0 はじめに

哲学オンラインセミナーというところがやっている「澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義:総合的解釈の試み』合評会」(https://www.philosophyonline.net/archive2021)というオンラインイベントを視聴した。まだ本を読んでいないなか、なんとなく視聴したのだけど、色々と考えさせられたのでメモに残しておくことにする。

本来はきちんと本を読んでから書いたほうがいいのだろうけれど、今ここで思いついたことを残しておきたいので、不正確だとはおもうけれど、あえて今書いておくことにする。

この合評会は、ヒューム研究者である澤田和範さんの本を、デカルト研究者である筒井一穂さんとライプニッツ研究者である三浦隼暉さんが論じるというものだった。だからこの文章も、ヒュームとデカルトとライプニッツという近代の有名な哲学者3人についてのものとなる。さすがに僕もなんとなくは彼らのことは知っていたけれど、その程度なので、きっと哲学史的には誤りだらけの文章となるだろう。

1 哲学的議論の外側と内側

ヒュームは懐疑主義者として有名だが、自然主義者として読むこともできるというのが最近の有力な読み方だそうだ。そのうえで、澤田さんは懐疑主義と自然主義の双方の観点から従来のヒューム解釈を深化させることにより、両者を接続することができると提案する。

そこで重要となるのは、ベタ(一階)とメタ(二階)という議論の区分だ。非常にざっくりと言うと、ヒュームはメタ的な議論では懐疑主義を用いて、ベタ的な議論の場では自然主義を用いるという使い分けをしている。僕はそれを、僕自身の用語である外側と内側というキーワードを思い浮かべながら聞いていた。ヒュームは哲学の外側の視点に立ったときには懐疑主義により哲学的議論の意義を否定するけれど、内側の視点に立ったときには自然主義的な立場から議論を行うことの意義を認めている、というように。

2 哲学的議論の内側から外側に突き抜けるということ

(1)ヒュームの場合

では、どのようにしたら哲学的議論の内側から外側に突き抜けるなどといったことができるのだろうか。ヒュームによればそれは懐疑論による、ということになるのだろう。

なお、懐疑論となると、今回の主役のひとりである方法的懐疑で有名なデカルトが登場することになる。だが澤田さんによれば、ヒュームとデカルトではその懐疑の種類が異なる。その違いは色々とあるようだが僕が着目したのは、デカルトの懐疑は「悪霊が騙しているのかもしれない」というような根拠がないものであるのに対して、ヒュームの懐疑には根拠があるという点だ。

澤田さんから具体例は示されなかったけれど、僕は、ヒュームの懐疑について「渋谷のスクランブル交差点でライオンを見かける」という例を思い浮かべた。このとき、僕の知識は「渋谷にライオンなんているわけがない」と言う。一方で僕の視覚は「確かにライオンがいる」と僕に訴えている。この二つの主張は対立していて矛盾だ。ヒュームはこのような問題を踏まえ、人間本性(僕の解釈では知性)には限界があると考えた。人間本性(知性)ではこの対立関係を解消できないのだ。澤田さんのヒュームによれば、人間本性(知性)はその判断のプロセスを論理的に明らかにすることはできず、いわば自動化されているのだ。(それをモジュール論と言っていたけれど、ブラックボックスと言ってもいいのだろうか。)

ヒュームは、このような実例を踏まえた人間本性(知性)に対する懐疑をもってメタ的な視点に移行する。つまり、この知性に対する懐疑を哲学の営み自体に適用し、哲学という営みを外側から眺め、哲学の営み自体を懐疑するという視点に立つ。

以上が、僕が理解したヒュームの内側から外側への移行だ。つまりヒュームは哲学を遂行する知性に対する具体的な根拠のある疑義に基づき、懐疑論という外側の視点に移行する。

(2)デカルトの場合

次にデカルトの場合はどうだろうか。

筒井さんのデカルトは、「神の視点からの懐疑」という問題を提起する。ここでの「神」という言葉は、そのまま「外部の視点」と置き換えてもいいだろう。外部の視点からは、三角形の内角の和は180度であるというような常識さえ否定される可能性が開ける。なぜならば幾何学のような通常の議論によっては議論の外部の視点に到達することはできないのだから。

