に、「中間」も「端」も<中間>というかたちで重層的に働く。だから、<中間>は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの間で働くだけでなく、時間原理Ⅰのなかでも働き、時間原理Ⅱの内側の、未来、過去、現在のそれぞれの時制区分のなかでも働く。

なお、純粋な時間推移と時制区分との<中間>とは、「なる」の時間的な議論を経たうえでの、現実と言語の<中間>のことだと言ってよい。
どうしてそう言えるのかといえば、まず、時制区分は「時制という言語的な装置」(p.196)とされていることからも、時制区分とは言語のことである、ということは言ってよいだろう。
ただ、ここで、言語「的」とされているとおり、通常の意味での時制区分は言語そのものではない。あくまで、「ある、なる」の議論を経て純化された時制区分と言語とが重なる。
一方、時間推移は因果の充満について述べた際に既に登場している。そのときの議論を振り返るなら、時間推移とは「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」のことだと言ってよいだろう。
以上を踏まえ、現実と時間推移を結合し、言語と時制区分とを結合して扱うことができるということになる。これが、「ある、なる」における、最も簡素な、「ある」の現実論と「なる」の時間論の接続の描写となるだろう。

4-2-4 未来、過去、現在の各時制における<中間>
そして、第24章は、未来、過去、現在という時制ごとの描写へと移る。
現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗は、未来においては、言語(時制区分)が優勢である。言語が優勢だからこそ、「言語(時制)によるベタな現実への反逆」(p.302)である「未来の「無」」が立ち上がる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、反逆は完遂されない。
一方、過去においては、現実(時間推移)と言語(時制区分)では、現実(時間推移)が優勢である。現実が優勢だからこそ、想起阻却過去という究極の無関係である何らかの現実を垣間見ることができる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、阻却も完遂されない。
そのような拮抗、つまり<中間>性が、未来、過去においても見いだされる。
最後に、現在における現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗についても描かれるが、現在における<中間>については、明らかに未来や過去に比べて複雑なものとして描かれている。これを紐解くには、章を改めたほうがいいので、ここでは分析しないことにする。
(その後も第24章は、因果における<中間>、思考の<中間>へと考察が進んでいくが、この部分は第25章以降と結びつけて扱ったほうがいいと思われるので、この文章では扱わない。)

このように第24章の流れを再確認した結果、当初の目論見どおり、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>がある、というように整理することができた。これは全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化する目処がついたということであり、私の理解のためには重要な成果だ。
しかし、第24章全てを使って「ある、なる」が述べているように、この<中間>は、重層的な中間である。例えば、様相の議論において様々な<中間>が見出されたことで鮮やかに示されているように、<中間>の<中間>と言ってもよい拮抗に満ちているということが同じくらい重要だ。

4-3 「現に」という副詞
この現実と言語の<中間>は、「ある、なる」やこの私の文章が伝えようとしている現実性にまつわる問題について、文章で伝えられないということと、なぜか現に伝えられているということとの<中間>でもある。
これは、「ある、なる」でも、現実の感覚の問題について、ケーキの例えを用いて、「現に生じている感覚ではなく、生じうる感覚を持ち出すことによって、概念(観念)との差をつけている。」(p.72)としている問題のことである。この問題について「ある、なる」では、「「現実」は、「現に腰の痛みを感じる」~のように、体験内容の外側から副詞的に付加されるしかない。」(p.73)と副詞的に付加するということで、解決しようとしているが、この「ある、なる」の文脈ではそれでよいとしても、本当はそれでは済まない。
なぜなら、いくら「現に」という言葉を足しても、文章に書かれた言葉は現実ではないのだから、現実に届かないからだ。
「現に腰が痛い」「現に椅子に座っている」「現に雨が降っている」と言っても、現に腰が痛くなく、椅子に座っておらず、雨が降っていなければ、現に腰が痛く、椅子に座っており、雨が降っているということはない。もしかしたら、たまたま、腰が痛かったり、椅子に座っていたり、雨が降ったりしているかもしれないが、それは、そのような文章を読んでも読まなくても、そうであるはずで、文章の表現とは全く関係ない。
そのような意味で、現実性を文章で伝えることは不可能である。
しかし、一方で、現実性を文章で伝えることは、とても容易にできているとも言える。「現に腰が痛い」と書かれていれば、現に腰が痛くなくても、そこで伝えようとしている現実性について理解できる。そうでなければ、「ある、なる」やこの文章を理解することなんてできないはずだ。
また、現実性をきちんと伝えようとする配慮や技術なんてなくても、現実性は伝えられるとさえ言える。小学生の作文で「夏休みにおばあちゃんちに泊まった。」とあれば、「現に」という副詞なんてなくても、現実と理解できる。更には、全ての記述は、現実性が付与されているとも言える。どんな荒唐無稽なSFでも、抽象的な表現にあふれた詩でも、それを理解できるならば、そこには現実性が付与されているはずだ。そう考えると、「現に」という副詞は、何も付与していないとさえ言える。
このように、現実と言語の<中間>は、「現実性は文章で全く伝えることができない」と「現実性は文章で完全に伝えられるし、また、全ての文章に現実性は必ず付与されている。」の<中間>であるというかたちでも現れる。その<中間>に「現に」という副詞の付加があるということになる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 3 ベタとスカ

3 ベタとスカ
3-1 三つのスカ
まず、この本には三つのスカが登場することに着目するところから始めたい。
三つのスカ、つまり空白とは、まず一つ目が、第4章で「表現(排中律)は「空白」を招き寄せる。」(p.60)とされる、排中律との関係から語られる空白である。
二つ目が、第16章で「「空白」は、未来時制という言語的な装置が創り出す言語的な仮想である。」(p.197)とされているように、未来との関係から語られる空白である。
もう一つが、第19章の小見出しともなっている「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在における空白である。
これらは、そのいずれもが、「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」として扱われているとおり、同じものを指すと言ってよいのではないか。
こんなところを手がかりにして議論を始めていきたい。

排中律、未来、現在に現れる三つのスカは、スカの神の三つの側面だと言ってもよい。
そう考えるなら、ある側面では、排中律・未来・現在をつなげて考えることもできるはずだ。
このようなやり方で、現実と時間の区分や未来と現在という時制区分を越えて、概念同士を結合して捉えてみるという着眼点が、現実と時間との関係を捉えるうえでは役に立つと思われる。この線で検討を続けてみよう。

3-2 二つのベタ
それでは、スカの神の領域にないもの、つまりベタの神の領域にあるものはなんだろうか。

この本の、少なくとも第24章までの議論を辿ってみると、おおまかには、運命は、現実と時間という側面から捉えられている。まず、現実は、排中律・様相と、それらではどこまでも捉えきれない現実性・絶対現実という関係で描かれる。その後、時間について、未来、過去、現在という三つの時制に分けて考察が進められていく。そして、ついには、「運命」は「ある、なる」に至る。
この一連の流れにおける中心概念である、「排中律・様相」、「絶対現実・現実性」、「未来」、「過去」、「現在」から、スカの神の領域にある「排中律・様相」、「未来」、「現在」を除くと、「絶対現実・現実性」と「過去」が残る。
そこから、この二つがベタの神の領域にあると言えるのではないかという推測ができる。絶対現実・現実性と過去、という結合が成立するということである。
もし、そのように考えることができるなら、この本における、ベタの神とスカの神の拮抗は、単純化すると、ベタの神の領域にある「絶対現実・現実性+過去」と、スカの神の領域にある「排中律・様相+未来+現在」との関係性のことを指すということになる。

では、本当にそのように考えることができるか、ということになるが、過去と現実性とを結びつけるという捉え方は、「ある、なる」から逸脱した独自の解釈ではないだろう。
まず、過去についての「<過去の確定性・変更不可能性>」(p.206)という描写は、現実についての「現実的な必然性」(p.145)という描写と、とても似ている。過去と現実は必然性・確定性を介して結びつく。これは、運命論が、確定した過去を必然的な現実として受け止めるところから始まっていることからしても、常識的な捉え方と言えるだろう。

また、常識的な捉え方から進み、「ある、なる」において行われている「純化」とでも言うべき独自の操作を経ても、過去と現実は結びつけることができる。(今後、「純化」という言葉を何度か使うが、「ある、なる」において「純化」という言葉は使っておらず、純化そのものは語りえないということにこそ重要性がある。)
「ある、なる」において、「現実」は、一旦は「現実的な必然性」とされるが、これは「様相の潰れ」へと繋がる中途状態であり、ついには、絶対現実に至る。
「過去」についても、第17章において、想起過去、想起逸脱過去、想起阻却過去と深められていく。そして、ついには、「特定の記述を失い、「∅だった」のような内容を持たない過去」(p.213)としての想起阻却過去に至る。
「ある、なる」における純化を経た、現実と過去、つまり、絶対現実と想起阻却過去は、とても似ている。絶対現実は現実であり、想起阻却過去は過去である、ということを除き、内包・内容に違いはない。なぜなら、いずれも無内包、無内容だからだ。
更に言うならば、絶対現実は無内包なのだから「現実である。」という内包はなく、想起阻却過去も、特定の記述を失っているのだから、「過去だった。」という内容を持たない。
よって、語りうる限りでは、「現実である。」という内包を持たない無内包の絶対現実と、「過去だった。」という内容を持たない想起阻却過去とは、見分けがつかないとさえ言えるはずだ。

ここでは、想起阻却過去と絶対現実が同じものを指すとまでは言わない。しかし、純化され、言語によっては違いを捉えられないほど一体化した過去と現実は、いずれも、ベタの神の二つの側面であるとまでは言えるだろう。

3-3 ベタの神とスカの神の正体
スカの神の三つの側面である排中律、未来、現在は、いずれも「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」なのだから、スカの神の正体は言語だとすることに異論はないだろう。
一方、ベタの神の正体は、「ある、なる」の「なる」の時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」だと位置付けることにも、大きな異論はないだろう。
しかし、私は、すぐには、ベタの神とスカの神の拮抗を、「絶対現実」と「言語」の拮抗と単純化したくはない。
第24章では様々な<中間>が挙げられている。もし、全ての<中間>の根本に、「絶対現実」と「言語」の<中間>があり、他の<中間>は、そこから派生しているということであれば、様々な<中間>を根本と派生というように構造化し、単純化して描き出すことができるかもしれない。しかし、少なくとも、「ある、なる」ではそのような語り方はしていない。
最終的には、そのように結論付けられるのかもしれないが、ここには、もう少し踏みとどまって考えるべきことがあるように思われる。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 2 3つの疑問

2 3つの疑問
この本と「私の哲学にとっての哲学上の問題」との関係を捉えるためには、私が「ある、なる」を読んで感じた疑問から入っていくのがいいだろう。
私はこの本を読み返しても、最後まで3つの疑問が残った。これから述べるうえで整理するならば、一つの中心的な疑問と二つの付随的な疑問である。

中心的な疑問とは、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」というものだ。
この疑問が中心的になるのは、あたり前とも言える。「ある」の現実と「なる」の時間の関係は簡単に言うことができないからこそ、「ある、なる」というタイトルのこの本の全体で伝えようとしたのだろう。
そして、この本は、この点について丁寧に述べてもいる。現実と時間の関係性については、プロローグから「ある、なる」の交錯配列、または交錯配列の反復と短絡という明確な述べ方をしている。いうならば最重要事項として扱われているといってもいいだろう。しかし、それでも、この本を読むと、それで具体的には何がわかったんだっけ?という疑問が、どうしても残ってしまうのだ。
この文章では、主にこの疑問について考えていきたい。

あとの二つは、そこから派生する疑問となるが、一つが、第22章で出てくる因果の充満という考え方の取り扱いについての疑問だ。この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の意味があるのではないだろうか、という疑問だ。
もう一つが、第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ<中間>という言葉でまとめて表現してよいのだろうか、という疑問だ。
実は、他にもいくつか疑問はあるのだが、いずれも、第25章とエピローグに関する疑問であり、この本は、第24章までと、第25章からでは、分けて扱ったほうがいいように思われるので、この文章では第24章までを扱うこととし、それらの疑問には触れないことにする。
(厳密には、第23章の「祈り」の問題、第24章の「思考の運命」の問題も、第25章以降の問題とあわせて扱うべきように思われる。)

それでは、中心的な、現実と時間の関係という問題について、私なりの答え、理解に至るまでの過程をたどりつつ、派生する疑問についても触れていくことにする。

「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 1 はじめに

2015年12月6日作

※ 入不二基義「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」について書いた文章です。以下、「ある、なる」または「この本」と呼びます。

・・・

1 はじめに
この本「ある、なる」には二つの神が登場している。ベタの神とスカの神だ。神話には詳しくないけれど、シヴァとヴィシュヌ、いざなぎといざなみ、アフラ・マズダとアーリマン、そんな神たちにどこか似た二つの神がこの本の上には登場しているように思う。

そして、この本によれば、二つの神の間にあるのは、決して、どこかに落ち着くことはない「拮抗」だ。ベタ(黒)とスカ(白)が混じって灰色になることはない。黒いこの本のカバーを外すと白い本が現れることが、それを示している。カバーを外すという転換は一瞬だ。黒から灰色を経由して白に変わるのではなく、全面的な黒から全面的な白への瞬間的な転換である。その瞬間に垣間見られるものとして、運命が描かれている。

「ある、なる」には、正しさが含まれているという感触がある。
そう思う理由の第一は、今述べたように二つの神の拮抗として描くことができるような美しさがあるということにあるが、もう一つの理由は、読み返すたびに、何か新しいことに気付かされるということにある。
「ある、なる」を読んでいると、本と対話しているような気がしてくる。対話形式で描かれてはいないし、読者の気持ちに寄り添って優しく語りかけるように書かれているという訳でもない。それでも、読むたびに、新しいメッセージを見いだすことができるというのは、まさに本と対話しているということだ。そのような読み方ができる本には、ある正しさが含まれていると思う。
しかし、それは、つまりは、一度読んだだけではわからないということでもある。
最初に読んだときの感想を率直に言うと、「何かはわからないけれど、なんだかわかった。だけど、それで、何がわかったんだっけ?」というようなものだった。
読み返し、自分なりにこの本との対話を繰り返したあとで振り返ると、そう感じたのは、多分、この本が重きを置いて書いていないことが「私にとっての哲学上の問題」だったからなのだろうと思う。この本は「私にとっての哲学上の問題」を無視したのではないが、私にとってはペースが速すぎたのだ。
だから、私は、少し立ち止まって、引き返し、この本があえて述べなかった「私にとっての哲学上の問題」についての考察を書き足したい。そういう意図でこの文章を書こうとしている。
ということは、私は、これから、この本に書かれていない新しいことを書くつもりだが、実は、既に行間に書かれているとも言える。そのような意味では、この文章は、私が「ある、なる」を理解する過程での個人的なメモに過ぎないのかもしれない。

私の独我論 3最後に

3-1一つ性

以上、私の独我論は、認識論的独我論、意味論的独我論、存在論的独我論を「一つ」にまとめ、更に、時間を物語時間として取り込むことができた。

これは、私がひっかかっている哲学上の諸概念を「一つ」にまとめることができたということである。

そして、ここまで進めた論は、荒っぽいところもあるが、方向性に大きな誤りはないのではないかと考えている。これは、この文章の成果であり、私がこの文を残したいと考えた理由である。

この私の独我論の方向性は、前半で少し脱線したように、独我論でも一元論でも、なんでもよいが、「一つ」というものを目指すものだったと言ってもよいだろう。

というか、「一つ」を求めることが私にとっての哲学の目的であると言ってもよい。

なぜ「一つ」を求めるかとい言えば、「一つ」であることにより、全ての哲学的な疑問を無化できるからだ。「一つ」しかないものに、存在、言語、内包の認識、時間と名付ける必要はなくなる。そのようにして全ての概念は消去できる。これは、入不二によれば、ウィトゲンシュタインが「私」を消去するときに使った手だ。

