「したい」と「するべき」再考

1 文章を書くべき

以前、「したい」と「するべき」の違いを無限定の未来と確定した内容がある過去に結びつけるかたちで論じたことがある。(『○○をしたい』http://dialogue.135.jp/2021/10/24/shitai/

その後も、「したい」と「するべき」の関係について時々考えていた。ただし抽象的な問題としてではなく、具体的な「文章を書きたい」と「文章を書くべき」という問題についてである。どうも最近の僕は、このような執筆活動が「したい」ではなく「するべき」になってしまってきているような気がするのだ。「文章を書くべき」になってしまうと、僕は書くことで消耗してしまうし、正直、書く気が失せる。この文章では、この極めて個人的な問題について考えてみたいと思う。

僕は文章を趣味で書いているけれど、義務的になってしまう場面は以前からあった。それは極めて当たり前なことで、そうでなければ、朝、会社に行く前にパソコンに向かうことなんてできない。書くべきと思うからこそ、僕は温かい布団から抜け出すことができる。僕の日常生活における書くことの負荷を思い起こすと、そもそも僕は、何故か人生を賭けて「書くべき」と思い込んでいて、実際、それを成し遂げることで勝手に満足感を得ているような気さえしてくる。勝手に障害を設けて、勝手にそれを達成する喜びを味わっている。それは「書きたい」という純粋な喜びとは程遠い、ちょっと屈折した喜びである。

とは言え、それは極端な捉え方すぎるだろう。僕にも純粋に「書きたい」と思うときがあり、そこから喜びを覚えるときもあるのは確かだ。では、僕が「文章を書きたい」ではなく「文章を書くべき」と考えるのは具体的にどういうときだろうか。たいていは、布団を出てパソコンに向かうときや、書くことに行き詰まり、どうも乗らないなあ、なんてネットを見ているようなときである。乗って気持ちよく文章を書いている最中に「文章を書くべき」なんて思わない。書くべきと考えるのは書いていないときである。

では「文章を書くべき」と考えるときに僕が何を考えているのかを少し精緻に捉えてみると、そのとき、僕は、未来のある時点の僕のことを想像していることに気づく。「文章を書くべき」と考えるときに僕は、文章を書き進んでいたり、書き終わっていたりする僕自身を想像する。書きたいことが整理でき、続きを気持ちよく書いている僕自身や、書き終わって満足している僕自身を想像する。

つまり「文章を書くべき」と考えるとき、僕は今ではなく未来のために書こうとしている。それが消耗して書く気が失せる原因なのだろう。今の僕が未来の僕の奴隷になってしまったような気分になってしまう。(奴隷という言葉は『過去のドレイだ、生きた化石だ』tomovskyより)

2 過去と未来の奴隷

ここには、現在と未来という時間の問題がある。

僕は時間の話が好きなので、そちらのほうに話を持っていくと、時間には連続した時間という捉え方と、断絶した時間という二通りの捉え方がある。未来はやがて過去になるというのが連続した時間であり、未来は無限定である一方で過去は確定しているというのが断絶した時間である。時間においては、このような矛盾した二つの捉え方が両立する。

「文章を書くべき」と考え、今の僕が未来の僕の奴隷になってしまったような気分に陥るとき、僕は、連続した時間という捉え方に支配されてしまっているのだろう。今書くということと、未来において書かれるという成果とが繋がってしまっている。更には、これまでも書いてきたという過去の自負までもがつながってしまっている。今の僕が、未来と過去に侵食されてしまっている。

僕が、書くことと人生とを結びつけて捉えがちなのもそのせいなのだろう。僕は書くことは人生の重要なタスクだと考えている。書くことは僕の天命だとも思っている。そう考えるときの僕は、時間を未来-現在-過去とつながるひとつながりのものとして捉え、そこに時間的広がりをもった僕の人生を位置づけている。だから今の僕がやることは、これまでの人生でもやってきたことであり、今後の人生でもやり続けることである。このようなかたちで、時間軸上の人生のある一点として位置づけられた現在において僕がやることは、未来と過去への広がりを持つことになる。つまり、今の僕が、未来と過去に引き伸ばされ、薄められてしまっているということである。

なお、今の僕が、未来と過去に侵食され、薄められるということはそう悪いことではない。時間がそのようなあり方をしているのは事実だし、だからこそ、僕は人生を生き、僕は何かを成し遂げることができる。もし、人生をそのようなものとして捉えることができなかったなら、そもそも人生という概念すらありえず、僕は人生を意識的に生きることさえできないだろう。

だが一方で、時間を連続したものとして捉え、人生という広がりをもった時間を生きるということに捉えられすぎると、消耗し、人生を生きる気力が削がれるのも確かである。時間には断絶しているという一側面があることを忘れてはならない。今は過去や未来の奴隷ではない。今の僕は無限の自由を手に入れているはずである。自由な僕は「文章を書きたい」からこそ文章を書く。そこにあるのは文章を書く自由である。

3 他者のために書く

なんとなく、僕は、「書くべき」と思いつめすぎているような気がする。そもそも僕はどうして「書くべき」と思い込んでしまっているのだろうか。

僕自身の気持ちを探ってみると、僕が文章を書く目的のひとつとして以下のようなことを考えていることに思い当たる。

「僕は僕自身のためにただ書くだけではなく、僕は死ぬ前に、生きているうちに誰かに文章を書き残したい。」この目的意識と「書くべき」はつながっているように思う。

他者のために書くという目的意識から、「書きたい」と思わなくても「書くべき」である、という考えは直結するように思える。自分自身のためであれば、「書きたい」ときにだけ書けばいいけれど、他者のためとなれば、その他者から書いてほしいというオーダーがあれば書かなければならない。書いてほしいという相手の気持ちに応えることこそが「書くべき」ということだとさえ言えるのではないだろうか。