唯一、神の視点からの懐疑というような懐疑論だけが視点を議論の内側から外側に移行することを可能にする。懐疑論を用いるという点はデカルトもヒュームと同じである。

だが興味深いことに、筒井さんによれば、デカルトは「規範的な独断論」とでも呼ぶべきものにより懐疑論を無化することに成功するのだ。デカルトはメタ的な外側の視点に立った議論を行ったうえで、非Aが成立するような有効な主張ができないことをもってAを疑えないとする規範を導入し、その規範をもって懐疑論を否定する。僕はこの「規範的な独断論」は懐疑論にとってかなりの有効打だと思う。Aを疑うためには非Aを主張しなければならないという議論には、何かしらの正しさが含まれているように思う。

だが僕は「規範的な独断論」が使われる場所に修正を加えたい。デカルトは、議論の外側に立ったうえで何かを否定しているのではなく、議論の外側に立つこと自体を拒否しているのではないだろうか。いわば、デカルトが行っていることは神の視点に立ったうえでの「神の視点からの懐疑」の否定ではなく、神の視点に立つこと自体の拒否なのではないだろうか。デカルトは、懐疑論を使って議論の内側から外側に視点を移そうとする人の首根っこを捕まえ、「おい、その懐疑は成立していないのだから、お前には外側の視点に立つ権利なんてないぞ。」と言っているのではないだろうか。

もしそうだとするならば、デカルトはどこまでも議論の内側に立ち続けるような議論を行っていたということになる。

(3)ライプニッツの場合

最後にライプニッツならばどうだろうか。

正直、話を聞くまでは、懐疑論のヒュームと独断論の権化のようなライプニッツでは異種格闘技すぎて戦いが成り立たないように思っていた。だけど、三浦さんの話を聞いて、そうでもなさそうだと感じた。

三浦さんの話で面白かったのは、ライプニッツには二つの循環があるという話だ。循環のひとつめが、ヒュームに寄せるならば、仮説演繹法を一例とするような自然主義的循環である。仮説は実験により検証され、実験をもとに仮説が打ち出される、というように仮説と実験との間を行き来する動的な円環として描くことができるような循環である。もうひとつが、その自然主義的円環を拡張するようにして描くことができる形而上学的循環である。当然ライプニッツなのだから、ここでの形而上学としてはモナドなどが想定されている。

まず重要だと思ったのは、ライプニッツの形而上学は単なる無根拠な独断ではないということだ。あくまでライプニッツは自然主義的循環を拡張するようにして形而上学的循環を描こうとしている。その根底には自然主義的な正しさがあるのでなければいけない。

更に重要だと思った点は、この循環は動的なものである、という点である。自然主義的循環においては間違った仮説は実験により淘汰されるように、形而上学的循環も誤りがあれば見直されなければならないのだ。ライプニッツによればその主張は見直される可能性が将来に開かれているという点で単なる独断ではなく、あくまで仮説に過ぎない。だから、形而上学的な議論は循環を繰り返す中で真理に漸近していくものであるということになる。そこまで考えるならば、ライプニッツと、哲学を将来に向けた「人間の学」と捉えるヒュームとの間に大きな違いはないように思えてくる。

更にライプニッツについて述べるならば、三浦さんは全く言っていないことだが、ライプニッツの循環の拡大は、形而上学的循環を超え、その循環を支える斉一性のような原理にも向かいさえするのではないか。このようなメタ形而上学を可能とする道具立て自体も動的な循環に巻き込まれ、メタ形而上学的循環とも呼ぶべき更に大きな循環にさらされることになるのではないか。つまり例えばこれは、斉一性は本当に形而上学において必要か、というような議論を行うことが可能だということであり、そのような議論を通じて、新たなメタ形而上学的な仮説を得ることもありうるということである。

そのようにライプニッツを考えていくと、ライプニッツには議論の外側のメタ的な視点はありえないということになるだろう。なぜなら、ライプニッツの道筋をとる場合、いつまでも哲学的議論の限界には行き着かないからだ。もし哲学的議論自体の正当性に疑問を呈するような懐疑があったとしても、その議論は懐疑論として打ち止めになるのではなく、自然主義的循環から形而上学的循環へ、形而上学的循環からメタ形而上学的循環へと拡張される議論の枠組みのなかで議論が成立できてしまう。だからライプニッツはどこまでも内部に留まって議論でき、いつまでも外部に突き抜けることはない。これはデカルトやヒュームとは別の議論の内外の処理の仕方だと言えるだろう。