だから、もし、この私が論じている方向性が正しければ、存在、言語、内包の認識、時間といった、私に疑問をもたらすものたちは消去される。

そして、私の様々な哲学的疑問は消え去り、そこに哲学以前の、当たり前の景色が広がることになるだろう。

3-2個人的な課題メモ:部屋の掃除

しかし、そんなにうまくいくだろうか。

私は、哲学とは、窓もドアもない部屋を掃除しているようなものだと思う。私の哲学は、部屋のホコリをできるだけ一つにまとめ、ゴミ箱に捨てることを目的としている。しかし、そのゴミを持ち出す先はない。一つにまとまるだけでゴミは部屋に残ったままである。

当然、このゴミとは哲学的疑問のことだ。そして、この私の独我論においては、ゴミは「認識」というかたちで一つにまとめられている。

「認識」に疑問が集約されているということは、まず、認識論的独我論が他の独我論に先行するとしたことに既に現れている。この先行性は、意味論的独我論や存在論的独我論を説明するためには、まずは認識論的独我論を経由しなくてはならないという説明の場における先行性であった。

それができるのは、内包の認識あり、という認識論的独我論の定義の仕方に仕掛けがある。言語ありとする意味論的独我論、存在ありとする存在論的独我論により描かれる世界は、どこまでも抽象的で静的である。一方で、内包の認識ありとする認識論的独我論の世界は、認識という行為がキーワードになっていることからわかるように動的である。

また物語時間について論じる際にも、認識が動的であるということは大きな役割を果たしている。物語時間における未来つまり言語は、可能性があるでもなく可能性ないでもない、という独特の在り方をしていると言った。この可能性とは何かと言えば、未来が語られて既に語られた物語となる可能性のことである。言い換えれば内包として認識される可能性のことである。この可能性が、あるでもなく、ないでもないという述べられ方がされるのは、認識というものが動的だからである。

そして、現実時間にも認識は関わる。というか、認識されていないものを認識するということが認識の意味ならば、そこには時間経過があり、現実時間における未来が過去になるということは、認識というものの動的な側面そのものであるとも言える。認識が動的なあり方をしているということを考慮外とすることと、現実時間を否定することは同じことである。

また、時間に対して抱く「時間は流れている」としか言いようがない、ある感じについても、この文章のなかでは十分に分析できておらず、認識の動性のなかに託してしまっている感がある。

認識はなぜ、どのようにして動的な在り方をしているのか、この解決していない疑問が、私の独我論においては、部屋の隅で一つにまとまったゴミの正体である。

このゴミを更に片付けることはなかなか難しそうだ。

なぜなら、認識が動的だからこそ、私の独我論は独我論の外に接続し、独我論の外から何かを導入し、独我論の第一歩を踏み出すことができるからだ。

そして、独我論を語るということ自体は、独我論のなかでは説明しきれない。独我論というものを位置付ける外がなくてはならない。

あえて言えば、語るという行為、つまり哲学において、その外はなくてはならない。

ここに、私の独我論、哲学というものの限界があるのかもしれない。

そして私は、動的な認識を通し、私の独我論の外に、私の独我論の生き写しのような、あたり前の客観的な世界を想定してしまう。その世界には、客観的な内包の認識、客観的な言語、客観的な存在があり、客観的な時間がある。あたり前の世界とは、この客観性の蜃気楼のことなのかもしれない。この幻が、私が他の文章でアミニズムと呼んでいるものだろう。

このように考えると、なんだか暗い気分になってしまう。

しかし、部屋の掃除の比喩により希望を見出すこともできる。

この掃除は、どんな道具を使って行なったのだろうか。この文章における掃除道具は、「存在」、「言語」、「内包の認識」、「時間」といった概念たちだった。

これらの概念を掃除道具として用いたのは必然なのだろうか。それとも恣意的なのだろうか。

私には必然に思える。そして、掃除により、最終的に「認識」というひとつのところに疑問を集めることができたことも必然に思える。

なぜなら、この掃除は現に行われており、私には、それ以外の別のやり方をするということが思いつかないからだ。

哲学的掃除は、必然的に、あるやり方で現に行われる。そこに別様の在り方はない。この必然さは、哲学が持つ力なのかもしれない。

私の独我論 2時間

2-1私の時間論についての素描

結論から言うと、この三者関係に割って入ってくるのは時間である。

これは、論理哲学論考の弱点が、以下同様という時間的な観点にあったことにも対応する。

論理哲学論考の弱点は、先ほど触れた思考、像、世界という道具立てにあるのではない。その道具立てとしての概念や、その概念相互の相互関係がどうして成立できるのか、ということ点に問題がある。この構造を成立させるのは以下同様の規則であり、時間の通時性である。時間がなければ、言語が法則を持つということが意味を持たず、異なる内包同士を比較することで具体的な内包として把握され、持続的な存在という在り方をすることができない。つまり、時間というものを考慮することによって、はじめて、言語、内包の認識、存在というものを理解することができる。このように重要な時間というものに関する考察がなかった点に論理哲学論考の不十分さがある。

だから、この文章においても時間について考察し、私の独我論に取り込む必要がある。

どのように取り込まれるのかという話を進める前に、更にまず結論から述べるならば、時間は、言語と存在と内包の認識という三者を結びつけるものとしてある。具体的には、 過去=内包の認識、現在=存在、未来=言語 というかたちで、これまで述べた三者は時間的に結びつく。

導入として、雰囲気だけでも伝えるため、輪郭を描いてみよう。

まず、未来について。

未来は存在しない。そして、内包の認識もない。未来とは、まだ存在せず、認識されていないからこそ未来なのだから。

一方で未来について言語的に語ることはできる。というか、言語的でもなかったとしたら、ここまで述べた独我論では未来が捉えられなくなってしまう。よって、言語と存在と内包の認識の三者のうち、未来は言語とだけ結びつくと考えざるを得ない。

次に過去について。

まず、過去は存在しない。過ぎ去ったからこそ過去なのだから。

また、過去は言語的でもない。過去のある出来事、例えば一昨日、沖縄そばを食べたということは、言語的ではない。なぜなら、今、ここで文章化するまでの間、言語で表現されていなかったのだから。

一方で過去には、いわゆる記憶というかたちでの内包の認識がある。よって、言語と存在と内包の認識の三者のうち、過去は内包の認識とだけ結びつく。

最後に、現在について。

まず、現在は存在する。これは特に説明の必要はないだろう。

また現在において、現在について語ることはできない。現在について語ることができるのは、未来においてである。今、鼻をかんでいるということは、今、語ることはできない。鼻をかんでいると語ることができるのは、鼻をかんでいるときから見た未来においてである。よって、現在は言語的ではない。

現在については、内包の認識もない。今、鼻をかんでいるならば、今は、鼻をかんでいるのであり、何かの認識を得ているのではない。だから現在には内包の認識はない。

よって、現在は、言語と存在と内包の認識の三者のうち、存在とだけ結びつく。

以上をまとめると、過去=内包の認識、現在=存在、未来=言語 となる。

私が当初思いついたのは、こんなイメージだった。このようにして、存在、言語、内包の認識の関係のなかに時間を取り込むことができると思いつき、我ながら、なかなかいいアイディアではないかと思ったのだ。そして、後ほど述べるように、更に考えるなかで修正した点も多々あるが、方向性に間違いはなかったと思っている。

2-2私の時間論についての疑問

この私の説明については、既に修正の必要があると言ってしまったが、納得がいかない点が多々あるのではないだろうか。

そこで、私が思いつく疑問点を列挙しつつ、逆に、言語と存在と内包の認識の三者のほうから、未来、過去、現在について捉えてみることとしよう。

まず、存在について。

既に去った過去とまだ来ない未来は存在せず、現にある現在だけが現在において存在する。よって、存在は現在と結びつく。

しかし、未来は存在するとも言えそうだ。何十億年後において膨張した太陽に地球が飲み込まれる未来が存在するかどうかはともかくとして、1分後に時計の針が1分進んでいるのを見るという未来は存在すると言いたくなる。

過去についてもそうだ。恐竜が生きていた何億年前という過去が存在するかどうかはともかく、一昨日、沖縄そばを食べたという過去は存在すると言いたくなる。

また、未来が存在し、現在が存在し、過去が存在するからこそ、時間が存在する、という言い方もできそうだ。

そこから、仮に未来や過去が存在しないとすると、存在しない未来や過去について議論することなんてできるのだろうか、という疑問も思いつく。

次は、内包の認識について。

記憶というかたちで過去と内包の認識が結びつく。このことには異論はないだろう。しかし、現在と内包の認識は本当に結びつかないだろうか。今、鼻をかんでいるとすると、鼻をかんでいるときには、鼻をかんでいるという内包の認識はないと言った。しかし、鼻をかむという行動をしながら、自分がその行動をしているという認識を持つことは可能に思える。また、絵を見ながら、絵についての認識を得るということは、可能というか、当然のことのように思える。このように考えると、現在と内包の認識は結びつきそうだ。

それでは、未来と内包の認識の関係はどうだろうか。確かに、未来には記憶というかたちでの内包の認識はない。未来について、ありありと認識するということは、なかなか難しそうだ。何十億年後に膨張した太陽に地球が飲み込まれる状況や、10年後の自分の姿を、ありありと思い浮かべることはできない。しかし、1分後に時計の針が1分進んでいるのを見るという状況はありありと思い浮かべることができる。これは、未来についての内包の認識があるということではないのだろうか。

このようなアイディアには反論もあるだろう。しかし、ここでも、なかなか一筋縄ではいかない、ということだけ確認するに留めよう。

最後は、言語について。

言語は未来と結びつくが、過去や現在には結びつかない、と言った。なぜなら、過去や現在は、まだ言語で表現されていないからだ。しかし、そう言うならば、未来も同じである。まだ言語で表現されていない未来もある。

また、現在はともかくとして、既に言語で表現された過去というものもあるように思える。

過去に既に言語で表現された未来、未来において言語で表現されるかもしれない過去、と考えていくと、なんだか、何が過去で何が未来なのか、というところから混乱してきてしまう。

言語と時間の関係についての問題を解きほぐし、更に検討を進めるにあたっては、私が、時間というものについて、ある特殊な捉え方をしているというところから話をしなければならないだろう。

2-3現実時間と物語時間

時間というものに対する私の捉え方を述べるにあたっては、ここまでの流れを少し外れたところから話を始めたい。

突然だが、私は邦楽ロックのライブに行くのが好きだ。ライブで音楽を聴き、ノッて楽しんでいると夢中になる。音楽が体に染み渡る感じいい。まあ、前の客が邪魔で不完全燃焼なときもあるけど。

そして、ライブの最中に、ふと、楽しいと感じていることを意識する瞬間がある。そう意識するのは、だいたい曲の合間だ。演奏に夢中になっているときは楽しいと意識することはない。

邦楽ロックバンドのライブ鑑賞という、ややマイナーな趣味を出してしまったが、この夢中になるときと楽しいと意識するときがあるということは、私のもう少しメジャーな趣味である海外旅行においても言える。

私は海外旅行をしているときは夢中で楽しんでいる。そして、この旅は面白かったなあ、と思うのは、成田で日本に帰ってからだ。そこまで極端に言うと、なんだか自分を振り返らない思慮が足りない人になってしまうので、もう少し正確に言うと、例えばバスツアーで観光地に立ち寄り、美しい風景を見た瞬間は、ただ感動し自分の気持ちなんて意識しない。そして、次の観光地までの移動のバスに戻り、デジカメの画像などを見つつ、ああ綺麗だったなあ、楽しい旅行だなあ、なんて意識する。こう言えば、多くの人が共感してくれるのではないだろうか。

更には、これは日常生活でも同じだ。夢中で仕事をしている瞬間、例えば出張先から上司に電話連絡しているときは、今日の仕事は大変だなあ、なんて思わないが、仕事の合間、例えば電話を切り、一息ついたときに、ふと、今日は大変だなあ、なんて思いが頭をよぎる。

つまり、人生においては、夢中で過ごしている時間と、自分を振り返る時間の二種類がある。

この時間経過をライブを例にするなら、次のようになる。

1 1曲目(夢中で過ごしている時間)

2 曲の合間(自分を振り返る時間)

3 2曲目(夢中で過ごしている時間)

4 曲の合間(自分を振り返る時間)

5 3曲目(夢中で過ごしている時間)

3曲しかないライブなんてありえないし、曲の合間にはMCもあるけれど、簡略化するとライブにおいては、このように、夢中で過ごす時間と、自分を振り返る時間が交互に訪れる。私にはそのような実感がある。

私は、この二つの時間のうち、自分を振り返る時間には、通常の意味での時間とは違う、独特な時間があるように感じる。

このライブの例で言うならば、例えば4の2曲目と3曲目の曲の合間だとする。

そして、こんなことを考えたとする。

「2曲目は新曲だったなあ。オープニングの1曲目は最近いつも同じ曲だな。そういえば2曲目のとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」なんてことを。

そこには、通常の意味での時間の経過はないが、ある時間を要して語られるべき物語がある。そこには、通常の意味での時間と、物語としての時間がある。

私は、この二種類の時間の流れについて、現実時間と物語時間と名付けたい。1曲目、曲の合間、2曲目・・・と続くのが現実時間で、思考という物語を語るのが物語時間である。

2-4物語の組み換え

しかし、物語時間については、あえて別のものとして捉えず、現実時間のなかに位置付けることもできそうだ。

「4 曲の合間」における現実時間を更に細分化し、

4-1 2曲目が新曲だと思い出す

4-2 1曲目が毎回同じだと思い出す

4-3 2曲目で手がぶつかったことを思い出す

というような現実の時間経過があると考えることもできる。そうすれば、あえて物語時間というものを持ち出す必要はなくなる。

しかし、私は、物語時間という考え方を持ち出す必然性があると考える。なぜなら、物語は組み換えが可能だからだ。

4-1から4-3の曲の合間の思考の物語は、次のように再構成することもできる。

4-1 1曲目は毎回同じだ

4-2 2曲目は新曲で、そのときに手がぶつかった

このように再構成しても、内容は変わらない。というか、曲順に合わせてまとめたことで、わかりやすくなったとも言える。

並び替えを許容するならば、物語を現実時間のなかに位置付けることはできなくなる。

この考えについては、並べ替えを認めない、つまり、現実に行われた思考の流れとは別のかたちへの物語の組み換えは認めない、とすることで否定できるように思うかもしれない。

しかし、より微妙な物語の組み換えを想定するならば、そのように簡単には否定できないのではないか。

例えば、こんな思考をしたとしよう。

A「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。なぜなら、イヌは従順だけど、ネコは気まぐれだから。」

この思考については、次のように言い換えても、意味は変わらない。

B「イヌは従順で、ネコは気まぐれだ。だから、イヌのほうが好きだ。」

C「イヌは従順だから好きなんだ。だけど、ネコは気まぐれだからそこまで好きじゃない。

イヌとネコならイヌのほうがいい。」

この言い換えについても、先ほどと同じように、現実に行われた思考の流れはAなのだから、そこからの組み換えは認めない、と言いたくなるかもしれない。

しかし、私は、ここに疑問を感じる。実際の思考が、ABCのいずれによって行われたのかなんて、特定できるだろうか。

私の実感によれば、このくらいの思考は、一挙に行われ、その思考は、Aでもあるし、Bでもあるし、Cでもあると言いたい。

このことを検討するため、文Aのうちの前半部分A1「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。」を取り出してみよう。

この文を組み換え、「ネコとイヌだと、イヌのほうが好きだ。」とすることは可能だろうか。

A1を細分化してみよう。

A1ア イヌがいるとする。

A1イ ネコがいるとする。

A1ウ この2種類の動物を比較してみる。

A1エ 私はイヌのほうが好きだ。

これがA1の思考の現実時間における経過だとするならば、これを組み換え、A1ア「イヌがいるとする。」の前にA1イ「ネコがいるとする。」を持ってくることはできなくなる。

しかし、果たしてそうだろうか。脳科学的にどうかは知らないが、実感としては、この思考をするとき、私はイヌとネコの両者を一気にイメージしている。そして、既にそのイメージのなかには、イヌの方に好ましいというイメージがある。

つまり、私は、「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。」という思考を一気に行っている。思考を細分化し、現実時間と対応させることはできない。

