2016年2月11日作

PDF:MBTIについて

1 はじめに
MBTIという心理分析手法がある。
カウンセラーをしている妻の本が転がっていたので、少し読んでみただけなのだが、面白い。
(読んだのは、「MBTIへのいざない」という本です。)
これは、人を、4つの指標ごとに2つのタイプに分け、2×2×2×2=16のタイプに分けて特徴を分析するというもので、アメリカをはじめ、世界で広く使われているそうだ。
自己分析したところ、僕は多分、INTPというタイプになる。これは、自分の内面に意識を向けがちで、直観と思考で物事を捉えがちということになる。その逆には、例えば、ESFJというタイプがある。これは、客観的な世の中に意識を向けがちで、感覚と感情で物事を捉えがちな人だ。言われてみれば、そういう人もいる気がする。なんとなく他人も自分と似たやり方で物事を捉えているような気がしているけれど、実は、自分とは全く違うやり方をしている人が確かにいる。
自分がどのようなタイプなのかわかるより、他人との違いがわかるのが興味深い。MBTIは「他人は自分とは違う。」そんな当たり前なことを鮮やかに浮かび上がらせてくれる面白い考え方だ。

しかし、哲学が好きで理屈っぽい僕にとっては、どうも気持ち悪い。どうして人は内向と外向の二つに分けられるのだろう?どうして物事の捉え方を感覚・直観・感情・思考の4つに分けられるのだろう?そんな前提が気になってしまう。
疑問に対する答えは、多分、MBTIの考え方の元になっているユング心理学を勉強しろ、ということになるのだろう。
だけど、多分、ユング先生は僕の疑問に答えてくれない。心理学には興味がなく、ユングの本なんて全然読んだことがないので勝手な決めつけかもしれないが、心理学が哲学的な疑問に答えてくれるとは思えない。更に言えば、ほとんどの哲学者だって僕の哲学的疑問には答えてくれない。更に更に言えば、こういう物事の捉え方の根本に関わる疑問について、誰であれ、誰かに答えてもらうなんて虫がよすぎる。
だから、この先は自分で考えるしかない。ユングの意見も参考にはなるかもしれないが、まずは自分で考えてからだ。
(多分、ユングの本を読む暇はないので、誰か、この文章にユング的視点からツッコミを入れていただけたら、すごく嬉しいです。)

ここで概略を示しておく。この文章では、主にMBTIにまつわる三つの疑問について哲学的に考えることにする。
①どうして内向・外向の2つのタイプに分けられるのか。
②どうして感覚・直観・感情・思考の4つのタイプに分けられるのか。
③どうして、内向・外向の2つのタイプと感覚・直観・感情・思考の4つのタイプを組み合わせ、主機能と補助機能を導くことができるのか。
という三つの疑問だ。
なお、哲学的に考えるとは、ここでは、極力、論理的に考えるという程度の意味で受け止めて欲しい。心理学の土俵は、多分、心理であり、論理ではない。仮に論理的にうまく説明できなくても、実験で実証され、うまく心理を説明できればよいという場合もあるだろう。多分、MBTIも、そのようにして、心理学的に手法としての正当性が認められてきたのだろう。しかし、ここでは、極力、論理的に、言葉で捉えることに努めてみたい。
つまり、これからしようとしていることは、MBTIについて語るというより、MBTIを素材にして、私の哲学を語ることに近い。

