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0 イントロ:哲学と戦争と平和
これから戦争と平和の話をする。ただ、僕がするからには、ただ戦争と平和についての話をするのではなく、抽象的な切り口から問題を捉え直し、哲学的な話につなげていくことになる。
そして、実際そのように書き終え、読み返してみると、戦争と平和という生々しい問題を傍観者のように描写しすぎていることに気づいた。それがそもそもの意図ではあるのだけど、もう少し僕も当事者として、この生々しい問題に関わるべきなのではないだろうか。そのように考え、何箇所か、僕の考えを明確に表現することにした。
加筆することで、この文章は、単なる哲学の文章ではなく、戦争反対でも軍備増強でもない、第三の道を示そうとする、僕の政治的主張についての文章となっている。
また、僕を含め、戦争と平和について様々な主張をする人々に対して、「偉そうなことを言っているけれど、全然平和にならないじゃないか」という苛立ちを表現した文章ともなっているように感じる。
1 戦争反対VS軍備増強
世には、戦争に反対する人と、軍備増強を主張する人という対立があるように思う。(たいていの場合、戦争はやむを得ず行われるものであり、むやみに戦争に賛成する人はいないから、戦争反対VS戦争賛成とはならない。)
この両者の間には、戦争と平和の捉え方に対する根本的なすれ違いがあるように思える。
戦争に反対する人にとって、平和とは単に戦争がないことではなく、愛や優しさといった人間性の発露であり、そして、戦争とは、そのような人間性の喪失であり、憎しみやプライドといった感情の暴走である。
一方で、軍備増強を主張する人にとって、平和とは事実として戦争がないことであり、そして、戦争とは、事実として戦争が起きていることである。それ以上でも、それ以下でもない。
この戦争と平和に関する捉え方の違いがまずあり、そこから、戦争反対、軍備増強といった主張の違いが派生的に生じているのではないか。
派生的な問題だからこそ、戦争反対VS軍備増強という対立にはずれが生じている。戦争に反対するからといって必ずしも軍備を否定してはいないし、軍備増強が必要だからといって戦争に賛成している訳ではない、ということである。
このずれは、戦争と平和について考えるときに重視するものの違いであるとも言える。
戦争に反対する人は、この問題を人間性や感情といった心の問題として捉える。そのうえで、人間性の喪失や感情の暴走につながる戦争に反対する。それならば、実際、どの程度軍備するかというプラグマティックな問題など二の次となる。
一方で、軍備増強を主張する人は、この問題を、どの程度軍備するかというプラグマティックな問題として捉える。プラグマティックな問題に比べたら、戦争が人間性や感情に与える影響といった心の問題など二の次だ。
そこには、戦争と平和の問題を、軍備量のようなプラグマティックで客観的な側面を重視するか、人間性のような心の内面の主観的な側面を重視するかという違いがある。
このずれがあるから、議論はすれ違い、戦争と平和の問題はややこしくなってしまうのではないか。
2 プラグマティックな観点
このずれを、もう少し解像度を上げて捉えるために、軍備増強か軍縮かを選択する場面で考えてみよう。
まず、客観的にプラグマティックに考えるならば、他国の軍備増強にあわせて軍備を増強することで、他国から攻められにくくなるし、他国の動向を無視して一方的に軍縮したなら攻められやすくなるのは明白な事実だろう。
確かに、こちらの軍備増強が、あちらの軍備増強の呼び水となり危険が高まることはありうる。また、そもそも互いに軍備がゼロなら戦争は起こりようがないとは言える。だが、相手の軍備に合わせて備えなかったら、攻め込まれる危険が高まるのは事実である。外交で戦争が起きないようにするのも大事だけど、それだけでは心もとない。
これに対して、特に核兵器については、たくさん配備すると、その分、誤作動の可能性も高まるので、誤作動による戦争のリスクが高まるという議論もある。だが、誤作動の可能性をシステム全体の仕組み抜きにミサイルの数だけで比較するのはナンセンスだろう。
そして、なにより、軍備増強の必要性については、ウクライナやイランという冷酷な実例がある。戦争反対側がどんな理屈を出そうが、戦争と平和についてプラグマティックに考えるならば、軍備増強が必要だというのは客観的な事実なのである。
3 人間性という観点
一方で、主観的な人間性という側面から考えるならば、軍備増強とは、戦争に積極的な態度をとることである。銃を持ったならば、銃口は敵国の兵士に向けなければならないし、戦争となれば引き金を引く覚悟がなければならない。そのためには、敵国の兵士とは、自分と同じ人間ではなく、故郷の人々に害をなそうとする敵だと認定しなければならないし、そのことに由来する憎しみのようなネガティブな感情を抱かなければならない。戦争に正面から備えるために、ある人間を敵と認定することは、決して人間性を高める行為ではない。