更に言うならば、既にイヌのほうには従順というイメージが含まれ、ネコのほうには気まぐれというイメージが含まれている。

だから、あえて言うならば私は、A「イヌとネコだと、イヌのほうが好きだ。なぜなら、イヌは従順だけど、ネコは気まぐれだから。」という思考を一気に行っている。

それは、B「イヌは従順で、ネコは気まぐれだ。だから、イヌのほうが好きだ。」という思考を一気に行っている、ということであり、C「イヌは従順だから好きなんだ。だけど、ネコは気まぐれだからそこまで好きじゃない。イヌとネコならイヌのほうがいい。」という思考を一気に行っている、ということでもある。だから、この3つの文は組み換え可能である。

そして更には、もっと長い思考、例えば、ライブにおける「2曲目は新曲だったなあ。1曲目は最近オープニングではいつも同じ曲だな。そういえば2曲目のとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」という思考についても、一気に行っていると言いたい。だから「1曲目は最近オープニングではいつも同じ曲だな。2曲目は新曲だったけど、そのとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」と組み替えることは可能だということになる。

なぜなら、2曲目が新曲だというイメージを持つときには、既に、その対比として1曲目がいつも同じ曲だったということを既にイメージしているはずだからだ。だから2曲目の言及に引き続き1曲目についての言及をすることができる。もし、1曲目と2曲目が全く無関係だったら、そのような一連の流れとしての言及なんてできないだろう。また、2曲目が新曲で、そのときに手がぶつかったということも同じ2曲目についての一連のイメージだと言うことができる。2曲目が新曲だということに言及しているときには、既に、手がぶつかったというイメージも持っている。だから一連の流れとして言及することができる。

このように、一連の流れとしての思考は一気に行われ、組み換えは可能であり、そこに現実時間と対応するような時間経過はないと私は考えたい。

それでも、物語を語るのには時間を要する。これを私は、現実時間とは別に、物語時間と呼ぶことにしたい。

2-5物語の分割

以上、物語時間について、文や語の組み換えという観点から説明を試みたが、納得できる部分と納得出来ない部分があるのではないかと思う。「イヌとネコ」を「ネコとイヌ」に並べ替えることはできても、「2曲目は新曲だ」と「2曲目で手がぶつかった」を並び替えるというのは、少々乱暴なのではないか。そんなふうに感じる人もいたのではないだろうか。

そこで、同じ話について、もう少し別の角度から説明を試みたい。

また、別の例を出してみよう。私には中学3年生の娘がおり、私はこんなことを悩んでいるとしよう。「娘にはもう少し勉強をさせたほうがいいのだろうか。勉強すれば、いい高校に入り、将来の選択肢が広がるのだろうなあ。だけど、友達と遊び、今しかできない経験をしておいたほうが、自分がやりたいことも見つかるのだろうなあ。」というような父にありがちな悩みだ。

この思考を分割し、現実時間に対比させるならば、次のようになるだろう。

1 「娘にはもう少し勉強をさせたほうがいいのだろうか。」と考える。

2 「勉強すれば、いい高校に入れる。」と考える。

3 「いい高校に入れば、将来の選択肢が広がる。」と考える。

4 「勉強をせずに、友達と遊び、今しかできない経験をすることもできる。」と考える。

5 「色々な経験をしておいたほうが、自分がやりたいことも見つかる。」と考える。

ここで、文2の「勉強」という語に着目してみよう。この「勉強」とは、どのようなことを指すのだろうか。この勉強とは、「1日23時間勉強する」というようなことではなく、また、「あと10年勉強する」ということでもない。あくまで、親が中学3年生の娘に対して考えている「もう少し勉強をさせたほうがいいかもしれない。」と悩む程度の量の勉強のことである。

つまり、文2を正しく理解するためには、文1が必要である。

文1とは別の時点で文2の思考が行われているという現実時間的な捉え方をするならば、「勉強すれば、いい高校に入れる。」という思考が独立して行われているということになる。しかし、文2を適切に述べるためには、文1が必要であり、文2が独立していては困る。現実の時間経過とは別に、文1と文2はつながっていなくてはならない。

これは、他の文や他の語でも同様である。文4にも「勉強もせずに」というかたちで「勉強」という語が出てくる。ここでの「勉強もせずに」とは、学校での勉強も含めた一切の勉強はやめたほうがいいというような極端なことを言っているのではなく、要は、「もう少し勉強をさせたほうがいいかもしれない。」と悩む程度の、やらせれば、いい高校に入れる、という程度の勉強についてはしなくてもいいかもしれない、と悩んでいるということである。文3の「いい高校」というのも、イギリスのボーディングスクールなどを指しているのではなく、勉強して入ることができる、近所の高校のなかでの偏差値が高い高校、という程度の意味である。

このように考えると、「娘にはもう少し勉強をさせたほうがいいのだろうか。勉強すれば、いい高校に入り、将来の選択肢が広がるのだろうなあ。だけど、友達と遊び、今しかできない経験をしておいたほうが、自分がやりたいことも見つかるのだろうなあ。」という文は、互いに密接に関連しており、部分ごとに独立に捉えることはできない。これは物語がホーリズム的に成立していると言ってもよい。

現実の時間のなかに思考を分割して落としこむことはできず、現実時間によっては思考というものを捉えきることはできない。これが、私が現実時間とは別に物語時間というものを持ちださなければならないと考える理由である。

思考を時間的に捉えるならば、物語時間という別の概念を持ち込まざるをえない。

2-6物語時間の独立性

ここまでで、現実のライブにおける時間の流れのような現実時間とは別に、曲の合間に行われる思考のような物語時間を想定する必要性が明らかになった。

しかし、説明の過程で、私は少々問題となることを言ってしまった。娘の教育の例文のなかでの「いい高校」という語についての「イギリスのボーディングスクールのことではなく、勉強して入ることができる、近所の高校のなかでの偏差値が高い高校、という程度の意味である。」という話だ。

実は、この文における「近所の高校のなかでの偏差値が高い高校」という話は、先ほどの例文において、どこにも出てきていない。うっかり、例文に登場していない前提を含めてしまった。

よく考えてみると、この例文に登場していない前提はたくさんある。例えば、私の娘は今の時点でも、そこそこ成績がいいので、「いい高校」というのが、偏差値55くらいの私が行ったA公立高校を指すのではなく、近所で一番の偏差値65くらいのB公立高校を指すということも説明していない。そういうことは、既に前提となっている。

それでは、これらの前提とは何なのかと問われれば、前提とは、今回の思考以前に行われた思考である、という答えとなるだろう。

私は、1ヶ月前に、娘の模試の結果を見て、ひと通り、こんなふうに考えていたとしよう。「模試の結果を見ると、今のところ近所で二番の公立高校なら行けそうだな。もう少し勉強しないと一番の公立高校は厳しそうだな。高校から一人暮らしをさせる訳にはいかないし、私立高校は学費が高いし、とりあえず近所の公立高校を目指したほうがいいかな。」というように。この思考が、その1ヶ月後に行われた今回の思考の前提となる。

このように1ヶ月前という別の時点の思考を持ち出すことは、時間について検討するうえで大きな意味を持つ。なぜなら、前提となる1ヶ月前の思考と今回の思考はつながっていることを意味するからだ。

一連の思考を物語と呼ぶならば、1ヶ月の現実時間を経て中断していた物語が続いたと言ってもよいだろう。1ヶ月前の思考と今回の思考は、1ヶ月の現実時間を間に挟みつつ一連の物語時間のなかに属している。

なぜなら、ふたつの思考は、ひとつながりの物語として捉えることができるからだ。

この、思考というものの現実時間を超えての中断と再開については、この文章自体も、よい例となる。この文章は、実際には何ヶ月もかけて、とぎれとぎれ土日に書いており、この部分を書くにあたっては、この部分以前の文章もざっと読み直しつつ、思い出しながら書いている。つまり、とぎれとぎれの土日という現実時間のなかに属しながらも、この思考は、ひとつながりの物語時間のなかにある。

このように考えていくと、徐々に現実時間に対する物語時間の独特な独立した在り方が浮き彫りになってくる。

2-7私の独我論における時間

ここまで、現実時間、物語時間というものを持ちだしたが、このような時間と私の独我論とはどのような関係があるのだろうか。

このことを整理するためには、この文の前半で登場した、私の認識論的独我論における夢の懐疑の拒否ということを、再度持ち出す必要がある。

先ほどのライブの例に戻ってみよう。私は、2曲目の演奏が終わった時点におり、1曲目と2曲目を振り返り、3曲目を待っているとしよう。夢の懐疑によれば、私は実はライブ会場になどおらず家で布団で寝ているのではないかという疑いがありうる。

しかし、私の認識論的独我論は「実は違った」という別の視点からの判断を拒否する。私の認識論的独我論によれば、実は布団で寝ているのかもしれないという疑いは成立せず、ただライブ会場にいるという認識があるだけである。

これは、現在ではなく過去についてであっても同じである。

夢の懐疑によれば、1曲目と2曲目を観たと思っているが、実は寝ぼけて勘違いしていて、本当は5曲目と7曲目だったのかもしれない。しかし私はその懐疑を拒否し、「1曲目と2曲目を観たと思っているのであれば、そう思っていないということはありえない。」と言い切る。私の認識論的独我論によれば、ただ、1曲目と2曲目を観たという認識があるだけである。

これらの認識は、あえて視点という言葉を用いるならば、今の視点からの今についての認識であり、また、今の視点からの過去についての認識である。

「認識とは常に今の視点からのものとしてある」という意味で、認識は独今論的在り方をしていると言ってもよい。しかし、私しかない独我論を独我論と言う必要すらないのと同じように、今以外の視点はないのだから、視点というものを持ち出し、独今論と言う必要すらないに過ぎない。

そして、私の認識論的独我論が否定している、夢の懐疑における「実は違った」という別の視点とは、今ではない未来の視点のことである。

夢の懐疑は、未来において、実は私は布団で寝ていると気付くことや、実は1曲目ではなく5曲目だったと気付くことがありうると囁くが、私はその可能性の囁きについて拒否する。このようにして、私の独我論と時間は接続する。

なお、なぜ私の独我論に過去の視点が登場しないのかと、疑問に思うかもしれない。

実はライブを観てなどおらず布団に寝ているのだったと、過去において既に気付いていたが、それを忘れてしまい、ライブを観ていると思い込んでいるだけかもしれない。そのような疑いは、過去の視点をベースにした夢の懐疑として成立するのではないか。そして、この過去の視点をベースにした夢の懐疑を拒否するものとしての独我論があってもいいのではないか。

しかし、このような、一見すると過去の視点をベースにしたように思える懐疑も、未来の視点としての夢の懐疑に含まれる。

なぜなら、「実は、過去において気付いていた。」ということに気付きうるのは未来においてだからだ。「ライブを観てなどおらず布団に寝ているのだったと過去において既に気付いていた。」ということを思い出すことができるのは未来においてである。

よって、私の独我論には過去の視点は登場しない。

以上、私の独我論においては、未来の視点を拒否し、今の視点に基づく独今論的立場に立つ、というかたちで時間を捉えていると言えよう。

2-8私の独我論における物語時間

この私の独我論に基づき、現実時間と物語時間という二つの時間を捉え直してみたい。

その前に、まず、具体例に基づき、現実時間と物語時間における過去・現在・未来について整理しておこう。

毎回例が変わって申し訳ないが、こんな例を用いたい。

「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声でビール乾杯し一口飲んだ後、餃子を食べた。隣の人がネギラーメンを食べていたので、たった今、いつものネギラーメンを注文した。数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」

この例において、現実時間の過去・現在・未来はこうなるだろう。

現実時間:過去「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声でビール乾杯し一口飲んだ後、餃子を食べた。隣の人がネギラーメンを食べていたのを見た。」

現実時間:現在「いつものネギラーメンを注文する。」

現実時間:未来「数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」

この現実時間の区分については、異論はないだろう。

一方で、物語時間の過去・現在・未来はこうなる。

物語時間:過去「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声でビール乾杯し一口飲んだ後、餃子を食べた。隣の人がネギラーメンを食べていたので、たった今、いつものネギラーメンを注文した。数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」

物語時間:現在(なし)

物語時間:未来(なし)

つまり、例文は全てが過去に位置づけられる。

どうしてそうなるのか、順を追って考えてみよう。

先ほど述べたとおり、物語時間において、物語つまり文は組み換え可能なものとしてホーリズム的に成立し、分割は不可能である。

よって、文の一部を過去に位置づけ、別の一部を現在に位置付ける、というようなことはできない。もしできるならば、それは分割可能であるということを意味することになってしまう。

つまり、物語を過去・現在・未来に位置付けるにあたっては、そのいずれかに全てを割り振らなければならない。

それでは、過去・現在・未来のいずれに物語の全てを位置付けることが適切なのだろうか。

そのことを考えるためには、文つまり物語から現実の時間という側面を削ぎ落としていく必要がある。

文には時制がある。時制表現を通じて、文は過去、現在、未来を指すとされる。しかし、文が過去・現在・未来のいずれかに全てが位置づけられなければならないとすれば、時制というものは決定的な意味は持たなくなる。

現実時間について、数直線の上に並べられた年表のようなものを想定するならば、過去、現在、未来という時制表現については、昨日、一昨日、数億年前というような、より近い過去、より遠い過去を意味する表現であったり、明日、明後日、数億年後というような、より近い未来、より遠い未来を意味する表現と同列に扱うことができることになる。

物語における時間から現実時間という側面を削ぎ落とす過程では、数直線の上に並べられた年表のような時間観とともに時制も削ぎ落とされる。

また、物語には文や語の前後関係があり、この前後関係が、物語時間の流れを生んでいるようにも思える。

「2曲目は新曲だったなあ。オープニングの1曲目は最近いつも同じ曲だな。そういえば2曲目のとき、前の人に手がぶつかっちゃったなあ、ちょっと後ろに下がろう。」というライブの例において、最初に「2曲目は新曲だったなあ。」と思い、次に「1曲目はいつも同じ曲だなあ。」と思う。そんな、いわゆる頭の中での思考の流れともいうべき時間の流れがあるようにも思える。

ラーメン屋での一コマとでも言うべき物語においても、ビールと餃子を注文し、ビールを飲み、餃子を食べる、という時間の流れがあるように思える。

シンデレラの物語でも、継母にいじめられていた前半と舞踏会に出る後半とがあり、前半から後半につながる時間の流れがあるように思える。

しかし、文の前後関係は、物語時間のことではない。

物語つまり文は組み換え可能なものとしてホーリズム的に成立し、分割は不可能である。継母にいじめられていた物語と舞踏会に出る物語とを分割して前半、後半と述べることはできない。シンデレラの物語は一挙に成立している。

物語に文や語の前後関係があると思えるのは、現実に物語を語った時間により物語を分割することができる、という現実時間の捉え方が入り込んでいるからである。

物語における時間から現実時間という側面を削ぎ落とす過程では、文の前後関係についても削ぎ落とされなければならない。

そのようにして、物語から現実の時間という側面を削ぎ落としていった結果、時間的なものとして何が残るのだろうか。

全ては既に語られた物語であり、何も時間的な要素は残らないようにも思える。

それでも、あえて、そこに残る何かを時間的に捉えるならば、そこにあるのは、既に語られた物語か、今語られている物語か、まだ語られていない物語か、という違いだけである。

あえて物語に特有な物語時間というものを措定するならば、これが物語時間である。

そして、既に語られた物語、今語られている物語、まだ語られていない物語のそれぞれが、過去、現在、未来に割り振られる。物語時間における過去は既に語られた物語としてあり、現在は今語られている物語としてあり、未来はまだ語られていない物語としてある。

これが、物語時間における過去・現在・未来である。

2-9私の独我論における現実時間

ここまでで物語時間については明らかになったとして、次に現実時間とは何かについて考えてみたい。

物語時間について検討するなかで削ぎ落とされたものを見直してみよう。

削ぎ落とされたのは、物語ビールと餃子を注文し、ビールを飲み、餃子を食べる、というような数直線の上に並べられた年表のような時間であった。

また、シンデレラの物語が継母にいじめられていた話から舞踏会に出るという話に続いていく、というような、文や語の前後関係であった。

そして、過去、現在、未来という時制区分であった。

これらは全て現実時間に属する。

これらの捉え方に共通するのは、複数の視点を想定するということである。

わかりやすいものから述べていくことにしよう。

まず、数直線の上に並べられた年表のような時間として時間を捉えられるのは、対等に複数の視点を出来事ごとに想定するからである。ビールと餃子を注文するという出来事とビールを飲むという出来事と餃子を食べるという出来事の三つの出来事を同等に捉え、同じ数直線の上に置くためには、三つの視点が並列となっていなければならない。

