3,000字弱です。夜と夜でつなげたかっただけの文章かも・・・
これまで僕は、言葉について、かなり突き詰めて考えてきたつもりだった。
だが、それは、あくまで、哲学としての言葉という、言葉の一面にすぎなかったのかもしれない。
1 どぶ板通りの夜と『銀河鉄道の夜』
そんなことを考えたのは、先日通った、横須賀のどぶ板通りでのことだった。
ちなみにどぶ板通りとは、米軍の若い兵隊たちが飲んで騒ぐエリアで、港に空母などの大きな船が入ると特に賑わう。
そんな場所を、用事があって、金曜日の夜に歩いていると、英語がわからなくても、意味がないことだけはわかる、多くの歓声のような声を聞いた。カウントダウンをして爆笑したり、乾杯して叫んだり、そういう類の声だ。
楽しそうだな、などと思いながら、あたりを眺めつつ歩いていて、ふと気づいたのだが、このカウントダウンの歓声は、哲学の言葉とは全く違うものなのではないだろうか。
哲学の言葉ならば、「3・2・1」という言葉は、「3・2・1」を意味する。だから話し手は、相手に「3・2・1」という言葉の意味を理解してもらうことを意図して「3・2・1」と発話する。
だが、どぶ板通りに響き渡っていた「3・2・1」という言葉には、「お前ら大好きだぜ、今夜は楽しもうぜ」という程度の意味しか込められていない。だから、たとえ聞き手は泥酔して「3・2・1」がきちんと聞き取れなくてもいい。ただ笑って、ただはしゃげればそれでいい。彼らの言葉は、そのようなものである。
そこでの「3・2・1」という言葉は、哲学の厳密な言葉より、ハイファイブやハグに似ているとも言えるだろう。集団としての陶酔や友情を確認し、そこに燃料を投入するような行為のひとつだということである。
騒がしい夜道を一人歩きながら、僕はそんなことを考えた。
言葉については、その翌日も考えさせられることがあった。
どぶ板通りを歩いた翌日、僕は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をとりあげている昔のテレビ(NHKプラス)を観たのだ。
そこで、解説をしていた人はこんなことを言っていた。
銀河の中を走る軽便鉄道についての描写は、「銀河の中を走る軽便鉄道」を描写したファンタジーではない。宮沢賢治の心のリアリズムとしての描写である。
確かにそうかもしれない。僕は小説はあまり読まないし、ましてや童話や詩など全くの門外漢である。だから、これまで念頭になかったけれど、確かに言葉にはこういう使い方もある。
この二つのエピソードに共通しているのは、言葉は、文字通りの言葉の内容とは全く異なる何かを伝えてもいるということだ。
どぶ板通りの夜と銀河鉄道の夜は、つながっているのだろう。
2 発語行為と発語内行為
そんなことを考えていて思い浮かんだのがオースティンという、語用論の分野で有名な哲学者である。
言語行為論の創始者であるオースティンは、『言語と行為』において、発語行為と発語内行為を区別する。その本で挙げられている例を用いるならば、
発語行為:彼は私に「彼女を撃つのだ!」と言った。
発語内行為:彼は私に彼女を撃つよううながした。
となる。
そこには、文字通りの「彼女を撃つのだ!」という言葉の「発話」と、「促し」とのずれがある。だから、その言葉は、「促し」ではなく「命令」である、といった、さらなるずれを生じさせることもできる。
オースティンはそのようなことを言っている。言われてみれば確かにそのとおりだ。
だが、僕は読んでいて、発語行為と発語内行為のずれが僅かすぎて、オースティンがなぜそこにこだわるのかなかなか理解できなかった。
そこで、どぶ板通りの夜の歓声が役に立つ。
発語行為:兵士Aが兵士B・C・Dに「3・2・1!」と言った。
発語内行為:兵士Aが兵士B・C・Dに「お前ら大好きだぜ」という気持ちを表現した。
と捉えれば、オースティンの考えに合致しているかどうかはともかく、腑に落ちる。
確かに、言葉は、見かけの発話内容とは大きく異なることを伝えている場面もある。
『銀河鉄道の夜』についても同じような分析をしてみたい気もするが、畏れ多いので文を切り刻むような詳細な分析はやめておく。(僕は、国語の時間に文章を読んで、筆者の意図を考えさせられるのが嫌いだった。)
だから、あくまでざっくりと捉えるならば、
発語行為:「銀河の中を走る軽便鉄道」について書いた。
発語内行為:宮沢賢治の心を表現した。
というような対比はできるだろう。
ここでも、言葉は、見かけの発話内容とは大きく異なることを伝えているのである。
これが、どぶ板通りの夜と銀河鉄道の夜の語用論的展開である。
3 背中から受ける哲学の力
これらの言葉と哲学の言葉との違いを僕の体感として表現するならば、哲学の言葉には、聞き手は正面から言葉を受けている「感じ」がある。哲学ならば、「3・2・1」という言葉の意味を、聞き手はそのまま字義通りに正面から「3・2・1」として受け取るのである。
一方で、どぶ板通りの言葉については、聞き手は、言葉の意味ではなく、言葉が持つ感情の力だけを、背中で受け取っている感じがある。
だから、聞き取れなくても、その力に後押しされ、ただ一緒に笑い、叫べばよい。
『銀河鉄道の夜』の言葉もそうである。言葉の内容を正面から分析したうえで、汽車が空を飛ぶなんてファンタジーだ、などと思う必要などない。ただ、言葉に込められた、宮沢賢治の心が持つ力だけを、背中で受け取ればいい。
発語行為と発語内行為の違いとは、言葉の内容と、言葉が持つ力の違いである。そして、そこには、僕が正面・背中と比喩的に描写したような、聞き手側の、言葉を受け止める際の態度の違いがあるのではないだろうか。
オースティンのアイディアとはかけ離れた、極端な解釈かもしれないが、そんなことを僕は考えた。
なお、正面と背中の違いという僕の体感に込めているのは、聞き手は、言葉の意味を正面から、漏らさずに正確に理解しようとするものである、ということである。
一方で聞き手とは、背中で受けた力を、人生を一歩前に踏み出す力に変換するものでもある、ということである。
聞き手は、そのような言葉の多面性を、身体の全体を使って受け止めているのではないだろうか。
ここで強調したいのは、これまで言葉の正確な理解ばかりに着目してきた僕にとっての、言葉には、少なくとも、力としてのもう一つの側面があるという気づきの重要さである。(新味がない話だと感じられるかもしれないが、少なくとも僕には実感を伴う重要な気づきだった。)
そして、字義通りの正確な理解ばかりが期待されているはずの哲学の言葉も例外ではない、ということである。
確かに、たいていの哲学者は、僕のように、言葉の力としての側面に無頓着であるか、または、そのような側面を意識的に取り除こうとする。だが、哲学者の言葉の力は、哲学者が望むと望まないとにかかわらず、明らかに、読者が一歩前に進むための力になりうるし、おそらくなってきたのである。
哲学を行ううえでは、哲学の言葉の、力としての側面についても、もう少し考慮すべきではないだろうか。もし、哲学とは普遍的な真理を目指す作業ならば、言葉の力を見落としたままでは、真理に到達することはできないのだから。
哲学とは、自らを構成する哲学の言葉にも意識を向けるような、再帰的な作業でなければならないのである。