※6,000字ちょっとあります。入不二哲学の話です。

1 懐疑論

この文章では二つの話をする。一つ目が、入不二哲学の現実性概念は、懐疑論という病に対しても効用がある、という話である。

といっても、どの懐疑論にも当てはまる話ではなく、僕が長年患ってきた、かなり徹底的な懐疑論を念頭に置いている。

その徹底具合は、懐疑論と言えば思い浮かべるだろうデカルトのコギトを使って、ある程度まで説明することができる。

(確か大学1年生の頃の)僕はデカルトを知り、デカルトの「我思う」だって、まだ全然疑えるではないか、と考えていた。だが素人の僕が一般書を読む限りでは、そんなことを正面から論じている哲学を見つけられず、ずっと孤独でもやもやしたままだった。

そんな僕が(30代半ばで)出会ったのが永井均の『転校生とブラックジャック』の中のデカルトの悪霊の懐疑について論じる個所だった。具体的には、この本はAから始まる記号で示される何人かの学生と先生との対話形式で書かれているのだが、その中のFさんの発言である。(このブログでもすでに取り上げているので、また、この話か、と思われる方もいるかもしれない。)

Fさんは、「悪霊が全能なら、その「私」という概念そのものについても、「存在」という概念そのものについても、私をだますことができるんじゃないか」と言うのである。それに対して、先生は、「悪霊が全能なら、「ライオン」という言葉や「いる」という言葉の意味についても、ひとを思い誤らせることができるにちがいない。」と応じる。(単行本のほうのpp.14-15)

これはつまり、「私」であれ「ライオン」であれ、デカルトのコギトの「我」であれ「思う」であれ、疑わしいという話だと読むことができる。

僕は、ずっと抱えてきた思いを、その近似値としてでも、形にしてくれる哲学者に出会えて、ようやくほっとしたことを覚えている。

そして、今も僕は、この徹底した懐疑の道筋は決して無理筋のものではないと考えている。

2 「現実性」は単なる概念ではない

そんな懐疑を心の奥底に抱えつつ過ごす中、先日、ふと、入不二の「現実性」は疑えるのだろうか、という疑問が思い浮かんだ。

入不二の「現実性」に関する説明は省略するが、現実性は「現に」という副詞で表現できる。つまり、「現に、我思う」の「我」も「思う」も疑うことはできるけれど、「現に」を疑うことはできるのだろうか、というのが僕の疑問である。

まず僕の答えだけを述べると、「現に」の現実性は単なる概念でないから疑うことはできない。

「ライオン」や「私(我)」や「存在」や「思う」は概念であり、概念だからこそ、疑うという操作が可能になる。「ライオン」を疑うとは、非ライオンの可能性を想定することであり、概念に対して否定・反実仮想・様相システムによる処理を加えることである。それが概念ということであり、疑うということである。

そのように考えるならば、概念であることと疑うことは深く結びついている。

一方で現実性は単なる概念ではない。よって、疑うことはできない。僕はそのように考えている。

3 「現実性」は概念をはみ出ていることである

それでは「現に」の現実性が単なる概念ではない、とはどういうことだろうか。

この問題を考えるうえで注意すべきは、僕も(この文章の冒頭でそう書いたように)現実性「概念」という述べ方をするし、入不二自身がそのように扱っている場面もあるという点である。この概念化とは、概念つまり言葉を用いて論ずるために必要な操作であり、いわば方便である。だから読者は方便を補正しながら読む必要があるのである。つまり、概念ではないものについて概念として書かれたものを、概念ではないものとして読む必要があるということである。

この問題は、現実性特有の欠点と思われるかもしれない。だが実は、同じ問題は、「現に」の現実性に限らず、様々なものについて生じている、と言うこともできる。

例えば、先ほど「ライオン」という概念を取り上げたが、実は「ライオン」は単なる概念ではないとも言える。なぜなら、「ライオン」が「ライオン」であるためには、「現に「ライオン」である」必要があるからである。

もし、世界(含めたほうがよければ、可能世界も含めた世界)のどこかに、「現に『ライオン』である」という状況が成立していなければ、「ライオン」概念は成立できない。まだ動物園でライオンを見たことがなくてもいいし、または、すでにライオンがサーベルタイガーのように絶滅していても、さらにはライオンがペガサスのように想像上の存在でもいい。図鑑の中でも、童話の中でも、どこでもいいので、なんらかのかたちで「ライオン」が、世界のどこかに「現に」あるからこそ、「ライオン」が「ライオン」概念として成立しているのである。

(この説明の仕方は、潜在というあり方を考慮していないので、入不二の捉え方よりも狭いことには留意が必要である。)

