※僕にしかわからないだろう日記のような文章です

僕は、高校生の頃、明確に他者の存在を意識した瞬間があった。それはとても圧倒的で幸福感に満ちた経験だったことを覚えている。

このブログでも何度か書いたことがある。

例えば、こんな文章だ。

ただ、その直後に訪れた(これも何度か書いたけれど)もうひとつの懐疑論的な圧倒によって、そんな感覚はすっかり遠いものとなってしまった。

なんとなく、高校生の頃、僕に訪れた二つの圧倒、つまり他者の存在を意識した幸福感と、それを疑う懐疑の苦しみは、セットのような気がしていたけれど、考えてみれば、そうではないだろう。(実際、この二つの出来事は、僕の恋愛という偶然的な出来事と関わっている。)

僕には、幸福感だけを感じて生きる道もあったはずではないか。


そんなことを考えたのは、ある人と深めのやりとりをしたからだ。詳述はしないけれど、やりとりを通じて、その人には、当初は思いもしなかったような深い人生があったことを知ったのである。

深いとは、波乱万丈という意味ではない。その人は、見かけの上ではありがちな出来事であっても、それを、僕が思いもしなかったような深さで受け止め、考え、生きていたのだ。

僕もかなり深く考えるほうだが、僕のとはやり方が真逆と言っていいほどに異なっていて、全く敵わなかった。ボクシングとプロレスの異種格闘技のようなもので、僕の土俵(たとえば哲学)なら負ける気はしないけれど、その人の土俵では歯が立たず、脱帽してしまったのだ。

この脱帽とは、その人の生き方に対する驚きと敬服と言ってもいい。それは、僕はまだまだだと知った心地よい敗北感だった。


そんな敗北感を経由してあたりを見回すと、世の中は、人間に満ちていて、そして人生に満ちていることに気づかされる。一人ひとりが、その人だけの人生を抱えていて、もしかしたら、僕では敵わないような深く、そして力強い人生を送っているかもしれないではないか。

きっと、誰かの人生について、敵うか敵わないかをジャッジすること自体がおこがましいのだろう。僕は、哲学をやって、そして哲学カフェといった活動もやって、多少は人生を捉えられている気がしていた。だが、あの人が見せてくれたとおり、僕に捉えられているのは、極めて狭いある一面に過ぎない。


こんな感覚は、あの高校生の頃以来だ。あの頃感じたのは幸福感で、今、僕が感じているのは、すがすがしい敗北感という違いはあるけれど。

僕はちっぽけな存在で、無数の人間の存在の重さに埋もれている。まだ知らなくて、まだ敵わないものばかりに囲まれている。

周囲は宝の山だと言ってもいい。僕は、こんな存在たちと関わりながら、これからどうやって生きていくのか、楽しみしかない。


きっと、このような感覚は、哲学に出会わず、高校生の頃の幸福感だけを持って生きていたなら、今も純粋なかたちで感じることができていたのだろう。

だが実際の僕は、30年以上、懐疑論とともに哲学をやってきてしまった。だから、確かに今は瞬間的に、敗北感に包まれているけれど、やがて落ち着きを取り戻し、これまで僕が培ってきた哲学に戻り、落ち着きを取り戻すはずだ。そして、この敗北感も、哲学的な正当化によりかき消されてしまうのかもしれない。

それでも、このすがすがしい敗北感、または、僕が生きるかもしれなかった、懐疑論に出会わないイフの人生の感覚を、忘れないようにしたいと願う。

それが、あの人との出会いの意味でもあると思う。