※5.500字くらいあります。僕自身が今後どういう哲学やっていくか考えた文章ですね

1 問題選択の重要性

哲学をするにあたって、何について考えるかは重要な問題だろう。

この世にはすでに数多くの哲学的問題があるし、まだ見出されていない多数の哲学的問題もあるはずだ。人間は有限の人生の中で、それほど多くの問題を扱える訳ではない。それならば、哲学者にとって、取り組むテーマの選択は重要となるだろうからだ。

(当然、人生は有限かどうかを問題にすることもできるけれど、そのあたりは考慮外とする。)

多分、テーマの選び方はいくつかのやり方がある。思いつくものを列挙してみよう。

1 特にきっかけなく、自ずと抱いた問題をテーマとする。

(永井均が「私」の独在性を研究する場合など。「自ずと」決まるから、このケースは「選ぶ」という実感はないかもしれない。)

2 自らが経験した具体的な出来事からテーマを定める。

(女性差別を受けた経験から、フェミニズム哲学をやる場合など。)

3 哲学を学ぶなかで、関心を持った問題をテーマとする。

(大学でカント哲学を学び、カント哲学を研究する場合など。) 

他にも様々あるだろうが、とにかく、哲学者は自らの哲学のテーマを何らかのかたちで決定する。哲学者は、(多分)無数(に近い数)ある哲学的問題のなかから、一つ、またはそれほど多くない数の哲学的問題を選び出し、その問題の解決に人生のかなりの時間を捧げるのである。

哲学をしていくうちに、自然と問題意識がずれていくこともあるかもしれないし、意識的に全く別の問題に取り組もうと決断するかもしれない。それでも、限りある人生の中では、あまたある哲学的問題のうちの一部にしか取り組めないことに変わりはない。

そのような意味で、哲学者が、どのような哲学的問題を自らの課題として選ぶかが重要となるのである。

2 根源的で普遍的な問題の選択

そこで、取り組むテーマ・問題をどのように選択するかが重要となる。

僕の考えは、できるだけ、根源的で普遍的な問題を選ぶのがいい、というものである。

当然、人それぞれの関心・興味はある。そこから、自ずと、取り組む問題の範囲は絞られてくる。僕ならば、存在や時間といった形而上学的な問題に興味があるし、他にも、例えば、貧しいスラムを訪問した経験から、平等や善といった問題に興味を持つ人もいるだろう。

その興味・関心の範囲内で、できるだけ、根源的で普遍的な問題に取り組むのがよい、というのが僕の考えである。極端な例で説明するならば、平等について考えるならば、日本人にとっての平等の問題について考えるより、人類に普遍的な平等の問題について考えるほうがいい、ということである。

では、なぜ根源・普遍を推奨するのかといえば、僕にとっての哲学とは、思考の振れ幅を楽しむ営みだからである。

あくまで僕の仮説だけど、哲学には、「具体例」と「構造」が必要である。具体例とは、たとえば、「リンゴが木から落ちる」といった出来事である。そして、構造とは、たとえば「すべての物は互いに引き合う万有引力がある」といった法則、仕組みのことである。

(ここでは科学的な例を出したけれど、ニュートンが生きていた頃は科学と哲学は未分化だったし、現在でも、科学を哲学から分けるのは、主張の内容ではなく、(実験による検証といった)その主張の正当性の持たせ方にあると言える。だから、主張の内容としては、これも哲学の例と考えてよいだろう。)

そのうえで、具体例からどれだけ離れたところに構造を設けることができるか、という点にこそ哲学のだいご味はあると僕は考えている。

もし「リンゴが木から落ちる」という具体例から「リンゴには木から離れる性質がある」という構造を見出しただけならば、哲学的にはあまり面白くない。それよりも、「すべての物には普遍的な万有引力がある」としたほうが思考の振れ幅があって味わい深い。

だから、なるべく、具体例と構造との間の振れ幅が大きくなるよう、自らの興味の範囲内で、できるだけ根源的で普遍的な問題に取り組むのがよいと僕は考えるのである。

僕は、哲学とジェットコースターはかなり似ていると思う。ジェットコースターは、落差が大きいほどスリルがある。同様に、哲学には、日常の具体的なできごとからはのぞき込むこともできないほどの哲学的深淵につっこんでいくときにこそスリルがある。