これに対して、軍備はあくまで備えであり、みだりに使うことは予定していないという言い方をすることがある。自衛隊という用語はその象徴的なものだろう。だが、いざというときに使わなかったら、それは軍備ではない。戦争に備え、引き金を引くことができる人間性を持つことも含めて軍備である。
または、敵国兵士に対する憎しみなど持たずに、淡々と業務を遂行するように、人間性を確保したまま、引き金を引けるよう教育する、という道もありうる。だが、葛藤なく、そのような困難な態度を受け入れられるようなスーパーマンはほとんどいないはずであり、このような教育とは、まさにプラグマティックに考えたい人々が嫌う机上の空論だろう。
軍備増強派からの、より強い反論とは、銃を持って故郷の人々を守ることこそが、崇高な人間性の発露である、というものだろう。
先ほど、僕は敵に引き金を引くためには、憎しみのような人間性を貶める要素が必要である、と論じた。だが、そうではなく、隣人愛のような崇高な人間性の発露として引き金を引くことができると考えるのである。
ここには、同じ人間を、隣人と敵に分けることは妥当か、という倫理的な問題がある。軍備増強派は、人間を国境線に沿ったかたちで敵と味方の二つに区分することが可能だと考え、戦争反対派は、同じ人間を簡単に二つに分けることなどできないと考える。
このように描き分けた時点で、決着はついているだろう。ここでの議論は、人間性についてのものだという大前提がある。その前提に立つなら、皆が同じ人間だと捉える戦争反対派に軍配が上がるのである。
そのように考えるならば、大日本帝国が「大東亜戦争」に向けて用いたような、郷土愛に依拠した心の内面の捉え方は、普遍的な人間という捉え方から大きく乖離した、論理的に誤った議論であると言わざるを得ない。普遍的な存在である人間という言葉から離れられない限り、「郷土」のような、人間を分断する言葉は慎重に用いなければならないのである。
4 他者による人間性の侵害
軍備増強派からのさらなる反論として、敵国、例えば中国に日本が占領されたら、日本人の人間性が失われてしまう、というものがあるだろう。だが、敵国に占領されたときに、具体的にどのような人間性が失われるかは決して明らかではない。もし中国が日本を占領したとして、日本人に中国語を押し付けるのか、日本人の資産を没収して中国人に分配するのか、子供が奴隷のように中国に連れ去られるのかはわからない。そして、これらのことの一部、または全てが実際に起きたとして、それが、どれほど個人の内面としての人間性に影響を与えるのかもわからない。
僕の疑念は、事実として人間性に影響を与えるかどうか、というより、そもそも、他者が誰かの人間性を直接侵害することなどできるのか、という根本的なものである。具体例を用いるならば、ナチスはアウシュビッツでユダヤ人の人間性を奪うことができたのか、という問いに置き換えることもできるだろう。
僕は、それはできなかったと答えたい。どんなに苦しく理不尽な状況でも、ユダヤ人たちは、彼らの精一杯の人間性を発露できえたし、実際発露したのではないか。ナチスは、ユダヤ人の命は奪えても、彼らの人間性は奪えなかったのだと僕は考えたい。
人間性とは自分自身だけのものであり、自分自身の判断だけが人間性を左右する。それが人間性というものであり、自由であるということなのではないのだろうか。
そのような視点に立つならば、軍備により人間性を守ることができるといった、軍備増強派の考え方はナイーブすぎるだろう。人間性とは軍備によって誰かに守ってもらうようなものではなく、ただ自分の内面において自ら守り、育てていくようなものなのである。
ここではこれ以上は述べないが、僕は、この結論は、軍備増強派側から突き崩すことは人間というもののあり方からして論理上不可能だと確信している。
ここまで軍備増強・軍縮の場面について考えてみたが、この問題を客観的にプラグマティックに考えるならば軍備増強派に軍配が上がり、主観的に人間性という側面から考えるならば戦争反対派に軍配が上がることになる。
5 二つの標語
このずれは根深いものがあり、そう簡単に双方の言い分を満たすような上手い答えを見出すことはできない。それならば、当面の対応としては、この文章で考察した成果を活かしつつ、なんとか互いに調整していくしかない。
調整にあたって活かせそうな、この文章から導くことができるノウハウを標語風に表現するならば、二つにまとめることができるだろう。
ひとつめは、「相手も自分と同じように網羅的に考えている。」というものである。
戦争と平和の問題について意見が対立する相手は、自分と全く異なる切り口ではあるけれど、彼らなりに問題の全体を捉えようとしている。
戦争反対派は、お花畑のような人間性ばかりを重視しているように見えるが、優先度は低いとは言え、核兵器の誤作動リスクなど、プラグマティックな問題も彼らなりに考慮しているのだった。一方の軍備増強派は、冷血にプラグマティックな問題ばかりを重視しているように見えるが、優先度は低いとは言え、郷土愛など、人間性の問題も彼らなりに考慮しているのだった。