この説明にあたっては、直線上の三つの点で例えてもいいだろう。直線が時間の流れであり、直線上の三つの点は、ビールと餃子を注文する時点、ビールを飲む時点、餃子を食べる時点を意味する。そこに1点を加える。当然ながら、これは視点である。

三つの点を同等に見渡すことができる視点、つまり三つの点から等距離にある点はあるだろうか。

答えは、ない、だ。三つの出来事を同等に見渡すことができる視点は存在しない。

イメージしやすくするため、数直線上の点を三つにした。しかし、現実時間においては、年表のような時間軸上にはいくらでも出来事を想定できる。目の前の時計が午後9時5分1秒の時刻を示すという出来事と午後9時5分2秒の時刻を示すという出来事の間には、1・5秒の時刻を示すという出来事が想定できる。そのようにして、数直線上にはいくらでも時点を想定することができる。

ある任意の点を想定した場合、数直線上に直近の点が必ずある。また逆に、ある数直線上の任意の点に対して、他のどの数直線上の点よりも、その点を直近とする点が必ずある。

これは、数直線上に示される特定の時点と、特定の視点とは「直近」という特別の関係にあるということである。目の前の時計が午後9時5分1秒の時刻を示すという出来事には、必ず午後9時5分1秒の視点が対応し、目の前の時計が午後9時5分2秒の時刻を示すという出来事には、必ず午後9時5分2秒の視点が対応するということである。

そして、この視点と時点との関係は対等に並列している。

これが、数直線の上に時点を並べて年表のような時間を想定することが、並列した複数の視点を想定することにつながるということである。

次に、物語を文や語の前後関係として捉えるということについて述べることとしよう。 これも対等な複数の視点を想定するということになる。

物語のある部分、例えばシンデレラのカボチャの馬車のシーンに着目すれば、その前に継母にいじめられていた話があり、その後に舞踏会に出るという話がある。また、ガラスの靴を落とすシーンに着目すれば、その前に舞踏会の話があり、その後に王子がガラスの靴の持ち主を探す話がある。

このように、物語のある部分に着目することで、そこを区切りとして前後ということを述べることができる。

この着目とは、つまりは視点をそこに置くということである。

つまり、シンデレラという物語において文や語の前後関係を見出すことができるのは、そこに視点を置くからである。そして、シンデレラの物語のどこに着目しても文や語の前後関係があるように思えるのは、物語のどこにでも視点を置くことができるからである。物語に任意に複数の視点を置くことができるからこそ、文や語の前後関係として捉えることができる。そして、この任意というのは、視点の置き方に優先順位がなく対等であるということである。

これが、物語を文や語の前後関係として捉えることは複数の視点を想定するということである、ということの意味である。

最後に、時制区分についてだが、これも結論としては、同様に複数の視点の想定につながる。

ただ、説明が複雑になるので順を追って丁寧に説明することにしよう。

まず確認だが、先ほどの例を現実時間として捉えると、ビールと餃子を注文したということは過去に属し、ネギラーメンを注文するということは現在に属し、ネギラーメンが出されるだろうということは未来に属する。現実時間における時制区分についてはこのように捉えられる。

この現実時間における過去と未来の関係は、私の独我論において重要な役割を果たす夢の懐疑と深い関わりがある。先ほどの「私の認識論的独我論が否定している、夢の懐疑における「実は違った」という別の視点とは、今ではない未来の視点のことである。」という話のことである。

現実時間における過去と未来という二つの視点を想定することで、私の独我論が拒否した夢の懐疑が生じる。「ビールと餃子を注文した」時点と、「ネギラーメンが出されるだろう」時点とを別の時点として想定し、それぞれに並列的な視点を付与するからこそ、「ネギラーメンがだされるだろう」未来の時点での視点から、「ビールと餃子を注文した」過去の時点での視点に対して疑うことができる。ネギラーメンを食べながら、さっき本当にビールと餃子を注文したのだろうか、と夢の懐疑を遂行することができるということだ。

それでは、なぜ未来の視点から過去の視点を疑うことができるのに、逆に過去の視点から未来の視点を疑うことはできないのだろうか。

それは、現実時間における過去の出来事、「ビールと餃子を注文した」という出来事は、

「ビールと餃子を注文したと思っている」という認識を、現実の出来事に変換しているからだ。その変換の際に、夢の懐疑に付け込まれる隙が生じる。出来事として確定的に「ビールと餃子を注文した。」と述べるということは、「ビールと餃子を注文しなかったかもしれない。」と述べることに等しい。

一方で現実時間における未来の出来事、「ネギラーメンが出されるだろう」という出来事は、つまりは「ネギラーメンがだされるだろうと思っている」という認識そのもののことである。そこに何ら変換のようなはなく、夢の懐疑が生じる隙はない。ネギラーメンが出されるだろう、と思っていたら、店員が間違えてチャーシューメンを出したということはありうるが、これは単なる予測の誤りであり、「実は違った」という夢の懐疑ではない。

つまり、現実時間の過去、未来という時制区分は、複数の視点を想定し、未来において過去を疑うという夢の懐疑を生じさせる仕組みそのもののことである。

このように、数直線の上に並べられた年表のような時間、物語における文や語の前後関係、時制区分という、現実時間的な捉え方に共通するのは、複数の視点を想定するということへの深い関与である。

複数の視点を拒否する私の独我論においては、必然的に複数の視点を想定せざるを得ない現実時間を拒否しなければならない。

2-10現実時間の現在についての補足

なお、説明をとばしてしまったが、現実時間における現在というものの扱いについても述べておく必要がある。

現実時間における現在とは、この例においては、ネギラーメンを注文するということだった。

しかし、ネギラーメンを注文するという作業は一定程度の時間を要する。私「ネギラーメンちょうだい。」、店員「へい、わかりました。」くらいのやりとりがあり、多分、5秒か10秒くらいの時間がかかるだろう。このような幅があるものとして現在というものを考えてよいのだろうか。

「ネギラーメンちょうだい。」という発話だけを取り出しても、「ネギ」という発話と「ラーメン」という発話では、ある時間経過があるといってもよい。「ラーメン」と発話しているのが現在ならば、「ネギ」と発話したのは過去である。こんなふうにも言えそうだ。

この問題については、現在には幅があり、場合に応じて伸縮するという考えにより解決することもできるようにも思える。私のラーメン屋での行動についての場面であれば、ネギラーメンを注文するということが現在になり、天文学的な地球の成り立ちについての場面であれば、数百万年前に人類が誕生してからが現在になる、というような具合にだ。

しかし、このような、出来事をまとめて捉えるという方法は、現実時間ではなく、物語時間と親和性がある。物語だからこそ分割不可能な一連のものとして捉えることができる。

天文学的な時間軸のなかでは数百万年の幅を現在と捉えることができるのは、それが、天文学的な地球の成り立ちについての物語だからであり、その物語において、数百万年前以降を現在と表現しているからである。また、ラーメン屋での私の行動という物語において、ネギラーメンの注文を現在として表現しているからである。

このような任意の幅を持ったものとしての現在の捉え方を、物語時間に属するものとするならば、現実時間における現在とは、幅のない、過去と未来の境界という意味しかなくなる。現実時間の未来は、現在という境界を乗り越えて過去となる。現在について、それ以上の意味を持たせることはできない。

なお、ここでの説明で物語時間に属する現在というものを持ちだしたが、先ほど既に語られた物語は全て過去であるという話をしたことと齟齬があるようにも思えるかもしれない。この点は、少し説明しておく必要があるだろう。

ここで持ちだした物語時間に属する現在というのは、物語の中で、現在として語られているということに過ぎない。つまりは、物語の中での時制区分の表現に過ぎない。物語の中で「私は今、ネギラーメンを注文した。」とあれば、それは物語の中での現在とされた、ということである。この「現在」という語は、物語のなかの他の時間に関する語、例えば「1ヶ月前に子供の進路について考えた。」の「1ヶ月前」や、「数十億年後には地球が太陽に飲み込まれるだろう。」の「数十億年後」と全く同じ位置づけである。

更に言えば、先ほど、現実時間を拒否したことにより、時間に関する語である「現在」「1ヶ月前」「数十億年後」といった語について、数直線上の年表のような現実時間としての意味を持たせることも拒否するということになる。これは、時間に関する語について、時間特有の意味を持たせることはできないということである。

「現在」「1ヶ月前」「数十億年後」といった語には、既に語られた物語のなかに登場する語という位置づけしかなく、「ペットボトル」や「赤い」のような語と全く同じ位置づけにであると言ってもよい。

つまり、現実時間における現在とは、物語のなかで「現在」という語を使うということであり、それは、「現在」という語と「ラーメン屋で注文する」という文を結びつけて語ったということに過ぎない。これは、「楽しくライブを観た。」という文は、「楽しい」と「ライブを観た」が結び付けられてできた文であり、楽しい行為として、ライブを観るという行為を語ったというように分解して説明できるということと全く同じ構造である。

2-11物語時間における内包の認識・存在・言語

先ほど、現実時間を認めることは複数の視点を認め、夢の懐疑を認めるということであり、別の視点を拒否する私の独我論においては、現実時間を拒否しなければならないと言った。これは、つまり、私の独我論においては、物語時間しかないということである。

ここまで述べれば、私の独我論と物語時間とは、極めて密接な関係にあるということが容易に理解できるだろう。

このように舞台を整えたうえで、もともとの問題であった、過去=内包の認識、現在=存在、未来=言語 という独我論と時間の対応関係の話に戻りたい。

この対応関係は、ここまでの話を踏まえれば、私の独我論と物語時間における過去・現在・未来との対応関係だということになる。

物語時間における過去とは、「ひとりで馴染みのラーメン屋に入り、ビールと餃子を注文し、小声で乾杯した後、餃子をつまみにビールを飲んだ。隣の人がネギラーメンを食べていたので、たった今、いつものネギラーメンを注文した。数分後にはネギラーメンが出されるだろう。」というような語られた物語のことであった。

これが内包の認識であるこということは明らかだろう。内包の認識は、物語時間における過去、つまり既に語られた物語としてホーリズム的に存在する。

なお、このホーリズム性こそが、ウィトゲンシュタインの以下同様なのであろう。今日の足し算と明日の足し算、そして1ヶ月前の足し算と数十億年後の足し算は、同じ物語に含まれるからこそ、同じ足し算として理解できる。

また、物語時間における現在とは、今、語られている物語のことであった。これが、物語の存在を意味し、存在論的独我論における存在と結びつくということも異論はないだろう。この現に物語を語るということこそが、独我論的には、内包の認識としての過去、そして、言語としての未来も含めた全ての存在を担保する。

物語時間における現在とは、存在のことである。

最後に、物語時間における未来については、結論としてはイコール言語ということになるが、少々丁寧な説明を要するだろう。先ほど、現実時間における未来はないが、物語時間における未来はあるとしたところからして、わかりにくいのではないか。

現実時間における未来とは、私の認識論的独我論において否定した「別の視点」のことであり、物語時間における未来とは、まだ語られていない物語のことであった。両者は何が異なるのか。なぜ一方は否定され、もう一方は肯定されるのか。

このような疑問を解決するためには、私が未来と結びつくとしている言語というものについて、詳述しておく必要があるだろう。

私はこれまで、言語について、言語ゲームにおいて用いられるペットボトルのような具体的な語をイメージできるかのように話を進めてきた。

しかし、ここから先に話を進めるためには、もう少し純度を上げなければならない。

私の独我論は、認識論的独我論、存在論的独我論、意味論的独我論という三種類の独我論の緊密なネットワークである。

よって、それぞれの独我論の中心的概念である、内包の認識、存在、言語についても相互に緊密な関係がある。ペットボトルは、ペットボトルという言語であるだけでなく、ペットボトルという内包の認識であり、ペットボトルの存在である。そこには緊密な関係があり、ペットボトルから言語としての側面だけを抽出することはできない。それが容易にできるならば、そもそも三種類の独我論のネットワークとして語ってきたことの意味がなくなってしまう。

しかし、ここから先に話を進めるためには、ペットボトルから、ペットボトルという内包の認識とペットボトルの存在を除去し、ペットボトルという言語だけを抽出してイメージすることを強いなければならない。そこには本質的な困難があり、不十分なものとならざるを得ないが、少し、お付き合いいただきたい。

まず、ペットボトルから、様々な内包の認識、つまり物語時間における既に語られた物語を除去してみよう。生まれてから今までの間に語られたであろう、全てのペットボトルに関する物語を捨て去ってみよう。少しでもペットボトルに関係しそうな物語は全て捨て去らなければならない。

内包の認識はホーリズム的に一繋がりの物語としてあるのだから、厳密にはペットボトルについての物語だけを捨て去ることはできない。しかし、ペットボトルにまつわる物語を思い付く限り捨て去ることで、近似的、擬似的な思考実験として方向性だけは理解できるはずだ。

次に、ペットボトルから、ペットボトルの存在を除去してみよう。この存在の除去をイメージすることも困難なはずだ。なぜなら、この除去すべき存在とは、入不二流に言えば、つまりは無内包の絶対現実のことであり、このような意味での存在が欠けた状況というのは、具体例としてありえないからだ。

この二段階の困難を乗り越え、ペットボトルの言語としての側面だけをイメージすることはできただろうか。

私がそこに見出したのは、可能性そのものとしての言語である。

私は、言語について、可能性を立ち上げるものとして捉えている。

「ペットボトル」という例を用いて説明するならば、言語について、次のように説明することができる。これは、排中律を立ち上げ、いずれか一方に決定する働きであると言ってもよい。

「ペットボトルがある。」と語るということは、「ペットボトルはあるか、ないかのいずれかである。」という可能性を立ち上げたうえで、いずれかのうちの「ペットボトルがある。」の方である、と確定させることである。

この説明文のうちのカギ括弧は、「ペットボトル」というキーワードが含まれているとおり具体的な内包の認識のことである。そして、現に語られ、現に可能性が立ち上がり、現に確定するということが、存在するということである。

内包の認識と存在を除去し、言語としての面のみを捉えるということは、先ほどの説明文から具体的な内包の認識と存在に関する表現を除去するということと似ている。

先ほどの文から、内包の認識についての表現であるカギ括弧の中身と、存在に関する表現である述語、つまり「語る」「立ち上げる」「である」「確定させる」を除去してみる。

そうすると、こうなる。

「 」ということは、「 」という可能性、いずれかのうちの「 」の方

というようになる。

この文は不完全ではあるが、可能性そのものを指していると言えるのではないか。

つまり、ペットボトルというような具体性はなく、現に語られるでも語られないでもなく、立ち上がるでもなく立ち上がらないでもなく、確定するでも確定しないでもない可能性そのものこそが言語であると言うことができるのではないか。

まだこれではわかりにくいので、更に説明を試みてみよう。ただ、これ以上踏み込んだ説明をするためには、不正確な説明とならざるを得ない。

言語について「可能性が立ち上がっている」の方に若干振って、不正確な説明を行うならば、言語とは、「内包の認識をもとに、その内包を別様に再構成することができる可能性」のことであるとも言えよう。

あえて具体例を出すならば、生まれてから、ラーメンを食べ、ビールを飲むという経験しかしたことがなく、それらの内包の認識しかない人がいるとしよう。

この人が語ることができる言語は、「ラーメン」「ビール」「食べる」「飲む」という内包の認識の組み合わせだけである。つまり、「ラーメンを食べる」「ビールを飲む」「ラーメンを飲む」「ビールを食べる」という言葉を語ることができる。

この組み合わせが「内包の認識をもとに、その内包を別様に再構成することができる可能性」としての言語である。

また、言語について、逆に「可能性が立ち上がっていない」の方に若干振って不正確な説明を行うならば、言語は、ただ「ない」ということである。

このように言語というものの純度を上げたうえで、物語時間の未来について捉え直してみたい。

物語時間における未来とは、まだ語られていない物語のことであった。物語は、「まだ」語られていないのだから、今後、語られる可能性がなければならない。全く可能性がないのなら、そこに、「まだ」語られていない物語があるとは言えない。

