2016年7月15日作

PDF:日常の穴

もう一年以上前になるが、2015年3月、僕は癌で入院し、少し世界観が変わった。
幸いにして初期の胃癌で、腹腔鏡で手術できたので数週間の入院で済み、再発の心配もなさそうだ。だから、たいしたことないとは言わないが、死を覚悟したというほどの体験でもない。

では、どのように世界観が変わったのか。
確かに、心に残る体験は色々とあった。癌の程度がわかる前の不安とか、全身麻酔の怖さとか、手術後の痛さとか、体がうまく動かない不自由さとか、なんとか乗り越えたときの安堵感とか。そういう日々はとても心に残っている。
だけど、今の僕の心に澱のように残っているのは、そういう個別の出来事たちではなく、病気というものが醸し出す空気感だ。病院という日常生活から離れた場所で、日常からかけ離れたことばかり頭を支配する状況が醸し出す、死の臭いが濃密に立ち込める、あの空気感だ。

今でも、僕はそこから逃れることができない。
日常は脆い。当たり前に生に満ちた日常「ではない」場所が確かに存在する。日常はどこか底が抜けている。そんな実感がある。特に、職場やテレビの前のような、人間関係が希薄で、日常が一般化したような場所にいると、そこに、ぽっかりと開いた穴を感じることがよくある。
職場で話す人たちや、テレビの中で話す芸能人たちを見ていると、まるで、目の前にある死という落とし穴に気付かずに遊んでいる子どものように見える。
彼らは、彼らなりの価値観で活動している。職場の人なら、会議をうまく運営できるよう準備したり、書類を作ったり。テレビの芸能人なら、面白いことを言ったり、美味しいご飯を紹介したり。そのような人たちを見ていると、「そこに死があるのに、この人たちは何をしているのだろう。」とわからなくなってしまうのだ。
いつもそんなふうに感じている訳ではない。会議がうまくいくよう、心から真剣に準備をすることもあるし、テレビで心から笑うこともある。というか、そういうときがほとんどだ。それに、少なくとも、家族や友達と接しているときや、面白い漫画を読んでいるときに、死のことなんて考えない。だけど、時々、日常のなかで穴を感じてしまうのは確かだ。それが嫌だ。

どうして嫌なのか、少し解説しておこう。
死が頭から離れないなんて、解説するまでもなく嫌だと思うかもしれない。だが実は、僕はそれほど嫌ではない。メメント・モリという言葉もあるように、生きる中で死を感じることで、充実した生につながる面もある。死を思うことはそれほど悪いことではない。
では何が嫌かというと、僕は、僕の哲学に死という不純物が入りこんでしまうのが嫌なのだ。

僕は哲学が好きだ。そして、結構、哲学に向いていると思う。文章を書くのが得意とは言えないし、哲学用語をたくさん知っている訳でもない。だけど、僕は哲学に向いていると思い込んでいる。
思うに、哲学が向いているかどうかは、哲学自体が好きかどうかにかかっている。哲学を何かの手段にするのではなく、哲学自体のために哲学をできる人こそ、哲学ができるのだ。
僕は、哲学的な文章を書くのが好きなのだが、この文章も含め、僕は、芸術家が芸術作品を仕上げるように文章を書いているつもりだ。出来はともかく、哲学自体のための営みをしているつもりだ。それは、芸術家が芸術自体のために芸術的営みをしているのと似ている。

だけど、入院してからは、僕は、恐怖から哲学をしてしまっているように思える。今後、再び、入院して死に向き合う日々が訪れるだろう。それまでに、僕は僕の哲学を仕上げて、再び入院するときに備えなければならない。僕は、僕の哲学を武器にして、死に打ち勝たねばならない。そんな動機から哲学をしているように思える。

これは、哲学自体のためではなく、死のために哲学をしているということだ。僕は、入院したことで、こんなふうに、僕の哲学が変質してしまったのが嫌だ。僕の哲学に雑念が入り、その分、真実から遠のいてしまっている。今の僕の哲学は、日常にぽっかりと開いた穴から流れてくる死の臭いに支配されている。