2 内向と外向
僕のタイプINTPのうち、Iは内向を意味する。その反対はEで外向だ。MBTIでは、まず、タイプはIとEの2つに分かれる。
先ほど言ったように、僕の理解だと、内向とは、自分自身に意識を向けがちで、それが得意ということで、外向とは世の中に意識を向けがちで、それが得意ということだ。利き手が右手か左手かという違いに似ている。
目の前にリンゴがあるとする。外向とは、おいしそうなリンゴそのものに意識がいく人のことだ。一方、内向の人はリンゴをみておいしそうだと思っている自分自身に意識がいく。
ただ、こうしてリンゴを例にしてみたが、状況を想像しても、差があまりないように思える。右利きとは左利きでは明らかに差があるが、リンゴを見る際の外向と内向については、どちらにしても、それほど差はないように思える。僕に見られているリンゴと、リンゴを見ている僕は切り離せない。僕とリンゴの両方が関わってこそ、僕がリンゴを見るという場面は成立している。文章表現としても「僕はリンゴを見ている」と「リンゴは僕に見られている」は同じことを意味する。それならば、言葉のうえでは、つまり論理的には何も違いはない。
しかし、これはリンゴという例が悪かったのだと思う。僕は内向と外向で実質的な差が生じるケースを思いつく。それは、人の心が関わる場面だ。他人の心について考えるときや、自分の心がうまく伝わっているかどうか考えるときには、世の中のあり方と、自分自身の意識のあり方にずれが生じる。ここには論理的な実質的違いがあるように思える。
リンゴについては、リンゴ自体が美味しそうなことと、僕がリンゴを美味しそうだと思うことの間にはズレはない。しかし、人、例えば妻については、僕には妻が映画を観て泣いているように思えたけれど、実際は、コンタクトレンズがずれただけ、というズレが生じることがありうる。また、僕自身という人間についても同じだ。僕も映画を観て泣きそうなのに、こんなストーリーで泣くのは恥ずかしいと思い、あくびをして、涙が流れたのをごまかしているとしよう。そのとき、僕の内心と周囲の僕についての理解にはズレが生じる。僕の内面の世界においては、妻も僕も映画を観て悲しんでいる。一方で、僕の外の世界においては、妻は悲しんでなんかいなくてコンタクトレンズがずれただけだし、僕はあくびをしただけだ。内向とは自分の内面の世界にアクセスすることで、外向とは外の世界にアクセスすることだとするなら、このように、内向と外向には実質的な言葉で表せるような違いがある。他者の心と自分の心のズレという問題に着目するなら、MBTIにおける内向か外向かという区分は、単に社交的かどうか、というような好みや性格分析を超える論理的、哲学的な意味があるように思える。
いや、この「心に着目する」ということは、MBTIが心理テストであることにも大いに関係あるだろう。正直、リンゴなんて、内向でも外向でもどっちでもいい。心理テストにより自分のタイプを分析してまでして、リンゴについてうまく対処したいとは思わない。そこまで僕達を悩ませるのは、「自分の心と他者の心」が関わる問題だ。家族であっても、友人であっても、同僚であっても、通行人Aであっても、人との関係こそが大問題だ。その証拠に、妻のMBTIの本は人間関係のことばかり書いてある。
人の心は、哲学的にも問題だし、心理分析としても問題なのだろう。そこをうまく繋げる蝶番として、内向・外向という切り口があるように思える。これが、なぜ、内向と外向に区分するのかという、ひとつめの疑問への答えだ。

3 感覚・直観・思考・感情
これで、MBTIの4つの指標のうち1つ目について整理できた。
次は、2つ目と3つ目の指標について考えてみたい。私のタイプINTPでいうと、NTの部分だ。Nの反対はS、Tの反対はFとなるので、N・T・S・Fの4つの指標が登場する。これは、感覚・直観・思考・感情を意味する。ここでは、感覚・直観・思考・感情の関係について考えてみよう。
僕の2つめの疑問は、なんで、感覚・直観・思考・感情の4つにきれいに切り分けられるのか、というものだ。そこには何か恣意的なものを感じる。人の心の働きはもっと複雑なものではないのか。
確かに、MBTIはもう少し詳細に把握しようとしている。先ほどの内向・外向が感覚・直観・思考・感情の4つに関わってくるのだ。そこで、内向の感覚、外向の感覚、内向の直観、外向の直観、内向の思考、外向の思考、内向の感情、外向の感情の8つに細分化されることになる。
しかし、これで足りるのだろうか。またはこれでは多すぎるのではないだろうか。人の心をホールケーキに例えてみよう。このケーキを何も理由を説明せずに、感覚・直観・思考・感情の4つに切り分けたり、または8つに切り分けたりするのは、出席者の数もわからずに、ケーキを切り分けるのと同じなのではないか。
更に悪いことには、ケーキについては均等に切り分けるというお約束があるが、人の心を4つの概念で捉える場合、それぞれの概念がちょうど心の四分の一をカバーしているとは限らない。これでは、目隠しで適当にケーキを切り分けても、ちょうどうまく切り分けられるというのと同じだ。

4 言語
それでは、どのようにケーキにナイフを入れるのか。
感覚・感情と直観・思考の間に切れ目を入れるのはどうだろう。これは、言語と言語以外とを切り分ける動作だ。直観・思考が言語で、感覚・感情が言語以外となる。
言語という切り口は、MBTIというものを、哲学的に、論理的に言葉で捉えようとしているこの文章にふさわしいのではないだろうか。