しかし、一方で、語られる可能性があってはいけない。なぜなら、語られるということは、過去となり、内包の認識になるということを意味するからである。そのような可能性があるということは、過去、つまり既に語られた物語と何らかの繋がりがあり、未来としての純度が低いということを意味する。(なお、現実時間における未来を否定したのは、過去と繋がりを保ったままとなっている純度が低い未来を、「実は違った」という視点を招くものとして否定したということである。)

このように、物語時間における未来も、可能性があるでもなく、可能性ないでもないというあり方をしている。

これは当然ながら、物語時間における未来とは、「可能性そのもの」という意味あいとしての言語のことだということになる。このようにして、物語時間における未来は、言語と結びつく。

そして、言語について行なったのと同様な不正確な説明は、物語時間における未来に対しても行うことができる。

未来があるとするならば、先ほどの、ラーメンを食べ、ビールを飲むという経験しかしたことがない人が描くことができる未来は、「ラーメンを食べる」「ビールを飲む」「ラーメンを飲む」「ビールを食べる」だけである。このような未来しか描けないということは、逆に言うならば、このような未来は描くことができる、ということである。

また、未来がないとするならば、未来は、ただない。

この「ある」と「ない」の狭間に、物語時間における未来はある。

2-12注意:私の独我論の範囲

ここまでで、ほぼ私の独我論についての説明は終わった。

ただ念のため最後に、この独我論は徹底的に別の視点を否定するものだということを強調して説明を終えたい。

この独我論は徹底的に別の視点を否定する。だから当然ながら、この文章における、この私の独我論にも、別の視点はない。これは現に行っているこの思考だけを具体例として考察を行なっているということを意味する。

それはまず、私の独我論では、読者であるあなたの視点は、別の視点として拒否されるということを意味する。

また、私自身の別の視点も拒否されるということをも意味する。

今、私は、この文章に書いてあるようなことを思考している。なぜなら、現に、この文章を書いているのだから。よって、私にはこの視点しかない。別の視点、例えばライブを観たり、ラーメンを注文したり、ラーメンのことや娘の受験勉強のことを思考したりしている私の視点はこの議論に持ち込むことはできない。私が普通の意味で、生まれてから今まで行なってきたとされる経験や思考は、この文章で登場しない限り、別の視点であり、私の独我論では無視される。

一方で、ラーメンや娘の受験勉強についての思考は、例としてこの思考のなかに登場しており、その限りでは、現に行なっているこの思考として、私の独我論のなかにあるとも言える。

また、この文章にあることであっても、今、この思考で考慮していないことは、私の一連の思考とは言えないので、私の独我論では無視されることになろう。今、私は、この文章の「0最初に:言い訳」において何を書いたか覚えておらず、この思考において「0最初に:言い訳」で書いたことは登場してこないので、「0最初に:言い訳」の記載は、私の独我論では無視される。(厳密にはここで登場したので、その限りではこの思考であるとも言えるが。)

このように、私の独我論は、どこまでも独我論的に、そして独今論的に、自己言及的なかたちで行われる営みである。

このことは、私の独我論が捉えることができる範囲が、私のこの思考という極めて狭いものであるということを意味する。

しかしながら一方では、ホーリズム的な観点からすれば、私のこの思考は、思考全てのことであり、独我論的な意味での世界全てのことでもあるとも言える。

私の独我論 1私の独我論

1-1独我論者

それでは本題に入ることにする。この文章は、哲学のうち、特に独我論の分野について語ったものだ。なぜ独我論かというと、私は多分、子供の頃から独我論者だからだ。

というと、「所詮この世界は夢だと思って生きている人」だと思われるかもしれないが、そうではない。あえて、世界、夢という言葉を使うならば、私は「この世界は夢だ」であっても「この世界は夢ではない」であっても、何かを断言すること自体に疑問を持っている。より正確に言うと、「断言する」ということが、どういうことなのかもわからないし、そもそも、「わからない」ということが何を指すのかもわからない。私は、この世界が夢ではないと断言するところから始まる色々な主張、例えば、自然科学についての主張が当たり前のものとして取り扱われることに疑問を持っている。私の独我論はそういう疑問に満ちている。

しかし、私は全てを疑問に付すことができ、確かなことが何もないと思っている訳ではない。全てが疑わしいと言って済ませることができない。そこには、疑問に付されない「何か」があると思っている。だから、いわゆる懐疑論者ではない。

そこで私は考える。私があると思っている「何か」とは何なのだろうか。独我論者ならば、「何か」とは「私」ということになるのだろうけれど、私は、そもそも何かを断言すること自体に疑問を持っている。私は「私」があると断言することに疑問を持っている。だから、正確には、私は、文字どおりの独我論者ではないのだろう。それならば、その、疑問に付されない「何か」を、私自身の哲学において、現時点で、どこまで明らかにできているのだろうか。そんなことを整理してみたい。

1-2三種類の独我論

私が知っている独我論は三種類ある。哲学史的に言えば、まずデカルト的な認識論的独我論、次にウィトゲンシュタイン的な意味論的独我論、そして永井的な存在論的独我論がある。

ただ私が知った順番でいくと、デカルト的な認識論的独我論、永井的な存在論的独我論、ウィトゲンシュタイン的な意味論的独我論となる。だから「私があると思っている何か」として、私が最初に出会った答えは、デカルト的な「私」だ。

確か高校生の頃だと思うが、私は先ほど述べたようなことをぼんやり考えるようになった。つまり、私にとっての哲学的疑問について考えるようになった。そして「我思う故に我あり」という言葉を何かの機会で知り、ああこれか、と思った。そのとき感じたのは、他にも同じようなことを考えている人がいてよかった、という安堵だった。そのような経緯があるので、私は世間的には独我論者なのだろうな、と思っている。

しかし、安堵を感じたのは少しの間だけで、更に考えると、デカルトが言うことはなんだか怪しいと思うようになった。なぜ、「我」「思う」「故に」「我」「あり」という言葉が成立していると言えるのだろう、また、仮に「我思う故に我あり」という言葉が成立しているとして、その言葉がなぜ「正しい」と言えるのだろう。そんな疑問を持った。

そして、どうも「正しい」ということは底が抜けていて、「正しい」ことの正しさを言うためには、「正しさ」の「正しさ」を言わなければならない、というように、底なし沼のような構造になっているらしいことに気付いた。つまり「我思う故に我あり」は正しくはないと思ったのだ。(哲学的には、「正しい」より「真である」のほうが多分正確なのだろうけれど、私の当時の問題意識は、どのような生き方が正しいのか、という道徳的な側面が強かったので、当時思った「正しい」という言葉のままにする。)

その後、デカルト以降の哲学者が答えを知っているかもしれないと思い、何冊か哲学者のカタログのような本を眺めてみたところ、世の哲学者は、どうも私の疑問に答えを出せていないらしいことを知った。そして哲学は役に立たないと思い、哲学から離れた。私は当時、底なし沼の底を埋めるためには、宗教的に無条件で底を「信じる」しかないと思ったのだ。

10年以上経ち、また違う角度から哲学に興味を持ち、次に出会い、なるほどと思ったアイディアが、永井の<私>の独在論だった。

実は当初、永井の哲学は、私の心をあまり捉えなかった。最初に何の本を読んだのかは覚えていないが、永井の語り方は魅力的だった一方で、永井の語る内容は、私の疑問と一致しているとは思えなかったのだ。私としては、永井が言っていることはわかるけれど、それよりも、そもそも永井が書いた文章がなぜ成立しているか、のほうが疑問だった。つまり、永井の文章についても、デカルトの「我思う故に我あり」への疑問と同じような疑問を感じ、そこから抜け出ることはできなかったのだ。振り返ってみると多分、私の疑問は意味論的な色彩が強かったのだと思う。

最後に出会ったのが、ウィトゲンシュタインの独我論、正確には、入不二基義が「ウィトゲンシュタイン」で解説しているウィトゲンシュタインの独我論だ。これは、私の疑問にぴったり一致した。そのなかでも特に私が共感したのは、論理哲学論考における独我論だ。私が思っていたのはこれだと思った。と言っても当然、私は独自に写像のような概念を生み出していたという訳ではない。私が感じていたことを表現するためには、少なくともこれだけの道具立てが必要だということを知り、そして、うまく表現できていると思ったのだ。

しかし、ここで私の疑問が解消したならよかったのだけれど、残念ながら、論理哲学論考には誤りがあるらしい。だから、ウィトゲンシュタイン自身も言語ゲーム論によって、その誤りを乗り越えようと試みたらしい。また、今ならば、永井の独在論やデカルト的なアプローチにも、論理哲学論考を超えた側面があるということもわかる。とにかく、論理哲学論考的な道筋の先には解決すべき問題が残っていることは確かだ。私の疑問はまだ解決できていない。この続きについては、私自身で考えなければならないようだ。(また、それでも揺らがない論理哲学論考の独我論の特別さについて、そんな気分にさせられるのは何故なのかも考えてみる必要がありそうだ。)

1-3意味論的独我論

整理にあたっては、まず、認識論的独我論、存在論的独我論、意味論的独我論という三つの独我論について、私にとっての位置づけを明確にしておく必要がある。

話の都合上、まず意味論的独我論から始めることにしよう。先ほど挙げた入不二の「ウィトゲンシュタイン」によれば、ウィトゲンシュタインは前期、中期、後期において、それぞれの独我論を述べているとされる。それらはいずれも意味論的独我論の典型だと言えよう。この文章では、そのうちの前期の論理哲学論考の独我論と、後期の言語ゲーム論の独我論に着目することにする。

前者については、論理哲学論考が言語の限界を明らかにするものであり、そのような意味で意味論的独我論であることは、説明の必要もないと思われるので説明は省略する。しかし、後者、つまり言語ゲームが意味論的独我論にあたるということについては、私なりの解釈も入ってくるので説明が必要かもしれない。

私は、言語ゲーム論も言語の限界を明らかにしたものだと解釈している。ただし、そのように解釈するためには、論理哲学論考的に言えば、言語ゲーム論が言語の限界を有意味に述べることができなければならない。そのためには、論理哲学論考で指摘された、言語の内と外を知らなければならないという問題をクリアする必要がある。それでは言語ゲーム論において言語の外をどのように知ることができるのだろうか。

まず一見して、言語ゲーム論において言語の外を見出すことはかなり難しそうだ。なぜなら、言語ゲーム論とは、要は全て言語だ、というものだからだ。言語ゲーム論自身も言語ゲームにおいて語られており、言語ゲームの外に出ることはできない。今、私が書いている、この文章も、言語ゲームのなかで行われる営みであり、言語の限界には届かない。この文章において幾ら言葉を継いでも、その言葉を継ぐこと自体が言語の中に留まらざるを得ず、言語の限界に届いていないということを実践的に示している。

言語ゲーム論は、論理哲学論考より言語の力の捉え方が徹底しており、論理哲学論考で行うことができた、思考による言語の外の把握ができない。なぜなら、思考とは、その足跡がこのように文章で記録できる限り、言語そのものであり、言語ゲームだからだ。論理哲学論考においては言語の外にあるとされた無意味な記号列であっても、それが思考のなかで用いられる限り言語ゲームに取り込まれてしまうことになる。(これが、ウィトゲンシュタインの私的言語論なのだと私は理解している。)

しかし私は、言語ゲーム内にはないことを一つだけ知っている。それは「言語ゲームが存在している」ということだ。言語ゲームつまり言語の外に、言語の存在はある。私はこの、何故か知っている「言語の存在」という言語の外と対比するかたちで、言語の限界を知ることができる。

しかし、「言語の存在」という言語外のものと対比することで言語の限界を指し示そうとして語り始めると、どうもうまく説明できない。なぜなら、説明するという行為が、すでに言語のなかにあるからだ。言語の限界の外に「言語の存在」がある。しかし、それは言語では語りえない。

「言語の存在」を言語の限界の外にある語りえないものとして切り捨てることで、言語ゲーム論は意味論的独我論として成立する。私にとっての意味論的独我論は、このように説明することができる。

なお、「言語の存在」は語りえないのだから、「言語の存在」と呼ぶことが適切かどうかもわからない。現に、これを永井は「<私>の存在」と捉えている。そう私は理解している。そのことについては、次の存在論的独我論で論ずることにしたい。

1-4存在論的独我論

それでは、次に、永井の<私>の独在論に代表される存在論的独我論に移ることにする。

先ほど言ったように、当初から私は、永井の<私>をめぐる議論が正しいとは思えなかった。その理由は、まず第一に、先ほどの<私>という言葉についての意味論的な疑問、つまり、<私>という言葉は何を指すのか、<私>という言葉が何かを指すとはどういうことなのか、といったについての答えがなかったからだ。

なお、後日気づいたが、正確には、永井はこの疑問について論じている。私は永井の本の全てを読んでいないし覚えていないが、例えば「転校生とブラックジャック」第一章において、悪霊の懐疑を意味論的に行う部分がそうだ。そこでは、デカルトの悪霊の懐疑を拡張し、「いる」「間違い」という言葉さえ、悪霊が欺いているかもしれないと疑う。それならば、「<私>」という言葉の成立だって疑うことができるのではないか、そのような疑問を提起している。しかし、その答えは永井の哲学のなかにはない。とにかく、当初、私が感じていたのは、永井が論じているほどに明確に捉えられてはいなかったけれど、こんな疑問だった。

しかし、先ほどの意味論的独我論の議論を経たうえであれば、永井が言っていることの正しさがなんとなくわかる。意味論的な議論とは別に、「言語ゲーム」だか「私」だかはともかく、何にせよ、「言語の存在」にあたる何かが存在しなければならない。「私」という言葉が余分かもしれないけれど、その限定なしであれば、とにかく、永井がいうとおり「存在」は必要なのだ。

永井も、近年の文章によれば「<私>」のうちの「私」ではなく「< >」について着目しており、何らかの「存在」が必要という私の考えに、より近づいているようだ。(というか永井先生の影響を受けて、私が近づいているだけかもしれないけれど。)しかし、永井は、「< >」が付くのは、「<私>」「<今>」のような特定のものだけだとしており、限定がないという私の理解とは、まだ違いがある。

私の考えは、入不二の絶対現実、無内包という用語によるほうが、より正確に表現できるだろう。少なくとも、存在というものを「言語の存在」として捉えるならば、「< >」で囲まれるのは、世の言語で表現されるもの全てでなければならない。だから、<ペットボトル>でもなければならない。この無限定さが入不二の絶対現実、無内包につながる。つまり、何かが存在するのではなく、「何でもない」が無内包に存在するのである。まさに存在のお化けが、ただ存在するのである。だから、先ほどの意味論的な悪霊の懐疑も届かない。なぜなら、騙すべき内容がそこにはないからだ。

これが、私が理解している存在論的独我論である。

なお、永井の論の進め方には、もう一つ正しいと思えない理由があった。

永井は、<私>の独在性を説明するうえで、他者と比較した<私>の特別さを強調する。何人もの人間がいる、いわば常識的な世界において、そのなかの一人が何故か<私>であることの不思議さを疑問の出発点としている。

しかし、私は、永井がなぜ、何人もの人間がいることを前提にできるのか疑問だった。そんなことは、デカルト的な認識論的懐疑によれば、前提にできる訳がないのではないか。この世は私が見ている夢かもしれないのに、どうして、実は人間ですらないかもしれない私の夢の登場人物と私とを比べて、私にだけ独在性がある、などという話をしなければならないのだろうか。他者との比較を経ないと<私>というものを述べられないというのは、論じ方として不徹底ではないか。そんな疑問を感じたのだ。

この疑問は、<私>から、永井の「< >」、入不二の絶対現実、無内包へと拡張され、「私」という語に囚われなくなっても拭うことはできない。存在論的独我論を説明するためには、どうしても余計な操作を加えなければならない。それは、入不二の無内包であっても同じだ。一旦、<ペットボトル>というような内包を認めたうえで、それを除去するかたちでしか、入不二にとっての「< >」つまり無内包を述べることはできない。