なお、「他者のために書く」というときの「他者」が指し示すものは、僕にとってはかなり狭いものだ。一言で言えば「他者」とは僕自身のような読者であり、より限定すると「他者」とは子供の頃の僕自身のような読者である。それ以外の読者には、きっと僕の文章の価値はわかってもらえないだろうし、理解してくれない読者に評価される必要もない。それでも、僕が想定する読者とは、どんなに僕自身に似ていても他者である。だから、その人のために書こうとすると、その思いは「書くべき」になってしまう。

さきほど、僕は時間的に「書くべき」と「書きたい」の関係を捉えたうえで、現在の「書きたい」は過去と未来の「書くべき」に侵食されているような状況であると論じた。他者のために書くという問題も、同型の描写をすることができるだろう。つまり、人称的に「書くべき」と「書きたい」の関係を捉えたうえで、一人称的な「書きたい」が三人称的な「書くべき」に侵食されている状況だという描写ができるということである。「書くべき」になると書く気が失せるというのは、時間的かつ人称的な問題なのではないだろうか。

4 コナトゥスと気持ちの切り替え

では具体的にどうすればいいのだろうか。単に妥協するのではなく、「書くべき」と「書きたい」を高いレベルで両立させつつ書くためにはどうすればいいのだろうか。そこで当面の解決策として思いつくのは、コナトゥスの力を借りるというやり方だ。まずは「書くべき」という思いを用いて書くことを習慣化させ、書くことに抵抗をなくす。それは平地に水路を整備する土木作業のようなものだ。そうすれば、「書きたい」と思ったときに、抵抗なく書くことができる。水路もなにもない平地に水を流せば、その水は大地に染み込んでしまうが、しっかり整備された水路があれば、「書きたい」という思いは水路をたどって勢いよく流れることができる。そうすれば、「書くべき」と「書きたい」の両方を意図的に弱めることなく、高いレベルで両立することができる。

そのために重要なのは気持ちの切り替えだろう。書く準備としての土木作業を行っている間は「書くべき」でいいけれど、いざ書き始めたら、できあがった水路に水を流すような「書きたい」だけしか要らない。

(僕はヨガの経験上、気持ちの切り替えのためには呼吸が役立つだろうと思っている。単に役立つだけでなく、呼吸とは、「べき」と「したい」の切り替えそのものかもしれないとも思っている。息を吐くことは、次に息を吸うための準備作業であり、息を吐く「べき」と捉えることができる。息を吸うことは、息を吸わないと新しい酸素を取り入れる事ができず苦しいのだから、息を吸うことを「したい」と捉えることができる。また、その裏では、息を吸うことには、息を吐くための準備作業としての「べき」が含まれ、息を吐くことには、二酸化炭素を排出「したい」が含まれている。呼吸により、「べき」と「したい」を切り替えることもできそうな気がする。)

5 席を譲るべき

ここまで文章を書くという自分の問題ばかり取り上げてきてしまったが、同様のことは他の「べき」と「したい」についても言えそうな気がする。例えば電車内において老人に席を譲る「べき」と考えるのは、まだ席を譲ることができていないときである。寒い朝にパソコンに向かえずに布団にくるまりながら「文章を書くべき」と考えるように、電車の席にしがみつきながら「老人に席を譲るべき」と考える。そのときに思い描くのは今現在の僕ではなく席を譲っている未来の僕である。また、僕が席を譲るべきと考えるのは、過去において、老人に席を譲るのがよいことだと教育を受けてきたからである。老人に席を譲る「べき」においても、現在が過去と未来に侵食されている。また、席を譲るのは僕ではなく、老人という他者のためであり、その点で、一人称的な私は三人称的な他者に侵食されてもいる。

そして、老人に席を譲る「べき」と考えるようなときは、たいてい、席を譲ることは成功しない。僕が文章を書くのに成功するのは「文章を書くべき」などと考えず「文章を書きたい」と思い、ただ書いているときであるように、席を譲ることに成功するのは、席を譲るべきなどと考えず、ただ席を譲りたいと考え、席を譲るようなときである。より正確には、文章を書きたいとか、席を譲りたいなどと考えず、ただ体が動き、文章を書いたり、席を譲ったりするときにこそ、それは成功する。その成功体験を事後的に思い返すときにだけ、そこには、文章を書きたい、席を譲りたい、としか表現できないような肯定性があったことに気づくに過ぎない。(これが、先日の文章で、「○○したい」ではない純粋な「したい」があるとしたことである。)

そして、席を譲ることの成功率を上げるためには、文章を書く場合と同様に、コナトゥスの力を借りることが役立つだろう。日頃から老人に席を譲るべきだということを繰り返し考え、そのように考えることを習慣化しておけば、円滑に席を譲ろうと肯定的に考えることができる。(また、席を譲るべきから譲りたいに切り替え、実際に席を譲るためには、文章を書こうとするときと同様に呼吸により気持ちを切り替えることが役立つだろう。)

以上のように、文章を書く「べき」の話は、席を譲る「べき」の話にも適用することができる。きっと、たいていの「べき」に使える考えなのではないだろうか。

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