そのようにして二つに切り分けられたケーキのうち、言語の方のかたまりを眺めてみると、そこでは、直観と思考がセットで言語的な働きを描写することになる。
どのような描写になるだろうか。
あまり良い例えではないが、また、リンゴを見てみよう。リンゴを赤く丸いものとして捉えることが直観にあたる。直観とは、物事を、ある特定のパターンに基づいて捉えることだとしてよいだろう。リンゴは赤いと言うが、よく見ると色んな色をしている。茶色い部分もあるし、黄色い部分もある。緑や黒だって混じっている。そのようなリアルなリンゴの色合いのなかにパターンを見いだし、「赤い」と言うことが直観だ。
一連の言語的な働きにおいては、この直観を受けて思考が起動する。この思考とは、パターン化された概念を組み合わせ、また組み換え、整理し、発展させることだと言ってよいだろう。この赤くて丸いものをリンゴとして捉え、果物の一種として位置づけ、食べられるものとして理解することが思考にあたる。
このようにして、直観と思考により、真っ赤ではなく微妙な色合いで、真ん丸ではなく微妙な形状の物体をリンゴとして把握し、果物、食べ物として理解することができる。これが、直観と思考という言語的な働きについての僕の理解だ。
ただし、直観と思考との境界を明確に示すことはできない。なぜなら、思考においてリンゴ、果物、食べ物と言うためには、パターン化して、ある特徴があるものを「リンゴ」「果物」「食べ物」として捉えるという直観の働きが不可欠だし、直観において赤いと丸いを結びつけ物体として理解するためには既に、概念を組み合わせるという思考の働きが及んでいなければいけないからだ。言語的な一連の働きは、直観で始まり思考で終わるとまでは言えそうだが、直観の領域はここまでで、思考の領域はここから始まる、というように、きれいに分けられるものではない。
そう考えると、一連の言語的な働きを描写するにあたっては、直観と思考ではなく、別の言葉を使ったほうがよいように思える。直観を概念化と言い換え、思考を概念操作と言い換えるのはどうだろう。
このほうが両者の関係をうまく伝えられる。例えば、直観を思考が引き継ぐということを、概念化された概念を概念操作するという言い方ができるし、思考の前提に直観があるということを、概念操作される前提として概念化があるというように言える。同じ概念という言葉を使うことで、両者の関係性が際立つのではないだろうか。
用語についての提案はともかく、このようにして、概念化(直観)と概念操作(思考)を一連の言語的な働きとして捉え、感覚・感情から切り離すことができる。

5-1 心の場合
なお、この概念化(直観)と概念操作(思考)を一連の言語的な働きとして捉えるという分析は、その対象がリンゴのようなものではなく、この文章で問題としている心であってもそのまま当てはまる。
妻が映画を観て泣いている場面について捉えるなら、このような言い方ができるだろう。僕は、その場面を見て、「妻」、「映画」、「涙」というようなものを概念化(直観)して捉える。そして、概念操作(思考)のはたらきにより、「妻」と「目」、「目」と「映画」、「映画」と「感動」、「感動」と「悲しい」、「悲しい」と「涙」というように概念が結び付けられ、「妻が悲しんで涙を流している」という理解に至る。
また、僕の映画を観て泣きそうなのに生あくびをしている場面について捉えるなら、まず、僕は僕の心の動きに目を向け、「悲しい」、「映画」、「涙」、「格好わるい」「がまん」というようなものを概念化(直観)して捉える。そして、概念操作(思考)の働きにより、「悲しい」と「映画」、「映画」と「つまらない映画」、「つまらない映画」と「無感動」、「無感動」と「泣くのはおかしい」、「泣くのはおかしい」と「涙はがまんすべき」というように結びつけ、「僕は悲しいが泣くのを我慢している」という理解に至る。
リンゴよりも複雑なので、説明をかなり端折っており、そもそも、概念化とは、こんな一本線で行われるものではないだろうから違和感がある。しかし、僕の心や妻の心についても、概念化(直観)と概念操作(思考)という把握の仕方が可能だということまでは言えるはずだ。
(本当は、世界の全ての概念は、世界の全ての概念と互いにつながっており、網の目のように複雑に絡み合っているのだろう。だから、ある概念について描写するためには、世界のすべての概念との関係性を描写する必要があるのだろう。)

5-2 外向の不自然さ
(概念化の問題の複雑さは、この文章では関係ないので無視するが、)ここで、ある問題に気付く。この描写を振り返ってみると、妻が泣いている場面も、僕が涙をこらえている場面も、先ほどの内向・外向の区分で言うと、内向的に捉えられているのだ。
妻が泣いているのは、客観的なコンタクトレンズがずれたという事実ではなく、映画を観て悲しいのだろう、という僕の内心における想像に理由づけられている。また、僕が客観的世界から隠している、映画を観て悲しくて泣きそうという衝動も内面からしっかりと捉えられてしまっている。これらは、僕の内面の心にアクセスした、内向的な描写だ。
内向的に捉えるのは当然だ。なぜなら、僕が知っていること以外は知ることはできず、僕が知っていることは知らないでいることはできないのだから。
実は妻は悲しんでいたのではなく、コンタクトレンズがずれただけだった、ということを僕は知らない。知らないのだから、概念化(直観)し、概念操作(思考)することはできない。
また、僕は自分自身が実は涙をこらえているということを知らないでいることはできない。一旦知ってしまった涙をこらえているという事実を無視し、客観的な事実だけで世界を概念化(直観)し、概念操作(思考)することはできない。

