1 哲学と呼吸

僕は僕の哲学をするにあたり、呼吸に着目している。

呼吸は息を吸うことと吐くことの2つの動作で成り立っている。加えて、吸い終わって吐く動作と切り替わる瞬間、吐き終わって吸う動作に切り替わる瞬間に着目して4つに分けることもできるけれど、大まかには吸うと吐くの2つのフェイズに分けることができるだろう。

なぜ哲学と呼吸が結びつくのかというと、「哲学とは、ひとつの着眼点やシステムですべてを説明しようとする営みである。」という言い方もできるからだ。すべてを一つに統合することを目指す、または、一つをすべてに拡張して覆い尽くすことを目指すという側面が哲学にはある。それならば、吸うと吐くという2つのフェイズを呼吸というひとつの動作で捉えられることには重要な含意があるように思えるのだ。

そんな理由から呼吸について考えているのだけど、呼吸は考えれば考えるほど面白い。捉えきれず、わからないのが面白い。その面白さを伝えるために、僕が何を考え、どのようにわからなくなっているのかを紹介することとしたい。

2 吸う感覚と吐く感覚

息を吸うと交感神経が高まり、吐くと副交感神経が高まるとされる。僕はそういうことに詳しくないけれど、深呼吸をしていると、確かに、吸うときには気持ちが高揚し、吐く時には気持ちが落ち着くような気がする。

また僕は、息を吸う時、僕は周囲の世界を自分のなかに取り込んでいるような感覚がある。または世界を自分のなかに取り込むようなイメージを持つと、吸う動作がうまくいくような気がする。逆に、息を吐く時、僕は自分の中の余計なものを排出し、本当の自分に戻っていくような感覚があり、また、そのようなイメージを持つと、吐く動作がうまくいくように思う。

その延長として、吸う動作は、世界を取り込むことにより自己を拡大し自分と世界と重ね合わせていくこととつながり、吐く動作は、自己を純化し、自分のもっとも重要なものを見つめていくことにつながっているように感じる。

以上をつなぎあわせると、僕が呼吸に対して感じていることは以下のようにまとめられるだろう。

息を吸うとき、自分が拡大して世界とつながっていき、気分が高揚する。
息を吐くとき、自分が純化されて自己に回帰していき、心が落ち着く。

このような感じについては、なんとなく同意いただけるのではないだろうか。

3 呼吸における自己のあり方は逆ではないか

ここまでは同意いただけたとして、僕がなんとなく腑に落ちないのは、呼吸における自己のあり方は逆ではないか、というものだ。

息を吸うときに意識しているのは取り込んでいる世界だ。そのとき、世界を取り込んだ結果、拡大していく自己のことはあまり意識していない。また、息を吐くときに意識しているのは集中していく自己だ。しかし、そのときの自己とは吐き出すことにより収縮していく自己だと言ってもいい。

どうも意識を向けるタイミングがずれている気がする。本来、息を吸うときには拡大する自己の重要度が高まり、息を吐くときには収縮する自己の重要度は下がっていくのではないか。それなのに、息を吸うときに拡大していく自己には目を向けずに外の世界にばかり目を向けていて、息を吐き、自己が収縮するときになってようやく自己に目を向けている。どうもずれている。

特に問題と思うのが、息を吐く場面だ。多分、仏教やマインドフルネス的には、息を吐くことは自己への執着を手放すことと重なっているはずだ。しかし、息を吐くとき、僕は、外の世界からそっと身を引き、自分の中に潜り込んでいくような感覚がある。世間の雑事から逃れ、自分の心の中の重要な場所に立ち返っていくような感覚がある。これは自己への執着の強化にあたるのではないだろうか。

当然、そんなことはない、呼吸のときの心のあり方は間違えていない、という予感のようなものがある。だが、その予感が正しいとするならば、僕は息を吐くときにしていることを、どのように表現すればいいのだろう。

4 呼吸に託したいもの

この疑問に今のところ、確たる答えはないけれど、ヒントになりそうなアイディアはいくつかある。

まず、息を吸うことは、息を吸うことそのものであるとともに、息を吐くことの準備作業でもある、という二面性があり、同様に息を吐くことも、そのこと自体であるとともに、息を吸う準備作業であるという二面性があるというものだ。つまり呼吸には、息を吐く準備のために吸い、息を吸う準備のために吐くという準備作業という側面がある。この二面性が自己の捉え方のずれと関係しているのではないか。

もうひとつのアイディアとして、息を吐いている過程と、その結果とは別であるという点に着目することもできる。息を吐く過程においては、手放す自己に着目し、その結果、自己が手放されるが、そのとき着目できる自己はない。過程と結末とは別である、という着眼点だ。だが、より重要なことは、過程と結末とは別のであるにも関わらず、それをひとつながりのものとして捉えることができる、という点にあるだろう。

いずれのアイディアも、呼吸が時間経過のなかに位置づけられていることに由来すると言えそうだ。吸い、吐くという動作がひとつながりの呼吸という動作と呼ぶことができ、そして吐きつつあるところから、吐き終わるところにいたる過程が、ひとつの吐くという動作を構成していると言うことができるのは、その背後に時間経過というものが控えているからなのだ。

しかし、僕は、より強く、呼吸こそが時間経過を生み出しているのではないか、とも予感する。根拠のない予感ではあるが。息を吸うことと吐くことを接続し、呼吸として捉えること、そして息を吸い、吐くという行為を構成する個々の瞬間を接続し、ひとつながりの行為として捉えること、これこそが時間の起源なのではないだろうか。呼吸こそが生きることの根源にあるとするならば、呼吸こそが生をつくりあげ、生こそが時間をつくりあげているのではないか。

世界と自己、そして時間経過、更には興奮と落ち着きといった感情、それらをすべて、呼吸こそが生み出しているのだとしたら、とてもわくわくする。