このように「ライオン」が「現に」の現実性を帯びているから、「ライオン」概念が成立するのであり、その意味で「ライオン」は単なる概念ではないのである。

(さらに言うならば、概念が概念であるためには、「現に、概念である」必要があると考えることもできる。それならば、概念の成立自体に現実性が深く関わっており、概念自体が単なる概念でないとさえ言える。)

以上のことを逆から述べるならば、現実性とは、(少なくともある側面では)単なる概念からはみ出たものの別名だとも言える。概念が概念として成立するためには、概念を超えた世界との関わりが必要であり、それを(少なくともある側面では)現実性と捉えることができるのである。

(現実性はそれ以上の射程を有しているので「少なくともある側面では」と限定していることに留意する必要がある。)

なお、概念は言葉と深く関わっているから、現実性が、単なる概念からはみ出ていることは、言葉の使用の場面で確認できる。それは、入不二が指摘したように、「現に」が言葉の上では省略可能なものとして扱われる場面である。

「ソクラテスは哲学者である」を「現に、ソクラテスは哲学者である」としても、また、「現に、ソクラテスは哲学者である」を「ソクラテスは哲学者である」としても、意味として、何ら付け加えられるものも失われるものもない。

この事実が、現実性というものの概念を超えたあり方を示している。

「現に」の現実性とは(少なくともある側面では)概念をはみ出ていることそのもののことである。よって、「現に」を疑うことはできない。

これが、懐疑論に対する現実性の処方箋である。(たいして実用性がある処方箋ではないが、少なくとも、疑えないものを一つ提示したという点で処方箋ではある。)

以上で一つ目の話を終え、この文章が扱う二つ目の話である、現実性と副詞の話に移ることにしよう。

4 無色透明な言葉

さて、こんなふうに、懐疑論に一定の区切りをつけることができた。(「一定の」としたのは、懐疑論において、本当に概念操作としての懐疑の成立が必須なのか、といった問題は残るからである。)

そこで気づいたのが、「現に」のほかにも文に付加しても除去しても意味が変わらない、いわば無色透明な言葉はある、ということである。

例えば、懐疑論に陥っていた20歳頃の僕がこだわっていた「私は~と考える」という言葉がある。「ソクラテスは哲学者である」を「私は、ソクラテスは哲学者である、と考える」としても(ほとんど)意味は変わらない。

また、入不二が用いる「実は」という言葉についても、「実は、ソクラテスは哲学者である」を「ソクラテスは哲学者である」としても(ほとんど)意味は変わらない。

きっと、「私は~と考える」も「実は」も「現に」の仲間なのだろう。ただ、「現に」に比べると、「私は~と考える」や「実は」には、僅かに固有のニュアンスが含まれている。「私は~と考える」にはデカルトのコギトのような前提が感じられるし、「実は」には、「実は」以前の文とのズレが生じているという含意がある。

だから、「現に」が、付加しても除去しても全く意味が変わらない無色透明な、概念をはみ出した言葉だとするならば、これらの言葉は、概念を半分はみ出している半透明な言葉だと言えるかもしれない。その半分のはみ出しが概念の外へと僕たちの思考をいざない、哲学へと導いていくのである。「私は~と考える」が人称の問題につながり、「実は」が入不二哲学における実在の問題へとつながるように。

だから、「現に」も「私は~と考える」も「実は」も、文に付加したり、除去したりしても(ほとんど)意味が変わらない、(ほとんど)無色透明な言葉ではあるけれど、そこにある違いは決して僅かなものではない。きっと、哲学とは、この違いを鋭敏に掴み取るための作業なのだろう。または、哲学とは、この違いに敏感にならざるを得ない人が行う営みなのだろう。

5 副詞

そんなことを考えていたところ、入不二が「X」で副詞について呟いていた。

(2026.10.3の入不二の呟き)

(「8品詞の中でもっとも名詞化されない頑固な品詞が副詞と言える。」という呟きへのリプライとして)

「現に」という副詞的な力が、その「名詞化されない頑固な副詞」の「親玉」です。「親玉」だというのは、「現に」は、全ての文の一番外側で、透明に働いている副詞的な力だからである。わざわざ「現に」と書いて不透明に現れなくとも、つねにすでに透明に働いていざるを得ない。

この呟きを読んで思いついたのだが、「現に」や「実は」に限らず、副詞そのものにも哲学的な重要性があるのではないだろうか。

と言っても、僕は言語学の話をしたいわけではないので、ざっくり、名詞・動詞的な言葉(形容詞もこちらに含む)と、副詞的な言葉とに区分したうえで、副詞的な言葉に着目することに哲学的な意義があるのではないか、という程度の意味である。