そのように考えると、内向的な捉え方が自然であり、外向的な捉え方は、ある種の不自然さがあるように思える。外向するとき、僕は、僕が知らない、妻のコンタクトレンズがずれている可能性を考慮し、僕は、僕が知っている、僕が涙をこらえているという事実を無視した世界把握の可能性を考慮しなければならない。これは、一旦は自分なりの捉え方で理解しながらも、あえてそこから離れ、「いやまてよ、他の人はそう理解していないかもしれない。」というように思い直すのでなくてはいけない。これは、思い直さなければいけないぶんだけ、手間がかかる不自然な作業だ。
外向するためには、周囲の人は自分の内面に気づいていないかもしれないことに意識的になり、また、自分が周囲の人の内面に気づいていないかもしれないことに意識的になる必要がある。そして、お互いに相手のことをあまりよくわかっていないかもしれないことに意識的になり、客観的な事実からコミュニケーションを積み上げ、お互いの内面を徐々に知っていくことで、はじめて外向的な捉え方が可能になる。妻は映画を観て泣いているようだが、もしかしたら違うかもしれないと思い、「映画を観て泣いているの?」と聞くことで、実はコンタクトレンズがずれて痛い、という妻の内面を知ることができる。これが外向的な世界の把握だ。
外向の人は、自分と相手の違いに意識的になり、コミュニケーションというひと手間をかけている。そこには、ある種の丁寧さ、他者の尊重とでも言うべき配慮がある。

この述べ方は、内向的な僕が、外向を理想化して捉えすぎているのかもしれない。
公平を期すために外向の人が内向のすばらしさを感じるだろう側面も想像しておこう。
あくまで、内向な僕の想像だが、多分、外向の人は、自分自身の内面には意識があまりいかない。なぜなら、外向とは、いわば、自分の心も、リンゴと同じような客観的なモノとして捉えることだからだ。それならば、目の前のリンゴと、自分の心は大差がない。だからリンゴより自分の心の内面に意識を向ける理由がない。これは、悪く言えば、自分の心を軽んじるということであり、更には、自分も他人も含めた人間全般の心を軽んじることにつながる。
外向とはそういうことではない、と反論されるかもしれない。確かに、外向の人にとっても、人の心は重要だろう。しかし、それは、内向にとっての重要さとはレベルが違う。内向の人にとっては、心とは全てであり世界そのものであり、その重要性は絶対的だ。一方で、外向の人にとっての心とは、つきつめると世界を構成するモノのひとつとして心があるということにならざるを得ない。だから、その重要性は相対的で、どこまでも、銅に比べて金は重要だというようなことと類比的だ。
そう考えると、内向的な人が、心というものに絶対的な重要さを感じ、自分や他人の心の内面に敏感であるというのは、外向的な人にとっては、自分にない良さがあると感じられるのではないだろうか。
ここにも内向なりの丁寧さ、他者の尊重がある。内向にも、外向にも、それぞれ別の形での丁寧さ、他者の尊重があるように見えるというのは興味深い。
ただ、ここでは、両者に共通して見られる丁寧さの問題に深入りする余裕はないので、心の捉え方としては内向が自然であり、外向は不自然だということを確認するに留めたい。

5-3 主機能・補助機能
簡単に、MBTIの最後の4つ目の指標についても触れておきたい。私のタイプはINTPだが、最後のPとその反対のJは、先ほどの内向Iと外向EとともにN・T・S・Fつまり感覚・直観・思考・感情の4つの指標の優先順位を決定する働きがあるとされる。
主機能、補助機能、第三機能、劣等機能・・・というように精緻に順位を付けるというところに、MBTIの心理分析としての醍醐味があるのだろうが、私の哲学的興味からは離れてしまうので、そこには触れないことにする。
しかし、NTという主機能と補助機能が示されているということには興味深い点がある。僕のタイプINTPは、一つ目の指標Iと4つ目の指標Pから、Nが主機能で、Tが補助機能と決定される。更に言うと、外向の直観(概念化)Nが補助機能で、内向の思考(概念操作)Tが主機能とされる。
このように、主機能と補助機能が、内向と外向というかたちで相反し、また、認知機能である直観(概念化)と、判断機能である思考(概念操作)で相反するというのは興味深い。
(認知機能には感覚もあり、判断機能には感情もあるが、ここではまだ細かく触れていないので、認知機能の代表として直観(概念化)に登場してもらい、判断機能の代表として思考(概念操作)に登場してもらうことにする。それでも、ここでの論旨に影響はないと思う。)
ここで生じるのが、僕の冒頭の3つの疑問のうちの最後の疑問だ。どうして、内向・外向の2つのタイプと感覚・直観・感情・思考の4つのタイプを組み合わせ、主機能と補助機能を導くことができるのだろうか。