だから、意見が対立する相手は、視点が全く欠けている訳ではないのである。
このことを、より強調して述べるならば、相手も、自分と同じ人間であることを忘れるな、と言ってもいい。自分が、幅広い視点で網羅的に考えているという自覚があるならば、相手もそうなのである。もし、相手の振る舞いからして、実際そうは思えなくても、同じ人間であると認める限り、相手もそうであるはずなのである。人間同士が話すとは、定義上、同等の存在同士が話すということでなければならず、それを忘れてはいけない。
もうひとつの標語は「自分がおざなりにしてきた領域については、相手の主張のほうが優れている。」というものである。
軍備増強派のプラグマティックな分析は説得力があるし、戦争反対派の人間観は深いものがある。確かに、そのような長所は、対立する相手からすれば、どうでもいいことかもしれない。だが、それでも、そのどうでもいい領域については、より優れた考えを持っていることは認めるべきなのである。ある領域を重要と捉え、その領域について真剣に考えることで、より優れたアイディアに到達できると考えるならば、当然のことだとも言えるだろう。
以上の二つの標語をまとめるならば、「相手も自分と同じように網羅的に考えている。そして、自分がおざなりにしてきた領域については、相手の主張のほうが優れている。」となる。
これこそが、戦争と平和の問題についての議論の出発地点で取るべき態度だろう。
そこで必要となるのは、自分と対立する相手を尊重し、真摯に相手の話を聞くという態度である。まず、すべてを聞かなければ、相手が何を重要視し、何をおざなりにしてきたかがわからない。また、自分の考えについても、すべてを誠実に伝えなければ、相手に、自分が何を重要視し、何をおざなりにしてきたかが伝わらないからだ。
そのような態度を保ったまま議論を重ねることで、やがて互いに、何を重要視し、何をおざなりにしてきたかについての共通認識ができあがることになる。意見は異なったままでよいが、どのように意見が異なっているかについての共通認識ができあがるのである。
この段階の作業で最も重要なのは、互いに、これまで自らがおざなりにしてきたことに目を向け、おざなりにしてきたという事実を真摯に相手に対して認めることである。自らが戦争反対派ならば、プラグマティックな問題については相手の分析のほうが正しいと認め、自らが軍備増強派ならば、人間の内面の問題については相手の考察のほうに一日の長があることを認めるのである。
そこまでいけば、問題解決までの道のりの半分までは来ているだろう。
あとは、客観的でプラグマティックな問題と、主観的な心の内面の問題とをなんとか両立できるような妥協案をともに導き出せばいいだけだからだ。それはそれで大変な作業となるだろうが、互いが、共通認識に基づき、なんとか問題解決の道筋を描かなければならない、という共通の課題認識を持っているかぎり、いつかは答えにたどり着くはずだ。
これが、僕が提案するこの問題への対応策であり、他には戦争と平和という困難な問題を解きほぐす道はないと僕は考えている。
さらに僕は、今回の戦争と平和の問題とは、あくまで一例であり、このようなやり方は、戦争と平和の問題に限らず、様々な対立について根源的に解消するための唯一の道筋だとすら考えている。
6 アウトロ:戦争反対派の難しさ
このように書いてきたが、きっと第3節、第4節の主観的な人間性を擁護する議論については、違和感を覚えた読者も多かったのではないかと思う。
そこに重点がある文章ではないので、さらっと流したが、ここには様々な倫理学的な問題が隠されている。そして、僕は、ある特定の倫理学的立場をとっている。
このうち、いずれの立場が正しいのか、という問題もあるが、ここで重要なのは、このような主観的な人間性についての議論は難しい、ということである。
何と比べて難しいのかといえば、軍備の必要性のようなプラグマティックな議論に比べてである。プラグマティックな話であれば、事実として戦争が起きるのか、または起きないのか、科学的に実証して研究することもできる。一方で、人間の心の内面の主観的な人間性についてはそうはいかない。
心理学的に実証できる、という考えもあるかもしれないが、哲学的には、それも一つの立場であり、そう簡単に答えが出る問題ではない。
そこから導かれるのは、軍備増強派に対する、戦争反対派の議論の弱さである。正直、世の戦争反対派の大半の議論は、その人間観、倫理観としてナイーブすぎる。先程は、軍備増強派の、郷土愛を強調するような、倫理学的にはコミュニタリアニズム的とも分類できるだろう主張をナイーブだと指摘したけれど、それ以上にナイーブすぎる。
だから、現代において、これほどまでに戦争反対派の主張が通らなくなっているのだろう。
戦争反対派が批判すべきは軍備増強派ではない。対抗できるほどの議論を組み立てることができない自分自身である。
僕は、戦争反対派でも軍備増強派でもないけれど、互いに真摯に議論を進めるために必要な土俵に立つこともできていない、戦争反対派に対して、ふがいなさを感じる。まあ、難しい話ではあるのだけど。