そのうえで、例えば「ゆっくり」や「すごく」といった副詞(的な言葉)には固有の意味が明確にある。だから、文に付加したり、除去したりしても意味が変わらないとは言えない。「現に」や「実は」のような先ほど登場した副詞とは異なり、決して、無色透明な言葉ではない。

それでも、「ゆっくり」や「すごく」といった副詞にも、文を全体として捉え、その全体の色合いを調整するような特別な働きがあるように僕には感じられる。「私はゆっくり歩く」という文における「ゆっくり」は「歩く」という動詞だけでなく「私は歩く」という文全体に影響を及ぼしていると言えるのではないか。(僕は言語学の素人なので、あくまで個人的な感覚である。)

その感覚に従うならば、副詞(的な言葉)には、文全体に影響を及ぼし、文全体の色合いを調整するという特有の効果があるということになる。

対比して述べるならば、副詞ではない言葉、例えば「ライオン」といった名詞(的な言葉)や「歩く」といった動詞(的な言葉)には、固体として収斂し、境界がかたちづくられていくような感覚がある。

例えば、「赤い車が青い空の下を走る。」という文の中に登場する「赤い車」と「青い空」の間には鮮やかな境界があり、情景が「赤い車」と「青い空」という二つの領域に区分された二つの固体として収斂していく。(青い空が固体というのもおかしな話だが、雰囲気は伝わるのではないだろうか。なお、ここで対比を強調するため色の対比を使っているが、後述するように、副詞には、そのような対比をも越えて包み込む動性がある。)

そして、境界を持つ固体だからこそ、それを概念として捉え、否定や反実仮想や様相化といった操作を行うことも可能となる。

一方で、「ゆっくり」や「すごく」のような副詞には気体のように拡散し、境界を越えていくような感覚がある。「私はゆっくり歩く」を「私は学校までゆっくり歩く」としても「私は学校まで友達とゆっくり歩く」としても「私は学校まで友達と雨の中をゆっくり歩く」としても、どこまで言葉を足しても「ゆっくり」という副詞は全体にかかる。「私は学校まで友達と雨の中を歩く」という文が描く情景全体が「ゆっくり」しているのである。

たとえ、そこに「忙しげなサラリーマンが追い越していく」という一見「ゆっくり」とは相反する情景が加わっても、「忙しげなサラリーマンが追い越していく中、私は学校まで友達と雨の中をゆっくり歩く」となり、「ゆっくり」は忙しげなサラリーマンの情景をも包み込むように拡散する。

このように、収斂する傾向を持つ名詞・動詞的な言葉と、拡散する傾向を持つ副詞的な言葉という違いがあるように思われるのである。

きっと、この副詞の拡散する傾向と現実性は深く関わっている。入不二が強調するように、現実性は遍在している。副詞が持つ、気体のように拡散し、境界を越え、文全体に影響を与えていく、という性質こそが、現実性が持つ遍在性の現れの一側面なのではないだろうか。

そして現実性を象徴する「現に」という副詞は、固有の意味を極力排し、遍在性という働きのみに純化しているという点で、入不二の言葉どおり、副詞の親玉であり、純粋副詞とでも言うべきものなのではないだろうか。

6 副詞と哲学

さらに僕は、この副詞(的な言葉)に特有の「拡散し、全体に遍在する感覚」が人を哲学にいざなうのではないか、とも考えている。

例えば、「ゆっくり」は時間論の入口だろう。時間論というと、「10時15分」や「今日」といった名詞で捉えられるものを時間として扱うように考えられがちだが、より時間をうまく捉えられているのは「ゆっくり」のような副詞なのではないか。この世界全体に遍在し、充満する「ゆっくり」にこそ時間の本質が顕れているのではないだろうか。

また、別の例として、「すごく」という副詞に着目してもよいだろう。「すごく」は「私は、プレゼントをもらえてすごくうれしい」のように使われるが、ここでの「すごく」は価値の問題につながっているのではないだろうか。

倫理学ならば「私は、プレゼントをもらえてすごくうれしい」という文のうち、「うれしい」という言葉に着目するだろう。そして「うれしい」とは何か、と考える。

だが、より注目すべきは「すごく」のほうで、「すごく」が「私は、プレゼントをもらえてうれしい」という文全体に遍在し、その情景全体を「すごく」にしていると捉えることができる。価値は「すごく」というかたちで「私は、プレゼントをもらえてうれしい」という情景全体に遍在するように宿っていると捉えられるのである。

以上の時間論、倫理学に関する僕の主張はあくまで仮説にすぎない。だが少なくとも、「ゆっくり」や「すごく」といった副詞(的な言葉)に含まれる現実性由来の遍在性が、普遍としての哲学を求める心を刺激し、僕たちを哲学に向かわせるとは言えるのではないだろうか。