※2400字くらいです。はじめてChatGPTに校正を手伝ってもらいました。あんまりChatGPTの言うことは聞かなかったけど結構有能だ。読んでもらえてる感があってうれしい。
この文章は、僕の中にあるイメージを僕自身のために描写しておこうと思って書いたものだ。思考の間奏曲は日食なつこの『水流のロック』だ。
1 険しい岩肌を露わにした渓谷を奔流が貫く情景
最近、僕の頭の中には、「岩盤」と「奔流」という二つのイメージがこびりついている。
固く動かない岩盤と軽やかで動的に満ちた奔流というイメージの対比である。いや、対比というのは不正確で、むしろ直交と言ったほうがいいかもしれない。岩盤を奔流が貫き、そして奔流を岩盤が貫いている、そんなあり方である。
この岩盤と奔流という言葉に込められているのは、固い岩肌を流れる渓流のイメージである。だから、この対比は、あえて情景を強調した岩盤と奔流という言葉遣いではなく、より厳密な述べ方で、個体と液体や物質と力という対比で捉えることもできるだろう。だけど、僕はそこに気高い形而上学のイメージを込めたい。たとえば、ある五月の晴れた朝、人里離れた標高千メートルの山中の、澄み切って凛とした空気の中で、険しい岩肌を露わにした渓谷を奔流が貫く情景である。だから、岩盤と奔流なのである。
2 岩盤から奔流へ
さらに、この「岩盤」という言葉には、僕にとって、もうひとつ特別な意味がある。
これまで何度も書いた話だけれど、僕は高校生の頃から、固い岩盤を探し求めてきた。僕にとって、この世界とは底なし沼のように不確かで、不安で、落ち着かないものだった。だから僕は底なし沼の底を探し求めてきた。それが高望みであると気づき、多少妥協した後も、せめて、底なし沼で溺れてしまいそうな僕が多少でも安らげるような足場を探し求めてきた。それが僕にとっての固い岩盤である。
そこから長年、哲学らしきことをやってきて、固い岩盤は見つけることができなかったけれど、代わりに、渓流の奔流を見つけた。(入不二基義ならば、きっとそれを「現実性の力」と呼ぶのだろう。おそらくそのほうが正確な表現なのだろうが、これは僕だけのための文章なので、僕のイメージのほうを大事にしていく。)
僕は、かつて底なし沼に溺れそうになっていたと述べたが、この、僕を引きずり込む力こそが、底なし沼における渓流の奔流だったのだ。僕は、確かな足場となる固い岩盤を見つけられず、底なし沼に引きずり込まれそうになっていた。けれど、よく考えてみれば、この引きずり込む力こそが確かなものだったのだ。デカルト的に言うならば、「この不確かさこそが、確かなものだったのだ。」となるだろうか。
きっと、僕が感じていた不確かさとは、固い岩盤というものの不確かさだったのだろう。固い岩盤とは、認識論的に述べるならば認識された状況のことであり、意味論的に述べるならば、それは言語的な概念のことである。いずれも、この世界のあり方の根底を支えるものであり、つまり固い岩盤である。
だが、固い岩盤とは、実は全然強固ではなく、いわば幻のようなものだ。なぜなら、固さとは変わらなさのことであり、変わらないと言えるためには、同一律など、様々な不確かな仕組みが導入される必要があるからである。同一律のような、認識論や意味論にとっての根源的な仕組みを疑っている僕からすれば、すべては幻である。
それならば、そもそもの捉え方を変えるべきだろう。硬い岩盤ではなく、軽やかな渓流の奔流こそが、この世界の本質なのである。この世界は奔流に満ちている。僕は以前、これをバイタル・スフィアと呼んだけれど、僕のイメージによれば、この世界とは、生き生きとした動きに満ちた渓流の奔流である。
『バイタル・スフィア』
https://dialogue.135.jp/2018/03/17/vitalsphere/
3 岩盤の奔流に乗る
こうして僕は、高校生の頃の僕より一歩先に進むことができたように思う。
だが、ここで問題が生じる。「この世界とは、生き生きとした動きに満ちた渓流の奔流である。」などと描写してしまえば、それは固定的な描写となり、僕が忌み嫌う硬い岩盤へと転落してしまうのである。軽やかな奔流を捉えきってしまえば、そこにある生命力は失われ、死んだ岩盤となってしまう。
逆に、奔流ではなく岩盤のほうに着目するならば、高校生の僕が繰り返していたとおり、その岩盤を確かなものとして捉えようとした途端、岩盤は幻のように消え去る。だから、固い岩盤は、全然、固い岩盤などではないとさえ言える。そこにあるのは、捉えようとすると逃げる蜃気楼のような動きであり、つまり生き生きとした渓流の奔流である。
したがって、奔流も岩盤となりうるし、岩盤も奔流となりうる。
このように、岩盤と奔流は単なる対立関係ではなく、より交錯した関係にある。それならば、軽やかな奔流を確かなものとして固定化したかたちで捉えようとするよりも、岩盤に身を委ね、岩盤の奔流に(サーフィンのように)乗ったほうが好ましいようにも思える。(当然、この態度を固定化してしまった途端、生命を失い、硬直化してしまうのだけれど。)
この岩盤の奔流に乗るという方策は、高校生の僕の言葉遣いを用いるならば、とことんまで、足場となる固い岩盤を探して、底なし沼でもがく、ということである。
そのように書くと、無駄な足掻き、と思われるかもしれないが、そうではない。もし、岩盤と奔流とが全く対立するものであれば、確かに無駄な足掻きかもしれない。だが、岩盤と奔流は、対立ではなく直交していると言ったほうが、より正確なあり方をしている。
この足掻きは、直交とでも言うべき、岩盤と奔流の未知のあり方を少しでも明瞭に捉えようとする足掻きでもある。そこには、哲学的にやるべきことが結構あるように思う。
哲学者である僕にとっては、これが岩盤の奔流に乗るということである。