主機能と補助機能という二つの重要な機能が、それぞれ内向と外向にひとつずつ割り振られることについては、ここまで行ってきた、内向と外向についての、ある種の極端な把握を緩和することにつながっているように思える。
先ほど、内向とは、どこまでも自分の内面に注目し、自分の内面で把握したように、物事を理解する人だとした。妻について、コンタクトレンズがずれて涙が出ているという可能性を疑わず、頭から感動して泣いていると信じ込んでいるような人だ。一方、外向とは、どこまでも世界を客観的に把握し、自分の内面を配慮しない人だとした。これは、妻について、感動して泣いているように思われる、という自分自身が内面で行った理解を無視し、あくまで、本人に聞いてみないと、なぜ涙を流しているかわからないと考えるような人だ。
しかし、いずれも極端だろう。実際には、たいていの人は、妻は映画を観て泣いているのだろうと思いつつも、どこかで違うかもしれないとも思っている。自分が感じている内面の世界を、完全に信じている訳ではないし、かと言って、疑っている訳でもない。人は、内向と外向のいずれかだけでいることは、なかなかできない。たいていの人は、外向と内向の両方をうまく使いながら、自分の内面と、外的な世界との間をうまく整合させているのだろう。
MBTIが主機能と補助機能を外向と内向の両方に振り分けているのは、そのような、一般的な人の、常識的なあり方を示しているのではないか。

また、MBTIにおいては、内面と外面が、それぞれ認知機能と判断機能に振り分けられているのも興味深い。
(繰り返しになるが、認知機能には感覚もあり、判断機能には感情もあるが、ここではまだ細かく触れていないので、認知機能の代表として直観(概念化)に登場してもらい、判断機能の代表として思考(概念操作)に登場してもらうことにする。それでも、ここでの論旨に影響はないと思う。)
先ほど、一連の言語的な働きとした、認知機能である直観(概念化)と判断機能である思考(概念操作)は、どこに境界があるかは明確には言えないとしても、直観(概念化)に始まり、思考(概念操作)で終わることは確かだ。つまり、認知機能と判断機能には、認知にはじまり、判断でおわるという前後関係がある。
そして、MBTIでは、認知機能が内向なら判断機能は外向、また認知機能が外向なら判断機能は内向となるとされる。これは、直観(概念化)から思考(概念操作)への一連の働きのなかで、内向から外向、または外向から内向へと反転することを意味する。
これは面白い捉え方だと思う。内向から外向へ反転するとは、自分の内面で概念化したことを客観的な世界に存在するものとして扱い、判断するということだ。また外向から内向へ反転するとは、客観的なモノとして概念化した後に、それらを自分の内面に生じたものとして扱い、判断するということを意味する。
自分の内面を見つめた後、一呼吸して客観的な世界に戻り、世界を捉えなおす。または、客観的に世界を捉えた後、一呼吸して自分の内面に落とし込む。そんな息遣いというか、リズムのようなものが、この反転からは感じられる。
自分の内面と客観的な世界はなぜか結びついている。その不思議さについて、MBTIは一つの描写を与えることに成功しているように思う。概念化し、概念操作するというひとつの流れが、自分の内面と客観的な世界とを行き来するようにして、両者をつなぎ合わせている。MBTIの関係者がどう思っているかはわからないけれど、少なくとも僕が読み取ったMBTIは、そんな当たり前の不思議さを、よく描写しているのではないだろうか。
これで、なんとなく、ぼんやりとではあるが、MBTIはどうして主機能と補助機能というようなかたちで機能を割り振るのか、という3つ目の疑問に答える方向性を示せたのではないだろうか。

6-1 言語以外
これで、僕がこの文章で書こうとしていたことはほぼ書き尽くした。
いや、まてよ、先ほど切り分けたケーキの残りの部分、つまり、言語以外である感覚と感情が残っているではないか、と思うかもしれない。どうして感覚・直観・感情・思考の4つのタイプに分けられるのか、という2つ目の疑問についても、半分しか整理できていない。
そのとおりなのだが、ここからは書くのが難しい。
なにしろ、感覚と感情は言語以外だから、文章に書き記すことはなかなか難しいのだ。言語ではないものを語ろうというのは根本的には無理な話だ。このような矛盾した作業をしなければならないということは、ここでの話が哲学的な行き止まりにぶつかろうとしていることを意味している。
しかし、あえて書けそうなことだけでも書いておこう。

まず、話を進める前に、結論めいたものを示しておく。これまで進めてきた話の構図に、感覚と感情をあえて書き加えるならば、このようになる。

概念化(直観)→概念操作(思考)・・・言語
↑        ↑
↓        ↓
感覚      感情    ・・・言語以外

しつこいけれど、これは、論理的に導き出せる図式ではない。言語以外について、論理的に導き出し、図に書き入れることなんて、本当はできないのだから。
しかし、これが結構うまくいっていると思うのだ。なんだかわからないけれど、結構うまくいってしまうというのが、MBTIの魅力だ。
なぜか、この図で示すような、概念化(直観)と感覚の対立関係、概念操作(思考)と感情の対立関係がうまく成立しており、うまく物事を説明できている。
なぜ成立するのかは論理的に説明できないけれど、どのようにうまく成立しているのかについては、少し説明できることがありそうだ。