そこには、意味論的独我論や存在論的独我論に留まらない問題、つまり認識論的独我論の分野に含まれる問題があると、私は考えている。

1-5認識論的独我論

それでは、最後に残った認識論的独我論に移ることとしよう。

私にとっての認識論的独我論は、デカルトの夢の懐疑を踏み台にし、夢の懐疑の拒否を経て成立する。今、目の前にペットボトルがあると思っているが、これは夢であり、実はそこにはペットボトルはないかもしれない。しかし、私が目の前にペットボトルがあると思っていることだけは疑うことができない。確かなのは、私が目の前にペットボトルがあると思っていることだけである。このように、私にとっての認識論的独我論を素描することができる。

ここで注意しておきたいが、これは、デカルトの「我思う故に我あり」ではない。デカルトは夢の懐疑を認め、更に悪霊の懐疑を持ち込み、目の前にペットボトルがあると思っていることも、悪霊が騙しているかもしれないと疑う。そして、私が疑っているということだけは疑い得ない、という結論に至る。これがデカルトの「我思う故に我あり」だ。しかし私は、その懐疑の成立を認めない。

夢の懐疑の否定を経て成立する私の認識論的独我論は、要は「実は違った」という別の視点からの判断の拒否である。デカルトは、「実は違った」という視点のずらしを認め、その視点のずらしの遂行を行う主体としての私だけは疑い得ないとする。ここにデカルトの不徹底さがあると考える。

どういうことかというと、デカルトの論が成立するためには、一旦認識が成立し、更に、その認識の「ずらし」が成立しなければならない。つまり二つの出来事が成立しなければならない。認識というものについて、一旦成立した後はずらすことができるものとして導入することは、無根拠であり議論として不徹底である。

それに比べ、私の認識論的独我論によれば、ペットボトルがあると思う、という認識があるだけである。そこには「実は違った」という更なる出来事が成立する余地はない。

悪霊の懐疑であっても同じである。悪霊の懐疑に付される以前の、ただ一つの視点だけがあり、その視点によれば、ペットボトルがあると思っている、ということは疑うことができない。というか、複数の視点というものはなく、「どの視点によれば」という限定は無意味である。よって「実は、悪霊に騙されていただけで、ペットボトルがあると思っていなかった。」という別の視点が成立する余地はない。

これが私の認識論的独我論である。

なお、先ほどの話で出てきた入不二の無内包という語を踏まえるならば、このペットボトルとは具体的な内包のことだと言い換えることができよう。よって、私の認識論的独我論をキャッチコピー的に示すならば、「私が認識する具体的な内包があることだけは確かだ。」ということになる。

なお、このキャッチコピーの「私」は余計である。なぜなら、「私」という限定を付するのは、「私」ではない「他者」を想定するからだが、そもそも「他者」というものを想定する必要はないからだ。

夢の懐疑は私についての疑いである。もし、他者について疑うならば、それはロボットの懐疑となってしまう。

ロボットの懐疑は他人というものが存在することを前提としている時点で、夢の懐疑よりも浅い。夢の懐疑は、他人が他人というものとして存在すること自体を疑っている。夢の懐疑によれば、他人なんて、夢から覚めれば実はペットボトルかもしれない。ペットボトルかもしれないものにロボットの懐疑は生じない。だから夢の懐疑に加え、ロボットの懐疑を持ち出し、他者というものを考慮に入れる必要はない。

ここまでの三つの独我論についての議論をまとめると、意味論的独我論のキーワードは「言語」であり、存在論的独我論のキーワードが「存在」であるならば、認識論的独我論におけるキーワードは「内包の認識」である。「認識」と更に縮めてもいいのだが、デカルトのコギトと異なり、そこに具体的な内包についての認識という意味合いが入っていることを明確にするため、「内包の認識」としておいたほうがよいだろう。

1-6脱線・伏線:独我論という用語

ここまで列挙した独我論は、いわゆる独我論なのだろうか、という疑問があるかもしれない。独我論とは、言葉のとおり「私だけだ」という論だが、ここまでの議論において、私というものはさほど着目されていない。

しかし、これまで、それぞれの論において、「それしかない。だから私という語を使う意義はない。」という独特のやり方で「私」を消去してきたことに着目してみよう。これは「私を登場させる必要がないほどに私に満ちている。」ということだとも言える。そのような構造を独我論と呼ぶことはできるのではないか。

または、独我論という言葉にこだわらなくてもいいとも言える。多分、私が重視しているのは、「私」ということではなく「一つ」ということである。一元論と言ってもいいかもしれない。その場合、「意味論的独我論」は「意味一元論」、「存在論的独我論」は「存在一元論」、「認識論的独我論」は「認識一元論」となるだろう。そのほうが理解しやすければ、そのような言い換えで読み進めて頂いてもいい。

しかし、私は、そのような一元論の用法があるのはどうかは知らないし、そもそも、独我論的な疑問から、この議論が始まっているということを尊重して、これまで通りの言い方を続けることにする。

とにかく、私の理解、興味は、「私」を離れて、こんなところにあるようだ。

1-7認識論的独我論の先行性

認識論的独我論とは、夢の懐疑の拒否を経て成立する「内包の認識」しかない、という立場である。

ここで、存在論的独我論について述べる際に触れた話、「存在論的独我論を説明するためには、どうしても、余計な操作を加えなければならない」という話を思い出して頂きたい。入不二の無内包であっても、一旦、<ペットボトル>というような内包を認めたうえで、それを除去するかたちでしか、入不二にとっての「< >」つまり無内包を述べることはできない、という話だ。

ここに、存在論的独我論と認識論的独我論を比較した場合の認識論的独我論の先行性がある。まずは、ペットボトルのような具体的な内包の認識があるとする認識論的独我論がある。そこから、ペットボトルという内包を除去することにより、無内包の存在論的独我論にたどり着く。内包の除去という操作が、存在論的独我論を語るためには必要となる。つまり、認識論的独我論は存在論的独我論に先行する。

また、認識論的独我論は、意味論的独我論にも先行する。

意味論的独我論を説明するためには、まず、言葉というものを説明しなければならない。一旦、抽象的な言葉が導入された後であれば、例示としての「ペットボトル」といったような具体的な言葉のあり方、使われ方については意味論的に説明できるだろう。しかし、まず「ペットボトル」といった具体例を導入しなければ、抽象的な言葉というもの自体を説明できない。意味論的独我論というもの自体を説明し、論じる前に、まず、具体例としてのペットボトルというものを知っていなければならない。つまり、ここまで出てきたキーワードを使うならば、ペットボトルの具体的な「内包の認識」を獲得していなければならない。このような意味で、言語ゲーム的な意味論的独我論の前提として、具体的な内包の認識があるという認識論的独我論が成立していなくてはならない。つまり、認識論的独我論は意味論的独我論に先行する。

これは、言語の学習の場面における、言語に対する内包の認識の先行性だと言ってもいいだろう。子供は、言語という一般概念を生まれつき知っているのではなく、「ペットボトル」などといった個別具体的な内包の認識を経て、言語を学んでいく。

この、存在論的独我論、意味論的独我論に対する、認識論的独我論の先行性は、永井の「なぜ意識は実在しないのか」における第一次内包の先行性と対応する。具体的には、第一次内包=認識論的独我論、第二次内包=意味論的独我論、第ゼロ次内包=存在論的独我論というような対応関係にある。

また、この対応関係については、単なる対応ではなく、拡張であるとも言えよう。「なぜ意識は実在しないのか」における内包についての議論は、この独我論の文脈においては、世界の捉え方そのものに拡張される。なぜなら、認識論的独我論においては、内包の認識こそが世界そのものだからである。

1-8逆襲などなど

このように、認識論的独我論が先行したうえではあるが、一旦、三種類の独我論が語られて成立した後は、それぞれの独我論は対等に緊密なネットワークにより結び付けられる。その一端は、先ほどの認識論的独我論の先行性として述べたし、また、意味論的独我論、存在論的独我論、認識論的独我論と、関連性を持たせながら、場面を移しつつ、それぞれの独我論を説明する際にも既に触れている。

ここで、これまでに述べた三種類の独我論の関係性について整理しておこう。

認識論>意味論:言語に対する認識の先行性、言語の学習

( > は認識論的独我論の意味論的独我論に対する優位性を意味する)

認識論>存在論:内包の除去による無内包の存在の把握

存在論>意味論:言語外にある言語の存在

存在論>認識論:(未言及)

意味論>存在論:(未言及)

意味論>認識論:(未言及)

というようにまとめることができるだろう。

ここで、埋められていない欄を埋めておくことにしよう。

まず、認識論的独我論、存在論的独我論に対する意味論的独我論の優位性(意味論>存在論、意味論>認識論)についてだが、これは、言語のある種絶対的な力、つまり、認識論的独我論、存在論的独我論も含めたすべての言明は、例外なく言語的に行われるということに尽きるだろう。永井の<私>の独在論も、デカルトのコギトも、私の認識論的独我論も、言語ゲームだ、ということだ。これについては更なる説明は省略させて頂く。

つまり、

意味論>認識論:認識論的独我論の言語による言明

意味論>存在論:存在論的独我論の言語による言明

となる。

あと残るのは、存在論的独我論の認識論的独我論に対する優位性(存在論>認識論)だが、これについてはもう少し丁寧に話を進めることにしよう。

この優位性は、「内包の認識が存在するということは、認識論的独我論からは導かれない。」という点に現れる。内包の認識が「存在する」ということに言及するならば、その言及は、存在論的に行われなければならない。これは、存在論的独我論の意味論的独我論に対する優位性が、言語の「存在」は言語外に存在論的にあることに由来するのと同じ構造である。

ここで、私が感じている、存在論的独我論について述べることの難しさについて触れておきたい。この難しさは「存在」というものを捉えることの難しさである。正確には、何の困難もなく捉えられていることについて説明することの難しさである。

この難しさは永井の哲学においても、大きな問題である。だから永井の本においても、「<私>と<<私>>の対比」というようなかたちで、この説明の試みが形を変え、繰り返し行われ、彼の本のなかで、かなりの分量を占めることとなっている。

なお、この文章で鍵となる概念は、「言語」にしても「内包の認識」にしても、極めて根源的であり、その概念自体を捉えることに、ある種の難しさがある。

しかし「存在」については、それらと同様の難しさに加え、<私>と<<私>>の違いについてわからない独在性盲を想定しうるという点で、より大きな困難がある。独在性盲、つまり「転校生とブラックジャック」におけるC君を極端に推し進めたような人を想定してみよう。この独在性盲に、<私>には<<私>>にはない独在性がある、といくら言っても、理解されない。伝わらないものは伝わらない。これは、存在論的独我論が成立するためには、独在性盲ではないということが前提となるということのように思える。存在論的独我論には、独在性盲ではないという前提、いわばドグマが混入しているように思える。

しかし、私はそれは誤解であると思う。独在性盲ではないという前提は、通常の意味での前提ではない。

一見、C君を極端に推し進めたような独在性盲がいるかもしれない、というのは意味のある疑いのようにも思える。しかし、独我論において、他者についてどうこう疑うことは意味が無い。独我論においては、私が独在性盲でなければ、私でない他人について独在性盲かもしれないと疑うことに意味は無い。つまり、私が独在性盲でないならば、独在性盲の可能性について疑う意味はない。そして、現に私はこの問題に立ち入っていることからもわかるように、「私は独在性盲ではない」ということは明らかなのだから、「私が独在性盲でないならば、」というような疑いを考慮する必要はない。

言い換えれば、「存在」については、私がなぜか「存在」というものを知っているということに、その理解の基盤があるという点で把握の難しさがある。しかし、「他者」を持ち出す必要がない独我論においては、そのことが存在論的独我論の成立の論拠の弱さにつながるものではない。

存在論的独我論の認識論的独我論に対する優位性の話に戻ることとしよう。

このような議論を経て、内包の認識が「存在」するということに特別さを見出すならば、そこには何らかの「存在」が必要だということになる。そして、その「存在」については、認識論から離れ、存在論的に把握せざるを得ない。

つまり、

存在論>認識論:内包の認識の存在

となる。

これで全ての欄が埋まったことになる。

整理できたとおり、三種類の独我論の間には、それぞれが相互に何らかの優位性を有する関係があると言えよう。

「なぜ意識は実在しないのか」における逆襲とは、この優位性からなる緊密なネットワーク関係のある側面を断片的に捉えたものなのではないだろうか。

1-9圧縮の試み

私がこれまで興味を持った哲学者達の議論は、ある側面では、この三種類の独我論を一つに統一しようとする試みであったとも言える。

例えば、永井の<私>の独在論は、存在論的独我論と意味論的独我論との関連性に重きを置き、そこに認識論的独我論を取り込むかたちで三者を統一しようとしたものと考えることもできる。夢の懐疑に晒されない、当たり前の世界を認めたうえで、そこに<私>という観点からの存在論的独我論を持ち込み、更に言語的な累進構造を認めることで、存在と言語という2者の相克関係としての統一的世界観を構成しようとしたものと考えることができる。

しかし、ここまで述べたとおり、認識論的独我論には、永井の見積もりよりも、より強い力がある。夢の懐疑を否定することにより成立する内包の認識には、存在と言語の二者関係に割って入り、内包の認識も含めた三者関係に持ち込む力がある。つまり、永井の描写は、間違えてはいないが不徹底である。(または、永井の興味は私の興味とずれており、永井の描写では、私を満足させない。)

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論も同様だ。言語ゲーム論は意味論的独我論に重きを置く。そして、内包の成立と言語の成立を一挙に言語ゲームの内部で行うことで、内包の成立にまつわる問題を無化しようとする。

しかし、言語ゲーム自体の成立の場面について論じようとするならば、言語ゲームの外から、言語ゲームが存在するということと、内包の認識により具体的な言葉が学ばれるということを述べなければならない。

そのことさえも、述べるということの性質上、言語の力により、言語ゲームのなかに取り込まれざるを得ないが、それでもこの問題は、更に、語り得ないものとして、言語ゲームから逸脱し続ける。

つまりは、語り得ないものを語り得ないものとして認めるならば、ウィトゲンシュタインの試みは成功せず、言語の外に存在と内包の認識の居場所が確保され、言語と存在と内包の認識という三者関係が維持されざるをえない。

このように考えると、この、言語、存在そして内包の認識という三者関係は、なかなか、これ以上圧縮することは難しそうだ。

なお、私が感じた論理哲学論考の独我論の特別な正しさはここにあるのではないかと思う。ここまで挙げてきた三つの要素は、それぞれ、認識は思考、言語は像、存在は世界というように、論理哲学論考の独我論に対応する。私がここまでで辿り着いた構造を最もよく表している既存の理論は、論理哲学論考だということだ。

ここで、なぜ、この三者なのだろうか、という疑問が生じる。この三者を更に二者、一者と圧縮することが難しいならば、逆に、同等に重要な何かを加え、四者関係とする必要はないのだろうか。何かを見落としていないだろうか。

私の独我論 0最初に

2014年9月21日作

PDF:私の独我論

・・・

0-1言い訳

私には時間がない。といっても不治の病にかかっている訳ではない。仕事もあるので、あまり自由になる時間がなく、哲学にかける時間が足りない。時間がないから、こんなに手を抜いた文章を公開することになってしまった。

どのように手を抜いたのかというと、文章を書くうえでの基本的なルールを守らなかった。この文章のなかでは他の哲学者の成果として、主に永井均の本と入不二基義の本を活用させてもらったが、文章上で他者の成果を活用する際の基本的なルールを守らなかった。

つまり、それらの本に何が書いてあったかは解説していない。また、読み返して正確な表現を期してもいない。二人の話を引き合いに出すのに、正確な引用もしていない。

だから、私の勝手な思い込みを彼らの話としてしまっているかもしれない。または逆に、どこかで読んだ話を自分で思いついたことと勘違いしているかもしれない。用語も間違えているかもしれない。そもそも私が思いついた話と永井と入不二がしていた話を厳密に分けてもいない。そんなふうに手を抜いている。

当然、これでいい訳ではないが、正確を期していたら、この文章をいつ公開できるかわからない。そのまま、お蔵入りし、ここで私が考えたことは忘れ去られてしまうかもしれない。私には、それが耐えられない。私は、この文章には、何か新しい大事なことが含まれていると信じている。私は、その大事なことを形に残すため、手を抜いてでも公開することにした。(といっても、誰にでも大事なのではなく、私にとって大事だということなのだけれど。)