(4)ヒュームの場合2

以上、僕からみると、ヒュームもデカルトもライプニッツも、三者三様のかたちで哲学の議論の内側と外側の問題を処理しているように思える。つまり、「その哲学的議論の外側の視点に立つならば、その議論の正当性をどのようにして確保するのか。」という問題に、3人ともがうまく答えているように思うのだ。デカルトとライプニッツは「外側の視点に立つことはできない。」と答え、ヒュームは「確かに外側の視点から見るとおかしいけど、内側から見るとおかしくないから大丈夫。」と答える。

どれも魅力的な答え方だけど、ヒュームの答え方は少々特殊だし、澤田さんによれば、もう少し付け加えることがありそうだ。

本をまだ読んでいないけれど、澤田さんがやりとげたヒュームの自然主義と懐疑主義の接続とは、単に、自然主義を議論の内側に割り振り、懐疑主義を議論の外側に割り振るようなものではなかったようだ。想像だけどそこには、自然主義と懐疑主義の循環とでもいうべきものがあるのではないだろうか。

僕が、そこにいるはずのないライオンを渋谷のスクランブル交差点でみかけることにより、僕の命とともに僕の知性は懐疑に晒される。そこで行われていることは常識的な判断という意味での自然主義から、知的な混乱とでもいうべき懐疑主義への移行の第一歩である。さらに、その懐疑主義を徹底することにより、僕は、どうも知性は当てにならないから全ては疑わしいという懐疑主義に移行する。ここで僕は懐疑に晒された知性を見下ろし、その議論を疑わしいものと評価できるような外部の視点に立つこととなる。だがきっと僕はそのおかしさにすぐに気づくだろう。僕は外部の視点から、何に基づいて自らの知性をジャッジしているのだろうか、と。そして僕は疑わしい知性に基づき、疑わしい知性を見下ろし、何かを判断していることに気づく。だがもう一つ重要なこととして、そのようにやっていくしかないということに気づく。僕は不完全な知性を抱え、それだけを武器になんとかやっていかなければならないし、現になんとかやっているのだ。そこには現に僕はそのようにして生きているという常識的な捉え方があり、それをヒュームは自然主義と呼んでいるのではないか。(現にうまくやっているという観点を強調することでルイス・キャロルのパラドクスにも答えることができることになる。)

ここには明らかに常識的な日常生活と不完全な知性との間の循環がある。そして、ヒュームは前者に対する眼差しを自然主義と呼び、後者に対する眼差しを懐疑主義と呼んでいるのではないか。自然主義に対して懐疑主義が優勢になったとき、僕は渋谷でライオンに驚き、議論の外側の視点に移行する。そして懐疑主義に対して自然主義が優勢になったとき、僕は外側の視点さえも不完全な知性によって確保されていたことに気づき、議論の内側の視点に移行する。そのような動的な循環によって、ヒュームの議論は成立しているのだ。いわばヒュームは一瞬、議論の外側に突き抜け、そこ立つことは認めるけれど、そこに立ち続けることは認めないことで、なんとか議論の外側という視点を確保しているとも言えるだろう。(この一瞬性を別の言葉で表現すると、否定するのではなく判断を保留するピュロン主義的姿勢ということになるのだろう。つまり一瞬だから更なる議論を行うことは認めないということになる。)

3 議論領域

ここまで哲学的議論の内と外という問題を論じてきたけれど、内と外を分かつ境界線のことを、議論領域と言ってもいいだろう。

それならば、デカルトもライプニッツも議論のなかで議論領域の外に立つことはできないという当たり前のことを言っているにすぎず、ヒュームは議論領域の外に立ち続けることはできない、という少々野心的なことを言っているということになる。

そこだけ捉えるならば、実はあまり複雑なところはないのに、一見、問題が複雑なように見えるのは、哲学者により、その議論領域として設定する範囲に違いがあるからなのだろう。例えば今回の登場人物のなかでは、ライプニッツとデカルト・ヒュームの間には議論領域の捉え方に大きな違いがある。具体的には、いわゆる自然主義的な検証に晒されないという意味で形而上学的な領域をどの程度認めるかという点で大きな違いがある。だから、デカルト・ヒュームから見ると、ライプニッツはあたかも議論領域の外についての議論を行っているように見えてしまう。だが正確には、ライプニッツはただ自らの議論領域の内側の議論を行っているにすぎないのだ。だからこそモナドロジーを取り入れて従来の議論を見直すこともある。そのようにして形而上学的な議論は深化していくものなのだ。