6-2 時間的対立
まず、概念化(直観)と感覚の対立関係について。
MBTIは、認知機能として、概念化(直観)と感覚という対立関係を見出している。これが僕はうまいなあ、と思う。確かにここには対立関係がある。どのような対立関係かというと時間的な対立関係だ。
MBTIの本を読むと、直観と感覚という認知機能のペアについて、それぞれ、未来と過去・現在という色づけがされている。直観=未来vs感覚=過去・現在となる。
どうしてこうなるのか論理的に考えてみよう。
まず、直観と未来が結びつくのは、直観を概念化という言語的な機能とするなら、当然のことだとも言える。直観により、出来事を言語的なパターンとして認識するからこそ、未来を予測することができるのだから。
僕たちは、リンゴを食べる前から、リンゴを食べると甘く感じ、お腹が膨れると予測することができる。そう予測するからこそ、甘さを感じ、満腹感を得たいと思い、リンゴを食べようとするはずだ。
この予測の前提として、過去にもリンゴを食べ、甘く感じ、お腹が膨れたことがあり、その過去のリンゴと、この目の前の物体が同じリンゴと呼ばれるものだ、という認識ができていなければならない。
この、過去のリンゴと、目の前のリンゴが同じものだとパターン認識をすることが概念化(直観)だ。よく見れば色も少し違うし、形も大きさも違う。それなのに同じリンゴとして認識するということが、概念化(直観)であり、両者を、同じリンゴという名で呼ぶということだ。だから言語的な機能なのだ。
この言語的な概念化という機能により、過去を、予測というかたちで未来に投影することで、未来がある。言語がなければ未来はない。未来にあるのは、リンゴというような言語だけだ。
(この説明では伝わらないかもしれないが、ここでは、この説明で伝わる人だけに伝わればよいことにして話を進めたい。)

また、MBTIでは、直観(概念化)に対するものとして感覚がある。そして、この感覚は、直観=未来の結び付きと対比するように、過去・現在と結び付けられている。
このうち、特に過去と結び付けられていることを踏まえ、僕は、感覚を、想起と言い換えたい。
想起とは過去を思い出すことだ。過去のリンゴを思い出すとき、リンゴはリンゴという名前では思い出されない。リンゴを見ている場面とか、リンゴを食べている場面として思い出されるはずだ。人によっては「リ・ン・ゴ」という音として思い出されるようなこともあるかもしれないが、いずれにせよ、視覚や聴覚や味覚で感じられるものとして思い出されるはずだ。その後、直観により、「リンゴ」と概念化されるにせよ、まずは、感覚で捉えられる。
このように、過去を思い出す場面では、直観(概念化)が及ぶ前の純粋に感覚だけという瞬間がある。
これは、過去に特有のことだと僕は思う。まず、未来においては、このような瞬間がないことは簡単に同意してもらえるのではないだろうか。未来においても、確かに生々しい感覚のようなものはある。注射をされるのが嫌で腕まくりをして手を出すとき、予測として注射の生々しい感覚が生じる。しかし、これは、過去の注射の記憶だ。何かしらの過去の記憶をもとに、それを言語化し、未来において概念化し、直観された後に、未来についての生々しい感覚が生じた、とされる。よって、未来には感覚はない。そこにあるのは概念化(直観)により捉えられた「生々しい感覚」とされる言葉だけだ。
現在においてはどうだろう。現在においてこそ、概念化する前の、生々しい知覚があるように思える。確かにあるのだろう。しかし、この現在における生々しい感覚は、言葉で言い表せない。なぜなら、直観という言語機能で語られた感覚は過去のものにならざるをえないからだ。既に生じた生々しい感覚を、一旦、直観により認識した上で、振り返る。こうして、現在の感覚を捉えることができる(ような気になる)。明確に捉えることができる感覚とは、どこまでも過去の感覚でしかない。
(これについても、この説明では伝わらないかもしれないが、ここでは、この説明で伝わる人だけに伝わればよいことにして話を進めたい。)
このように考えると、感覚が純粋に生じる場面は、あくまで過去を想起する場面だ。そのことを明確に示すためには、感覚を想起と言い換えたほうがいい、というのが私の提案だ。