この手抜きは、この文章が私自身か私によく似た人に残すメモのようなものだということで御容赦いただきたい

哲学の述べ方 5誤りの意味

5の1 当面の誤り
哲学の正しい述べ方についてはこれまで述べたとおりだが、それでは、哲学の正しくない、誤った述べ方とはどのようなものだろう。
これまでの話の流れを受ければ、飛躍しすぎて、丁寧でない述べ方をしたということが作者にとっての誤った述べ方だろう。読者の観点からは、感動せず、心が動かなかったということが誤った述べ方ということであり、文自体の美しさという観点で言えば、飛躍しすぎて抽象画でも具象画でもなく、落書きになってしまい美しさが失われたような状況が誤った述べ方ということになるだろう。要は、誤った述べ方とはそういうことだ。
しかし、それはあくまで単一の文に着目した場合であり、先ほど述べたように私は「作者と読者が双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有するという相互関係」にこそ、正しい述べ方の根源があるとしているということに留意しておく必要がある。多少説明が飛躍しすぎて丁寧でなくても、読者の指摘を受けてあとで説明し直せばよい。例えば、「ワンと鳴くペットはイヌだ。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」と作者が読者に語りかけたときに、読者に「どうしてそうなるの?」と疑問を投げかけられたとしても、作者がきちんとフォローすれば誤りにはならない。作者が「ごめんごめん。浅田真央のペットはワンと鳴くってことを説明するのを忘れてたよ。」と言えば誤りはならない。
また、それでも読者に「ペットって何?」と更に疑問を呈されたとしても、作者が「ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだよ。」と説明して読者に理解してもらえれば、誤りとはならない。追加の説明により読者の心が動き、文自体が美しさを獲得できればよい。つまり、事後に訂正される「当面の」誤りは誤りではない。
繰り返しになるが、私は、正しさとは、作者の説明の内容や読者の理解力や個別の文章のなかにあるのではなく、現に作者と読者とで関心や疑問が共有されたということにあると考えている。だからこそ、作者と読者の間で共有に向けた努力が行われた後の最終的な結果をみなければ、それが正しさに至ったか、それとも誤りで終わったかはわからない。
私にはそこに特筆すべきことが隠されているように思えるので、もう少し丁寧に、別の述べ方で、事後に訂正される「当面の」誤りは誤りではないということを見てみよう。
例えば、「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。だから私のペットはイヌだ。」というような典型的な誤りの文があるとしよう。この文章は常識的な観点から誤っている。この誤った文が訂正されるまでの過程をAとBの会話形式でみてみよう。(なお、文の行数を横に書いておく。)
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「違う。ニャーと鳴く動物はネコだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
かなり不自然な会話だが、このようなやりとりにより、誤りは訂正されると考えてみる。
ここにはいくつかの誤りがあるように思える。1行目の文は、実はAのペットはネコだという観点からすれば明らかに誤りだ。また、3行目の「ニャーと鳴く動物はイヌだ。」としていることも常識的に考えて誤りだ。
しかし、私は、このように個別の誤りの文があるという考え方を否定したい。Aのペットはネコだと外から指摘するということは、実は、こういう会話をしているということである。
1A「私のペットはイヌだ。」
2あなた「違う。あなたのペットは実はネコだ。」
ここで、あなたは会話に参加している。そして、次のような会話が続く。
3A「どうしてネコだと言えるのか。」
4あなた「ニャーと鳴く動物はネコだからだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
もし、このようなやりとりにより誤りが訂正されたなら、既にAとあなたの間で双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有されたということだから、そこには誤りはない。違いは、ただ、あなたが会話に参加したということだけである。
この例により言いたいことは、当事者ではない第三者の視点から誤りを指摘することはできないということだ。指摘するということは当事者として哲学を述べることに参加するということだ。私にとっての哲学を述べるということには、このような側面がある。
念のため、AとBの会話に戻り、次のようにBが納得してしまった場合を想定してみよう。
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「そうなのか。それならば、あなたのペットはイヌだ。」
これも、AとBとの間で双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有されたということだから、述べ方として正しい。もし、あなたが、それは違うと声を上げたとしても、先ほどの例のように、ただあなたが会話に参加することになるだけだ。
作者が正しいと信じてこのように述べ、読者もそのように理解したならば、作者と読者以外の誰も誤っていると指摘することはできない。作者でも読者でもない観点に立つことはできない。つまり、文が個別に誤りであるということはない。
それでは、一般的に個別の文の誤りとされているのはどういう場合なのだろうか。私は、それは、最終的に正しさに至り、事後的に「当面は」誤っていたということがわかった場合のことをいうのだろうと考えている。
最初の例に戻れば、5行目のAの「私のペットはネコだ。」という結論に至った視点から、1行目の「私のペットはイヌだ。」という発言を振り返り、1行目の発言は「当面は」内容が誤っていたと述べているということだ。つまり、文の誤りは、正しい文章のなかの一部としてしか存在しない。
更に、最初の例には続きがありうる。
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「違う。あなたのペットは実はネコだ。」
3A「どうしてネコだと言えるのか。」
4B「ニャーと鳴く動物はネコだからだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
という会話の先に次のような会話が続きうる。
6科学者「Aさん、遺伝子検査の結果、あなたのペットはニャーと鳴く新種のイヌであることが判明しました。」
このような事後的な視点というものがありうる可能性も踏まえれば、それぞれの文に固有の正しさや誤りというようなものはなく、作者と読者の間で関心、疑問が共有されたかどうかという、最終的な観点からの述べ方の正しさ、または誤りしかないという私の主張は、決して荒唐無稽なものではないのではないだろうか。
私は、この文章の冒頭において哲学の内容ではなく、哲学の形式に着目し、どのような述べ方が正しいのかを考察することとした。その大きな理由として私の力不足があることは確かであるが、もう一つの大きい理由としては、そもそも内容の誤り、そして内容の正しさとは、事後的な視点から「当面は」文が誤っていたとか正しかった、という評価をしているということを指しているに過ぎないのではないだろうか、という問題意識があったからだ。
なお、先ほど同一律の比喩に着目し、トートロジーは極めて正しい述べ方であるとも述べたところである。しかし、この正しさは作者としての述べ方の正しさに留まる。厳密には、トートロジーであっても作者と読者の間で関心、疑問が共有されたかどうかという観点で、その正しさは評価されるべきである。そして、その共有が失敗することはありうる。失敗のあり方として私が思いつくのは、ルイス・キャロルのパラドクスである。亀がアキレスに、述べようとすることの前提を問い続け、述べようとすることとその前提との同一律の比喩が成立する根拠を問い続けるような場面である。これは、同一律の比喩についての読者との関心、疑問の共有が成立しない一例であると言えよう。ここで、根源としての作者と読者の間での関心、疑問を共有するという正しさではなく、そこから派生するものとしての作者の述べ方の正しさにのみ着目して「トートロジーは極めて正しい述べ方である」としたことは訂正し、「正しい可能性が高い述べ方である」という程度に弱めておく必要があるだろう。

5の2 語り終える
以上、「当面の」誤りと対比することで、本当の述べ方の誤りとは、最終的に作者と読者の間で関心、疑問が共有されなかったということである、ということが、より明確に整理できたのではないだろうか。
確認のため例を示せば、
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「・・・」
と、Bが関心を失い、会話が終わることが述べ方の誤りである。
しかし、この誤りについては更に語るべきことがあるように思う。
個別の文に誤りはないといっても、Aが「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」と述べたことは、姿勢としては問題があるかもしれない。率直に言って、「ニャーと鳴く動物はイヌだ。」と言い切る前に、もう少し考えて欲しいと思う。考えてもわからなかったのなら仕方ないが、Bに「ニャーと鳴く動物はネコだ。」と言われて簡単に自説を曲げるなら、もう少し考えて欲しい。
また、同じことは「ごめんごめん。浅田真央のペットはワンと鳴く、ってことを説明するのを忘れてたよ。」と言った人に対しても言える。自分の説明が不足していないか、誤解を与えないか、少し考えて欲しい。
相手が会話についてきてくれたからよいが、もし相手が関心や疑問を失い、会話についてこなければ、そこで話が終わってしまう。もし、そこで終わってしまえば、作者と読者との間で関心や疑問が共有されなかったということであり、誤りに陥る。
こう考えると、簡単にあとで訂正されるような文を語ってしまうことに誤りが潜んでいるとも言いうるのではないだろうか。
作者が読者に哲学を語るということに、自問自答をして思考をすることを含めているということを思い起こしていただきたい。Aが頭の中で「簡単に、私のペットはネコだと言ってよいかな・・・」などと自問自答することと、AとBの間で会話をすることとは全く同じことである。単にAとAとの間の会話なのか、AとBとの間の会話なのかという登場人物の違いに過ぎない。
そして、頭の中でのAとAでの自問自答の思考を打ち切り、Bに向けて発話することと、AとBの間での会話が打ち切られるということには、同じ誤りが潜んでいる。いずれも重層的な伝達のある階層での伝達を打ち切っているという意味では同じような事態が生じている。
それならば、正しい哲学の述べ方として、これまで、適度に丁寧な比喩を行うという配慮を作者に求めてきたが、加えて、述べようとしていることが正しいかどうかしっかり自問自答して考えてから発言するという配慮も作者に求める必要がありそうだ。
しかし、具合が悪いことには、どんなに作者と読者との間の関心や疑問が共有されて正しいものだとされても、更に、事後の視点から見れば、実は誤りだったということはありうる。先ほど述べたように「私のペットはネコだ。」と合意をしたとしても、「実は私のペットは新種のイヌだ。」ということはありうる。
そのような事後的な視点も考慮するならば、作者がどれだけ配慮しても、誤りから免れることはできない。語り終えることで作者と読者のコントロールから離れ、確実に誤りを避け、正しさに辿り着くことはできない。
つまり、作者に求められることは、しっかり考え、配慮するというようなことには留まらない。確実に誤りを避けるためには、作者は語り始めたなら語り終えてはならない。これが、作者として正しいあり方なのかもしれない。

5の3 他者の信頼
しかし、この文章も含め、ほとんどの文章は語り終えられている。(今は書き終えていないが、この文章を誰かに読んでもらうときには書き終えているだろう。)
それならば、この文章の作者である私も含めた作者たちは、求められている作者の義務を果たしていないのだろうか。
その問いについて考えるにあたっては、私の考える伝達とは重層的であるということを思い出しておきたい。先ほどのイヌとネコをめぐる会話で言えば、AとBのそれぞれの文ごとに伝達は完結している。しかし、会話全体としてみれば、会話が終わるまで伝達は完結していない。また、事後的な視点からみれば、更に会話が続く可能性もある。
この文章にしても、重層的な層のうちある層においては伝達を終え、ここで一旦書き終わる。しかしその後、私が続きを書き始めるかもしれないし、別の誰かが引き継いで思索を進めるかもしれない。書き終えたこの文章を私自身かもしれない誰かが読者として受け取り、受け取った読者が今度は作者となり新たに哲学を述べ始める。そのようにして更に上位の階層においては伝達が継続するかもしれない。
正直に言って、私は、あなたがこの文章を読んで何らかの感想を持ってくれればよいのに、と期待している。私は、この文章を踏まえて、あなたがあなた自身に対して哲学を述べ、双方向的で、継続的で、重層的な伝達が続いていくことを期待しないではいられない。
一方で、この文章が誰からも関心、疑問が共有されず、誤りに陥ったまま語り終えられる可能性は厳然としてある。いくら期待を重ねてもその可能性を否定することは出来ない。
ここで私は考えずにはいられない。伝達がこのようなあり方をしているということにはどのような意味があるのだろうか。この文章を含めたおおかたの文章が一旦は書き終えられ、そこで伝達は終わるかもしれないが、それでも続いていくことを期待するということはどういうことなのだろうか。文章は、一旦語り終えることにより、誤りを潜在化させることとなる。もし、読者が哲学を述べることを引き継がなければ、その文章は誤りに陥ることになるかもしれない。そのような危険性を冒してまで語り終えるということに、どのような意味があるのだろうか。
私はそこに、他者の信頼という意味を読み込みたい。作者は読者が語り続けてくれることを信頼するからこそ語り終えることができる。更には、読者が作者を超え、新たな道を切り開いてくれるのではないかという期待さえも、その信頼のなかにはある。とするならば、語り終えることには積極的な意義があるとさえ言えよう。
他者の信頼により、作者が語り終えることができるからこそ、他者である読者が語ることを認め、双方向的で、継続的で、重層的な伝達を駆動することができるのではないだろうか。つまり、他者を信頼することが哲学を述べるということの原動力であるとも言える。
以上、まとめると、他者の信頼を原動力に、作者と読者の間で双方向的で、継続的で、重層的な伝達を行い、現に関心、疑問を共有するということが正しい哲学の述べ方である、ということになる。
ここに、私は、極めて倫理的な意味を読み込む。哲学を述べるならば、他者を信頼しなくてはならない。

哲学の述べ方 4真と美

4の1 抽象画
しかしながら、双方向的で継続的で重層的な作者と読者の相互関係よりも、単一の文における作者の述べ方のほうが単純で分析しやすいので、引続き、作者の述べ方に着目して考察を進めたい。
ここまでで、作者の述べ方の正しさは「適度に丁寧な比喩」にあると整理したところであるが、その正しさ自体のあり方について明らかにするために、極端に「適度に丁寧な比喩」について考えてみたい。なぜなら、極端な事例においては、その正しさも極端なかたちで露出するのではないかと考えるからだ。
私が考える、極端に「適度に丁寧な比喩」とは、トートロジーである。
トートロジーが極端に「適度に丁寧な比喩」であり、極端に正しい述べ方であるということを具体例により確認しておこう。
「魚は泳ぐ。よって、海は青い。」「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」という3つの文章を挙げてみる。
最初の「魚は泳ぐ。よって、海は青い。」という文章は、1つ目の文と2つ目の文で同じ単語が登場していないため、物語の比喩であっても同一律の比喩であっても比喩が成立しにくい。つまり、あまり「適度に丁寧な比喩」がされているとは言えない。
2つ目の「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」という文章は、「魚」という同一の言葉が用いられていることを手がかりに物語の比喩が成立しうる。そして、「泳ぐ」ならば「細長い」ということの関係について、「泳ぐためには水の抵抗があるから細長くなければならない。」というように考えられるなら、例えば、船についての「前に効率よく進むために細長くなければならない。」という物語を、物語の比喩により魚に適用することにより、この文章は理解される。
3つ目の「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」という文章は、「魚」と「泳ぐ」という用語を導入できるという意味での物語の比喩と、繰り返しという意味での同一律の比喩により容易に理解できる。
つまり、1つ目の文章は比喩が失敗しそうだが、2つ目と3つ目の文章は比喩が成功しそうだ。
しかし、2つ目の文章に更に注目すると、「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」ということを理解するためには、例えば船についての「前に効率よく進むために細長くなければならない。」というような知識が読者にあることが前提となる。または、知識がなくとも、作者が「進むためには水の抵抗があるから細長くなければならないんだよ。」と説明したなら読者に理解してもらえる必要がある。つまり、理解されるかどうかは、作者と読者で、現に関心、疑問を共有できるかどうかという現実の相互関係に依拠している。そういう意味で、2つ目の文章は比喩が失敗するリスクが高い。
説明が失敗するリスクを極力避けるならば、「泳ぐ」ならば「細長い」というような相手によっては理解されないかもしれないような物語の比喩は極力避けたほうがよい。同一律の比喩だけで語れば、説明は失敗しないだろう。つまり、3つ目の文章「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」のほうが、2つ目の文章「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」よりも正しい。
このように比較すれば、少なくとも3つの文章のなかでは、最も哲学的に正しい述べ方とは、トートロジーである3つ目の文章であるということは明らかだ。これが、トートロジーが極端に「適度に丁寧な比喩」であり、極端に正しい述べ方であるということである。(脱線だが、これが、論理的にトートロジーは常に真とされていることの意味ではないだろうか。)
更には、新たな物語の比喩を追加しなくても同一律の比喩だけで2つ目の文章を拡張し、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。・・・」という表現をどこまでも続けることができる。
文の長さに比べて新たな概念の導入が少ないほど失敗のリスクの割合が低い文章であるとさえ言えるならば、このように長く続くトートロジーは、リスクを犯さずに長い文章を述べることができるという意味でより正しい述べ方だとさえ言えるだろう。このトートロジーは、続ければ続けるほど正しいとさえ言えるだろう。
このようなことを考えてみると、私には、トートロジーには単純なパターンの繰り返しが生む抽象画のような美しさがあるように感じる。そこで、トートロジーを抽象画に例えることにしたい。