なんとなく、英米の哲学と大陸の哲学の違いはこのあたりに由来しているように思う。だから議論領域という観点からのすれ違いは哲学史的に根深いものがあるように思える。(僕がヒュームとライプニッツの関係がわからなくなり、変な質問をしてしまったのもこのあたりが理由なのだと思う。)

4 哲学的議論における時間

議論領域について考えるうえで着目したいのは、内側と外側という観点と、もうひとつ時間的な観点だ。

ヒュームは明らかに今現在を重視した時間的な視点に立っている。だからこそ澤田さんも指摘していたように、不完全な知性に基づくものであっても、哲学という営みはなんとか漸進していくことができる。

僕は確かに渋谷でいるはずのないライオンを見てしまった。だけど僕はその後で、それが精巧な作り物であることに気づいたり、動物園から逃げてきた本物のライオンであることに気づいたりするだろう。そうして僕は(命があるならば)自らの知性への信頼を回復することができる。今現在においては僕の知性は確かに不十分なものかもしれないけれど、将来に向かっては、知性には十分なものとなる可能性が開けているのだ。

一方でデカルトは無時間的な視点に立っていると言っていいだろう。デカルトは無時間的なかたちで未来の視点を先取りすることにより、知性はライオンが作り物であると知ることができると主張する。無時間的な土俵のうえで知性を理想的なかたちで展開しきったうえで、それでも具体的な疑いを差し挟むことができないならば、それは「真とみなす」べきであるとする。そのことにより、豊かな哲学領域を確保することを可能とするのだ。デカルトはいわば、ヒュームが目指す将来の理想的な哲学を先取りし、予言していると言ってもいいだろう。

最後にライプニッツならばどうだろか。ライプニッツの場合にはモナドのような無時間的な道具立てが多いから、一見、無時間的な視点に立っているようにも見える。だが僕は、この3人のなかで最も時間的な視点に立っているのがライプニッツのように思う。なぜなら、彼の議論構造は、三浦さんによるならば、どこまでも循環的で動的だからだ。彼の主張が単なる独断論に陥るのを救っているのは、その主張が未来において否定される可能性を確保しているからだ。ライプニッツの主張とは仮説であり、いつでも乗り越えられるべきものである。その意味で、懐疑主義と自然主義だけは手放すことができないヒュームよりも一層、時間的であると言えるだろう。(懐疑論者は懐疑論に反対するものを独断論として拒否し、ただ懐疑論だけを抱え込むことになる。その意味では懐疑論とは、ある面では新たな議論・主張を拒否するものである、と言えるかもしれない。つまり懐疑論こそが独断論ということになる。)

このように、無時間的なデカルト、かなり時間的なヒューム、更に時間的なライプニッツというように三者三様の特徴があるように思う。(そのように考えると、筒井さんはヒュームにとって哲学は必要なのか、という問いを立てていたけれど、デカルトのほうが、もう哲学は必要ないと言えるかもしれない。)

5 ヒュームの魅力

このように考えると、比較的単純な構図を描くことに成功しているデカルトとライプニッツに比べ、ヒュームはかなり苦労してなんとか帳尻を合わせているように思える。

きっとそれは、デカルト・ライプニッツに比べてヒュームには、哲学の限界という問題意識が強くあったからなのではないだろうか。だからこそ、そこに注目し、哲学の限界を行き来するような議論を行わざるをえなかったということなのではないだろうか。だからヒュームの議論の複雑さは欠点ではなく、真摯さという美点であるとさえ言えると思う。

実は僕も似たような問題意識を持っている。だから僕はヒュームについて知りたくなった。例えば、澤田さんが、ヒュームは仮説演繹法的で二重過程理論的なことを考えていたというのは興味深い。僕の理解では、これは、ある問題に答える際には、まず直感によりとりあえず答えにあたりをつけたうえで、更に解像度を高めて答えを捉えるため、その過程を吟味して考察するというものだ。僕は探求のパラドクスに興味があるのだけど、如何にして人は知らないものを知るのか、という問題に答えるためには、このようなアプローチしかないように思える。このようなアイディアをもっと吸収したい。

ということで、そのうち澤田さんの本も読んでみようと思う。そうしたら、この文章を書き換えることになるかもしれない。