6-3 論理と倫理
もうひとつの対について考えてみよう。MBTIでは思考(概念操作)の対として感情がある。
この感情については、価値判断と言い換えたい。感情を価値判断とすることには、それほど違和感はないのではないだろうか。
MBTIの本でも、感情という機能について説明する際に、価値判断という語も使われている。また、MBTIの本では、感情とは、感情とは感情の表出そのものではないとされている。僕の理解では、感情とは感情の表出に至るプロセスの部分を指しているということになる。それならば、誤解がないように、別の言葉を使ったほうがいいだろう。
価値判断としては、伝統的に真・善・美といったものが挙げられる。他にもあるかもしれないが、ここでは、3つに絞って考えると、価値判断としては、真つまり論理的判断、善つまり倫理的判断、美つまり美的判断がある。
このうち、何が真かという論理的判断については、言語により論理的に判断することができる。これは、ここまでの話だと、言語的な働きである概念化(直観)・概念操作(思考)の領域に属する話であり、そのなかでも特に概念操作(思考)に関係するということに説明は要らないだろう。
それならば、論理的判断以外の判断、つまり何が正しいかという倫理的判断や何が美しいかという美的判断については、言語外のどこかに位置づけなければならないということも当然言えるのではないだろうか。
美的判断や、倫理的判断については、論理的な思考だけでは判断できない。倫理的な問題については、言葉だけでは説明できない。なぜ人を殺してはいけないのか、というような当たり前な問題だってそうだ。君だって突然殺されるのは嫌でしょ?人にやられて嫌なことは人にしてはいけないんだよ。と言っても、どうして僕と他人とを同じように扱わなければならないの?と言い返されたら、どこかで言葉による説明が尽きる地点がある。また、どうしてギリシャ彫刻はゴミより美しいの?と問われ、調和とか物語性とかと説明しても、なぜ、調和していると美しいの?と聞き返されたら、どこかで説明が尽きる地点がある。ただ、現に正しいから、とか、ただ現に美しいから、としか言えなくなる。そこには、言葉では伝えきれない、もどかしさというか衝動のようなものだけがある。これが、言語的な働きである概念操作(思考)とは別の感情の働きだ。
実は、何が真なのか、という論理的判断についても、感情は及んでいる。1+1=2という、当たり前に論理的に正しいことについても、なんで、1+1=2なの?と問われたら、どこかで言葉による説明が尽きる地点がある。論理的判断についても、どこかで、「どうしても1+1=2なの!」と言い放ちたくなる感情に裏打ちされていなければならない。
そう考えると、論理的判断についても、言語というオブラートに包まれているが、結局は、倫理的判断、美的判断と同じように感情に裏打ちされているのだ。
しかし、この感情は、MBTIが言うように、感情そのものではない。感情というと、「1+1=2というのは決まってるんだよ」とやさしく言い含めるように説得するのと、「1+1=2と言ったら1+1=2なんだ!ばかやろう!」と言うのとで差があるように思えてしまう。そうではなく、ここで問題となるのは、なぜか、いずれの言い方にせよ、そのように言いたくなってしまう、ということにある。この言いたいことは、いわば感情の表出の手前にあり、価値判断と言った方がいいように思う。

6-4 重複とはみ出し
このように、言語の働きである概念化(直観)・概念操作(思考)と言語以外である想起(感覚)・価値判断(感情)とは対立関係にある。
しかし、この対立関係は単にお互いに相容れないような対立ではない。そこには重複し、お互いがお互いを飲み込もうとしながらも、そこからはみ出そうとするような動的関係がある。
まず、言語優位の場面から考えてみよう。言語は、言語以外である想起(感覚)、価値判断(感情)を飲み込もうとする。そして、ある意味では飲み尽くす。なぜなら、言語以外である想起(感覚)、価値判断(感情)ということさえも、この文章では言葉で表現しなければならないのだから。この文章にあるものは、それが言語以外であっても、すべて言語で表現されてしまっている。
しかし、先ほど検討したように、少なくとも、過去の想起の瞬間と、真・善・美というような価値判断をする瞬間だけは、言葉以外のものたちが、言葉をはみ出す。
そして、想起し何かを感覚するからこそ、そこから直観(概念化)が生じることができ、また、その判断が論理的に正しいと価値判断をするからこそ、思考(概念操作)することができる。そういうかたちで、言語以外のものたちが、言語を取り込み始める。
そして、ついには、要は、全ては目や耳といった器官で感覚し、脳で価値判断をしているだけではないかという、多分、自然科学的には常識となっている捉え方に至る。これが、言語以外が完全に勝利した世界だ。
しかし、そこで話は最初に戻り、それらの自然科学的な描写も、要は言葉ではないか、という逆襲が始まる。以下同様だ。
このような動的な関係が、言語の働きである概念化(直観)・概念操作(思考)と言語以外である想起(感覚)・価値判断(感情)の間にはある。
なお、もう一つ付言するならば、言語においては、概念化と概念操作は一体となり、ひとつながりの言語的な機能となっていたが、想起(感覚)と価値判断(感情)はそのような関係にはないということにも留意すべきだろう。なぜなら、言語的でないものについて、一体とか一体ではないなどと判断することはできないからだ。
言語的でない、想起(感覚)と価値判断(感情)は、概念化(直観)と概念操作(思考)という言語的な働きから、あくまで、垣間見るかたちでしか捉えることはできない。過去を想起する場面で一瞬、想起(感覚)として現れた後に、すぐに概念化(直観)に飲み込まれ、また、概念操作(思考)が尽きたところで、一瞬、価値判断(感情)として現れる。言語により、一瞬、現れるということすら本来言えないのだが、そのようにしか言えないかたちで、非言語的な想起(感覚)と価値判断(感情)は描写される。だから、せいぜい一瞬現れたところを書き記すしかないのだ。
最後に、ここまで、述べてきたことを図にしておこう。