このスリルに似たものとしては、クロスワードパズルを解いたときのすっきりした感覚がある。アハ体験とも言われる。あの感覚を純化して結晶化したものが哲学のだいご味だと僕は思う。人生を賭けたアハ体験である。

(ジェットコースターの最高地点=日常生活の中の具体例、ジェットコースターの最低地点=(世界の)根源的な構造となる。そして、ジェットコースターの高低差=ジェットコースターのスリル=具体例と構造の落差=思考の振れ幅の爽快感となる。)

3 体感と実用性

このような僕の体感重視の捉え方に対して、哲学には実用性こそが重要だ、という異論があるだろう。先ほどの万有引力の例を用いるならば、リンゴについてだけの知見より、万有引力の知見のほうが役に立つから重要なのである。また、日本人だけの平等より、全人類の平等のほうが、多くの人を救うから重要なのである。

これは僕自身の哲学についても言える。僕の哲学は、僕を懐疑の底なし沼から救ってくれるという実用性があるかもしれないから重要なのである。

そうだとするならば、哲学をするにあたっては、必ずしも根源的で普遍的な問題を選べばよいことにはならないだろう。

もしかしたら、全人類にあてはまる普遍的な視点から平等の問題を解き明かすより、現代日本における社会的問題として平等の問題を扱ったほうが、実用性が高いかもしれない。また、僕を懐疑の底なし沼から救ってくれさえするならば、その救いとなる確かな知見が根源的で普遍的なものである必要はないのかもしれない。

(目の前に見えるコップが確かにある、というささやかな知見でも、それが底なし沼を這い上がる確かな足場になるのであれば僕は非常に救われた気分になるだろう。)

このような実用性の視点に立つならば、哲学をするにあたって根源的で普遍的な問題を選ぶべきと決めつけることはできない。

きっと、世間で哲学と呼ばれる営みには、哲学Aと哲学Bとでも呼び分けるべき、全く異なる二つの営みが混在している。哲学Aとは、前節までで僕が重視した、純化したアハ体験のような落差・スリルを味わう営みである。そして哲学Bとは、そこから得られた知見が役に立つような営みである。

そこで僕は、この違いを強調するため、僕にとっての哲学とは哲学Aのことであり、哲学Bは哲学ではない、と捉えたい。哲学Bとは哲学ではなく、思想と呼ばれるべきものなのである。

哲学(哲学A)とは、どこまでも、哲学の過程を重視し、過程を味わうものである。だから、そこから導かれた結論は、さらに上書きされるかもしれない当面の結論にすぎない。一方の、思想(哲学B)においては、過程ではなく結論が重要である。だから過程とは、あくまで結論に説得力、正当性を持たせるための手続きにすぎない。

このように、過程と結論の両面において、決して両立することのない二つの哲学観が、世間の「いわゆる哲学」には含まれているのである。

僕は、「いわゆる哲学」に含まれる二つの哲学(または哲学と思想)を切り分け、哲学(哲学A)をやるならば、根源的で普遍的な問題を選んだほうがよいと考えているのである。

4 認識論、存在論、意味論

ここからは、哲学とは、自らの興味の範囲内で根源、普遍を目指す哲学Aのことだと捉えたうえで、最も根源的で普遍的な哲学とは何かを考えてみたい。

なぜなら、僕自身の興味が、かなり根源、普遍に振り切っているからだ。僕が興味を持つ哲学領域は、世の哲学のなかでも、極端に根源的、普遍的なものに偏っているのである。

そして先ほど述べた通り、人は、その興味・関心の範囲内で、できるだけ、根源的で普遍的な問題に取り組むのがよい、と考えている。

それならば僕は、僕自身の極端に根源的、普遍的な興味の範囲内でも、最も根源的で普遍的な哲学的問題に取り組むのがよいことになる。

だから、僕は、根源・普遍の極を目指すのである。

根源・普遍の極に「近いところ」には、認識論、存在論、意味論という三つの哲学領域があるだろう。

それ以外の哲学、例えば倫理学は、これら三論を基として論じられるのである。このうち倫理学と認識論の関係だけ簡単に触れておくと、倫理学においては、認識したものが認識したとおりに成立している、ということを前提にしていると言える。泥棒は悪いことかどうかを考えるのに、彼が泥棒をしたように見えるのは悪霊の欺きによる幻ではないか、などと考えていたら、そもそも倫理学は成立しない。倫理学の前提として認識論があるのである。