4の2 具象画
トートロジーは、極端に正しい述べ方である。しかし、トートロジーだけで述べられることはあまりにも少ない。どこかで同一律の比喩を乗り越え、トートロジーを超えた内容を語る必要がある。絵に例えるならば、単なるパターンの繰り返しとしての抽象画から、複雑な具象画に移行していく必要がある。そのためには同一律の比喩によらない新たな概念の導入が必要だ。
なお、そもそも文から新たな概念の導入を全く無くすことはできない。それはトートロジーであっても同じである。実は、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」という単純なトートロジーであっても、「魚」「泳ぐ」という概念は、既にそれらの言葉を使った別の概念から物語の比喩により、新たに導入されているはずだ。どんなに単純なパターンの繰り返しとしての抽象画であっても具象化の第一歩は避けることはできない。全く具象化がされなければ、それは白いキャンバスである。描き始めるためには、ある種の飛躍が必要だ。
そして、トートロジーが始動し、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。・・・」というどこまでも続く表現が行われたなら、その表現はどこかで打ち切らなければならない。しかし、同一律の比喩の正しさには3回目の繰り返しでも、4回目の繰り返しでも差異はないことから、3回目で繰り返しを打ち切らなかったのに、4回目で打ち切る理由はない。打ち切る理由がないという意味で、より正しいトートロジーとはキャンバスをはみ出て永遠に同じ模様で埋め尽くすようなものであるはずだ。それでもどこかで理由なく打ち切らなければならない。これが第2の具象化である。永遠に続くものをキャンバスに納めることも飛躍である。
つまり、トートロジーを抽象画として成立させるためには、描き始めるという第一の飛躍と描き終わるという第二の飛躍が必要である。つまり、抽象画には少なくとも2つの具象化が含まれている。
そして、その先、模様に変化をつけるなどして、抽象画は具象画に徐々に変化していく。それは、文章表現で言えば新たな概念の導入を繰り返していくということである。飛躍を繰り返すと言ってもよい。
なお、その絵を単なる落書きではなく絵画とするためには、飛躍は適度に行われなければならない。つまり、概念の導入の困難さとして私が述べたように、ホーリズム的な危うさがつきまとうことを踏まえ、現実的に、相手を踏まえ、適度に丁寧に説明しつつ、新たな概念の導入を行わなければならない。
トートロジーの美しさを抽象画に例えたことに対比し、この、ホーリズム的な危うさを乗り越え、適度に飛躍し、新たな概念の導入を行うという優れた手腕により生み出された美しさを具象画に例えることができるだろう。
この飛躍の適度さの例としては、野矢茂樹が「語りえぬものを語る」において用いている「山が笑う」という表現がある。これは、「文字通りには、もちろん、山が笑うはずがない。」と野矢自身も述べているように通常の表現ではない。野矢によれば、「芽吹き始めた早春の山の、まだ緑が白っぽい初々しい姿。」を表現しようとして導入した隠喩表現である。「笑う」は通常、「山」に対しては用いられないことから、「山が笑う」という表現は「語りえぬものを語る」を読んでいない人からすれば、多分初めて目にした表現だろう。しかし、うまい表現であり、私はこの表現をすぐに理解できた。多分、多くの方が理解できただろう。
それは、例えば「子供が笑う」というような文を既に知っており、その、「笑う」のうちにある、穏やかで少し華やかで初々しい幸福感というような、微妙なニュアンスを物語として掬い取り、「山が笑う」の「笑う」に適用することができたということである。
この微妙なニュアンスを有する物語を橋渡しとして物語の比喩を成立させ、「山が笑う」という表現を成立させるためには、かなりの大きな飛躍がある。そしてその飛躍を適切に成し遂げ、ホーリズム的な危うさを乗り越え、新たな概念の導入に成功できたという優れた手腕がある。その手腕が生み出した美しさがある。この美しさは具象画の美しさと言えよう。
哲学を述べるということ、つまり、「作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということ」には、トートロジーの「抽象画」としての美しさと、「山が笑う」のような適切な飛躍を成し遂げた文が持つ「具象画」としての美しさの2種類の美しさがある。
ただし、留意しておきたいが「抽象画」は完全に抽象的である訳ではない。少なくとも描き始めるという第一の飛躍と、描き終わるという第二の飛躍という2つの具象化が含まれている。また、「具象画」は完全に具象的である訳ではない。「山」「笑う」という言葉が同一律の比喩により理解されているからこそ、「山が笑う」という適切な飛躍が成立する。つまり、文が文として理解されるためには、同一律の比喩が成立する程度の抽象性が求められる。
この留意点を踏まえ、哲学を述べるということには、トートロジーに多く含まれる「抽象的な美」と、「山が笑う」というような文に多く含まれる「具象的な美」がある、というように整理しておきたい。

4の3 論理操作の美・数学的な美
哲学の述べ方の美しさには、「抽象的な美」と「具象的な美」の2種類があるというように述べた。しかし、いずれに分類すべきか迷ってしまう美がある。
とりあえず名付けるならば「論理操作の美」とでも言うべきものだ。
再び、トートロジーである「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」という文に登場してもらおう。
これは、同一律の比喩を用いたものであり、いうなれば、同一という論理操作を行ったとも言えるだろう。
それでは、同一という論理操作の代わりに否定という論理操作を行ったならどうなるだろう。すると、そこには「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」というような表現が現れる。
私は、この文章は、禅問答のようだが、どこかありそうな気がする。この、ありそうな感じをとりあえず「論理操作の美」としたい。
このありそうな感じがなぜ生じるかといえば、これまでの同一律の比喩の話を踏まえるならば、「魚」「泳ぐ」というような同一律が多く維持されており、「ない」という否定が1つ入っているだけだからだ。つまりは、全く同一律が維持されていない文よりは、ある程度は同一律が維持されている文に美は残っている。
それでは、「論理操作の美」は、「抽象的な美」の劣化版なのだろうか。
しかし私は、なぜか「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」よりも「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」の方に興味がひかれる。「論理操作の美」には「抽象的な美」の劣化版にはとどまらない独自の美しさがあるのではないだろうか。
それでは、その独自の美しさとは、「具象的な美」の第一歩なのだろうか。
「ない」という否定が付加されるということは、既に使ったことがある例えば「ニワトリは空を飛ばない。」というような文における「ない」の否定性とでも言うべき物語を取り出し、物語の比喩により「魚は泳ぐ」という文に比喩的に付加したというように言えよう。そう考えるなら、新たに概念が導入され、適度に飛躍したという意味での「具象的な美」があると考えることに違和感はない。
しかし、「ニワトリは空を飛ばない。」という文における「ない」と、「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」の「ない」は明らかに違う。前者の「ない」は完全な否定だが、後者の「ない」は、魚が泳ぐことも容認しているという意味で、完全な否定ではない。否定と肯定の両方を認めるというかたちの別の否定である。とするならば、「論理操作の美」は「具象的な美」とも言い切れない。
このように、「論理操作の美」には、「抽象的な美」とも「具象的な美」とも決めかねるような、独特な美がある。
否定という論理操作のみを例に出したので、あまり「論理操作の美」というものに着目することの意味が伝わらないかもしれない。だが、否定という論理操作以外にも、哲学の分野には、「論理操作の美」に拠っているとしか思えないような例が多く存在する。
例えば、ニーチェのルサンチマンという概念がある。これは私の理解では、極めて簡単に言えば、弱者こそ倫理的に優れているという考え方から弱者と強者を反転しようとする考え方である。私は、この反転というところに「論理操作の美」があると感じる。多分、ルサンチマンという考え方が成立する根拠には、キリスト教的道徳等、様々な要素があるのだと思うが、私がこの言葉に特段の意義を感じるのは、「弱いからこそ強い」という、美しい価値の反転自体にある。ここには、反転という「論理操作の美」があるのではないだろうか。
他にも、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一という考え方には、矛盾という「論理操作の美」があり、入不二基義の無限後退の落差自体を肯定的なものとして捉えようとする考え方には、反復とでもいうべき「論理操作の美」があるように思われる。他にも同様の例は挙げられそうだ。
私が、これらを同じ「論理操作の美」として捉えたのは、いずれも運動性があるという共通点があるからだ。そこには反転するという動きがあり、矛盾が含意する衝突し循環するという動きがあり、極北に向かって反復するという動きがある。ニーチェや西田幾多郎や入不二基義が述べようとしていること自体を私に理解できているとは思えないが、そこには共通の美しさがあるように感じる。
これらの特殊な述べ方は、少なくとも私に対しては、ある特別な迫力をもって美しさをみせつける。私は、その美しさを特別なものとして捉えたいと言う衝動にかられる。そこで、私は、その美しさが意味するものを十分に掴み取ることができていないが、あえて「論理操作の美」と名付けることとしたい。
また、「論理操作の美」に似たものとして「数学的な美」がある。
数学的な内容を持つ文について考えてみよう。例えば「4629551は4629550よりも大きい。」という文がある。これは正しいとすぐに理解できるだろう。それでは、どのように理解できたのかというと、私が適当に選び多分読者にとっては初めて目にした「4629551」「4629550」という数字について理解したのだから、既にその数字を目にしたことを手がかりに同一律の比喩により理解したのではないはずだ。
それならば、数字の持つ物語により、物語の比喩により理解したということも考えられるが、その数字の持つ物語がどういうものかがわからない。また、数字が無限にあるとするならば、物語も無限になければならないということになり、これまでの物語という概念から大きく外れる。
つまり、この文は、これまで挙げたような比喩で理解したものではないように思われる。
同様に、「+」「-」というような数学記号を文字と解釈するならば、「3+4=7」が理解できるのは、既に「2+6=8」を行ったことがあり、そのときに+の物語を比喩的に適用したということになるが、「2+6」のときの「+」の働きをいくら見ても、そこには2と6に関わる物語しかなく、「3+4」の理解につながるような物語は見当たらない。つまり物語の比喩で理解できるものではない。
しかし、私は「4629551は4629550よりも大きい。」は「4629551は4629550よりも小さい。」よりも美しく感じ、「3+4=7」は「3+4=6」よりも美しく感じる。比較が微妙でわかりにくいかもしれないが、「3+4=5084286」よりも美しい、と言えば、少しは伝わるだろうか。
このような例をみてみると、数学的な文には、これまで比喩をもとに述べてきた「抽象的な美」でも「具象的な美」でもない、独自の美があるように感じる。
「4629551は4629550よりも大きい。」や「3+4=7」というような文にある独自な美しさを「数学的な美」と呼ぶこととする。
しかし、「論理操作の美」にしても、「数学的な美」にしても、私には、それが何なのか、全くわからない。そこで、ここでは、哲学の述べ方の美しさには、まだ語るべきことがあるということを指摘するに留めることとしたい。

4の4 美と感動
以上、哲学を述べるということには2種類から4種類の美しさがあるということを示した。
この哲学を述べるということの美しさと、哲学を述べるということの正しさ、つまり「作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということ」とはどのような関係にあるのだろうか。
私は先ほど、作者と読者の間での関心、疑問を共有するという相互関係に哲学の正しい述べ方の根源があり、そこから作者が「適度に丁寧に比喩を行う」ことができたかどうかという作者の述べ方の正しさが派生していると述べた。
同様に、この美しさは、作者と読者の間での相互関係の正しさから派生していると考えることはできないだろうか。もし、そのように考えられるならば、この美しさとは、作者から読者に伝達されるものとしての哲学書、つまり文自体の正しさである。つまり、作者と読者の間での相互関係の正しさから、「美しい」というあり方で文自体の正しさが派生するということになる。
更に言えば、もう一方の登場人物である読者としての正しさも、作者と読者の間での相互関係の正しさから派生すると言えそうだ。読者としての正しさとは、哲学書の文自体の美しさに心が動かされ、感動することだということになるのではないだろうか。
つまりは、作者と読者の間の「関心、疑問の共有」という相互関係の正しさから、「適度に丁寧な比喩」というかたちでの作者の正しさ、「心が動かされ、感動すること」というかたちでの読者の正しさ、「美しい」というかたちでの伝達される哲学書、つまり文自体の正しさが派生するということだ。
かなり荒っぽく、一気に考察を進めてしまった。その理由も示していないので、このような進め方には全く納得がいかないかもしれない。ただ、このように先を急いだのは、まず、更にその先を述べておいた方がよいと思われるためである。もう少し、この荒っぽさにお付き合い頂き、先を述べることとしよう。
このように、一気に「関心、疑問の共有」、「適度に丁寧な比喩」、「心が動かされ、感動すること」、「美しい」ということをつなげて論じたが、私が、これらの言葉に割り振ろうとしているものは、言語の外の現実との接続である。「現に」作者と読者が関心、疑問を共有し、「現に」作者が適度に丁寧な比喩を行い、「現に」読者が感動し、「現に」文自体が美しいこと、をこれらの言葉を用いることで表現しようとしている。
言語の外の現実との接続について述べるのに、「感動」や「美」よりも適した言葉があれば、その言葉を用いてかまわない。しかし、私は、感動や美という言葉により、言語の外の現実というものに対するイメージが強く喚起される。イメージが喚起されるような用語を用いることで、言語により、言語の外を示したい。「感動」や「美」という言葉を用いた動機についてはそのようにご理解いただきたい。

4の5 現実
それでは、そのようにして示そうとしている言語の外としての「現実」はどのようなものなのだろうか。
ここで新たに導入した、読者が感動し、文自体が美しいということについては説明が順序立てられておらず駆け足となってしまったが、一方で、作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということについては、ある程度順序を追って論じてきたつもりだ。
その説明のなかでは、概念の導入の困難さとしてホーリズム的問題があると述べたところで現実という観点が登場している。ある概念の説明が成功するかどうかは別の概念の説明が成功するかどうかにかかっているが、現実には、危うさを含みつつも、なぜか、うまく相手を踏まえ、適度な範囲で説明が行われ、折り合いがつけられているということを述べている。更には、その飛躍は、例えば「山が笑う」のような文に多く含まれる具象的な美により、現に適度なものとして行われているということも述べている。
このように現実は、ここまでの説明の随所に顔を出している。ここに、私がここまで述べてきた「哲学の述べ方」の現実からの離れられなさがある。作者と読者の間の「関心、疑問の共有」という相互関係の正しさは現実から離れることはできず、「適度に丁寧な比喩」というかたちでの作者の正しさも現実から離れることができない。
ここで私は、同じように、読者の正しさや、伝達される文(哲学書)自体の正しさも現実から離れられないということを述べたい。それならば、その現実からの離れられなさを表現するために、読者が「心が動かされ、感動すること」に読者としての正しさがあり、伝達される文自体が「美しい」ということに文(哲学書)の正しさがあるとすることには、それほどの違和感はないのではないだろうか。
しかし、いくら言葉を尽くしたとしても、「現に」読者が感動し、「現に」文自体が美しいということの正しさにはたどり着くことはできない。というか、それ以前に、ここまである程度丁寧に述べたつもりである「現に」作者と読者が関心、疑問を共有し、「現に」作者が適度に丁寧な比喩を行うということの正しさについても、実は何も説明できていない。
ここには簡単に論じることができない言語と現実という大問題がある。私は哲学を言語的なものと捉えており、この文章も言語であると捉えている。言語である文章により「言語の外の現実との接続」を述べるということには、当然ながら独特の困難さがある。
しかし、私が行なっているこの説明で、「現に」何かが伝わっているのならば、それが現実というものなのではないだろうか。
現実について語ることは不可能なのか、私の力不足なのかは、現段階ではよくわからない。しかし、ここでは、ここでは、ここまで述べてきたような現実というものに対する問題意識が「現に」伝わっていることを期待し、先に進むこととしたい。