概念化(直観)→概念操作(思考)・・・言語
↑未来     ↑論理
↓過去     ↓倫理・美
想起(感覚)  価値判断(感情)・・・言語以外

こうなる。
こう眺めてみると、MBTIは、過去と未来と論理と倫理といった色々な概念をきれいに結びつける興味深い分析手法だと言えるのではないだろうか。
これで僕のMBTIについての考察は終わりだ。

7 蛇足 行動・対話
注意しておきたいが、当然ながら、MBTIや、そこから僕が読み取ったような図式は、直観、思考、感覚、感情、言語、時間、倫理といったものたちを結びつける唯一の姿ではない。
なかなかうまく結び付けているとは思うが、あくまで「比較的」うまく結び付けているにすぎない。場面によっては、よりよい方法があるだろうし、改善点もあるだろう。
最後に、MBTIの改善点を具体的にひとつ指摘しておきたい。

僕には、MBTIは「行動」という側面が軽視しているように思える。
行動とは、リンゴの例で言えば、リンゴを手に取ったり、実際に食べたりすることで、妻が涙を流す例で言えば、「どうしたの?」と実際に尋ねることだ。
MBTIでそれらが全く考慮されていないということではない。具体的には、判断的機能である思考、感情に含まれている。MBTIにおける思考、感情とは、思考や感情に基づき行動するということまで含んでいるとされる。だから、MBTIでは、具体的な行動に基づきタイプを推測することさえできる。
しかし、僕はそれでは足りないと思う。行動は、認知的機能(直観、感覚)と判断機能(思考、感情)と並ぶひとつの機能として、行動機能とでも位置づけるべきだと思う。
その理由は二つある。
まず、あまり論理的でなく、哲学的でない理由から挙げると、僕が好きな「夜と霧」を書いたV・E・フランクルの思想ともつながるからだ。(とは言っても、読んだ本は、「夜と霧」「それでも人生にイエスと言う」くらいなのだけれど。)
フランクルは人生の価値について、創造価値、体験価値、態度価値の三つの価値があるとしている。美しい景色を見るというような体験の価値を意味する体験価値は認知機能に対応するだろう。自分の体を全く動かず何もできないような末期患者が死に敢然と向かっていくような場面で発揮される態度価値は判断機能に対応しそうだ。とするなら、芸術作品をつくりあげるようなかたちで実現される想像価値については、行動とでもいうべきものが対応するべきなのではないだろうか。
僕はフランクルが言っていることが精緻なかたちで論理的とは思えない。だけど、MBTIと同じように、そこには注目すべき、何か真実への方向性のようなものが示されているように思える。だから、MBTIとフランクルをつなぎあわせられるかもしれない、というアイディアはとても魅力的だ。
また、二つ目の、より明確な理由としては、僕の予感としては、内向と外向の境目、認知と判断の境目には行動があるように思えるからだ。
自分の心と他人の心が問題となっているという、この文章全体の流れを踏まえると、特に、行動のなかでも、他者との対話が、その境目にあるように思う。
涙を流す妻に「どうしたの?」と声をかけることで、映画を観て泣いていると思っていた僕の内面が、実はコンタクトレンズがずれただけという外的な世界とつながる。「実は、恥ずかしいけど俺、この映画で感動して泣いちゃったんだ。」と言うことで、泣くのを我慢していた僕の内面と外的な世界がつながる。そのようなかたちで、内向と外向の境目には対話がある。
さきほど、主機能と補助機能の話のなかで、認知機能と判断機能の間には、外向から内向、または内向から外向へという反転があるという話をした。直観(概念化)であれ感覚(想起)であれ、なんらか認識したことについて、外的に認識されていれば内的に、内的に認識されていれば外的に、というかたちで反転し、概念化(思考)であれ価値判断(感情)であれ、なんらかの判断へと引き継がれていくという話だ。その反転はいつ起こるのかと言えば、他者と言葉を交わす場面なのではないだろうか。一言会話を交わすことで、一呼吸が生じ、そこで反転が生じる。そのような気がする。更に言うならば、概念化(直観)と想起(感覚)の間にある、時間的関係も、自分との対話という意味での対話が関係しているように思う。未来の自分に語りかけるように自問自答をするということと、時間の問題は関係あるのではないかと僕は思っている。
最後に、僕の憶測をメモのように書き連ねてしまった。いずれにせよ、きちんと分析はできていないが、行為、そのなかでも特に他者との対話という行為には、なにかしら、MBTIが捉えようとしたものを、より精緻化できる力が潜んでいるように思えるのだ。