(だからと言って、認識論ではなく倫理学に取り組むことが間違っている訳ではない。その人は自分の興味の範囲内で、取り組むべき問題を選択しているのである。要は、認識論には興味がなく、倫理学に興味があるということである。)

同様のことは、倫理学と存在論・意味論の関係についても言える。

そして、哲学の根源的な階層において、認識論、存在論、意味論は、いわば(じゃんけんのような)三すくみの関係として成立している。

この三すくみ関係がなぜ成立するかは、僕が、「哲学には、『具体例』と『構造』が必要である。」としたことを思い出していただければ明らかだろう。

まず、認識論とは、具体例の成立についての議論領域である。また、存在論とは、構造の成立についての議論領域である。そして意味論とは、言葉による「具体例」と「構造」と「両者の関係性」の描写の成立についての議論領域である。だから、この三論の成立にあたっては、ある一論の成立のためには他の二論を必要とする相互依存関係がある。だから三すくみなのである。

そして、「哲学には、『具体例』と『構造』が必要」とするならば、認識論、存在論、意味論という三つの議論領域は、哲学を哲学たらしめるために必須のものであるとさえ言えるだろう。

これまで僕は、ここまで言語化したことはなかったけれど、半ば無意識のうちにそのように考えてきたように思える。そして、これまで思いついてきた限りで最も根源的で、最も普遍的と思われる、認識論・存在論・意味論という三論に自ずと取り組んできたように思える。

5 哲学論

だが、こうして整理してみると、哲学には、もう一段深いところに、もうひとつの議論領域があることに気づかされる。

それは、哲学の仕方自体を論ずるものとしての「哲学論」という議論領域である。

哲学論とは、まさに今、この文章で行っているようなことである。

考えてみれば「哲学には、『具体例』と『構造』が必要である。」とか「認識論、存在論、意味論は、いわば三すくみのような関係で成立している。」といったことは、これらの三論より一段深いところからしか論ずることはできない。

当然、この文章で行っているのは、哲学論としては未熟で、哲学論の入口のような議論であるため、この文章を読んだだけでは深さを感じることはできないかもしれない。だが、僕には、哲学の奥底で、未知の「哲学論」という豊かな議論領域における諸問題が、蠢くようにして僕を待っているという予感がある。

例えば、今、気になっているのは、次のような問題だ。

「目の前にコップがある。」という言葉は、音波の連なりか、インクの染みか、ディスプレイ上の光点でしかなく、「目の前にコップがある」という事態とは全く似ていない。それでは「目の前にコップがある。」という言葉と「目の前にコップがある」という事態とはどのような関係にあるのだろうか。

このような問題は、言葉の成立、認識の成立、存在ということがらのあり方、といったことのすべてに関わってくるにもかかわらず、認識論、存在論、意味論の内部では捉えきることができない。

(意味論は「目の前にコップがある。」という言葉がとりあえず成立していることを前提に、その言葉が何を意味するのかを探求する。認識論は「目の前にコップがある」という認識がとりあえず成立していることを前提に、その成立がどのような成立なのかを探求する。存在論は「目の前にコップがある」という存在のあり方がとりあえず成立していることを前提に、ものごとの存在の構造を探求する。だが、僕の疑問は、その「とりあえずの成立」を疑問に付すのである。)

このような問題は、どこかの哲学者が論じたことがある既知の問題かもしれないが、その深さは十分に捉えられていないように思う。

その深さを明確にするためには、これまでの例えば「メタ哲学」といったものとは違う名前を付けるのがよいと思っていて、僕は、このような問題を、哲学という営み自体に関わってくるという意味で、哲学論と呼びたい。(別に、僕がこれからやろうとしていることについて、メタ哲学などといった既存の名前をつけても全然かまわないのだけど、すると、他のメタ哲学との違いを強調する別の手間がかかる。)

僕は、このような哲学論に興味をひかれている。なぜなら、ジェットコースターのようなスリルがあるからである。もしかしたら、哲学論的な探求を通じて、この文章で論じたことなど簡単に覆され、哲学など無駄だ、という知見が導かれるかもしれない。この人生を賭けた哲学の営みさえも台無しになるかもしれないほどの深みに陥るスリルに惹かれて、僕は哲学論に踏み込もうとしている。